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短編・中編や他の人物を中心にした物語
呂布の娘の嫁入り噺27
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龐舒たちは旅を重ね、無事に徐州へとたどり着いた。呂布のいる下邳まで、もうそう遠くない所まで来ている。
といっても結果的に無事だったというだけで、お世辞にも順調な旅とは言えなかった。
途中で野盗に襲われたり、同行させてもらっていた隊商が突然追い剥ぎに変貌したりしたのだ。
その都度返り討ちにしてやったのだが、龐舒と玲綺でなければ何度身ぐるみを剥がされていたか分からない。
「ホントひっどい時代よね」
玲綺は馬にまたがって丘を登りながら、何度繰り返したか分からない愚痴を再度こぼした。
その言葉通り、時は乱世である。人間のような社会性の強い生き物にとって、乱世の引き起こす無秩序は恐怖とほぼ同義といえるだろう。
そして人はその恐怖の中で、奪われる側ではなく奪う側に立とうとする。奪いたいという欲望からではなく、奪われるのが恐ろしいという恐怖からそうする者も多いのだ。
優しい龐舒はそういうことも分かるから、玲綺ほどは腹を立てていなかった。
「みんな生きるのに必死なんだよ」
「そりゃまぁ分かるけど……」
「それに、僕たちが通ってきた所はまだマシらしいじゃないか。特に長安の周りはこんなもんじゃないって噂だったろ?」
その噂、というか悪評はすでに漢の全土に広まっていた。
四年前に龐舒たちの逃れてきた長安とその周辺は李傕と郭汜の支配地域だが、そこでは兵による略奪がもはや日常茶飯事になっているとのことだった。
董卓の時にも略奪はあったが、董卓はそれを『大目に見ていた』のだ。しかし李傕と郭汜は『好きにさせていた』という。この差は大きい。
そして、それこそが統治能力というものだ。この点を見る限り、李傕と郭汜の統治能力は絶無と言っていいほど極端に低いものだった。
そんな状況だから逃げる民も多く、荊州と益州へ移った数だけでも十数万戸を超えたという。
さらに蝗害などによる飢饉も重なり、数十万戸いた長安周辺の人口は激減しているとのことだった。
『董卓どころの騒ぎではなくなる』
と言った呂布のまさに言葉通りになっている。
「あのまま王允様と呂布様が治めてたら、そんなことにはなってないだろうに……」
龐舒はいまだにその事を残念がっていた。
確かに王允のような正義漢と呂布のような恐ろしい男が上に立っていれば、少なくとも兵の好きにはさせなかっただろう。
が、そんなものは仮定の話でしかない。玲綺は現実に目を向けた。
「たられば話をしててもしょうがないでしょ。それより、お父様が今治めてる徐州の役に立つことを考えた方がいいわ」
その言葉に、二人の後ろを進む魏夫人が驚いたような声を上げた。
「玲ちゃん偉いわ。ちゃんと世の中のためになろうと思ってるのね。立派よ」
母親として、娘がきちんとした大人に成長しているということは嬉しかった。
玲綺としても褒められて悪い気はしない。
「これでも一州の主の娘ですから。そういう事も考えないと」
軽く胸を張った玲綺を、龐舒が横目にちらりと見た。
「そんな無理して立派な人間やってたら、またしんどくなるよ?」
「大丈夫よ。さすがに州の行政になると、私が表立って動くわけじゃないし」
玲綺がごく気楽げにそう言った時、龐舒の耳がぴくりと動いた。
そして険しげに眉を寄せて、今登っている丘の向こうを睨んだ。
玲綺もその雰囲気を感じ取り、同じ方向をじっと見つめる。
魏夫人はその様子を見て、とりあえず息を潜めることにした。ここまでの旅の途中にも似たようなことが何度かあったが、その時には必ず近くに危険が存在していた。
長旅で馬の扱いはかなり上達したとはいえ、自分にできることは逃げることと身を隠すことだけだ。二人の邪魔にならないよう細心の注意を払った。
玲綺は視線を前方に固定させたままつぶやいた。
「龐舒……これって……」
「うん……聞こえる音からするとまだ遠いけど、軍隊がいるね。しかもかなり大規模な」
二人はそういうものを感じ取っていた。
魏夫人も言われてみれば遠くに何かの音が聞こえる気もしたが、そんな気もするという程度のものだった。
しかし二人はすでに確信を持っているようだ。
「引き返して迂回した方がいいかしら?」
「それでもいいと思うけど、丘のてっぺんがもうすぐだからね。距離もありそうだし、とりあえずそこから様子を見てみようか。迂回するにしても、その方が道を決めやすいし」
三人はそう決めて、丘の上まで馬を進めた。
そして木陰から顔を出し、眼科に広がる平原を見渡す。
そこには二つの軍が陣を敷き、距離を取って睨み合っていた。
戦の始まる直前のようだが、兵数を見ると明らかに片方の軍の方が多い。軽く三倍以上の差があった。
「多い方に『紀』、少ない方に『劉』って旗が立ってるけど、あれが大将の名前よね?」
「そうだね。この辺でこの名前だと……多分『紀』の方は袁術様配下の紀霊って人かな?『劉』の方は、呂布様に徐州を奪われた劉備って人で間違いないと思う。その駐屯地が近いし」
「じゃあ、袁術様が劉備を攻めてるってこと?」
「そうなるね」
龐舒の推察した通り、袁術対劉備の戦が起こりかけていた。袁術側の将は紀霊という男で、三万の兵を率いて来ている。
一方の劉備は一万にも遠くおよばない。まともな戦にはなりそうもなかった。
袁術は先日の戦で劉備を仕留めそこねている。呂布が劉備の降伏を受け入れたから殺しきれなかったのだ。
それで今度こそ攻め滅ぼし、ついでにその駐屯地である小沛という地を奪おうとしていた。
「これ、どう考えても袁術様の勝ちよね?」
「この戦力差じゃそうなるだろうけど……呂布様にとってはそれもまずいよね」
小沛は州としては豫州に属するが、呂布の勢力圏となっている。そこに劉備を駐屯させているのだ。
ただ、龐舒の思うまずさはそれだけではない。
「呂布様の支配地が減るかもしれないだけじゃなくて、呂布様と袁術様の緩衝材が減ることにもなるから」
「緩衝材?」
「うん、劉備って人が緩衝材になってるんだ。袁術様と呂布様の関係性は微妙だからね。呂布様は袁術様の要望に応えて徐州を奪ったんだから、本来なら良好な関係を築けるはずだったんだ。でも袁術様は約束を破って兵糧を送って来ない。そういう微妙な関係のまま直に接してたら、いつ戦になってもおかしくはないよ」
そういう状況において、劉備というどちらにとっても身内とは言い難いものが間にいると、直接的な摩擦が少なくて済む。まさに緩衝材だ。
龐舒はここまで来る間に聞いていた状況を整理して、そういう結論に達していた。
「それは分かったけど……これだけ兵力が違ってたら、どうしようもないわよね?」
「そうだね。もし劉備の助かる道があるとしたら、呂布様が袁術様と全面的に戦う意思を固めないと……」
呂布が劉備側として参戦するならば勝算は十二分にあるだろう。
が、そうなると大戦を覚悟しなければならない。
龐舒がそれは難しかろうと思っている時、平原の向こう側に突如として別の軍が現れた。ちょうど劉備軍と紀霊軍との間の位置だ。
その軍が掲げる旗印を見て、龐舒は思わず高い声を上げた。
「呂布様!!」
その旗には大きく『呂』の字が刺繍されている。疑いようもなく呂布の軍勢だ。
玲綺も久しぶりの父は嬉しかったものの、慌てて龐舒の頭をはたいた。
「馬鹿っ、私たちは今隠れてるのよ!?大声上げないでよ!」
「ご、ごめん……」
軍とはかなり距離があるが、伏兵や斥候がいないとは限らない。
龐舒は自分のうかつさを反省しつつも、やはり気持ちが舞い上がるのを抑えられなかった。身を隠している樹の皮を無意識に剥いでしまう。
「呂布様、劉備側について袁術様とやり合うのかな?随分思い切った選択に感じられるけど……」
龐舒が首を傾げていると、魏夫人が軍の動きに気づいて指さした。
「あっ、誰か出てくるわよ。あれは……」
「呂布様!!」
その大声に、玲綺が再び龐舒の頭を叩いた。
遠目にも分かる呂布の巨躯が、呂の旗とともに両軍のちょうど中間地点まで出て来た。それと同時に、両軍へと使者が送られている。
しばらくすると、その使者に伴われて劉の旗と紀の旗が呂布の元へ動いた。
旗のそばにいる立派な甲冑を着た男たちがおそらく劉備と紀霊なのだろう。
どうやら呂布と劉備、紀霊の三人で会談が行われているようだ。
「……なんだ?呂布様は普通に参戦しに来たんじゃないのか?」
龐舒はまた首を傾げたが、ここからでは会談の内容どころか口の動きすら見えない。
三人は無言で成り行きを見守った。
そしてどうやら話がついたのか、呂布たちに動きが見られた。
玲綺はそれを眺めながら、その様子を小さくつぶやく。
「お父様……地面に戟を刺して、どうするのかしら?……随分と離れるけど……ん?弓?」
呂布は地に戟を突き立て、そこから何百歩か下がった。
そして相当離れてから弓に矢をつがえ、引き絞る。どうやら戟を狙っているようだった。
数百歩というのは、普通なら戟のような小さな的に矢を当てられるような距離ではない。
が、呂布という豪傑の鍛錬を普段から見慣れていた三人は、ごく当たり前のようにつぶやいた。
「当たるわね」
「当たるわ」
「当たりますね」
その言葉通り、呂布の手元から放たれた矢は真っ直ぐ戟の刃に飛び、その中心に当たってパタリと倒した。
その瞬間、なぜか劉備軍から大歓声が上がった。
何となくだが、紀霊とその軍の方からは啞然とした雰囲気が伝わってくる。
そしてまたしばらくすると、紀霊の軍は陣を解いて後退していった。
どういうわけか、戦は沙汰止みになったらしい。
「何だ?一体どうなってるんだ?」
龐舒はいぶかしげに平原を見下ろし続けたが、玲綺はもう危険は去ったものと判断したようだ。
馬にまたがって軍から見える位置まで進み、その姿を現した。
龐舒が後ろから心配げな声をかける。
「大丈夫?伏兵だと思われないかな?」
「女だからそんなに警戒されないわよ。……あっ、気づいてくれたみたい」
すぐに玲綺に気づいた兵がいて、そこから呂布へと報告が行ったようだ。
呂布はこちらを一瞥すると、すぐにその乗騎である赤兎にまたがって走り出した。
単騎で丘を駆け登って来る。
抜群の身体能力を持つ呂布だが、目も相当に良い。自分の娘だとすぐに分かったのだろう。
三人もすぐに馬を駆って丘を降り始める。
そしてまず魏夫人が呂布の所に一番乗りした。
そこからの魏夫人の行動に、龐舒も玲綺も驚いた。
魏夫人は馬の鞍から夫の元へ跳び、その胸に飛び込んだのだ。
「あなた!!」
普段は人前でこれほど激しい愛情表現を見せる女ではない。しかし四年という長い時間が魏夫人の自制心を奪っていた。
呂布も妻を受け止めると、強く抱きしめた。全軍の前で恥ずかしげもなく熱い抱擁をしてから、優しく妻を下ろす。
「元気だったか?お前も、玲綺も、貂蝉も、龐舒も」
龐舒は久方ぶりに聞いた師の声に胸を熱くしつつも、一点引っかかりを覚えることもあった。
(今……先に貂蝉の名前が挙がったよな?)
そのことに何とも言えない感情を抱きつつも、弟子として師の質問にはきちんと答えた。
「みんな元気ですよ。貂蝉も、ほら」
龐舒の馬には袋が下げられており、そこには顔だけ出している貂蝉がいた。
その愛らしい姿に、無双の豪傑の顔が微妙に緩む。
それは龐舒しか気づかない程度の緩みではあったが、
(……これを見ることができるなら、まぁ)
と、龐舒は胸のもやもやを忘れることにした。
「呂布様もお元気でしたか?お噂だけはたくさん聞いていましたけど」
「どうせろくでもない噂だろう?暗殺されかけたとか、誰ぞの土地を奪ったとか」
「あははは、でも結果として今は州一つを領有されてるじゃないですか。それに黒山賊戦では『人中の呂布、馬中の赤兎』なんて言われて」
「ふん……まぁそういう評判が追い風になることもあるのは分かったがな。しかし結局のところ、ああいうのは俺個人の強さでしかない。それよりも、それだけではどうしようもない所で勝ったり敗けたりするのが面白かった」
そう言う呂布の顔からは、家族といた時には見られなかった満足を垣間見ることができた。
龐舒はその呂布特有の、呂布にしか分からないはずの満足が少し理解できる気がした。
個人の武勇として、師はあまりに突出し過ぎてもはや勝負を楽しむことが難しいのだ。
(そういえば、丁原様も呂布様との戦いを楽しんでらしたように見えたな……)
ふとそんなことを思い出す。しかし、そんな敵にはめったに巡り会えないだろう。
だから師は、個人の武勇とは別次元にある戦というものが楽しいのだ。勝っても敗けても、というより、敗けることもあるから面白いのだろう。
「兗州での対曹操戦は、面白かったんでしょうね」
呂布は最終的に曹操に兗州を取り返されているが、龐舒の思った通り満足げに首肯した。
「そうだな。曹操、あれは天才だ。強さが通用しない、というか、強さすら相手の弱点にしてしまう男だ」
「まず勝って、次に敗けたんですよね」
「そうだ。部下たちには言えんが、その敗けすら面白い。つい先ほどのように、勝っても敗けてもいないというのもまた面白いしな」
話がそのことになったので、龐舒は自分たちが疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「そういえば、さっき戟を射ってたのはどういうことなんです?その後、向こうの軍は引き上げて行きましたけど」
「あれはな、仲裁だ」
「仲裁?」
「俺があの戟を射ることができたら互いに軍を引くという約束の賭けをした」
(……なんだその馬鹿げた話は)
と、呂布以外の三人は皆同じことを思った。
いや、三人だけでなく呂布自身も同じことを思っていたらしい。
「馬鹿げた話だと思うだろう?しかしだからこそ、紀霊は首を縦に振ったのだ」
「そ、そうなんですか?」
「紀霊の立場からすれば、俺が劉備に味方して参戦するのが一番厄介だったはずだ。ならば馬鹿げた提案を拒否してそうなるよりも、当たりそうもない矢に運命を委ねた方が良い目の出る可能性が高いと思ったのだろう」
なるほど、と龐舒は納得した。そしてさらに、もう少し深いところまで考察できた。
(しかも、これは呂布様にとって最良の結果になってる)
もしまともな交渉で紀霊に軍を引かせるなら、脅すか交渉するかの二択になるだろう。
前者であれば袁術との関係が悪化し、後者であれば何かを差し出さなければならない。
しかし、結果としてそのどちらもしなくて済んでいる。
龐舒はそういう視点から今起こったことを再認識し、師の、師にしか出来ない解決方法に思わず唸った。
そして賢い玲綺もその点を理解したようだった。
「お父様は、やっぱり私たちと離れて正解だったみたいね」
「そう思うか?」
「ええ、以前より凄みが増してる気がするもの。でも……それなら予定通り、もう一年は一人の方が良かったんじゃない?私たち、もう来ても良かったのかしら?」
娘にそう問われた呂布は、この男にしては珍しい笑みを見せた。
龐舒はそれを見て、亡き父が自分にお土産を買って来てくれた時のことを思い出していた。我が子が喜ぶだろうと期待して、親自身が笑顔になってしまうのだ。
「俺も本当ならもう一年は待たせるつもりだった。お世辞にも状況が安定してるとは言い難いしな」
「なら、どうして?」
再び問われた呂布の顔つきは、明らかに娘の喜ぶ贈り物を用意している顔つきだった。しかもそれついて相当な自信があるようだ。
その自信が滲んでくるようなうなずき方をしてから、贈り物の中身を明かしてくれた。
「喜べ、お前の縁談が決まったのだ。しかもその相手は、お前の惚れていたあの袁燿だぞ」
といっても結果的に無事だったというだけで、お世辞にも順調な旅とは言えなかった。
途中で野盗に襲われたり、同行させてもらっていた隊商が突然追い剥ぎに変貌したりしたのだ。
その都度返り討ちにしてやったのだが、龐舒と玲綺でなければ何度身ぐるみを剥がされていたか分からない。
「ホントひっどい時代よね」
玲綺は馬にまたがって丘を登りながら、何度繰り返したか分からない愚痴を再度こぼした。
その言葉通り、時は乱世である。人間のような社会性の強い生き物にとって、乱世の引き起こす無秩序は恐怖とほぼ同義といえるだろう。
そして人はその恐怖の中で、奪われる側ではなく奪う側に立とうとする。奪いたいという欲望からではなく、奪われるのが恐ろしいという恐怖からそうする者も多いのだ。
優しい龐舒はそういうことも分かるから、玲綺ほどは腹を立てていなかった。
「みんな生きるのに必死なんだよ」
「そりゃまぁ分かるけど……」
「それに、僕たちが通ってきた所はまだマシらしいじゃないか。特に長安の周りはこんなもんじゃないって噂だったろ?」
その噂、というか悪評はすでに漢の全土に広まっていた。
四年前に龐舒たちの逃れてきた長安とその周辺は李傕と郭汜の支配地域だが、そこでは兵による略奪がもはや日常茶飯事になっているとのことだった。
董卓の時にも略奪はあったが、董卓はそれを『大目に見ていた』のだ。しかし李傕と郭汜は『好きにさせていた』という。この差は大きい。
そして、それこそが統治能力というものだ。この点を見る限り、李傕と郭汜の統治能力は絶無と言っていいほど極端に低いものだった。
そんな状況だから逃げる民も多く、荊州と益州へ移った数だけでも十数万戸を超えたという。
さらに蝗害などによる飢饉も重なり、数十万戸いた長安周辺の人口は激減しているとのことだった。
『董卓どころの騒ぎではなくなる』
と言った呂布のまさに言葉通りになっている。
「あのまま王允様と呂布様が治めてたら、そんなことにはなってないだろうに……」
龐舒はいまだにその事を残念がっていた。
確かに王允のような正義漢と呂布のような恐ろしい男が上に立っていれば、少なくとも兵の好きにはさせなかっただろう。
が、そんなものは仮定の話でしかない。玲綺は現実に目を向けた。
「たられば話をしててもしょうがないでしょ。それより、お父様が今治めてる徐州の役に立つことを考えた方がいいわ」
その言葉に、二人の後ろを進む魏夫人が驚いたような声を上げた。
「玲ちゃん偉いわ。ちゃんと世の中のためになろうと思ってるのね。立派よ」
母親として、娘がきちんとした大人に成長しているということは嬉しかった。
玲綺としても褒められて悪い気はしない。
「これでも一州の主の娘ですから。そういう事も考えないと」
軽く胸を張った玲綺を、龐舒が横目にちらりと見た。
「そんな無理して立派な人間やってたら、またしんどくなるよ?」
「大丈夫よ。さすがに州の行政になると、私が表立って動くわけじゃないし」
玲綺がごく気楽げにそう言った時、龐舒の耳がぴくりと動いた。
そして険しげに眉を寄せて、今登っている丘の向こうを睨んだ。
玲綺もその雰囲気を感じ取り、同じ方向をじっと見つめる。
魏夫人はその様子を見て、とりあえず息を潜めることにした。ここまでの旅の途中にも似たようなことが何度かあったが、その時には必ず近くに危険が存在していた。
長旅で馬の扱いはかなり上達したとはいえ、自分にできることは逃げることと身を隠すことだけだ。二人の邪魔にならないよう細心の注意を払った。
玲綺は視線を前方に固定させたままつぶやいた。
「龐舒……これって……」
「うん……聞こえる音からするとまだ遠いけど、軍隊がいるね。しかもかなり大規模な」
二人はそういうものを感じ取っていた。
魏夫人も言われてみれば遠くに何かの音が聞こえる気もしたが、そんな気もするという程度のものだった。
しかし二人はすでに確信を持っているようだ。
「引き返して迂回した方がいいかしら?」
「それでもいいと思うけど、丘のてっぺんがもうすぐだからね。距離もありそうだし、とりあえずそこから様子を見てみようか。迂回するにしても、その方が道を決めやすいし」
三人はそう決めて、丘の上まで馬を進めた。
そして木陰から顔を出し、眼科に広がる平原を見渡す。
そこには二つの軍が陣を敷き、距離を取って睨み合っていた。
戦の始まる直前のようだが、兵数を見ると明らかに片方の軍の方が多い。軽く三倍以上の差があった。
「多い方に『紀』、少ない方に『劉』って旗が立ってるけど、あれが大将の名前よね?」
「そうだね。この辺でこの名前だと……多分『紀』の方は袁術様配下の紀霊って人かな?『劉』の方は、呂布様に徐州を奪われた劉備って人で間違いないと思う。その駐屯地が近いし」
「じゃあ、袁術様が劉備を攻めてるってこと?」
「そうなるね」
龐舒の推察した通り、袁術対劉備の戦が起こりかけていた。袁術側の将は紀霊という男で、三万の兵を率いて来ている。
一方の劉備は一万にも遠くおよばない。まともな戦にはなりそうもなかった。
袁術は先日の戦で劉備を仕留めそこねている。呂布が劉備の降伏を受け入れたから殺しきれなかったのだ。
それで今度こそ攻め滅ぼし、ついでにその駐屯地である小沛という地を奪おうとしていた。
「これ、どう考えても袁術様の勝ちよね?」
「この戦力差じゃそうなるだろうけど……呂布様にとってはそれもまずいよね」
小沛は州としては豫州に属するが、呂布の勢力圏となっている。そこに劉備を駐屯させているのだ。
ただ、龐舒の思うまずさはそれだけではない。
「呂布様の支配地が減るかもしれないだけじゃなくて、呂布様と袁術様の緩衝材が減ることにもなるから」
「緩衝材?」
「うん、劉備って人が緩衝材になってるんだ。袁術様と呂布様の関係性は微妙だからね。呂布様は袁術様の要望に応えて徐州を奪ったんだから、本来なら良好な関係を築けるはずだったんだ。でも袁術様は約束を破って兵糧を送って来ない。そういう微妙な関係のまま直に接してたら、いつ戦になってもおかしくはないよ」
そういう状況において、劉備というどちらにとっても身内とは言い難いものが間にいると、直接的な摩擦が少なくて済む。まさに緩衝材だ。
龐舒はここまで来る間に聞いていた状況を整理して、そういう結論に達していた。
「それは分かったけど……これだけ兵力が違ってたら、どうしようもないわよね?」
「そうだね。もし劉備の助かる道があるとしたら、呂布様が袁術様と全面的に戦う意思を固めないと……」
呂布が劉備側として参戦するならば勝算は十二分にあるだろう。
が、そうなると大戦を覚悟しなければならない。
龐舒がそれは難しかろうと思っている時、平原の向こう側に突如として別の軍が現れた。ちょうど劉備軍と紀霊軍との間の位置だ。
その軍が掲げる旗印を見て、龐舒は思わず高い声を上げた。
「呂布様!!」
その旗には大きく『呂』の字が刺繍されている。疑いようもなく呂布の軍勢だ。
玲綺も久しぶりの父は嬉しかったものの、慌てて龐舒の頭をはたいた。
「馬鹿っ、私たちは今隠れてるのよ!?大声上げないでよ!」
「ご、ごめん……」
軍とはかなり距離があるが、伏兵や斥候がいないとは限らない。
龐舒は自分のうかつさを反省しつつも、やはり気持ちが舞い上がるのを抑えられなかった。身を隠している樹の皮を無意識に剥いでしまう。
「呂布様、劉備側について袁術様とやり合うのかな?随分思い切った選択に感じられるけど……」
龐舒が首を傾げていると、魏夫人が軍の動きに気づいて指さした。
「あっ、誰か出てくるわよ。あれは……」
「呂布様!!」
その大声に、玲綺が再び龐舒の頭を叩いた。
遠目にも分かる呂布の巨躯が、呂の旗とともに両軍のちょうど中間地点まで出て来た。それと同時に、両軍へと使者が送られている。
しばらくすると、その使者に伴われて劉の旗と紀の旗が呂布の元へ動いた。
旗のそばにいる立派な甲冑を着た男たちがおそらく劉備と紀霊なのだろう。
どうやら呂布と劉備、紀霊の三人で会談が行われているようだ。
「……なんだ?呂布様は普通に参戦しに来たんじゃないのか?」
龐舒はまた首を傾げたが、ここからでは会談の内容どころか口の動きすら見えない。
三人は無言で成り行きを見守った。
そしてどうやら話がついたのか、呂布たちに動きが見られた。
玲綺はそれを眺めながら、その様子を小さくつぶやく。
「お父様……地面に戟を刺して、どうするのかしら?……随分と離れるけど……ん?弓?」
呂布は地に戟を突き立て、そこから何百歩か下がった。
そして相当離れてから弓に矢をつがえ、引き絞る。どうやら戟を狙っているようだった。
数百歩というのは、普通なら戟のような小さな的に矢を当てられるような距離ではない。
が、呂布という豪傑の鍛錬を普段から見慣れていた三人は、ごく当たり前のようにつぶやいた。
「当たるわね」
「当たるわ」
「当たりますね」
その言葉通り、呂布の手元から放たれた矢は真っ直ぐ戟の刃に飛び、その中心に当たってパタリと倒した。
その瞬間、なぜか劉備軍から大歓声が上がった。
何となくだが、紀霊とその軍の方からは啞然とした雰囲気が伝わってくる。
そしてまたしばらくすると、紀霊の軍は陣を解いて後退していった。
どういうわけか、戦は沙汰止みになったらしい。
「何だ?一体どうなってるんだ?」
龐舒はいぶかしげに平原を見下ろし続けたが、玲綺はもう危険は去ったものと判断したようだ。
馬にまたがって軍から見える位置まで進み、その姿を現した。
龐舒が後ろから心配げな声をかける。
「大丈夫?伏兵だと思われないかな?」
「女だからそんなに警戒されないわよ。……あっ、気づいてくれたみたい」
すぐに玲綺に気づいた兵がいて、そこから呂布へと報告が行ったようだ。
呂布はこちらを一瞥すると、すぐにその乗騎である赤兎にまたがって走り出した。
単騎で丘を駆け登って来る。
抜群の身体能力を持つ呂布だが、目も相当に良い。自分の娘だとすぐに分かったのだろう。
三人もすぐに馬を駆って丘を降り始める。
そしてまず魏夫人が呂布の所に一番乗りした。
そこからの魏夫人の行動に、龐舒も玲綺も驚いた。
魏夫人は馬の鞍から夫の元へ跳び、その胸に飛び込んだのだ。
「あなた!!」
普段は人前でこれほど激しい愛情表現を見せる女ではない。しかし四年という長い時間が魏夫人の自制心を奪っていた。
呂布も妻を受け止めると、強く抱きしめた。全軍の前で恥ずかしげもなく熱い抱擁をしてから、優しく妻を下ろす。
「元気だったか?お前も、玲綺も、貂蝉も、龐舒も」
龐舒は久方ぶりに聞いた師の声に胸を熱くしつつも、一点引っかかりを覚えることもあった。
(今……先に貂蝉の名前が挙がったよな?)
そのことに何とも言えない感情を抱きつつも、弟子として師の質問にはきちんと答えた。
「みんな元気ですよ。貂蝉も、ほら」
龐舒の馬には袋が下げられており、そこには顔だけ出している貂蝉がいた。
その愛らしい姿に、無双の豪傑の顔が微妙に緩む。
それは龐舒しか気づかない程度の緩みではあったが、
(……これを見ることができるなら、まぁ)
と、龐舒は胸のもやもやを忘れることにした。
「呂布様もお元気でしたか?お噂だけはたくさん聞いていましたけど」
「どうせろくでもない噂だろう?暗殺されかけたとか、誰ぞの土地を奪ったとか」
「あははは、でも結果として今は州一つを領有されてるじゃないですか。それに黒山賊戦では『人中の呂布、馬中の赤兎』なんて言われて」
「ふん……まぁそういう評判が追い風になることもあるのは分かったがな。しかし結局のところ、ああいうのは俺個人の強さでしかない。それよりも、それだけではどうしようもない所で勝ったり敗けたりするのが面白かった」
そう言う呂布の顔からは、家族といた時には見られなかった満足を垣間見ることができた。
龐舒はその呂布特有の、呂布にしか分からないはずの満足が少し理解できる気がした。
個人の武勇として、師はあまりに突出し過ぎてもはや勝負を楽しむことが難しいのだ。
(そういえば、丁原様も呂布様との戦いを楽しんでらしたように見えたな……)
ふとそんなことを思い出す。しかし、そんな敵にはめったに巡り会えないだろう。
だから師は、個人の武勇とは別次元にある戦というものが楽しいのだ。勝っても敗けても、というより、敗けることもあるから面白いのだろう。
「兗州での対曹操戦は、面白かったんでしょうね」
呂布は最終的に曹操に兗州を取り返されているが、龐舒の思った通り満足げに首肯した。
「そうだな。曹操、あれは天才だ。強さが通用しない、というか、強さすら相手の弱点にしてしまう男だ」
「まず勝って、次に敗けたんですよね」
「そうだ。部下たちには言えんが、その敗けすら面白い。つい先ほどのように、勝っても敗けてもいないというのもまた面白いしな」
話がそのことになったので、龐舒は自分たちが疑問に思っていたことを尋ねてみた。
「そういえば、さっき戟を射ってたのはどういうことなんです?その後、向こうの軍は引き上げて行きましたけど」
「あれはな、仲裁だ」
「仲裁?」
「俺があの戟を射ることができたら互いに軍を引くという約束の賭けをした」
(……なんだその馬鹿げた話は)
と、呂布以外の三人は皆同じことを思った。
いや、三人だけでなく呂布自身も同じことを思っていたらしい。
「馬鹿げた話だと思うだろう?しかしだからこそ、紀霊は首を縦に振ったのだ」
「そ、そうなんですか?」
「紀霊の立場からすれば、俺が劉備に味方して参戦するのが一番厄介だったはずだ。ならば馬鹿げた提案を拒否してそうなるよりも、当たりそうもない矢に運命を委ねた方が良い目の出る可能性が高いと思ったのだろう」
なるほど、と龐舒は納得した。そしてさらに、もう少し深いところまで考察できた。
(しかも、これは呂布様にとって最良の結果になってる)
もしまともな交渉で紀霊に軍を引かせるなら、脅すか交渉するかの二択になるだろう。
前者であれば袁術との関係が悪化し、後者であれば何かを差し出さなければならない。
しかし、結果としてそのどちらもしなくて済んでいる。
龐舒はそういう視点から今起こったことを再認識し、師の、師にしか出来ない解決方法に思わず唸った。
そして賢い玲綺もその点を理解したようだった。
「お父様は、やっぱり私たちと離れて正解だったみたいね」
「そう思うか?」
「ええ、以前より凄みが増してる気がするもの。でも……それなら予定通り、もう一年は一人の方が良かったんじゃない?私たち、もう来ても良かったのかしら?」
娘にそう問われた呂布は、この男にしては珍しい笑みを見せた。
龐舒はそれを見て、亡き父が自分にお土産を買って来てくれた時のことを思い出していた。我が子が喜ぶだろうと期待して、親自身が笑顔になってしまうのだ。
「俺も本当ならもう一年は待たせるつもりだった。お世辞にも状況が安定してるとは言い難いしな」
「なら、どうして?」
再び問われた呂布の顔つきは、明らかに娘の喜ぶ贈り物を用意している顔つきだった。しかもそれついて相当な自信があるようだ。
その自信が滲んでくるようなうなずき方をしてから、贈り物の中身を明かしてくれた。
「喜べ、お前の縁談が決まったのだ。しかもその相手は、お前の惚れていたあの袁燿だぞ」
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