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短編・中編や他の人物を中心にした物語
呂布の娘の嫁入り噺28
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呂布とその家族は四年ぶりに会えた日の夜、久方ぶりの水入らずな晩餐を楽しんでいた。
窮地を救う形になった劉備から接待に誘われていたが、はっきりと家族とのことを伝えて断った。
「俺は劉備の留守を突いてその領地を奪ったのだからな。そんなやつの接待など、危なくて受けられるわけがない」
「あはは……それはそうですよね」
と、龐舒は師に笑って相槌を打ったが、心の底から笑えはしなかった。
師と会えて嬉しい、共に食卓を囲むことができて幸せだ、というのは本心ではあったのだが、ずっと心の奥底に淀んでいるものがある。
それが龐舒の心に影を落とし、手放しに明るくなるのを妨げていた。
(玲綺が結婚する……僕以外の男と……)
そのことがずしりと胸に乗しかかり、食事も上手く喉を通らなかった。
玲綺とは、はっきりと結婚の約束をしたわけではない。むしろそういう話はお互いに避け、これまで通りに過ごしてきた。
しかしあの日以来、明らかに変わったことがあったのだ。
(二人でずぶ濡れになったあの日から、奥様が変なちょっかいをかけてくることがなくなった。きっと玲綺が僕たちのことを話したんだ)
龐舒はそう考えていた。
そして実際に玲綺は母へ、
『四年してお父様に会えたら、私と龐舒の結婚について話してみるわ。だからそれまで余計なお節介はやめて』
と、釘を刺していたのだった。
だから三人は一様に、呂布との再会がそのまま玲綺と龐舒の婚姻に繋がると認識していた。
が、その矢先に袁燿との縁談話だ。しかも呂布は今でも娘が喜んでいると信じて疑っていない。
玲綺は『喜べ』と言われても、戸惑うような笑い方しかできなかった。しかし呂布は娘の繊細な心にまで気がつくような父ではなく、ただ恥ずかしがっているだけだと思った。
しかも親というものは子供のある一時点のことを、まるで永遠のことのように覚えているものだ。子供は成長するし変わるのに、いつまで経っても親の中では小さな子供のままでいる。
呂布の中には袁燿に一目惚れしたばかりの頃の娘がそのまま残っていた。
「玲綺、お前は母に感謝した方がいいぞ」
呂布は上機嫌に杯の酒を飲み干し、娘の顔を見た。
玲綺の方は茶に口をつけてから尋ね返す。
「何を?お母様にはいつも感謝してるけど」
「お前は母に似て美しいから、貴族の跡取り息子に見初められられたのだ。縁談はただの政略結婚というだけではなく、袁燿の強い希望があって実現したという話だった」
それを聞き、玲綺はまた戸惑うように笑った。
正直それが嬉しくないわけではない。
しかし、玲綺の中で袁燿はすでに素敵な思い出になっていた。そしてその思い出は思い出として、次に進むための心の準備をすでに済ませていたのだ。
母はその娘の気持ちを知っているから、夫にそれとなく再考できないかを尋ねた。
「あなた、袁燿様との縁談はもう決定事項なのかしら?」
「なんだ?袁家の跡取りでは不満か?」
呂布はそう聞き返したが、妻が否定するとは思っていない。袁術の家は何代も高官を輩出し続けている名門中の名門だ。
実際、魏夫人から見てもこれは良縁と言わざるを得なかった。
「いえ、不満っていうか……突然すぎて、ちょっとびっくりしちゃって……」
「あぁ、そうだろうな。向こうは名家で、こちらは乱世の成り上がりだ。しかしその乱世がお互いを引き寄せた。袁術は俺の強さを必要とし、俺は血統という後ろ盾を必要としている」
呂布の発言には、この四年間の苦労が垣間見えた。
この時代は名家や名士と呼ばれる者たちが特に優遇されていたから、呂布のような成り上がりは割りを食うことも多かった。どこの馬の骨とも知れない人間に、世間は冷たい。
しかし袁家と縁戚関係になれば、その身元は保証されたようなものだ。呂布の領地経営にとっても安定に繋がるだろう。
魏夫人もそれは理解していたから、別の攻め口を探した。
「そうね……でもほら、あなた『玲綺は強い男にしかやらない』とか言ってたじゃない。袁燿様は良い方だけど、強くはないわよね?いいの?」
「袁燿は袁家の跡取りというだけで十分に強いぞ。血筋も強さだ。まぁやや真面目すぎるきらいがあったが、不真面目なボンボンよりははるかに良かろう」
呂布はそう答えてから、妻の顔をじっと見つめた。
「妙に突っかかってくるが……お前、さては玲綺と離れるのが寂しいのだな?」
それはそうなのだが、そういう話をしていたつもりはない。妻は曖昧な回答を返した。
「え?あぁ……確かに玲ちゃんと離れるのはすごく寂しいけど……」
「それに関しては娘の親として仕方ないとしか言いようがないがな。しかし先方からは正式な婚礼まで、一年程度待ってくれと言われている。そもそも玲綺は結婚が遅くなった方だし、むしろその時間をありがたく思ってくれ」
「一年?」
「そうだ。来年の春に袁術の方で何やら大きなことを企画しているとかでな。詳しくは分からんが、それが落ち着くまで少し待って欲しいとのことだ」
「でもそれなら、予定通り私たちを五年待たせても良かったんじゃない?」
「さすがにギリギリに呼ぶわけにもいかんだろう。手元に娘がいないのに縁談を進めるのも変だしな」
「まぁ確かにそうね……一年……か……」
魏夫人がその一年で娘と龐舒のためにしてやれることを考え始めた時、玄関から訪いを告げる声が聞こえてきた。
魏夫人はすぐに思考を中断し、それに出ようとした。
が、呂布が片手を上げてそれを制した。その顔つきは、先ほどまでの上機嫌なものから明らかに変わっていた。
「俺が出る。ここにいろ」
それだけ言って席を立った。
玄関の前に立った呂布は扉の向こうへ短い声を投げた。
「なんだ?」
外からは男の明るい声が帰ってきた。
「高順様の部下の者です。呂布様とご家族に酒と肉をお持ちしました。上等なものが手に入りましたので、ぜひ団らんの供にしていただけとのご命令でして」
高順は呂布配下の武将の中でも特に忠誠心の高い男だ。その差し入れだという。
呂布は扉を開けずに答えた。
「すまんな、もらっておこう。しかし家族は今、あまりにくつろいだ格好をしているからちょっと待て。衣服を整えてから運び込んでもらう」
「そんな、自らの配下を気にする必要などありませんのに」
「まぁそう言うな。うちには嫁入り前の娘もいる。すぐに準備するから扉を開けるまでそこで待て」
「かしこまりました」
それから呂布は家族の元へ戻ると、棚から縄を取り出した。そして妻へと背を向ける。
「おぶされ。縄で縛って落ちないようにする」
「……え?ど、どうして?」
「反乱だ。どこぞの馬鹿が、俺を家族ごと殺そうとしているから逃げるぞ」
「ええっ!?」
魏夫人は声を上げてから口を押さえた。たぶん今は大声を上げてはいけない時だと思った。
「ご、ごめんなさい……でもそんな、こんな日に……」
「今日なら俺も油断していると思ったのだろうな。なめられたものだ」
うろたえる魏夫人とは対照的に、龐舒は呂布の話を聞く前から武器を手に取っていた。
獣のような師ほど敏感に危機を察知したわけではないが、師の様子を見てすぐにおおよそのことを理解できていた。
今日は凹んでいるとはいえ、この辺りは相変わらずの忠犬だ。
「龐舒、戟は置いていけ。隠れ抜けるから長物は邪魔になる。剣だけにしろ」
「はい」
師の言葉通り、戟を置いて剣のみを腰にはいた。玲綺も同じようにする。
魏夫人は三人の落ち着きようを目にして、自身も自然と冷静になった。この強者三人がいるというのは
この上ない安心感になる。
「こっちだ」
すぐに準備を整えた四人は呂布の先導で厠まで来た。
そしてその窓から体を出し、腕を伸ばして屋根の上へとよじ登っていく。庇が短めで、上手い具合に手がかかった。
腕だけで体を保持しなければならないが、三人はその程度のことなら安々とできる。あまつさえ呂布は妻を背中におぶっているのに、まるでそこらを歩くように滑らかに登ってみせた。
そして屋根の上から下を見ると、結構な人数が屋敷を囲んでいることが確認できた。星明りだけでもそうと分かる程度の規模がいる。
呂布は周囲を見渡すと、声を出さずに手振りだけで進行方向を伝えた。
龐舒と玲綺は無言でうなずく。
そして三人は呂布を先頭に屋根の上を動き始めた。裸足になって音もなく進み、屋根から屋根へと飛び移る。
もし気づく者がいたとしたら、夜行性の猛獣が民家の屋根を散歩しているようにでも見えただろう。それくらい三人の動きは獣じみていた。
そして誰にも気づかれないまま呂布たちはかなりの距離を進み、もういいだろうという所で屋根から飛び降りた。すでに包囲を抜け、それなりの距離を進んだはずだ。
しかしまだ気は抜けない。着地から流れるように走り出す。
「このまま高順の兵営まで走るぞ」
もう喋っても大丈夫だろうと判断し、呂布は龐舒と玲綺にそう告げた。
龐舒はその目的地について聞き返した。
「じゃあ、さっきの兵が言ってた『高順様の部下』っていうのは嘘ですか?」
「さっきのやつは河内訛りが強かった。おそらく郝萌の兵だな」
郝萌も高順と同様に呂布の武将だが、高順のように忠誠心の強い人間ではない。むしろ起こってみれば、きっかけさえあれば裏切るのが自然な男だと呂布は思った。
「そもそも高順は裏切りをできるような男ではないからな。あいつの所まで行けば安心だ」
高順はごく個人的にも呂布を慕っており、呂布自身それに甘えてしまうことも多いような家臣だ。この点、まず心配ないと考えている。
その兵営にたどり着くまでの道すがら、呂布は家族にポツリと謝った。
「すまないな……」
呂布らしくない力のない声に、背中の魏夫人が励ますように笑った。
「すまないって、何が?私はこのくらい平気よ。むしろ久しぶりにおんぶしてもらって嬉しいくらいだわ」
妻の言葉に呂布は少し笑い返してから、また謝った。
「いや、やはり申し訳ないと思う。本当はこんな危険がない程度に足元を固めてからお前たちを呼びたかった。しかし順序が逆のようだが、婚姻で袁術との関係がしっかり固まればこういったこともかなり減るはずだ。この反乱にも袁術が絡んでいる気がするしな」
その憶測に、魏夫人は息を呑んだ。
「え、袁術様が?でも……だって、袁術様は玲ちゃんと袁燿様との婚姻を申し込んできてるんでしょ?」
「それが叶えば、それはそれでいいと思っているだろう。俺を味方に引き入れられる。しかし俺を殺して徐州を支配下に置けるなら、それはそれでいいと思っている。袁術はそういう妖怪のような男だ」
「そんな……そんな所に玲ちゃんを嫁がせるなんて……」
「いや、袁術は体面をひどく気にする男だ。正式に嫁ぎさえすれば、その後は心配いらないだろう。そして何より、これが最も重要だが……」
呂布はいったん言葉を切り、それから妻と娘へ言い聞かせるようにゆっくり話した。
「この乱世における群雄の婚姻など、多かれ少なかれそういった魔性の利害関係が絡んでくる。父として申し訳ないが、玲綺にはそういうことの覚悟をしてもらわなければならん」
呂布は当たり前といえば当たり前のことを言っている。
そして玲綺自身もそれは理解できる、というか、理解しなければならないことだと分かるから、父の横を走りながら無言でうなずいた。
そんな娘の肯定を、父はありがたく思った。
「そういう覚悟をした上で考えれば、袁燿との婚姻は間違いなく条件がいい。名門で、力もある群雄の跡取りの正妻だからな。しかも正式に嫁げば、俺が下手に対立しない限りその立場も安泰だ。むしろ大事にしてもらえるだろう」
呂布は父として、当然そういうことを嬉しく思う。どんな親でもこと子供の結婚に関しては、立場や裕福さなどが気にならないわけがない。
ただし、呂布は今回の縁談に関してそればかりを喜んでいるわけではなかった。
「それにな……こういう政略結婚なのに、お前は惚れた男と結ばれることができるのだ。そんな幸せは、普通ないぞ」
呂布は惚れた女と結婚できて、幸せだと思っている。だから娘もそうやって幸せになって欲しいと思っていた。
魏夫人と玲綺は、同じようにうつむいてその言葉を聞いていた。何の言葉も返すことができない。
本音としては龐舒との結婚を呂布に頼みたかった。
しかしこうして命の危機にさらされると、否が応にも政略結婚の重要性を理解せざるを得ない。それによって呂布を含めた大勢が助かるのだ。
口の重くなった二人が何も答えないので、代わりに龐舒が口を開いた。
しかしその言葉は呂布へではなく、玲綺へ向けたものだった。
「おめでとう、玲綺。幸せになってね」
その祝福は手放しのものではなかったが、間違いなく心からのものではあった。
それが分かる魏夫人は、夫の首に回した腕に力を込めた。せめてこの切なさだけでも伝えてやりたいと思ったのだ。
しかし夫は妻が背から落ちそうなのだと思い、少し歩速を緩めただけだった。
窮地を救う形になった劉備から接待に誘われていたが、はっきりと家族とのことを伝えて断った。
「俺は劉備の留守を突いてその領地を奪ったのだからな。そんなやつの接待など、危なくて受けられるわけがない」
「あはは……それはそうですよね」
と、龐舒は師に笑って相槌を打ったが、心の底から笑えはしなかった。
師と会えて嬉しい、共に食卓を囲むことができて幸せだ、というのは本心ではあったのだが、ずっと心の奥底に淀んでいるものがある。
それが龐舒の心に影を落とし、手放しに明るくなるのを妨げていた。
(玲綺が結婚する……僕以外の男と……)
そのことがずしりと胸に乗しかかり、食事も上手く喉を通らなかった。
玲綺とは、はっきりと結婚の約束をしたわけではない。むしろそういう話はお互いに避け、これまで通りに過ごしてきた。
しかしあの日以来、明らかに変わったことがあったのだ。
(二人でずぶ濡れになったあの日から、奥様が変なちょっかいをかけてくることがなくなった。きっと玲綺が僕たちのことを話したんだ)
龐舒はそう考えていた。
そして実際に玲綺は母へ、
『四年してお父様に会えたら、私と龐舒の結婚について話してみるわ。だからそれまで余計なお節介はやめて』
と、釘を刺していたのだった。
だから三人は一様に、呂布との再会がそのまま玲綺と龐舒の婚姻に繋がると認識していた。
が、その矢先に袁燿との縁談話だ。しかも呂布は今でも娘が喜んでいると信じて疑っていない。
玲綺は『喜べ』と言われても、戸惑うような笑い方しかできなかった。しかし呂布は娘の繊細な心にまで気がつくような父ではなく、ただ恥ずかしがっているだけだと思った。
しかも親というものは子供のある一時点のことを、まるで永遠のことのように覚えているものだ。子供は成長するし変わるのに、いつまで経っても親の中では小さな子供のままでいる。
呂布の中には袁燿に一目惚れしたばかりの頃の娘がそのまま残っていた。
「玲綺、お前は母に感謝した方がいいぞ」
呂布は上機嫌に杯の酒を飲み干し、娘の顔を見た。
玲綺の方は茶に口をつけてから尋ね返す。
「何を?お母様にはいつも感謝してるけど」
「お前は母に似て美しいから、貴族の跡取り息子に見初められられたのだ。縁談はただの政略結婚というだけではなく、袁燿の強い希望があって実現したという話だった」
それを聞き、玲綺はまた戸惑うように笑った。
正直それが嬉しくないわけではない。
しかし、玲綺の中で袁燿はすでに素敵な思い出になっていた。そしてその思い出は思い出として、次に進むための心の準備をすでに済ませていたのだ。
母はその娘の気持ちを知っているから、夫にそれとなく再考できないかを尋ねた。
「あなた、袁燿様との縁談はもう決定事項なのかしら?」
「なんだ?袁家の跡取りでは不満か?」
呂布はそう聞き返したが、妻が否定するとは思っていない。袁術の家は何代も高官を輩出し続けている名門中の名門だ。
実際、魏夫人から見てもこれは良縁と言わざるを得なかった。
「いえ、不満っていうか……突然すぎて、ちょっとびっくりしちゃって……」
「あぁ、そうだろうな。向こうは名家で、こちらは乱世の成り上がりだ。しかしその乱世がお互いを引き寄せた。袁術は俺の強さを必要とし、俺は血統という後ろ盾を必要としている」
呂布の発言には、この四年間の苦労が垣間見えた。
この時代は名家や名士と呼ばれる者たちが特に優遇されていたから、呂布のような成り上がりは割りを食うことも多かった。どこの馬の骨とも知れない人間に、世間は冷たい。
しかし袁家と縁戚関係になれば、その身元は保証されたようなものだ。呂布の領地経営にとっても安定に繋がるだろう。
魏夫人もそれは理解していたから、別の攻め口を探した。
「そうね……でもほら、あなた『玲綺は強い男にしかやらない』とか言ってたじゃない。袁燿様は良い方だけど、強くはないわよね?いいの?」
「袁燿は袁家の跡取りというだけで十分に強いぞ。血筋も強さだ。まぁやや真面目すぎるきらいがあったが、不真面目なボンボンよりははるかに良かろう」
呂布はそう答えてから、妻の顔をじっと見つめた。
「妙に突っかかってくるが……お前、さては玲綺と離れるのが寂しいのだな?」
それはそうなのだが、そういう話をしていたつもりはない。妻は曖昧な回答を返した。
「え?あぁ……確かに玲ちゃんと離れるのはすごく寂しいけど……」
「それに関しては娘の親として仕方ないとしか言いようがないがな。しかし先方からは正式な婚礼まで、一年程度待ってくれと言われている。そもそも玲綺は結婚が遅くなった方だし、むしろその時間をありがたく思ってくれ」
「一年?」
「そうだ。来年の春に袁術の方で何やら大きなことを企画しているとかでな。詳しくは分からんが、それが落ち着くまで少し待って欲しいとのことだ」
「でもそれなら、予定通り私たちを五年待たせても良かったんじゃない?」
「さすがにギリギリに呼ぶわけにもいかんだろう。手元に娘がいないのに縁談を進めるのも変だしな」
「まぁ確かにそうね……一年……か……」
魏夫人がその一年で娘と龐舒のためにしてやれることを考え始めた時、玄関から訪いを告げる声が聞こえてきた。
魏夫人はすぐに思考を中断し、それに出ようとした。
が、呂布が片手を上げてそれを制した。その顔つきは、先ほどまでの上機嫌なものから明らかに変わっていた。
「俺が出る。ここにいろ」
それだけ言って席を立った。
玄関の前に立った呂布は扉の向こうへ短い声を投げた。
「なんだ?」
外からは男の明るい声が帰ってきた。
「高順様の部下の者です。呂布様とご家族に酒と肉をお持ちしました。上等なものが手に入りましたので、ぜひ団らんの供にしていただけとのご命令でして」
高順は呂布配下の武将の中でも特に忠誠心の高い男だ。その差し入れだという。
呂布は扉を開けずに答えた。
「すまんな、もらっておこう。しかし家族は今、あまりにくつろいだ格好をしているからちょっと待て。衣服を整えてから運び込んでもらう」
「そんな、自らの配下を気にする必要などありませんのに」
「まぁそう言うな。うちには嫁入り前の娘もいる。すぐに準備するから扉を開けるまでそこで待て」
「かしこまりました」
それから呂布は家族の元へ戻ると、棚から縄を取り出した。そして妻へと背を向ける。
「おぶされ。縄で縛って落ちないようにする」
「……え?ど、どうして?」
「反乱だ。どこぞの馬鹿が、俺を家族ごと殺そうとしているから逃げるぞ」
「ええっ!?」
魏夫人は声を上げてから口を押さえた。たぶん今は大声を上げてはいけない時だと思った。
「ご、ごめんなさい……でもそんな、こんな日に……」
「今日なら俺も油断していると思ったのだろうな。なめられたものだ」
うろたえる魏夫人とは対照的に、龐舒は呂布の話を聞く前から武器を手に取っていた。
獣のような師ほど敏感に危機を察知したわけではないが、師の様子を見てすぐにおおよそのことを理解できていた。
今日は凹んでいるとはいえ、この辺りは相変わらずの忠犬だ。
「龐舒、戟は置いていけ。隠れ抜けるから長物は邪魔になる。剣だけにしろ」
「はい」
師の言葉通り、戟を置いて剣のみを腰にはいた。玲綺も同じようにする。
魏夫人は三人の落ち着きようを目にして、自身も自然と冷静になった。この強者三人がいるというのは
この上ない安心感になる。
「こっちだ」
すぐに準備を整えた四人は呂布の先導で厠まで来た。
そしてその窓から体を出し、腕を伸ばして屋根の上へとよじ登っていく。庇が短めで、上手い具合に手がかかった。
腕だけで体を保持しなければならないが、三人はその程度のことなら安々とできる。あまつさえ呂布は妻を背中におぶっているのに、まるでそこらを歩くように滑らかに登ってみせた。
そして屋根の上から下を見ると、結構な人数が屋敷を囲んでいることが確認できた。星明りだけでもそうと分かる程度の規模がいる。
呂布は周囲を見渡すと、声を出さずに手振りだけで進行方向を伝えた。
龐舒と玲綺は無言でうなずく。
そして三人は呂布を先頭に屋根の上を動き始めた。裸足になって音もなく進み、屋根から屋根へと飛び移る。
もし気づく者がいたとしたら、夜行性の猛獣が民家の屋根を散歩しているようにでも見えただろう。それくらい三人の動きは獣じみていた。
そして誰にも気づかれないまま呂布たちはかなりの距離を進み、もういいだろうという所で屋根から飛び降りた。すでに包囲を抜け、それなりの距離を進んだはずだ。
しかしまだ気は抜けない。着地から流れるように走り出す。
「このまま高順の兵営まで走るぞ」
もう喋っても大丈夫だろうと判断し、呂布は龐舒と玲綺にそう告げた。
龐舒はその目的地について聞き返した。
「じゃあ、さっきの兵が言ってた『高順様の部下』っていうのは嘘ですか?」
「さっきのやつは河内訛りが強かった。おそらく郝萌の兵だな」
郝萌も高順と同様に呂布の武将だが、高順のように忠誠心の強い人間ではない。むしろ起こってみれば、きっかけさえあれば裏切るのが自然な男だと呂布は思った。
「そもそも高順は裏切りをできるような男ではないからな。あいつの所まで行けば安心だ」
高順はごく個人的にも呂布を慕っており、呂布自身それに甘えてしまうことも多いような家臣だ。この点、まず心配ないと考えている。
その兵営にたどり着くまでの道すがら、呂布は家族にポツリと謝った。
「すまないな……」
呂布らしくない力のない声に、背中の魏夫人が励ますように笑った。
「すまないって、何が?私はこのくらい平気よ。むしろ久しぶりにおんぶしてもらって嬉しいくらいだわ」
妻の言葉に呂布は少し笑い返してから、また謝った。
「いや、やはり申し訳ないと思う。本当はこんな危険がない程度に足元を固めてからお前たちを呼びたかった。しかし順序が逆のようだが、婚姻で袁術との関係がしっかり固まればこういったこともかなり減るはずだ。この反乱にも袁術が絡んでいる気がするしな」
その憶測に、魏夫人は息を呑んだ。
「え、袁術様が?でも……だって、袁術様は玲ちゃんと袁燿様との婚姻を申し込んできてるんでしょ?」
「それが叶えば、それはそれでいいと思っているだろう。俺を味方に引き入れられる。しかし俺を殺して徐州を支配下に置けるなら、それはそれでいいと思っている。袁術はそういう妖怪のような男だ」
「そんな……そんな所に玲ちゃんを嫁がせるなんて……」
「いや、袁術は体面をひどく気にする男だ。正式に嫁ぎさえすれば、その後は心配いらないだろう。そして何より、これが最も重要だが……」
呂布はいったん言葉を切り、それから妻と娘へ言い聞かせるようにゆっくり話した。
「この乱世における群雄の婚姻など、多かれ少なかれそういった魔性の利害関係が絡んでくる。父として申し訳ないが、玲綺にはそういうことの覚悟をしてもらわなければならん」
呂布は当たり前といえば当たり前のことを言っている。
そして玲綺自身もそれは理解できる、というか、理解しなければならないことだと分かるから、父の横を走りながら無言でうなずいた。
そんな娘の肯定を、父はありがたく思った。
「そういう覚悟をした上で考えれば、袁燿との婚姻は間違いなく条件がいい。名門で、力もある群雄の跡取りの正妻だからな。しかも正式に嫁げば、俺が下手に対立しない限りその立場も安泰だ。むしろ大事にしてもらえるだろう」
呂布は父として、当然そういうことを嬉しく思う。どんな親でもこと子供の結婚に関しては、立場や裕福さなどが気にならないわけがない。
ただし、呂布は今回の縁談に関してそればかりを喜んでいるわけではなかった。
「それにな……こういう政略結婚なのに、お前は惚れた男と結ばれることができるのだ。そんな幸せは、普通ないぞ」
呂布は惚れた女と結婚できて、幸せだと思っている。だから娘もそうやって幸せになって欲しいと思っていた。
魏夫人と玲綺は、同じようにうつむいてその言葉を聞いていた。何の言葉も返すことができない。
本音としては龐舒との結婚を呂布に頼みたかった。
しかしこうして命の危機にさらされると、否が応にも政略結婚の重要性を理解せざるを得ない。それによって呂布を含めた大勢が助かるのだ。
口の重くなった二人が何も答えないので、代わりに龐舒が口を開いた。
しかしその言葉は呂布へではなく、玲綺へ向けたものだった。
「おめでとう、玲綺。幸せになってね」
その祝福は手放しのものではなかったが、間違いなく心からのものではあった。
それが分かる魏夫人は、夫の首に回した腕に力を込めた。せめてこの切なさだけでも伝えてやりたいと思ったのだ。
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付き従う内にお市に心酔し、武田家を裏切る形となってしまう。
そんな彼女は人並みに恋をし、同じ武田の忍びである小十郎と夫婦になる。
二人を裏切り者と見做し、刺客が送られてくる。小十郎も柴田勝家の足軽頭となっており、刺客に怯えつつも何とか女児を出産し於奈津(おなつ)と命名する。
しかし頭領であり於小夜の叔父でもある新井庄助の命令で、於奈津は母親から引き離され忍びとしての英才教育を受けるために真田家へと送られてしまう。
悲嘆に暮れる於小夜だが、お市と共に悲運へと呑まれていく。
※拙作「異郷の残菊」と繋がりがありますが、単独で読んでも問題がございません
【他サイト掲載:NOVEL DAYS】
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