182 / 391
蜀
劉備陣営
しおりを挟む
「劉備様、夜襲の準備が整いました。予定通り、実行させてよろしいでしょうか?」
軍議の席でそう確認したのは、諸葛亮だった。
すらりとした長身で、齢は三十を少し過ぎた頃なのでまだ若い。その若輩者は、歴戦の武将たちが居並ぶ劉備軍の中でも特に大きな発言力を持っていた。
その事に関し、疑問に思う者は誰もいない。諸葛亮はそれだけのものを示してきたのだ。
どんな頭をしているのか、誰も思いつかないような策を示し、その多くで考えられないような成功を得てきた。
ただ頭が良いだけではない。実行力があり、しかも人柄が良い。公明正大で、己の利を貪らない。誰もが諸葛亮を認めていた。
が、別に諸葛亮が言うことに誰も文句を言わないわけではない。劉備の軍営では、例え相手が劉備であっても思ったことは口にできるような風土が作られていた。
「夜襲で忍び込んで門を開けるのもいいけどよ、もっと思いっきりぶつかって負かした方がこの後言うこと聞くんじゃねぇかな」
ぶっきらぼうな口調でそう言ったのは、張飛だった。
いったんは軍議で通った夜襲ではあったが、張飛はその時も難色を示していた。
張飛は強いが、小手先の戦術よりも力技を好む。逆に力技であれば誰にも負けないだろう。
(だが、それでも戦後のことを考えるようになっている。先日も罠を使って巴郡を落としたというし、随分大人になったものだ)
劉備は義弟の成長を感じたが、かくいう自分も随分齢を取った。
自分と関羽と張飛、三人いれば何でも出来るのだと、若い頃はそう思っていた。しかし、自分は多くの人間に助けられて今ここにいられる。
益州の首都たる成都城は、完全に劉備軍に包囲されていた。
他の城も主要なものはそのほとんどを落としている。ここまでくれば、勝利はそう遠くないと言っても過言ではないだろう。
ただし油断はできない。
成都にはまだ三万の兵と一年以上の食料があるという情報だった。それに籠城されては、こちらの体力にも不安が生じる。
(三万の兵はともかく、それを城内の民とともに一年以上食わせるだけの食料とは……劉璋め、一体どんな妖術を使ったのだ)
劉備は驚きを通り越して、半ば呆れてしまった。
「よっぽど食うのが好きなおっさんなんじゃねぇか?」
張飛はそんな軽口を叩いて笑っていたが、現実を思えば洒落にもならない。
その張飛は夜襲に関し、隣りに座る同僚へ同意を求めた。
「なぁ趙雲、お前もそう思うだろ?」
「私は劉備様のご決定に従うまでだ」
趙雲は腕を組み、目を閉じてそう答えるだけだった。
その様子は重厚、と表現するのが最も相応しいだろう。趙雲は真面目すぎるほど真面目な性格で、忠義心と胆力の塊だ。
劉備は張飛に笑いかけて諭した。
「お前の言うことはもっともだが、成功すれば被害は少なくて済む。それも大切なことだ」
「兄貴よ、そりゃまぁ兵の被害はそうだろうが……夜襲で城内へ攻め込むとなると、民の被害は大きいぜ?」
それが張飛の本音だった。女子供や病人など、非戦闘員のことを考えて渋っているのだ。
張飛をただの荒い男だと思っている者も多かったが、劉備からするとこれほど優しい男も他にいなかった。
確かに兵には厳しいが、民には優しい。下手に教養があって礼儀正しい官吏ほど、民の被害を美辞麗句でごまかしてしまうものだ。
中国でいう城は、日本の城とは全く違う。一般的に、街一つをぐるりと高い城壁で囲んだ物が城だ。城内へ攻め込むということは、民の生活する街が戦場になるということだった。
兵が城内に攻め込めば、当たり前のことだが非戦闘員も多く傷つけられることになる。それは視界の悪い夜間であれば特に酷くなるだろうし、略奪や虐殺を行う兵も増えるはずだ。
戦後、益州を治めるつもりである劉備は、当然略奪や虐殺を禁止している。しかし戦の現場において、全ての兵にそれを守らせることなど出来はしない。
そして残念ながら、略奪を期待して戦力になる兵を拒めるほどの余裕も、その方策ない。
どの群雄もそうだろう。食うか食われるかの争いをしているのだ。
諸葛亮のように頭の良い男でも、この張飛の発言には月並みな回答しかできなかった。
「兵たちには無駄に民を傷つけた場合、厳罰に処す旨を改めて通達して下さい。また目的外の行動を取らせないよう、それぞれに具体的な指示を与えて下さい。私も始めに忍び込む五百名は担当を分け、どの場所を狙うか繰り返し指導しました」
張飛もこの点に関してはこれ以上議論しても仕方がないと思ったのだろう。それ以上は何も言わなかった。
代わりに劉備が尋ねた。
「五百も、本当に忍び込めるだろうか?」
「城壁の一区画まるごとがこちらへ呼応してくれることになっておりますので、その約束さえ違えられなければ可能かと。それに五百人入れば城門を攻めるだけでなく、食料庫と要人の居住区画を攻められます」
「食料と要人、か」
劉備は髭を撫でながら思料した。
確かに食料、要人の守りは優先度の高いものだ。少なくとも無視はできないだろう。
諸葛亮は説明を続ける。
「はい。そうすれば敵の対応も混乱して、城門も開けやすくなるかと思われます。それに最悪、城門を開けることに失敗しても、食料を焼くか要人の多くを仕留めることが出来れば降伏が期待できます」
「食料庫、要人の居住区画の場所は確実に掴めているのだな?」
「捕らえた複数の兵から同じ証言が得られているので、まず間違いないかと」
「ふむ……」
劉備はまた目を閉じて三度髭を撫で、それから静かに目を開いた。
「いいだろう、夜襲の実行を命じる。各々、抜かるなよ」
軍議の席でそう確認したのは、諸葛亮だった。
すらりとした長身で、齢は三十を少し過ぎた頃なのでまだ若い。その若輩者は、歴戦の武将たちが居並ぶ劉備軍の中でも特に大きな発言力を持っていた。
その事に関し、疑問に思う者は誰もいない。諸葛亮はそれだけのものを示してきたのだ。
どんな頭をしているのか、誰も思いつかないような策を示し、その多くで考えられないような成功を得てきた。
ただ頭が良いだけではない。実行力があり、しかも人柄が良い。公明正大で、己の利を貪らない。誰もが諸葛亮を認めていた。
が、別に諸葛亮が言うことに誰も文句を言わないわけではない。劉備の軍営では、例え相手が劉備であっても思ったことは口にできるような風土が作られていた。
「夜襲で忍び込んで門を開けるのもいいけどよ、もっと思いっきりぶつかって負かした方がこの後言うこと聞くんじゃねぇかな」
ぶっきらぼうな口調でそう言ったのは、張飛だった。
いったんは軍議で通った夜襲ではあったが、張飛はその時も難色を示していた。
張飛は強いが、小手先の戦術よりも力技を好む。逆に力技であれば誰にも負けないだろう。
(だが、それでも戦後のことを考えるようになっている。先日も罠を使って巴郡を落としたというし、随分大人になったものだ)
劉備は義弟の成長を感じたが、かくいう自分も随分齢を取った。
自分と関羽と張飛、三人いれば何でも出来るのだと、若い頃はそう思っていた。しかし、自分は多くの人間に助けられて今ここにいられる。
益州の首都たる成都城は、完全に劉備軍に包囲されていた。
他の城も主要なものはそのほとんどを落としている。ここまでくれば、勝利はそう遠くないと言っても過言ではないだろう。
ただし油断はできない。
成都にはまだ三万の兵と一年以上の食料があるという情報だった。それに籠城されては、こちらの体力にも不安が生じる。
(三万の兵はともかく、それを城内の民とともに一年以上食わせるだけの食料とは……劉璋め、一体どんな妖術を使ったのだ)
劉備は驚きを通り越して、半ば呆れてしまった。
「よっぽど食うのが好きなおっさんなんじゃねぇか?」
張飛はそんな軽口を叩いて笑っていたが、現実を思えば洒落にもならない。
その張飛は夜襲に関し、隣りに座る同僚へ同意を求めた。
「なぁ趙雲、お前もそう思うだろ?」
「私は劉備様のご決定に従うまでだ」
趙雲は腕を組み、目を閉じてそう答えるだけだった。
その様子は重厚、と表現するのが最も相応しいだろう。趙雲は真面目すぎるほど真面目な性格で、忠義心と胆力の塊だ。
劉備は張飛に笑いかけて諭した。
「お前の言うことはもっともだが、成功すれば被害は少なくて済む。それも大切なことだ」
「兄貴よ、そりゃまぁ兵の被害はそうだろうが……夜襲で城内へ攻め込むとなると、民の被害は大きいぜ?」
それが張飛の本音だった。女子供や病人など、非戦闘員のことを考えて渋っているのだ。
張飛をただの荒い男だと思っている者も多かったが、劉備からするとこれほど優しい男も他にいなかった。
確かに兵には厳しいが、民には優しい。下手に教養があって礼儀正しい官吏ほど、民の被害を美辞麗句でごまかしてしまうものだ。
中国でいう城は、日本の城とは全く違う。一般的に、街一つをぐるりと高い城壁で囲んだ物が城だ。城内へ攻め込むということは、民の生活する街が戦場になるということだった。
兵が城内に攻め込めば、当たり前のことだが非戦闘員も多く傷つけられることになる。それは視界の悪い夜間であれば特に酷くなるだろうし、略奪や虐殺を行う兵も増えるはずだ。
戦後、益州を治めるつもりである劉備は、当然略奪や虐殺を禁止している。しかし戦の現場において、全ての兵にそれを守らせることなど出来はしない。
そして残念ながら、略奪を期待して戦力になる兵を拒めるほどの余裕も、その方策ない。
どの群雄もそうだろう。食うか食われるかの争いをしているのだ。
諸葛亮のように頭の良い男でも、この張飛の発言には月並みな回答しかできなかった。
「兵たちには無駄に民を傷つけた場合、厳罰に処す旨を改めて通達して下さい。また目的外の行動を取らせないよう、それぞれに具体的な指示を与えて下さい。私も始めに忍び込む五百名は担当を分け、どの場所を狙うか繰り返し指導しました」
張飛もこの点に関してはこれ以上議論しても仕方がないと思ったのだろう。それ以上は何も言わなかった。
代わりに劉備が尋ねた。
「五百も、本当に忍び込めるだろうか?」
「城壁の一区画まるごとがこちらへ呼応してくれることになっておりますので、その約束さえ違えられなければ可能かと。それに五百人入れば城門を攻めるだけでなく、食料庫と要人の居住区画を攻められます」
「食料と要人、か」
劉備は髭を撫でながら思料した。
確かに食料、要人の守りは優先度の高いものだ。少なくとも無視はできないだろう。
諸葛亮は説明を続ける。
「はい。そうすれば敵の対応も混乱して、城門も開けやすくなるかと思われます。それに最悪、城門を開けることに失敗しても、食料を焼くか要人の多くを仕留めることが出来れば降伏が期待できます」
「食料庫、要人の居住区画の場所は確実に掴めているのだな?」
「捕らえた複数の兵から同じ証言が得られているので、まず間違いないかと」
「ふむ……」
劉備はまた目を閉じて三度髭を撫で、それから静かに目を開いた。
「いいだろう、夜襲の実行を命じる。各々、抜かるなよ」
0
お気に入りに追加
46
あなたにおすすめの小説
校長室のソファの染みを知っていますか?
フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。
しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。
座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
大和型戦艦4番艦 帝国から棄てられた船~古(いにしえ)の愛へ~
花田 一劫
歴史・時代
東北大地震が発生した1週間後、小笠原清秀と言う青年と長岡与一郎と言う老人が道路巡回車で仕事のために東北自動車道を走っていた。
この1週間、長岡は震災による津波で行方不明となっている妻(玉)のことを捜していた。この日も疲労困憊の中、老人の身体に異変が生じてきた。徐々に動かなくなる神経機能の中で、老人はあることを思い出していた。
長岡が青年だった頃に出会った九鬼大佐と大和型戦艦4番艦桔梗丸のことを。
~1941年~大和型戦艦4番艦111号(仮称:紀伊)は呉海軍工廠のドックで船を組み立てている作業の途中に、軍本部より工事中止及び船の廃棄の命令がなされたが、青木、長瀬と言う青年将校と岩瀬少佐の働きにより、大和型戦艦4番艦は廃棄を免れ、戦艦ではなく輸送船として生まれる(竣工する)ことになった。
船の名前は桔梗丸(船頭の名前は九鬼大佐)と決まった。
輸送船でありながらその当時最新鋭の武器を持ち、癖があるが最高の技量を持った船員達が集まり桔梗丸は戦地を切り抜け輸送業務をこなしてきた。
その桔梗丸が修理のため横須賀軍港に入港し、その時、長岡与一郎と言う新人が桔梗丸の船員に入ったが、九鬼船頭は遠い遥か遠い昔に長岡に会ったような気がしてならなかった。もしかして前世で会ったのか…。
それから桔梗丸は、兄弟艦の武蔵、信濃、大和の哀しくも壮絶な最後を看取るようになってしまった。
~1945年8月~日本国の降伏後にも関わらずソビエト連邦が非道極まりなく、満洲、朝鮮、北海道へ攻め込んできた。桔梗丸は北海道へ向かい疎開船に乗っている民間人達を助けに行ったが、小笠原丸及び第二号新興丸は既にソ連の潜水艦の攻撃の餌食になり撃沈され、泰東丸も沈没しつつあった。桔梗丸はソ連の潜水艦2隻に対し最新鋭の怒りの主砲を発砲し、見事に撃沈した。
この行為が米国及びソ連国から(ソ連国は日本の民間船3隻を沈没させ民間人1.708名を殺戮した行為は棚に上げて)日本国が非難され国際問題となろうとしていた。桔梗丸は日本国から投降するように強硬な厳命があったが拒否した。しかし、桔梗丸は日本国には弓を引けず無抵抗のまま(一部、ソ連機への反撃あり)、日本国の戦闘機の爆撃を受け、最後は無念の自爆を遂げることになった。
桔梗丸の船員のうち、意識のないまま小島(宮城県江島)に一人生き残された長岡は、「何故、私一人だけが。」と思い悩み、残された理由について、探しの旅に出る。その理由は何なのか…。前世で何があったのか。与一郎と玉の古の愛の行方は…。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
戦国の華と徒花
三田村優希(または南雲天音)
歴史・時代
武田信玄の命令によって、織田信長の妹であるお市の侍女として潜入した忍びの於小夜(おさよ)。
付き従う内にお市に心酔し、武田家を裏切る形となってしまう。
そんな彼女は人並みに恋をし、同じ武田の忍びである小十郎と夫婦になる。
二人を裏切り者と見做し、刺客が送られてくる。小十郎も柴田勝家の足軽頭となっており、刺客に怯えつつも何とか女児を出産し於奈津(おなつ)と命名する。
しかし頭領であり於小夜の叔父でもある新井庄助の命令で、於奈津は母親から引き離され忍びとしての英才教育を受けるために真田家へと送られてしまう。
悲嘆に暮れる於小夜だが、お市と共に悲運へと呑まれていく。
※拙作「異郷の残菊」と繋がりがありますが、単独で読んでも問題がございません
【他サイト掲載:NOVEL DAYS】
滝川家の人びと
卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した
若き日の滝川一益と滝川義太夫、
尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として
天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が
からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。
剣客居酒屋 草間の陰
松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇
江戸情緒を添えて
江戸は本所にある居酒屋『草間』。
美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。
自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。
多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。
その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。
店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる