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短編・中編や他の人物を中心にした物語

呂布の娘の嫁入り噺19

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 呂布の忠犬は主の心を守るため、気づけば吠えていた。

 そして気づいた時にはもう遅い。その場にいた全員の目が龐舒の姿を捉えていた。

 当然、董卓も龐舒のことを見ている。そしてゆっくりと、こちらに向かって歩き出した。

「……なんだ貴様は?」

 言いながら、董卓は龐舒の顔に見覚えがあるような気がした。

 それは呂布に付いて従軍していた時に目に入った記憶なのだが、そんな端役のことまではっきり覚えていない。

 丁原縁故の者だと思った。

「……丁原の従者か何かだったか?なんとなく、見た記憶があるな」

 龐舒は自分の堪え性のなさを呪いながら、董卓の勘違いに感謝した。

(呂布様に迷惑を掛けるわけにはいかない。このまま丁原様の従者で通そう)

 そう決めて、地面に両膝をついた。

「……おっしゃる通り、丁原様の従者だった者です。旧主を思い、つい頭に血が上ってしまいました。申し訳ございません」

 平謝りしながら、額が地面に触れるほど頭を下げた。

 が、その頭はすぐに上げられた。

 董卓の大きな手のひらが龐舒の頭を掴み、体が浮きそうなほど持ち上げたからだ。

「……ぐっ……うぅっ」

 頭蓋骨が潰されそうなほどの握力でもって締め上げられる。片腕なのに、信じがたいほどの力だった。

「謝る必要はないぞ。どちらにせよ、すぐに死ぬのだからな」

 平然とそう告げた董卓は、反対の手で龐舒の首を掴んだ。それで龐舒の足は今度こそ完全に地面から浮き上がった。

「がっ……」

 喉から苦しげな声を漏らす龐舒へ、董卓は虫けらにでも向けるような視線を送った。

「若造、よく聞け。丁原は敗者で、俺は勝者だ。だから敗者のものであったお前も、俺という勝者のものになる。そういう単純な理屈が分からない者は、死ね」

 董卓は言葉通り、龐舒を殺すために力を込めた。

 脳に血が行かなくなり、すぐに意識障害を起こす。

 朦朧とした意識の中で、龐舒は一つ気がついて後悔を芽生えさせた。

(……しまった!!僕は今、呂布様の印綬を持ってる!!)

 殺された後に持ち物を調べられれば、呂布家の者であることが簡単に分かるだろう。

 だから自分が死んだ後には、すぐにそれを回収してもらわなくてはならない。

 龐舒は目だけを動かし、必死に呂布の姿を探した。

 そして目に入った師へ、目配せだけでそれを伝えようとした。

(呂布様!!呂布様!!)

 心の中で何度も師の名を呼びながら、まばたきを繰り返す。

 が、当の呂布は何を考えているのか、よく分からない表情でこちらを見ていた。

 眉間にきつくシワを寄せ、目だけは大きく見開かれている。呂布の感情に気づきやすい龐舒ですら、今の心を測りかねた。

(呂布様……)

 酸素が足りなくなり、龐舒の意識に靄がかかる。

 視界の中の師の姿が歪んだ。

 ただし、その歪みは脳の酸素不足だけが原因ではなかった。実際に、呂布の姿は歪むほどの速度で動いていたのだ。

 ゴッ

 という音がして、気づけば龐舒は地面に落とされていた。首からは董卓の手が外れている。

 当の董卓はというと、少し離れた地面を横転していた。

「……ごほっ……ごほっ!」

 龐舒は咳込みながら急いで酸素を吸った。

 まだぼんやりとした意識の中、先ほどまで董卓の頭があった所を見上げる。

 そこには師の大きな拳があった。

(呂布様が……董卓を殴り飛ばしたのか?)

 龐舒はあまりのことに目を疑ったが、状況から考えてそうとしか思えない。

 周囲も龐舒と同じく驚愕にざわめいていた。護衛の長である呂布自身が、護衛対象の董卓に手を上げたのだ。

「……呂布っ……貴様っ」

 董卓は地面に這いつくばりながら、火の点いたような目で呂布のことを睨み上げた。

「自分が何をやったのか分かっているのか!?」

 その台詞は質問の形を取ってはいたが、呂布はそれに答えなかった。

 殴った自分の拳を呆然と見つめながら、全く別のことをつぶやいた。

「……鎖が切れた」

 その場のほぼ全員にとって意味の分からないつぶやきではあったが、龐舒だけは理解できた。

 翼の生えた虎を縛る鎖の一本が、断ち切れたということだ。

「え?……今ので切れたんですか?」

「ああ、軽い」

 呂布は短く答えて、その片手を握ったり閉じたりした。さらに振ってみたりする。

 もちろん本当に腕が軽くなったわけではない。しかし呂布は自分の心の中で、明らかに一つの束縛が解けたのを感じていた。

 そして師と弟子は、同時にその理由に思い至ることができた。

「もしかして、呂布様を縛ってた鎖ってただの罪悪感じゃなくて……」

「ああ……丁原様を殺しまでして、こんな下劣な男の下についてしまったという後悔だな」

 一本の鎖は、どうやらそういうものだったらしい。

 単純な罪悪感だけではなく、失ったものの大きさと悔恨、そしてそれに見合わない現状とが絡み合う複雑なやるせなさ。

 それが呂布の心に重く乗しかかり、虎を縛っていたのだ。

 しかし、その鎖はもう断ち切れた。董卓に手を上げてしまったのだから、その下に居続けることなど出来ようはずもないからだ。

「下劣?……今この董卓を、下劣と言ったか?」

 董卓は耳ざとくそれを聞き取り、さらに怒りを倍加させた。

 声を震わせながら、顔を真っ赤にして立ち上がる。

「呂布よ、もう許さんぞ。貴様には地位を与え、富を与え、赤兎馬を与えた。にも関わらず、その恩を仇で返すか」

 董卓は少し離れた従者に向かって手を伸ばした。その従者に剣を持たせているのだ。

「殺す、九族皆殺しだ。一人残らず八つ裂きにしてくれるわ。ただし、最後の情けで貴様だけは俺の手で殺してやろう。剣を持て」

 命じられた従者が一歩踏み出した時、龐舒の体が爆ぜるように跳んだ。

 精鋭揃いの護衛たちの中で、その動きが認識できたのはほんの一握りだった。それほどの速度で龐舒は動き、体ごとぶつかるような肘打ちを従者の腹にめり込ませていた。

 失神して崩れ落ちた従者の手から剣を奪い、師へと放り投げる。

「呂布様、どうぞ」

 呂布はそれを受け取りながら、ニヤリと笑った。

「さすがは俺の弟子だな。董卓ごときの従者など、相手にもならんか」

「鍛えられ方が違いますから」

 龐舒の誇る言葉とともに、呂布はその剣をすらりと抜いた。

 実用のみを突き詰めた刀身の鈍いきらめきが、業物であることを示している。

「良いものだな。一国の最高権力者でも、一振りで斬れるだろう」

 そんなことを口にしつつ、呂布は丸腰の董卓の前に立った。

 董卓は後ずさりながら、声をどもらせる。

「……き、貴様!俺は貴様にとっての父だぞ!父を、父を、父を手に掛けるつもりか!?」

「父?」

 呂布は心底下らないことを聞いたというふうに、憮然と鼻を鳴らした。

「俺の父は誇り高き戦士だった。お前のような、救いようのないごみではない」

 それから呂布は、塵でも払うかのように剣を横に払った。

 ただしそれはこの豪傑にとってそうというだけで、現実には神速の横薙ぎになっている。

 その一閃で董卓の首は斬り飛ばされ、残った体は血しぶきを上げながら後ろに倒れた。

 と、同時に呂布は剣を掲げて叫んだ。

「帝からの勅命ちょくめいにより、この呂布が逆賊董卓を討った!繰り返す!これは董卓討伐の密勅みっちょくに従い行ったことである!このこと、司徒・王允オウイン殿もご存知だ!」

 呂布はまず、そのことを大いに喧伝した。

 密勅とは便利なもので、これを言えばとりあえずはその場を正当化できる。

 それに董卓が死んだ以上、司徒の王允は地位的に最高の官吏ということになる。その合意が得られているということは、この暗殺が公には罪にならないということだ。

 それで色めき立っていた董卓の臣下たちも、すぐに剣から手を離した。ここで呂布を攻撃すると自分まで逆賊になってしまうのだ。

 呂布は部下に命じ、各所へこれを連絡させた。

 国の最高権力者が殺されたわけだが、形としてはさらに上の帝が臣下に逆賊を討たせただけだ。だから混乱する必要はないと、そう伝える必要があった。

 そしてその指示が終わった呂布へ、龐舒が頭を下げた。

「呂布様、ありがとうございました。危うく死ぬところでした」

「ふん、日頃の鍛錬が足らないからあの程度の首絞めを外せないのだ。帰ったらしごき直してやるから覚悟しておけ」

「ははは……すいません」

 龐舒は呂布が以前の呂布に戻ったことが嬉しい一方、鍛錬がいっそうキツくなるであろうことに苦笑した。

 ただ、やはりこれで良かったと心から思うのだ。それに、国にとっても良いことになるはずだとも思った。

「長安の民もきっと喜びますよ。これで兵の横暴なんかも終わるんですから」

 それを聞いた呂布の顔は、逆に険しいものになった。

「……いったんは喜ぶだろうな。しかし、その後は王允殿次第だ」

「王允様?……どういうことでしょう。王允様次第で、何が起こるんですか?」

 問われた呂布はまず宮殿へと厳しい目を向け、それから同じ目で兵たちを眺めやった。

「俺には政局のことはよく分からんが、兵のことならある程度分かるつもりだ。兵たちに対して上手くやらねば、董卓どころの騒ぎではなくなるぞ」

 ものに動じないこの豪傑が、眉間にしわを寄せて重々しくそう言った。

 史書によると、董卓殺害後の呂布は次の世を担うことになった王允に対し、いくつかの提言を行っている。

 それはもしかしたら、この後に続く長い乱世を遠ざけることができたかもしれない重要な提言だ。

 しかし民にとって不幸なことに、呂布の提言は容れられなかった。

 そして長い、本当に長い長い乱世がこれから始まる。
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