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短編・中編や他の人物を中心にした物語

選ばれた子、選ばれなかった子7

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 人の記憶で最も古いものは何歳頃のものだろう?

 一般に、三~四歳くらいから成人後も残る記憶が形作られると言われている。

 だとすれば、桃花トウカはかなり早い方なのだろう。最も古い記憶は一歳前のものだった。

 しかも、その時の記憶は不思議なほど明瞭に思い浮かべることができた。

 桃花はどこかの屋外で、従兄の腕を掴んで立っている。掴まり立ちができるようになったばかりの赤子だった。

 その従兄は桃花に優しく、よく遊んでくれる子だったので好きだった。だから自分はその裾を掴んで立ちながら、笑っていたように思う。

 そこへ何か大きな音が近づいてきた。なんの音か分からないが、地面が揺れている気がする。

 しばらくすると伯父が駆けてきた。

 伯父は強張った顔で桃花を抱き上げ、その大きな音から逃げ出した。

 ただし、従兄の方はそのままだ。伯父は桃花だけを抱いている。

 その伯父が走りながら振り返った時、桃花からも置き去りにされた従兄の姿が見えた。

 こちらに向かって手を伸ばしていた従兄は、直後に馬に跳ね飛ばされた。

 まるで雑に扱われた人形のように宙を飛んでいく。

 桃花はそれを見てもさしたる感想を持たなかったのだが、これは桃花の人格の問題ではない。

 赤子にはその結果として何が起こるのか、まだ分からなかっただけだ。

 その証拠に、この光景を思い起こした今の桃花は暗い気持ちになった。

 あれから十五年が経ち、桃花は大人と変わらない分別を持てている。

 しかも子供好きな十五の娘にとって、あの記憶は辛い。

リン、か……私の代わりに死んだ従兄)

 伯母が何度もその名を口にしたから、脳に刻まれたように忘れられない名になっていた。

 その名を出されて叱られるのだ。

 伯母は桃花が綝を差し置いて選ばれた子なのだから、その分だけ立派な人間にならなければならないと諭した。

 そして恐ろしいほど厳しく叱りつけられる。

 理由もなく折檻する伯母ではなかったが、理由がある時には存在自体を否定されているのではないかと思えるほど激しく叱られた。

『従兄のことなんて、私の知ったことではない』

『頼んでなどいない』

 もし伯母に向かってそう言い放てたなら、桃花の人生はもう少し違ったものになっていたかもしれない。

 しかし桃花はそれが出来ず、ただうつむいて隠れ泣いた。

 死んだ従兄のことが不憫だと思うし、申し訳ない気持ちにもなる。

(自分は生きていていい人間なんだろうか)

 そんなことを考えるのは、少女にとって辛いことだった。

 伯母から従兄の名を聞くたび、『ごめんなさい、ごめんなさい』と心の中でつぶやくのだ。

 自分は一生こうやって罪の意識に怯え、伯母に怯えながら生きていくのだと思っていた。

 が、昨年にわかに状況が変わった。

 伯父の夏侯淵が桃花を養子に出してくれたのだ。それで家を出ることができた。

 今は元住んでいた許都きょとから離れ、夏侯氏の本拠であるはいという地に移っている。

 もちろん伯母の住まいは許のままだ。

 自分が生きていることの罪悪感は変わらないが、伯母の叱責からは逃れられた。

 聞けば、もう何年も前から養子の話は出ていたらしい。

 しかし受け入れ先の親族がなかなか決まらず、なにより戦乱で伯父が忙し過ぎて話が進まなかったとのことだった。

『もはや嫁入りの年頃になってしまったな。申し訳ないが、まぁ短くとも嫁入り前の自由な時間を伸び伸び過ごせるのは悪いことではあるまい』

 そんなふうに言ってくれる伯父、夏侯淵カコウエンのことが桃花は好きだった。

 伯母は厳しいが、伯父は優しい。

 幼い頃からこっそり美味しいものなどをよくくれた。特に伯母に叱られた後には必ず何かくれるのだ。

 物をあげたことが伯母にバレると不興を買うので、食べ物が多かった。

 だから桃花は食べることが何よりも好きな娘に育った。

(私は食べるのが好き。一番好き。なのに、あれだけしか食べさせてもらえないなんて……)

 桃花は今朝の朝食を思い出しながら、暗い顔をして山中を歩いていた。

 その腹はグウグウと鳴っている。

 山には薪を拾いに来ているのだが、視線は食べられる木の実でもないかと探してしまった。

 桃花は空腹だった。

 養子に来てから食事の量がかなり少ないのだ。

 といっても、養子に来た先が貧しいわけではない。

 受け入れてくれたのは夏侯博カコウハクという沛ではそれなりの有力者で、食うに困るような立場ではない。

 そしてケチでもない。

 ただ不必要なほど臆病な性格で、強い者の意向をとかく尊重してしまう男だった。

 食事量を減らしているのは伯母の言を守っているに過ぎない。

『この子は美人ですが、少し肉付きが良すぎます。もういつ嫁入りしてもおかしくない齢ですし、良縁を掴むためにも痩せさせるべきでしょう。食事量は抑えてこのくらいにされるのが良いと思います』

 桃花を養子に送り出すに当たり、伯母はそんな細々したことを文書にして夏侯博に渡したらしい。

 臆病な上に神経質な夏侯博はそんな女一人の要求まで律儀に守った。

 その夫の夏侯淵が帝を擁した群雄、曹操の有力武将であるから気を遣っているのだ。

 夏侯氏という一族で見ても、夏侯淵は夏侯惇カコウトンと並んでその筆頭、双璧と言って良い存在になっている。

 その姪で元養女である桃花も飯くらい腹いっぱい食わせてほしいものだが、呪いのような伯母の言葉が今も桃花を苦しめていた。

(でも、これも私が従兄を犠牲にして生きている罰かな……)

 桃花は辛いことがあると、そんなふうに自分を納得させることが多かった。

 その度にうつむく頻度が増えていることを本人は知らない。

 そして伯母もそんなことには気づけず、厳しい教育を続けた。

 こうして薪拾いに来ているのもその一環だ。子供はただ遊ばせず、仕事もさせなければならないというのが伯母の方針だった。

 薪拾いのような肉体労働だけでなく、家計や物品の管理まで命じられている。有力者の養女だとて、楽などできはしなかった。

(その教育方針が間違ってるとは言わないけど……)

 身内の桃花から見ても、夏侯淵の子供たちは立派な人間に育っていると思う。

 男子だけでも夏侯衡カコウエイ夏侯覇カコウハ夏侯称カコウショウ夏侯威カコウイ夏侯栄カコウエイ夏侯恵カコウケイ夏侯和カコウカと多いが、そのいずれもが良い世評を得られていた。

 伯母が桃花に特別厳しいのは間違いなかったが、そもそも教育熱心な母なのだ。

 それを否定するつもりはないのだが、受け入れたところでこの空腹はどうにもならない。

(結局、夏侯の一族を出ないと私は伯母様から開放されないんだ……)

 同じ夏侯氏に養子に来て、それを思い知った。

 この上いつか用意される嫁入り先まで夏侯氏だったらどうしようかと思いながらしゃがみ込む。

 ただ落ち込んでそうしたわけではない。

 良い感じの薪を見つけたので拾おうと思ったのだが、腹が減り過ぎて立てなくなった。

 グルルル……

 と、腹からは獣のような音までしている。

(ああ、人がいたら恥ずかしいやつだ)

 桃花がそう思った時、人が現れた。

 しかもただ現れたわけではない。抜き身の剣を持ち、茂みを飛び越えて桃花のそばに降り立った。

 そして勢いそのままに桃花を押し倒す。

「キャアアアア!!」

 桃花の上にまたがったのは筋骨隆々とした屈強な男だった。三十をいくつか越えたであろうその顔には縮れた虎髭が生えている。

 男は桃花の体にピタリと剣の刃を当てた。

 が、すぐにその刃を離して立ち上がる。

 そして頭をかきながら、バツの悪そうな顔をした。

「……なんだよ、猪かと思っちまったじゃねえか」

 男はどうやら腹の音だけで獣と勘違いしたようだ。

 暴漢に襲われたのだと思った桃花はバクバク鳴る心臓を両手で押さえた。

「ひ、人です。猪ではありません」

「見りゃ分かるよ。でもじゃあ、さっきのはなんの音だ?」

「……さぁ」

 と、答えたところでまた腹の虫が鳴った。

 グルルルルル……

 しかもさっきより長い。

 桃花は顔を赤くして手を胸から腹へと移した。

 笑われると思ったが、意外にも男は感心してみせた。

「おう、こりゃまたいい音を鳴らすじゃねぇか」

 そう言って、懐から竹皮の包みを取り出した。

 開くと干し肉が入っている。

「ほらよ、とりあえず一枚」

 数枚のうち一つを差し出してくれた。

 桃花はそれを受け取るべきか一瞬だけ悩んだ。

 山中で見知らぬ男から手掴みの肉を差し出されているのだ。

 ここでこれを食べることは、はしたないことのように思えた。少なくとも伯母からはそう教わった。

 が、悩んだのは本当に一瞬だった。

 空腹と食い意地が長年の教育に圧勝してしまう娘なのだ。

「ありがとうございます」

 清々しいほど歯切れの良い礼を口にし、奪うように受け取ってすぐに口に運んだ。

 そして力任せに噛みちぎり、えも言われぬ幸せそうな顔で咀嚼する。

 張飛はその様子に満足げなうなずきを落とし、桃花の集めていた薪に手を伸ばした。

「ちょいと借りるぜ」

「ふぇ?……モグモグ……構いませんが、何を?」

「火ぃ点けて干し肉をあぶるんだよ。その方が美味い」

「炙る……」

「少し待ってろ。脂が滴り出すくらいが食べ頃だからな」

 桃花はその様子を想像し、食べながらさらによだれを垂らしてしまった。慌てて袖で拭く。

 さすがにこれは恥ずかしいと思い、ごまかしのために自己紹介を口にした。

「も……申し遅れました。私、桃花と申します」

 その名を聞いた男は倍以上も齢が離れた桃花よりも幼げな、無邪気な笑顔を輝かせた。

「桃花か。覚えやすくていい名前だな」

「え?……そうでしょうか?」

 名を褒められたことはあっても、覚えやすいと言われたことはない。

「おう。桃みたいにクリクリした目でよ、しかもただの干し肉で極上の桃食ったみたいな顔してくれるからな」

 言われた桃花はまた顔を赤くしてしまう。

 そしてまたそれをごまかすために、今度は男の名を尋ねた。

「あの……あなた様は?」

 男は手際よく火を点けながら、相変わらずの無邪気な笑顔で名乗ってくれた。

「張飛だ」
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