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最終話 瞳の奥の天地

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「あなた、また服が乱れていますよ」

 花琳は夫の服に手を回して、裾と帯をピシリと引っ張った。綺麗にしわが伸び、良質な絹の光沢が朝日に映える。

「こんな年寄りの格好なんて誰も見ないよ」

 許靖はそう言ったものの、花琳に服を直されるのは好きだった。

 ただ今日は気恥ずかしいほど上等な衣装を着せられているから、妙な照れを感じるのだ。

(それこそ、こんな年寄りになってまで照れなど感じる必要はないのにな)

 そう思うと、妙な可笑しさがこみ上げてくる。

 許靖はすでに七十を過ぎていた。この時代の人間としては、もういつ死んでも長生きと言われる齢だ。

「そもそもこんな高級な服が必要かな?これでは中身と外身の価値が逆転してしまっているよ」

 許靖は普段質素に暮らしているから、今日のためのおろしたての服を見下ろすと気後れすら感じてしまう。

 しかし花琳はそんなこと気にならないようで、軽く笑って答えた。

「ちゃんと中身の価値の方が高いですよ。なんといっても、中身は司徒しとになるお方ですから」

 司徒とは古代中国における官職の一つだ。戦乱前の後漢王朝では司空しくう太尉たいいと合わせて三公と呼ばれる最高位の官職に当たる。

 三公に就任するということは、言ってみれば位人臣を極めるということだった。

 許靖は今日、その司徒に任命されることが決まっていた。そのために花琳が位に見合う服を用意したのだ。

(七年仕えて司徒か……)

 許靖が劉備の下で働き始めてから、すでに七年の月日が流れている。

 初めは左将軍長史ちょうし(将軍の副官)という役職に就かされたが、徐々に昇進して鎮軍将軍、太傅たいふ(王の補佐)などを歴任した。

 この七年の間に曹操は寿命を迎え、病に没した。

 そして劉備たちの予想通り、跡を継いだ息子の曹丕ソウヒは献帝を廃した。

 新しい国『』が成立し、曹丕はその初代皇帝として即位したのだ。

 形としては簒奪さんだつではない。曹丕は献帝の側から新皇帝として即位するよう求められ、二度辞退した後に初めて即位した。

 この場合は簒奪ではなく、禅譲ぜんじょうという。

 が、もちろん献帝は力を以ってそれを迫られたはずだから、両者に実質的な変わりはない。

 これを受け、劉備はしょくの地で皇帝に即位した。

 漢帝国の皇室の血を引くため『漢』を自称したが、歴史的にはそれまでの王朝と分けるため『蜀漢』、または単に『蜀』と言われることが多い。

 国家を一つ建てるのだから、それに応じた役職が用意されることになった。それが今回、許靖が任じられる司徒だ。

 といっても実務上必須の役職ではなく、残りの三公である司空と大尉などは設置されない予定だ。司徒も民政の最高官ということにはなるが、大きな実権があるわけではない。

「司徒だ三公だと言っても、実際にはさしたる力もない名誉職のようなものだよ」

「それでも一応は丞相じょうしょうの諸葛亮様のすぐに下になる官位でしょう?実権は小さくても発言力は小さくはないはずです」

 戦乱前の後漢王朝であれば三公が最も上に位置する官位だが、蜀漢ではその上に丞相というものが置かれている。

 丞相は官僚を統率する最高官で、現代における首相のようなものだ。後漢王朝では廃止されていた官位だったが、曹操が生前に復活させて自らが就いていた。

 蜀漢では諸葛亮が就任し、全ての分野において最高の実権を握ることとなる。あの臥龍はその叡智をいかんなく発揮することだろう。

「諸葛亮殿の次に位置するというのは、栄誉なことではあるな。あれは間違いなく歴史に名を刻む人だ」

 許靖は人とも思えない頭脳を持つ男の顔を思い浮かべ、敬愛の念を抱いた。

 許靖よりもずいぶん若いが、能力だけでなくその人柄も尊敬できる。己に厳しく人に優しい。利も貪らない。

(人の貪るものなど、龍の瞳で見れば無価値に映るのかもしれないな)

 許靖はそう感じていた。

 また、諸葛亮はいつ休んでいるのか不思議なほど常に政務に励んでいる。それは成都の民にも評判で、民のために身を粉にして働く善い官吏として慕われていた。

 しかし、花琳からすればその点が心配だった。

「でも無理はされないでくださいね。諸葛亮様と同じ様に働いたら体を壊してしまいますよ」

「大丈夫。私はもうこの齢だし、のんびりやらせてもらうよ。というか私の仕事など、誰かと世間話をすることくらいだ」

 許靖はよく人と会って話をした。そのほとんどは許靖自身が望んでやっているわけではなく、劉備や諸葛亮からの依頼によるものだった。

 許靖の人物鑑定で新たな人材を発掘したり、その人が抱えている不安や不満などを調べたりしようとしているのだ。

 そういった情報は統治には非常に重要で、劉備たちにとってこれほど有用な男もいなかった。

 また、許靖と話をした人間はその人自身も大きな満足を得られることが多かった。許靖と話をする中で、自分に合う道へと導いてもらえるのだ。

 現在の環境に不満を持つ者や、現在の己自身に不満を持つ者は少なくない。許靖はその人の特性をて、それを受け入れた上で導いてくれるのだった。

 特に若者たちはその多くがこの老人に感謝し、敬愛した。許靖もそれを喜んだ。

 花琳はそれを知っているから、もう結構な年齢になった許靖が働くことを止めはしなかった。

「あなたに瞳を見てもらった人は幸せですね」

 その最たる者は自分だと思いながら、花琳はそう言った。

「そうであれば嬉しい。月旦評をしていた頃から、ずっとそれを望んできた」

 許靖は若かりし日のことを思い返したが、この望みは今もまったく変わりがなかった。

 花琳はふと、いつか聞いてみたいと思っていたことを思い出した。

「ねぇ、あなた。あなた自身は、あなたの瞳に何も見えないんですよね?」

 花琳の言う通り、許靖は鏡を見ても自分自身の瞳の奥に「天地」は見えない。ただの黒い瞳が見えるだけだ。

「そうだよ。私は、私自身が何者かまったく分からない。若い頃はそれで悩んだこともあったが……」

「でしたら、あなたはあなた自身の「天地」が何だったらいいと思います?あなたの望む、あなたの「天地」はどんなものですか?」

「私の望む、私の「天地」……?」

 許靖は首を傾げた。

 今までそのようなことを考えたことはなかった。許靖にとって瞳の奥の「天地」とは見えるものであって、望むものではなかったからだ。

「そういう事は考えたこともなかったな」

「なら、考えてみたらいいじゃないですか。望めば、いつかその「天地」になるかもしれませんよ」

 花琳の言うことに許靖は笑った。

 いつかと言われても、許靖はもう七十過ぎなのだ。

「この齢で今さら望んでもな」

「そんな事はありません。先月から道場に入門した方で、八十近い方がいらっしゃいます。その方は日々鍛錬を行いながら、自分が望む自分になっていくのが楽しいとおっしゃっていましたよ」

 さすがに許靖は驚いた。

 七十を過ぎた自分は体のあちこちに不調が出ているし、思うように動かなくなってきた。それが、その人はさらに十年近く齢を重ねているのだ。

「八十を前にして武術を始めるか……尊敬してしまうな」

「そうなんです。それでその方自身、満足されています。望むことに早いも遅いもありません。きっと望めば、少しでもそれに近づけるはずです。だから思い描いて、望んでみましょうよ」

 許靖は花琳の言う通りだと思った。

 だから、自分の望む「天地」を真剣に思い描いてみた。

「そうだな、私が望む「天地」は……」

 許靖は真剣に、時に笑いながらそれを話した。花琳も真剣に、時に笑いながらそれを聞いてくれた。

 話は盛り上がり、あまりに盛り上がり過ぎたため、許靖はなんと司徒の拝命式に遅刻してしまうのだった。


****************


 人は皆、瞳の奥に「天地」を持つ。

 その「天地」の有り様は、何を望むかで変わってくる。望んで行動すれば、きっとその「天地」に少しでも近づくはずだ。

 自分が認められない自分であることほど苦しいことはない。だから誰かに承認されることを求めてしまうのだ。

 筆者はこれを読んでくれた人の「天地」が少しでも望むものに近づけるよう祈りつつ、感謝とともにこの稿をいったん閉じることにする。
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