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短編・中編や他の人物を中心にした物語

短編 寄り添う

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時は遡り、許靖と花琳が初めて出会った数日後のこと。



「お嬢様。私は今日はお店の方に出なくてはなりませんので」

 小芳ショウホウのその言葉に、花琳カリンは少しだけ物悲しいような、しかし一方で安心したような気持ちになった。

 店に出なくてはならないから自分とは一緒にいられない。別段、変わったことではない。普段からよくあることだ。

 花琳は育ちの良いお嬢様だが、自分のことを自分でできないほど甘やかされてはいない。従者である小芳がいなければいないで、困るほどのことはなかった。

「分かったわ。朝の身支度も自分でやるから、もう行きなさい」

「ありがとうございます。では」

 小芳は花琳にくるりと背を向けて部屋から出ていった。

 廊下へ消えていった小芳は全くいつも通りの様子だったが、花琳の心中はそうではない。小芳の背中が見えなくなるのに不安を感じる一方、やはりどこか安心している自分がいた。

「お母様……」

 花琳は自分の耳にも聞こえるかどうかというほどの小さな声で、そうつぶやいた。

 母の命日が近い。花琳が精神的に不安定になっているのはそれが理由だった。

(私はきっと、寂しいんだ)

 言ってみればそういうことだろう。それはずっと前から自覚していた。しかし、それを表に出したことはない。

『強くなりなさい。女も強くなくてはだめよ』

 まだ六歳だった当時の花琳に、優しい母が残してくれた最後の言葉がそれだった。

 だから花琳は強くあろうとした。

 実際、強いはずだ。

 武術の腕前だけではない。精神的にも、家族を含めて周囲の人間は全て花琳のことを強い女だと思っている。

 だから花琳は寂しいなどという感情は表に出さないようにして生きてきた。皆が強いと思ってくれていれば、母の最後の言葉を自分が守っているのだと感じることができるからだ。

(でも、命日の頃になると……だめだわ)

 母が死んだ秋になると、耐えきれないような寂しさに襲われることがあった。しかし、周囲にそれを知られるわけにはいかない。

 特に小芳は母が死んで間もなく、店の前に捨てられていた子だ。よそに出される予定だったのを、自分がうちで育てるとかなり激しく駄々をこねて受け入れた。

 母を失った自分は、自分が母になろうとしたのだ。

 そんな小芳に弱さは見せるわけにはいかない。母は強いものだ。そう考えていた。

 結果、花琳は最も近くにいる相手にすら寂しさを隠して生きていくことになった。そしてそれは、とても辛いことだった。

 だから秋になると誰かにいて欲しいと思う一方、寂しいという感情を隠さなければならないから気を張ってしまう。

 それもまた辛いのだった。

 花琳は化粧台の小箱に入った櫛を取り出した。美しい桜の樹が、力強く彫られた櫛だ。母の形見だった。

「お母様……」

 またほとんど聞き取れないほどの声でつぶやきながら、静かに髪を梳かした。普段は別の櫛で小芳にやってもらうが、自分でやる時にはこの櫛を使うことにしていた。

 母は生前、常に花琳に寄り添ってくれていた。何をしていても振り返れば母がいたが、まだ幼い花琳にとってこれ以上の安心感はなかった。世界で一番幸せな感情だった。

 だから母が死んだあの日以来、自分が本当の意味で安心を感じられたことは一度も無い。本当の幸せを感じられたことは、一度も無いのだ。

 それでも花琳はただ強くあろうとした。小芳が出ていく際にも、寂しさなど微塵も匂わせなかった。

 いつもはこの櫛を使うことで暖かな気持ちになれた。母がこの櫛で髪を梳かしてくれていたからだ。

 しかし今日は違った。命日を前にして母を思い出し、より寂しさが増した。

 それでも花琳はこの櫛で髪を梳かしたいと思った。この櫛しかもう、母を感じることができないからだ。


****************


 花琳は川べりに腰を下ろし、水の流れを眺めていた。

 別に何をしているわけでもない、することもないのでそうしているだけだ。

 ただ、ここはよく母と遊んでいた場所だった。自分は水遊びをしたり、魚を追ったりした。母は四季の草花を楽しみ、娘に花の冠の作り方など教えてくれた。

 それに、この川沿いには見事な桜並木がある。今は秋で花は望むべくもないが、春にはそれは見事なものだった。

 花琳が一番よく覚えている母の姿は、桜を背景にして嬉しそうに笑っている母だった。

(お母様は私と一緒に桜を見れたから、こんなに嬉しいんだ)

 幼い花琳は単純にそう信じて疑わなかったし、母はそう思えるだけの愛情を注いでくれていた。

 その母が常に自分に寄り添ってくれている。これ以上に幸せなことなどなかったから、それを失ったことの寂しさは、花琳が二十歳を過ぎても消えることはなかった。

(もう一度、お母様と一緒に桜を見たかったな……)

 花琳は川面に小さな石を投げた。

 ポチャン、という音と同時に、背後で声が上がった。

「花琳さん?」

 花琳が振り返ると、そこには忘れられない顔があった。それはここ数日、妙に頭に浮かんでは消える顔だ。

「……許靖キョセイ様」

 花琳の頬は不思議にも上気した。それが自分でも分かったから、焦っていっそう赤くなってしまった。

 なぜこの人を前にするとこのようになってしまうのだろうか。このような事は、これまでの人生で一度もなかった。

(押し倒されて、馬乗りになられたからかしら……?)

 花琳は豪商のお嬢様として暮らしてきたため、男にそんな事をされたことなど無かった。ただ、そればかりでは無いようにも思う。

「こんにちは。お散歩か何かの途中ですか?」

 そう言う許靖の耳は、花琳の頬と同じように赤くなっていた。

 花琳は立ち上がって挨拶をしようとしたが、許靖はそれを手で制して自分も花琳の隣りに腰掛けた。

 ごく自然な動作で横に並んでから、今気づいたように花琳に確認した。

「あ、すいません。勝手に隣りに座ってしまって。お邪魔でしたか?」

 花琳は慌てて首を横に振った。

「いえ、全然。そんなことはありません。ただぼうっとしていただけですから」

 そう言いながらも、花琳は許靖が当たり前のように隣りに腰掛けたことに関しては違和感を覚えていた。

(そんなに人との距離感が近い人ではないように思っていたけど……)

 それほど長い時間を共にしたわけではないが、許靖は軽い人間ではなさそうだと感じていた。むしろ礼儀正しい分、人とは一定の距離を保つ方だろう。

(いや……今のは距離感が近いというよりも、むしろ……)

 むしろ、自分がそうして欲しいことを知っているかのような自然さだった。花琳が寂しくて、人恋しいことを知っているから、何の気兼ねも感じずに隣りに座った。

 花琳はなぜか、そのように感じていた。ずっと強い振りをして隠してきた自分の本心を、まるで見透かされていたようだった。

 もちろん許靖は花琳がそのようなことを考えているとは夢にも思わない。ごく普通の世間話を口にした。

「この川辺は景色が良くて気持ちいいですよね。よく来るんですか?」

「ええ、たまに散歩で。春には桜も綺麗なんですよ。許靖様は?」

「私は仕事の帰り道なので毎日通りますよ」

 花琳は言われて初めて気がついた。

 ここは許靖の住む先割れの松の丘と、職場である郡役所とのほぼ中間地点だ。

「言われてみれば、そうですよね。でしたら、大体この時間には……」

「ええ、この辺りにいますね。だから花琳さんもこの時間に散歩されたら、暇人が歩いているはずですから」

 許靖は微笑みながら花琳の瞳を見た。

 花琳はその視線に、また自分が隠しているものを見透かされたような気がした。

 そして許靖の言葉もまた、花琳の寂しさを知っているからこそ出たもののような気がした。

(だめ……私は強くなくてはいけないのよ。だから、誰にも寂しさを知られてはいけない)

 花琳はそう思って許靖の視線を拒絶しようとした。

 しかし花琳の心は拒絶どころか、その微笑みに鼓動が跳ねることすら止められはしなかった。


****************


 花琳はその後、三日続けてあの川辺には行かなかった。

 本心としては行きたかった。不思議なことに、何をしていても許靖の顔が浮かんでくるのだ。

 行けば本物の顔が見られるのだと思えば、自然と足が向きそうになる。

 しかし、許靖に自分の寂しさを見透かされるのが嫌だった。すでに気づかれているのだとしても、それを自分で再自覚するのが嫌だったのだ。

(私は、強くなくてはならない)

 それが母の遺言だった。だから寂しいと思っていることなど、人に知られるわけにはいかない。

 花琳はそう思いながら、母の櫛で髪を梳いた。

 今日も小芳はいない。朝から一日店に出ている。だからいつも通り、母の櫛で髪をといていた。

「許靖様……」

 花琳はその名が自然に口から出て来たことに驚いた。いつもなら「お母様」とつぶやいているのに。

 部屋には誰にもいないにも関わらず、花琳はそのことに焦った。焦ったあまり、手に不要な力が掛かってしまった。

 パキッ

 と、髪を引っ張られる感覚とともに聞こえたその小さな音は、花琳には絶望と言ってもよいほどの響きを感じさせた。

 櫛を見ると、一本の歯が欠けている。

 花琳は泣きそうになった。大げさな表現ではなく、実際に目には涙が溜まっていた。

 大事な母の形見を、自分にとって最も幸せだった時間を、傷つけてしまった。

 涙は目から溢れそうだったが、花琳はそれすら耐えてみせた。自分は強い女なのだと、心の中でそう言い聞かせた。

 しかし、今日はあの川辺に行ってみようと思った。ただ散歩に行くだけなのだと、また心の中でそう言い聞かせた。


****************


「来ないじゃないのよ……」

 花琳は自分の膝を抱いて川べりに座り、その膝に顔を埋めてつぶやいた。足元にあった石を手に取り、見もせずに川面へと投げ込む。

 もう結構な時間ここにこうして座っているが、許靖は現れなかった。

 川は夕陽で赤く染まり、その夕日もすでに沈みかけている。

(いったい自分は何をしているのだろう)

 そう思った。

 何を期待して、お尻が痛くなるほどの時間を座っているのか。

 本当はその答えを知っているが、強い女でいるためにはそれを否定しなければならない。

(そう……私は強くないといけないんだから)

 花琳はそう思い、不必要なほどの勢いをつけて立ち上がった。寂しいという感情など、強さで払い除けなければならない。

 そこに、息を切らす音と土が蹴られる音とが聞こえてきた。

「花琳さん……!」

 その声が聞こえた途端、つい先ほどの決意が霧散してしまったのを感じた。

 振り向くと、許靖が駆けてきていた。

 かなりの汗だくで、完全に息が上がっている。どうやら花琳が見えたから走ったわけではないようだ。明らかにもっと長い距離を走っていた。

「許靖様……どうされたんですか?」

 許靖は呼吸で言葉を途切らせながら答えた。

「いや……仕事が立て込んで……遅くなりまして……もしかしたら……花琳さん……来てるかと……思って……」

 許靖は半ば倒れるようにその場へ座り込んだ。

 結構恥ずかしいことを言ってはいるが、あまりに疲労し過ぎてそれに気づいてもいないようだった。

(この人……私に会うためにこんなに走って)

 花琳は驚いた。役所からここまでかなりの距離がある。さして鍛えてもいない許靖が走れる距離ではないように思えた。

(しかも、あれから三日間わざと来なかったのに)

 花琳はそう思うと申し訳ない気持ちになった。だからお尻は痛かったが、また座ることにした。

 しばらく待っていると、許靖の呼吸は段々と落ち着いてきた。

「……いや、失礼しました。お見苦しいところを。花琳さんならあのくらい走っても、息も切らさないんでしょうね」

 許靖はそう言って、額の汗を袖で拭った。

 さすがの花琳も役所までの距離を走って息を切らさないということはありえない。

 しかし、今日の花琳はそうは答えなかった。

「私は……強いですからね」

 まるで自分に言い聞かせるような言葉だった。

 許靖はそれを聞き、花琳の瞳を真っ直ぐに見つめた。

 花琳は反射的に目を逸らした。許靖と目が合うと胸が高鳴るのに、その視線を避けたいと思った。

(この人に瞳を見られると、私の弱さを見透かされる気がする)

 それは強くなくてはならない自分にとって、恐ろしいことだった。それでは母の遺言を守れない。

 許靖は無理に花琳の瞳を見続けようとはしなかった。川の方を向き直り、水面へと視線を落とした。

 許靖は先ほど花琳がそうしていたように、石を掴んで川へと投げた。

 夕陽色の水面に円形の波紋が広がった。その波紋がゆっくりと流されていく。

 許靖はポツリとつぶやくような声を出した。

「泣きたい時には、泣いた方がいいですよ」

 花琳はそれを聞いた途端、自分の膝に顔を埋めた。許靖が来る前と全く同じ格好だ。

 しかしその時とは違い、涙が次から次へと溢れてくる。ずっと我慢して溜めていた涙が、堰を切ったように流れてきた。

 泣いていることを許靖には悟られたくないので、声は出さなかった。

 しかし許靖は気づいていただろう。それくらい、誰だって気づくはずだ。

 それでも許靖は何も言わなかったし、何もしなかった。優しい言葉をかけることも、優しく背中を撫でることもなかった。ただ、隣りに座っていた。

 花琳のことを思っていないわけではない。むしろ、ただそばにいること自体に思いやりが感じられるのだった。

(そうか……この人は私に寄り添ってくれているんだ。お母様がそうしてくれていたように、寄り添ってくれている)

 花琳にはそれが分かった。だから今、自分が不思議なほどに寂しさを感じていない理由も分かった。

(この人は私の寂しさを分かってくれる……だからこの人がいれば、私は寂しさを感じないですむ……)

 それは理屈として多分に矛盾を孕んでいるからこそ、花琳には強い真実として受け入れられた。

 花琳は泣いた。今度は声を出して、嗚咽を漏らして泣いた。

 許靖はそれに、ただ寄り添っていた。

 陽がほとんど沈みかけ、辺りが暗くなってきた頃になって花琳はようやく顔を上げた。懐から布を取り出して顔を拭う。

 ずっと待ってくれていた許靖へ何を言おうか考えていると、先に許靖の方が口を開いた。

「あっ、桜が咲いてる」

 許靖はそう言ったが、今は秋だ。

 花琳はまさかと思いながら、許靖の視線の先を目で追った。

 すると、確かに咲いていた。

 咲くはずのない秋に、一輪の桜の花弁が開いていた。

 二人は吸い寄せられるようにそちらへ向かった。そしてその美しさで心を満たし、二人で桜を愛でた。

 秋に桜が咲くのは、気象学的には不時現象と呼ばれる。種々の刺激によってまれに起こる現象だ。

 しかし今の二人には奇跡としか思えなかった。

 実際、奇跡とそう変わりはなかったろう。咲くはずのない桜が、二人に愛でられるために咲いたようなものだ。

「亡くなったお母様は、ここの桜が大好きだったんです」

 花琳は言ってから、この話をしたのは許靖が初めてであることに気がついた。母のいない寂しさが増しそうで、一度も口に出せていなかったのだ。

(でも、もういいんだ……)

 自分は今、寂しくない。母が死んで以来、初めてそう思えている。だからもう、そんなことを心配する必要などなくなったのだ。

 許靖は視線を桜から花琳へと移した。

「私もこの桜が大好きです。あなたと一緒に見ることができて、本当に良かった」

 優しく微笑む許靖を見て、花琳も全く同じことを思っていた。
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