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短編・中編や他の人物を中心にした物語
短編 張裔2
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(痒い)
張裔はそのことを不快に思っていた。
麻縄というものは地肌に巻かれるとチクチクして痒くなるのだということがよく分かった。しかも巻かれている部位は首だったため、皮膚が薄くて余計にそれを感じる。
なんとかして掻きたいと思ったが、腕も後ろ手に縛られているため叶わぬことだった。
(まぁ……今から縛り首になろうというのに、痒いも何もないのだが)
張裔は意外にも冷静な気持ちでそんなことを考えていた。周りの喧騒はやかましいが、それで逆に落ち着こうという気持ちになれる。
張裔は今、とある村の広場で処刑されようとしているところだった。
広場の中心には大きな金木犀の木がそびえている。その枝から縄を降ろされ、その輪を首に巻かれたところだった。
あとは張裔が立っている踏み台を蹴飛ばされれば、重力によってその首は致死的に締められるだろう。
(五十騎では、まるで足りなかったな。ただの視察には多過ぎるほどかと思ったが……)
張裔は益州郡で最も力を持っていると言われる豪族、雍闓の住む土地へと視察に来ていた。
新しく赴任してきた太守の初視察だ。普通なら村民総出で歓待し、媚を売ってもおかしくない所だろう。
しかし村民総出で行われたのは、武器を持って太守を囲むという凶行だった。
村民の数は、護衛兵の十倍はいただろうか。それが手に手に斧や鉈、包丁を持ってぞろぞろと現れる光景はなかなかに恐怖心を誘った。
いかに兵とはいえ、数の暴力には勝てない。それに張裔は無駄な損害を好まなかった。
結局はまともに抵抗もしないまま縛りあげられ、こうして絞首刑にされそうになっている。
「雍闓さんを捕まえに来るなんて、太ぇ野郎だ!てめぇはこの木の肥やしになるくらいが調度いい!」
張裔の首に縄をかけた男がそう言った。周囲に集まった群衆もそれに同意して囃し立てる。
その喧騒の中でもちゃんと声が通るように、張裔は可能な限り大きな声を出した。
「だから何度も言っているように、我々は雍闓殿を捕まえに来たわけではない!ただの視察に来ただけた!とういうか、雍闓殿が前太守の殺害に絡んでいるなどという話は今初めて聞いたのだぞ!」
村民たちは、こういった誤解で張裔を捕らえたのだった。
要は、前太守を殺した地方豪族の雍闓を新太守が捕縛に来たと思ったわけだ。だから雍闓を守るために、村民たちは総出で太守を囲んだのだった。
男が張裔の髪を掴んだ。そしてぐいっと上げて睨みつけながら、吐き捨てるように言葉を放った。
「そんな口車に乗るわけがねぇだろうが。お前たちの口先八寸に、俺たちはずっと騙されてきたんだからな」
周囲から、それに同意する声が次々と上がる。
正直に言うと、雍闓が殺害に絡んでいるかもしれないという可能性を考えていなかったわけではない。地方豪族の誰かがやったことだという噂は入っていたからだ。
しかし、もしそれを確実視していれば軍を引き連れて来ているし、捕縛する予定などさらさらなかったのは考えれば分かるはずだ。
ただ、それを言っても村民は誰一人として聞く耳を持たなかった。益州の中央政府に対し、相当な不信感があるようだ。
「スカした面しやがって、気に入らねぇ。俺らはお前らのそういったご立派な面構えや喋り方が大嫌いなんだよ。あの世でもそんな風にふんぞり返っていな!!」
男はそう叫んでから張裔の乗った踏み台を蹴飛ばそうと、足を振りかぶった。
何の抵抗も出来ない張裔は、それをただ見ていることしか出来なかった。
(死とは、意外にも当たり前のように降り掛かってくるのだな……)
その事実に絶望しているところへ、広場中に響くような大声が届いてきた。
「待て!」
その声に、男の足がピタリと止まった。そして声のした方を振り返る。
他の村民たちも一斉にそちらを向いていた。どうやら声が大きかっただけではなく、その声が誰のものであるかを皆が知っているようだった。
「雍闓さん……」
足を止めた男がつぶやいた。
その視線の先から一人の男が歩いてくる。村民たちは皆すぐに道をあけていた。
雍闓だ。
黒々とした豊かな髭を揺らし、大股で張裔の所まで来た。
「おいおい、ちょっと気が早いんじゃないか?俺は新太守の顔すら見てなかったんだぞ。首くくられてからのデロンとした気持ちの悪い顔じゃあ、元の顔が分からんだろ」
言われた男は可笑しそうに笑った。
「違いねぇや。すんませんでした」
雍闓は鷹揚にうなずいた。
「お前らが俺のことを思って新しい太守を捕まえてくれたことは嬉しいよ。ありがとな」
短い言葉だったが、その言葉でその場にいた村民たちの心が大いに震えたのを張裔は感じた。いわゆるカリスマというやつだろう。
(これが雍闓、か。ここ益州郡で最も力を持っている豪族で、その恩徳は益州南部に広く知られているという話だが……確かに一角の人間らしい)
張裔は初対面のこの男に対し、その認識像を大きくした。
雍闓は張裔の顔をじろりと眺めた。それから処刑を実施しようとしていた男へ目を向ける。
「殺すのは簡単だがよ、その前に取れる情報は取っておいた方がいいんじゃないか?死んだら口もきけんからな」
「あー……そうですね。すんません、つい盛り上がっちまいまして」
「だろう?んじゃ、俺んちに連れて行っといてくれよ。俺が直接話を聞くから」
雍闓はそれだけ言うと、さっさとその場を離れていってしまった。
男は張裔の首から縄を外し、襟首を掴んだ。
「寿命が伸びたな。来い」
張裔は雍闓の屋敷まで引っ張っていかれた。
そして使用人に引き渡され、屋敷の一室へと案内された。
意外にも使用人に連れて来られたのは、立派な調度品が並んだ客間だった。そして部屋に通されると、すぐに縄を解かれた。
張裔が固まった肩をぐるぐると回していると、雍闓が入ってきた。
「すまないな、新太守さん。あいつら盛り上がると、なかなか止まらなくてよ」
「張裔だ。雍闓殿にはまず伝えておきたいのだが……」
「分かってるよ。あんたは俺を捕縛に来たんじゃないんだろう?もし捕まえに来たんなら、一軍を率いて来るはずだ」
そう言う雍闓に、張裔は首を撫でてみせた。麻縄のチクチクは大変に不快だった。
「分かっているなら、もう少し早く縄を解いてほしかったな」
雍闓はそんな張裔へ、気の毒そうな目を向けた。
「悪いが、たとえ誤解でもあんたが縛り首になるのはもう避けられねぇよ。群衆ってのは、一度火が点いたらそう簡単に消せないんでな」
「しかし、誤解さえ解ければ」
「誤解?何を誤解しているってんだ?」
雍闓が張裔の胸ぐらを掴んだ。そして目を凄ませて言葉を続ける。
「あんた、自分が殺されそうになったのは、俺の捕縛うんぬんの勘違いからだと思っているだろう?」
「ち、違うのか?」
「違う違う、大間違いだ。あんたが殺される理由は、あんたら中央政府が地方から絞るだけ絞って、何ももたらさないからだ。税は取る、兵は徴発する、しかしそれはお前らがドンパチ戦争するために使われて、地方のためには使われないだろうが」
言われた張裔は、すぐに反論できなかった。
特に今は戦乱の時代だ。地方と中央の関係は、雍闓の言っている通り一方的な搾取と言われても仕方ないところがあった。
(しかし我らがいなくなっても、結局は他の群雄がここを獲って絞り続けるだけだ。それに、もし劉備様の思い描くように千年、二千年と続く王朝ができれば、こんな内輪の戦も減って……)
張裔はそんな反論を頭に浮かべたが、少なくとも後半は簡単に説明出来ることではない。
それに、きちんと説明できたところで本当に納得してもらえるだろうか?
おそらくこの益州郡という地域は、すでに中央政府からの支配にうんざりしているのだ。前太守を殺してしまうほどの行動に出ているという事は、そういう事だろう。
だから張裔は何も言えなかった。言おうと思ったが、雍闓を納得させられるだけの言葉は出てきそうもない。
張裔が黙っているうちに、雍闓は結論を言ってしまった。
「だから、あんたは殺される。まぁ俺は前太守も含めて殺すほどのことはなかったと思ってるが、さっきも言ったように群衆ってのはこうなると収まりがつかねぇ。俺があんたをここに連れてきたのは有益な情報があれば聞きたいと思ったのと、あんたに最期の言葉でも遺させてやろうと思ったからだよ」
雍闓は、突き飛ばすようにして張裔の胸ぐらを離した。
「何か遺したい言葉でもあるか?聞いてやる」
張裔は少しの時間だけ考えた。そして口を開く。
「遺したい言葉というわけではないが、伝えておきたいことがある」
「おう、言え」
「犁の形が悪い。もっと細く作るべきだ」
言われた雍闓はすぐに意味が掴めず、キョトンとした。
「……は?……犁?犁って、あの田畑を耕すのに使う、犁か?」
犂は三角形の耕作農具で、これを地面に刺して牛に引かせる。
この時代の中国ではすでに牛耕というものが一般的になっており、農業の生産性向上に大きく寄与していた。
「そうだ。その犁だ。太いと広い範囲が耕せそうに思えるが、太過ぎれば土の抵抗が大きくなって耕作速度は落ちる。もう少し細くてもきちんと深く耕せば周辺の土も柔らかくなるし、牛の疲労も少なくて済む。この地域で普及している犁は、私たちが検証で得た最も効率が良い犁の形状よりもかなり太かった」
「そ、そうか……」
雍闓はなんとも言えない表情で相槌を打った。
張裔はそんな様子には全く頓着せず、言葉を続けた。
「それと、せっかくの平野でも未耕作の土地が多いな。河川との高低差が小さいから利水上不利なのだろうが、土地を選んで深めに広めに掘った水路網を作れば、耕地をかなり広げられるはずだ。その水路を溜池として、用水路として、排水路としても使う」
いわるゆクリーク網という農業用の水路で、三国志の時代にも一部の地域で農地拡大に用いられた。
雍闓はやはりなんと言っていいものか分からず、また曖昧な返事をした。
「お、おう……」
「それに製塩所を見たが、なぜ塩水を桶に入れて運んでいるのだ?」
益州は内陸の土地で海がないのだが、意外にもよく塩が取れる。
島国の日本にはあまり馴染みがないが、世界的には井戸水が塩水になっている場所が結構あるのだ。その塩を汲み上げて煮詰める事で、良質な塩を得られる。
「なぜってそりゃ……汲み上げた塩水を釜まで運ばなけりゃ、煮られないだろ」
「そうではない。あらかじめ井戸に櫂を組んで少し高めの位置まで汲み上げれば、そこから竹筒を通すだけで釜のある所まで流せるだろう。人力での運搬はあまりに非効率だ」
「そ、そうか……なるほどな……」
「あと鉄製品の鍛造だが、折り曲げる回数が多過ぎるな。もう少し少ない回数でも品質はさして変わらないから、最も効率の良い回数で……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
雍闓は両手を上げて張裔を止めた。
「あんたなぁ、分かってるか?あんたは今から殺されるんだよ。だから最期の言葉として話をさせてやってるんだ。普通ならこう……今までの人生を振り返ってとか、色々あるだろう?」
張裔は大真面目な顔をして答えた。
「それは、何かを改善するのか?何かの効率を上げることができるのか?そんな現実に影響のない言葉よりも、私は私の与えられた職命を果たしたい」
「……職命?何だそりゃ」
「私は最も尊敬する人間から、ここ益州郡の産業の生産性を上げるよう命じられて来たのだ。だから今から死ぬのなら、残された時間をそのために使いたい」
張裔の望みはそれだけだった。
諸葛亮は自分にそれを命じ、期待してくれた。無事に帰るという願いは果たせそうもないが、ならば使命を少しでも果たすことを望んだ。
もちろんそれによって民が豊かになり、幸せになってくれるならそれは嬉しい。また、世の中の非効率的なことが改善されるなら、張裔もすこぶる気持ち良かった。
ただ、やはり張裔にとっては諸葛亮なのだ。人とも思えぬあの人間を支えることが、張裔にとって何よりの歓びになっていた。
雍闓はそんな張裔へ、少し困ったような視線を向けた。
それから考え込むように少し唸った後、張裔の首を掴んで部屋から出た。
「……もう縛り首か?まだ他にも益州郡の効率改善のための提案はあるぞ」
「話させてやるよ。聞いてやる。だからそのために、お前はしばらく縮こまって黙ってるんだ。悪いようにはしない」
雍闓は張裔にそう言い渡し、あとは黙って先ほどの広場まで歩いて行った。
雍闓と張裔が出てきたことで、また村民が集まってきた。雍闓は人が増えるまで少し待ち、それらに向けて大きな声を上げた。
「俺はこの張裔と話して分かったことがある!こいつは瓢箪みたいなもんだ!」
雍闓はいったん言葉を切り、群衆が『どういうことだろう?』と思った所で再開した。
「瓢箪もこいつも表面はツヤツヤして立派なもんだが、割って中身を見てみるとザラザラして粗雑なもんだからな!」
その言葉に、群衆の間から嘲笑の声が上がった。
雍闓はそれが静まるのを少し待ち、また声を上げた。
「こいつをここで殺して中身をぶちまけてやってもいいが、それ自体に意味はない!何の面白味もない中身だからな!それよりもこいつには役に立ってもらおうと思う!俺らを支援してくれる劉備の敵に送って、提携の手土産にするんだ!」
群衆から同意の声が上がった。その声は初め少数だったが、すぐに群衆全体の意思へと塗り広げられていった。
それを確認した雍闓は、満足げにうなずいた。
「そういうわけだから、こいつにはここを出るまで五体満足でいてもらわなきゃならない!腹の立つスカした面をしてやがるが、どつき回したりするのは無しだ!」
雍闓は最後にそれだけ言い残し、笑い声の残る広場を後にした。
屋敷に帰った張裔は雍闓に頭を下げた。
「助かった」
「感謝されるいわれはない。あんたをただ殺すよりも、役に立つ使い道があっただけだ」
雍闓はそう答え、それから張裔とは別の方を向いて言葉を付け足した。
「……それに、あんたみたいに民のためになる官吏は少ないからな。貴重なもんをわざわざ壊すこともないだろう」
「そう言ってもらえると嬉しい。礼と言ってはなんだが、一つ雍闓殿のためになる助言を伝えておこう」
「なんだ?」
「もし丞相が討伐軍を率いてこの地を攻めてきたら、早々に降伏した方がいい。戦うだけ無駄だ」
「丞相というと……諸葛亮か。それほどにやばい男なのか?」
「人間を相手にしているなどと思わない方がいい。無駄に益州郡の民を死なせるのは、ただの非効率的な行いだからな」
「……その助言、とりあえず覚えるだけ覚えておく」
雍闓は苦しげに眉をひそめた。
地元民からあそこまで好かれている豪族だ。反乱でその民を殺すのには、強い抵抗があるだろう。
張裔はその様子を見て、強い同情心を抱いた。
(群衆は一度火が点いたらそう簡単には消せない、か……)
おそらく今の益州郡の状況は、雍闓個人の自由意志で望んだものではないのだろう。
そして、それは戦を繰り広げていた自分たちの責任でもあった。
ただ、自分はすでに囚われの身だ。この後、益州郡の生産性改善のために提言を行うことくらいしか償いもできない。
「私はこれからどうなる?先ほど劉備様の敵への手土産にすると言っていたが、どこに送られるのだ」
雍闓はある方向、太陽の位置からすると、おそらく東の方を向いてから答えた。
「呉だ」
張裔はそのことを不快に思っていた。
麻縄というものは地肌に巻かれるとチクチクして痒くなるのだということがよく分かった。しかも巻かれている部位は首だったため、皮膚が薄くて余計にそれを感じる。
なんとかして掻きたいと思ったが、腕も後ろ手に縛られているため叶わぬことだった。
(まぁ……今から縛り首になろうというのに、痒いも何もないのだが)
張裔は意外にも冷静な気持ちでそんなことを考えていた。周りの喧騒はやかましいが、それで逆に落ち着こうという気持ちになれる。
張裔は今、とある村の広場で処刑されようとしているところだった。
広場の中心には大きな金木犀の木がそびえている。その枝から縄を降ろされ、その輪を首に巻かれたところだった。
あとは張裔が立っている踏み台を蹴飛ばされれば、重力によってその首は致死的に締められるだろう。
(五十騎では、まるで足りなかったな。ただの視察には多過ぎるほどかと思ったが……)
張裔は益州郡で最も力を持っていると言われる豪族、雍闓の住む土地へと視察に来ていた。
新しく赴任してきた太守の初視察だ。普通なら村民総出で歓待し、媚を売ってもおかしくない所だろう。
しかし村民総出で行われたのは、武器を持って太守を囲むという凶行だった。
村民の数は、護衛兵の十倍はいただろうか。それが手に手に斧や鉈、包丁を持ってぞろぞろと現れる光景はなかなかに恐怖心を誘った。
いかに兵とはいえ、数の暴力には勝てない。それに張裔は無駄な損害を好まなかった。
結局はまともに抵抗もしないまま縛りあげられ、こうして絞首刑にされそうになっている。
「雍闓さんを捕まえに来るなんて、太ぇ野郎だ!てめぇはこの木の肥やしになるくらいが調度いい!」
張裔の首に縄をかけた男がそう言った。周囲に集まった群衆もそれに同意して囃し立てる。
その喧騒の中でもちゃんと声が通るように、張裔は可能な限り大きな声を出した。
「だから何度も言っているように、我々は雍闓殿を捕まえに来たわけではない!ただの視察に来ただけた!とういうか、雍闓殿が前太守の殺害に絡んでいるなどという話は今初めて聞いたのだぞ!」
村民たちは、こういった誤解で張裔を捕らえたのだった。
要は、前太守を殺した地方豪族の雍闓を新太守が捕縛に来たと思ったわけだ。だから雍闓を守るために、村民たちは総出で太守を囲んだのだった。
男が張裔の髪を掴んだ。そしてぐいっと上げて睨みつけながら、吐き捨てるように言葉を放った。
「そんな口車に乗るわけがねぇだろうが。お前たちの口先八寸に、俺たちはずっと騙されてきたんだからな」
周囲から、それに同意する声が次々と上がる。
正直に言うと、雍闓が殺害に絡んでいるかもしれないという可能性を考えていなかったわけではない。地方豪族の誰かがやったことだという噂は入っていたからだ。
しかし、もしそれを確実視していれば軍を引き連れて来ているし、捕縛する予定などさらさらなかったのは考えれば分かるはずだ。
ただ、それを言っても村民は誰一人として聞く耳を持たなかった。益州の中央政府に対し、相当な不信感があるようだ。
「スカした面しやがって、気に入らねぇ。俺らはお前らのそういったご立派な面構えや喋り方が大嫌いなんだよ。あの世でもそんな風にふんぞり返っていな!!」
男はそう叫んでから張裔の乗った踏み台を蹴飛ばそうと、足を振りかぶった。
何の抵抗も出来ない張裔は、それをただ見ていることしか出来なかった。
(死とは、意外にも当たり前のように降り掛かってくるのだな……)
その事実に絶望しているところへ、広場中に響くような大声が届いてきた。
「待て!」
その声に、男の足がピタリと止まった。そして声のした方を振り返る。
他の村民たちも一斉にそちらを向いていた。どうやら声が大きかっただけではなく、その声が誰のものであるかを皆が知っているようだった。
「雍闓さん……」
足を止めた男がつぶやいた。
その視線の先から一人の男が歩いてくる。村民たちは皆すぐに道をあけていた。
雍闓だ。
黒々とした豊かな髭を揺らし、大股で張裔の所まで来た。
「おいおい、ちょっと気が早いんじゃないか?俺は新太守の顔すら見てなかったんだぞ。首くくられてからのデロンとした気持ちの悪い顔じゃあ、元の顔が分からんだろ」
言われた男は可笑しそうに笑った。
「違いねぇや。すんませんでした」
雍闓は鷹揚にうなずいた。
「お前らが俺のことを思って新しい太守を捕まえてくれたことは嬉しいよ。ありがとな」
短い言葉だったが、その言葉でその場にいた村民たちの心が大いに震えたのを張裔は感じた。いわゆるカリスマというやつだろう。
(これが雍闓、か。ここ益州郡で最も力を持っている豪族で、その恩徳は益州南部に広く知られているという話だが……確かに一角の人間らしい)
張裔は初対面のこの男に対し、その認識像を大きくした。
雍闓は張裔の顔をじろりと眺めた。それから処刑を実施しようとしていた男へ目を向ける。
「殺すのは簡単だがよ、その前に取れる情報は取っておいた方がいいんじゃないか?死んだら口もきけんからな」
「あー……そうですね。すんません、つい盛り上がっちまいまして」
「だろう?んじゃ、俺んちに連れて行っといてくれよ。俺が直接話を聞くから」
雍闓はそれだけ言うと、さっさとその場を離れていってしまった。
男は張裔の首から縄を外し、襟首を掴んだ。
「寿命が伸びたな。来い」
張裔は雍闓の屋敷まで引っ張っていかれた。
そして使用人に引き渡され、屋敷の一室へと案内された。
意外にも使用人に連れて来られたのは、立派な調度品が並んだ客間だった。そして部屋に通されると、すぐに縄を解かれた。
張裔が固まった肩をぐるぐると回していると、雍闓が入ってきた。
「すまないな、新太守さん。あいつら盛り上がると、なかなか止まらなくてよ」
「張裔だ。雍闓殿にはまず伝えておきたいのだが……」
「分かってるよ。あんたは俺を捕縛に来たんじゃないんだろう?もし捕まえに来たんなら、一軍を率いて来るはずだ」
そう言う雍闓に、張裔は首を撫でてみせた。麻縄のチクチクは大変に不快だった。
「分かっているなら、もう少し早く縄を解いてほしかったな」
雍闓はそんな張裔へ、気の毒そうな目を向けた。
「悪いが、たとえ誤解でもあんたが縛り首になるのはもう避けられねぇよ。群衆ってのは、一度火が点いたらそう簡単に消せないんでな」
「しかし、誤解さえ解ければ」
「誤解?何を誤解しているってんだ?」
雍闓が張裔の胸ぐらを掴んだ。そして目を凄ませて言葉を続ける。
「あんた、自分が殺されそうになったのは、俺の捕縛うんぬんの勘違いからだと思っているだろう?」
「ち、違うのか?」
「違う違う、大間違いだ。あんたが殺される理由は、あんたら中央政府が地方から絞るだけ絞って、何ももたらさないからだ。税は取る、兵は徴発する、しかしそれはお前らがドンパチ戦争するために使われて、地方のためには使われないだろうが」
言われた張裔は、すぐに反論できなかった。
特に今は戦乱の時代だ。地方と中央の関係は、雍闓の言っている通り一方的な搾取と言われても仕方ないところがあった。
(しかし我らがいなくなっても、結局は他の群雄がここを獲って絞り続けるだけだ。それに、もし劉備様の思い描くように千年、二千年と続く王朝ができれば、こんな内輪の戦も減って……)
張裔はそんな反論を頭に浮かべたが、少なくとも後半は簡単に説明出来ることではない。
それに、きちんと説明できたところで本当に納得してもらえるだろうか?
おそらくこの益州郡という地域は、すでに中央政府からの支配にうんざりしているのだ。前太守を殺してしまうほどの行動に出ているという事は、そういう事だろう。
だから張裔は何も言えなかった。言おうと思ったが、雍闓を納得させられるだけの言葉は出てきそうもない。
張裔が黙っているうちに、雍闓は結論を言ってしまった。
「だから、あんたは殺される。まぁ俺は前太守も含めて殺すほどのことはなかったと思ってるが、さっきも言ったように群衆ってのはこうなると収まりがつかねぇ。俺があんたをここに連れてきたのは有益な情報があれば聞きたいと思ったのと、あんたに最期の言葉でも遺させてやろうと思ったからだよ」
雍闓は、突き飛ばすようにして張裔の胸ぐらを離した。
「何か遺したい言葉でもあるか?聞いてやる」
張裔は少しの時間だけ考えた。そして口を開く。
「遺したい言葉というわけではないが、伝えておきたいことがある」
「おう、言え」
「犁の形が悪い。もっと細く作るべきだ」
言われた雍闓はすぐに意味が掴めず、キョトンとした。
「……は?……犁?犁って、あの田畑を耕すのに使う、犁か?」
犂は三角形の耕作農具で、これを地面に刺して牛に引かせる。
この時代の中国ではすでに牛耕というものが一般的になっており、農業の生産性向上に大きく寄与していた。
「そうだ。その犁だ。太いと広い範囲が耕せそうに思えるが、太過ぎれば土の抵抗が大きくなって耕作速度は落ちる。もう少し細くてもきちんと深く耕せば周辺の土も柔らかくなるし、牛の疲労も少なくて済む。この地域で普及している犁は、私たちが検証で得た最も効率が良い犁の形状よりもかなり太かった」
「そ、そうか……」
雍闓はなんとも言えない表情で相槌を打った。
張裔はそんな様子には全く頓着せず、言葉を続けた。
「それと、せっかくの平野でも未耕作の土地が多いな。河川との高低差が小さいから利水上不利なのだろうが、土地を選んで深めに広めに掘った水路網を作れば、耕地をかなり広げられるはずだ。その水路を溜池として、用水路として、排水路としても使う」
いわるゆクリーク網という農業用の水路で、三国志の時代にも一部の地域で農地拡大に用いられた。
雍闓はやはりなんと言っていいものか分からず、また曖昧な返事をした。
「お、おう……」
「それに製塩所を見たが、なぜ塩水を桶に入れて運んでいるのだ?」
益州は内陸の土地で海がないのだが、意外にもよく塩が取れる。
島国の日本にはあまり馴染みがないが、世界的には井戸水が塩水になっている場所が結構あるのだ。その塩を汲み上げて煮詰める事で、良質な塩を得られる。
「なぜってそりゃ……汲み上げた塩水を釜まで運ばなけりゃ、煮られないだろ」
「そうではない。あらかじめ井戸に櫂を組んで少し高めの位置まで汲み上げれば、そこから竹筒を通すだけで釜のある所まで流せるだろう。人力での運搬はあまりに非効率だ」
「そ、そうか……なるほどな……」
「あと鉄製品の鍛造だが、折り曲げる回数が多過ぎるな。もう少し少ない回数でも品質はさして変わらないから、最も効率の良い回数で……」
「ちょ、ちょっと待ってくれ!」
雍闓は両手を上げて張裔を止めた。
「あんたなぁ、分かってるか?あんたは今から殺されるんだよ。だから最期の言葉として話をさせてやってるんだ。普通ならこう……今までの人生を振り返ってとか、色々あるだろう?」
張裔は大真面目な顔をして答えた。
「それは、何かを改善するのか?何かの効率を上げることができるのか?そんな現実に影響のない言葉よりも、私は私の与えられた職命を果たしたい」
「……職命?何だそりゃ」
「私は最も尊敬する人間から、ここ益州郡の産業の生産性を上げるよう命じられて来たのだ。だから今から死ぬのなら、残された時間をそのために使いたい」
張裔の望みはそれだけだった。
諸葛亮は自分にそれを命じ、期待してくれた。無事に帰るという願いは果たせそうもないが、ならば使命を少しでも果たすことを望んだ。
もちろんそれによって民が豊かになり、幸せになってくれるならそれは嬉しい。また、世の中の非効率的なことが改善されるなら、張裔もすこぶる気持ち良かった。
ただ、やはり張裔にとっては諸葛亮なのだ。人とも思えぬあの人間を支えることが、張裔にとって何よりの歓びになっていた。
雍闓はそんな張裔へ、少し困ったような視線を向けた。
それから考え込むように少し唸った後、張裔の首を掴んで部屋から出た。
「……もう縛り首か?まだ他にも益州郡の効率改善のための提案はあるぞ」
「話させてやるよ。聞いてやる。だからそのために、お前はしばらく縮こまって黙ってるんだ。悪いようにはしない」
雍闓は張裔にそう言い渡し、あとは黙って先ほどの広場まで歩いて行った。
雍闓と張裔が出てきたことで、また村民が集まってきた。雍闓は人が増えるまで少し待ち、それらに向けて大きな声を上げた。
「俺はこの張裔と話して分かったことがある!こいつは瓢箪みたいなもんだ!」
雍闓はいったん言葉を切り、群衆が『どういうことだろう?』と思った所で再開した。
「瓢箪もこいつも表面はツヤツヤして立派なもんだが、割って中身を見てみるとザラザラして粗雑なもんだからな!」
その言葉に、群衆の間から嘲笑の声が上がった。
雍闓はそれが静まるのを少し待ち、また声を上げた。
「こいつをここで殺して中身をぶちまけてやってもいいが、それ自体に意味はない!何の面白味もない中身だからな!それよりもこいつには役に立ってもらおうと思う!俺らを支援してくれる劉備の敵に送って、提携の手土産にするんだ!」
群衆から同意の声が上がった。その声は初め少数だったが、すぐに群衆全体の意思へと塗り広げられていった。
それを確認した雍闓は、満足げにうなずいた。
「そういうわけだから、こいつにはここを出るまで五体満足でいてもらわなきゃならない!腹の立つスカした面をしてやがるが、どつき回したりするのは無しだ!」
雍闓は最後にそれだけ言い残し、笑い声の残る広場を後にした。
屋敷に帰った張裔は雍闓に頭を下げた。
「助かった」
「感謝されるいわれはない。あんたをただ殺すよりも、役に立つ使い道があっただけだ」
雍闓はそう答え、それから張裔とは別の方を向いて言葉を付け足した。
「……それに、あんたみたいに民のためになる官吏は少ないからな。貴重なもんをわざわざ壊すこともないだろう」
「そう言ってもらえると嬉しい。礼と言ってはなんだが、一つ雍闓殿のためになる助言を伝えておこう」
「なんだ?」
「もし丞相が討伐軍を率いてこの地を攻めてきたら、早々に降伏した方がいい。戦うだけ無駄だ」
「丞相というと……諸葛亮か。それほどにやばい男なのか?」
「人間を相手にしているなどと思わない方がいい。無駄に益州郡の民を死なせるのは、ただの非効率的な行いだからな」
「……その助言、とりあえず覚えるだけ覚えておく」
雍闓は苦しげに眉をひそめた。
地元民からあそこまで好かれている豪族だ。反乱でその民を殺すのには、強い抵抗があるだろう。
張裔はその様子を見て、強い同情心を抱いた。
(群衆は一度火が点いたらそう簡単には消せない、か……)
おそらく今の益州郡の状況は、雍闓個人の自由意志で望んだものではないのだろう。
そして、それは戦を繰り広げていた自分たちの責任でもあった。
ただ、自分はすでに囚われの身だ。この後、益州郡の生産性改善のために提言を行うことくらいしか償いもできない。
「私はこれからどうなる?先ほど劉備様の敵への手土産にすると言っていたが、どこに送られるのだ」
雍闓はある方向、太陽の位置からすると、おそらく東の方を向いてから答えた。
「呉だ」
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