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姉弟

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 春鈴シュンレイは弟のことを思いきり殴ってやるつもりだった。そのつもりで拳を構え、前に突き出したのだ。

(当たる)

 春鈴は半ば確信を持って右腕にかかる衝撃に備えた。

 武術における打撃とは、物理的には物と物がぶつかっているに過ぎない。作用があれば反作用があるわけで、それに備えた上で打ち込まなければ自分の体を痛めてしまう。

 しかし、その備えは杞憂に終わった。自分の最速で繰り出した拳は空を切り、弟の許游キョユウは液体が揺れるような動きでぬらりと身をかわした。

(気持ち悪い動き!)

 春鈴は悔しさも相まって、心の中で罵倒してやった。

 許游の上半身はまるで軟体化したかのような動きを見せている。それに少し遅れた形で下半身がついてきて、春鈴のやや斜め右に立ち位置をずらした。

 追撃しづらい絶妙な位置だった。

 もう少し離れていたら突きや蹴りを繰り出したし、近ければ膝や肘を出しただろう。また、もう少し右なら突き出した拳を回して裏拳にしたし、左なら左の突きを放ったはずだ。

 しかし、そのどれもがやりづらい、そんな位置に立たれた。

 春鈴は舌打ちしたいような気分になりながら、無造作に後ろへ下がった。

 相手に攻撃の意思があれば、追い打ちしたくなるような隙の多い下がり方だ。誘ったのだ。

 許游が追いかけてくれば鍛え上げた下半身に物を言わせ、後退を一瞬で前進に切り替えて反撃を食らわせる。攻撃してくる相手の力を利用した反撃は強力だし、春鈴の得意とするところだった。

 が、許游は追ってこない。力を抜いた半身で、ただこちらを眺めているだけだ。

「……あんたねぇ、やる気あるの!?」

 春鈴はしびれを切らして怒声を上げた。

 今の動きだけではない。許游は組手を始めてからずっとまともに仕掛けてこず、出してくる手は最低限の牽制程度だ。

 二人は道場の中央で組み手をしている。祖母である花琳が審判だ。

 道場には三人の他には誰もいない。先ほどまでは生徒たちであふれていたが、すでに武術教室の時間は終わって全員帰っていた。

 今は春鈴の希望で、追加の鍛錬として組手を行っている。

 許游は頭を掻きながら、ため息をついた。

「そうは言うけど姉さん、三日後には見合いだろう?アザなんか作ったら大変じゃないか」

 春鈴と許游はもう十五になった。結婚の早い時代だから、見合いの話が来ても何ら不思議はない。

 春鈴は苦いものでも噛んだような顔をした。それを吐き出すように口を開く。

「見合い見合いって、男一人と会うだけでしょ?別に私は結婚なんてしないんだから、どうだっていいじゃない」

 許游は困り顔で祖母を見た。

 しかし花琳は何を考えているのか、無言でうなずくだけだった。

(仕方ない……って感じかな?そういえば、花琳ばあ様も見合いを破断にしまくってたっていうし)

 この祖母にして、この姉ありか。

 許游はそう思いながらあらためて姉へと目を向けた。

「姉さんは自覚ないかもしれないけどさ、結構美人で有名なんだよ?俺も友達から何度か紹介頼まれたし。要は中身がバレなきゃいいんだから、そのキレイな顔で黙って澄ましてたら見合いも上手くいくんじゃ……って、うぉわっ!」

 台詞の後半から駆け出した姉に渾身の跳び蹴りを放たれた許游は、間一髪でそれをかわした。

 しかし、攻撃はそれだけでは終わらない。着地と同時に下段回し蹴りが繰り出され、それを跳んでかわすと次には突き上げるような掌底が襲ってくる。

 許游は腕を交差させてそれを受けたが、跳んだ勢いもあって後ろにかなり飛ばされた。そこへさらに拳、蹴りが次々に繰り出される。

 激しい連撃に辟易しながら、許游は情けない声を上げた。

「ちょ、ちょっと待って……」

「待たないわよ!中身がバレなきゃって、どういう意味よ!?」

「いや、俺は姉さんが美人だって褒めようとしただけで……」

「あんたの褒め方にはいつも悪意がある!」

 春鈴は憎たらしい弟めがけて矢継ぎ早に攻撃を繰り返した。許游はなんとかそれを防ぎ続ける。

 花琳はその攻防を眺めながら、一人感心していた。

(言い合ってることは他愛もない姉弟喧嘩だけど……二人とも結構な強さになったわね。もしかしたら中華最強の姉弟喧嘩かもしれないわ)

 花琳がそう感じているのも無理はない。

 この双子はまだ齢十五という若者だったが、武術に関しては軍人でもなかなかいないほどの強さに練り上がっている。

 それはそうだろう。物心ついた頃から花琳が鍛え上げてきたのだ。強くならない方がおかしい。

 今の攻撃も相手が許游でなければ、十数人は倒せているはずだ。

 花琳には、息子の許欽キョキンに武術を教えておけばよかったという後悔がある。もしそうしていれば、きっとあれほど若くして死ぬことはなかった。

 そう思えば、孫たちを鍛えないという選択肢はあり得なかった。

(それにしても本当に強くなったわね。特に春鈴は本気で組手できる相手を探すのが難しいほどだわ)

 実際、道場でもそれは一つの悩みだった。

 春鈴の実力はすでに師範代である凜風リンプウ翠蘭スイランと比べても遜色ない。母である芽衣でも、酒が入らなければ確実に勝てるかどうか微妙なところだった。

 もちろんその攻撃を四苦八苦とはいえ捌き続けている許游も強い。とはいえ、道場での序列は春鈴の方が上だった。

(でも……游は絶対に本気を出そうとしない。底が見えないのは、むしろ游の方ね)

 花琳から見ると、許游は組手をしてもどこか適当なところで負けようとしているように思えた。

 そもそも許游からは相手を倒そうという気概が感じられない。

 鍛錬に積極的で上達を喜ぶ春鈴に比べ、許游はあまり武術自体に好感がないように思えた。というよりも、人を傷つけること自体に本能的な恐怖を持っているようだった。

(父親に似たのね……)

 許游の父、花琳の息子である許欽もそうだった。それで花琳は武術を教えず、息子は矢で射られて死んだ。

 だから許游には武術を教えた。多少嫌がっても、技術は教え込んだ。

 そして今の許游なら、普通の矢くらいかわすことも、叩き落とすことも、何なら掴むことだって出来るだろう。許游の攻撃を防ぐ技術は相当なものだった。

 とはいえ、春鈴の怒涛の連撃をただ受け続けるのはさすがにきついようだ。だんだんと追い詰められていく。

 春鈴の掌底で体勢が崩れた所に金的が繰り出された。

 男としてこれだけは食らってはいけない。許游は手を下にやって防いだ。

 が、その手の平に当たった蹴りは妙に軽い。そちらは囮で、次の瞬間には反対の足が許游の顔面を襲っていた。

 許游は体を反らせて上段の回し蹴りをかわそうとしたが、かわしきれない。かろうじて腕を上げ直撃は防いだが、その衝撃で大きく後ろに倒れた。

 そこで花琳の手がパンパンと二度叩かれた。組手の終了を告げる合図だ。

(今の蹴りも……本当に避けられなかったのかしら?)

 花琳は倒された許游に対してそう感じたが、口には出さなかった。

 そもそもあまり好きでないものを本人の意思に反してやらせている手前、無理にやる気を出せと言うつもりはない。

 春鈴はつまらなさそうに弟を見下ろしながら鼻を鳴らした。

「ふん、少しは反撃しなさいよ。手応えがないじゃない。それにアザができたって、顔以外なら別にいいじゃない」

「姉さん知らないのか?結婚したら相手には裸を見せ……げふぅ!」

 春鈴の蹴りが許游のみぞおちに突き刺さった。

 許游としては何ら悪気のあることを言ったつもりはなかったのだが、何か気に触ったらしい。

「私はね、自分より弱い男とは結婚しないって決めてるんだから。聞いたら今度の見合い相手、もやしっ子らしいじゃない。なんかいいとこの人らしいけど、どうせそんな男とは結婚しないわよ」

(じゃあ虎ぐらいとしか結婚できないな)

 許游は心の中だけでそう言ってやった。

 実際に口には出さなかったのは先ほどの蹴りでうまく息ができなかったのと、二度目の蹴りを食らうのが恐ろしかったからだ。

 花琳は微妙な表情で孫娘の顔を見た。そういえば若い頃の自分には、そんな噂が流れていたことを思い出したのだ。

(私に勝てば結婚できると聞いた人たちが手合わせを望んで来ていたわね。あの時はなんの冗談かと思っていたけど、まさか孫が現実にそんな娘になるなんて……)

 花琳はそっとため息をついた。

 春鈴は許游とは対象的に、武術が性に合っているようだ。それはそれで嬉しいのだが、ここまでは望んでいない。

(あの人が『春鈴は波の高い外海、許游は凪いだ内海』と言っていたけど、同じ海でも随分違うものね)

 あの人、とはもちろん許靖のことだ。

 祖父の見た孫二人の瞳の奥の「天地」は共に海だったが、似たもの姉弟とは言い難い。

「春鈴。お相手のお父様は張松チョウショウ様といって、別駕従事べつがじゅうじ(刺史の属吏の長官)という結構な官職に就かれている方よ。『なんかいいとこの人』なんて言い方は良くないわ」

「はい。ごめんなさい」

 春鈴は素直に謝った。

 このお転婆娘は尊敬する祖母の言う事ならよく聞いた。

「それに……確かにお相手は強い方ではないみたいだけど、あなたとは合うかもしれないとおじい様がおっしゃっていたわよ」

 そう言われると、春鈴もあまり文句が言えない。祖父の人物鑑定の確かさはよく知っているからだ。

「靖じい様がそう言うなら、そうかもしれないけど……」

 二人が話しているうちにようやく呼吸が戻った許游が起き上がり、花琳に尋ねた。

「靖じい様はお相手の瞳に何を見たんだろう?姉さんが『海』だから、それに合う何かなんだよね」

 花琳はうなずいて答えた。

「『魚』だって言ってたわ。確か……ナマズだったかしら?」

「なるほど。水と魚なら相性は抜群だ」

 許游は祖父の判断に合点がいった。

 ちなみに親しい関係を表す故事成語に『水魚の交わり』というものがあるが、ちょうどこの時代に劉備が諸葛亮に関して述べた言葉が元になっている。

 確かに水と魚なら合いそうだ。許游も花琳もそう思った。

 しかし、春鈴だけが妙な顔をして首を傾げている。

 それに気づいた花琳が尋ねた。

「春鈴?どうかしたの?」

「いや……ナマズって、川や池の魚だよね?」

 花琳と許游は顔を見合わせた。

 春鈴の言う通り、ナマズは淡水魚だ。一部ナマズ目で海に生きる魚もいないではないが、基本的にナマズといえば川や池、沼などに生息している。

 許游と花琳は順番につぶやきを落とした。

「淡水魚が海水に放り込まれたら……」

「……死ぬわね」
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