上 下
142 / 391
交州

兄と祖父

しおりを挟む
「私の荷物で間違いありません。お祖父様の名前が入った物もいくつかの見受けられますし」

 陳祗チンシは兵の詰め所で並べられた物品を一つ一つ確認してから、そう断言した。

 どれも祖父の看病中に盗まれた物だ。貴重品など一部の荷物は欠けているが、少しでも帰ってきたこと自体は嬉しかった。

 しかし、陳祗の表情からは晴れやかなものは一切感じられない。むしろ表情を消すことで暗い気持ちを隠しているようだった。

 許靖の見る瞳の奥の「天地」でも、太陽が雲に隠れている。

 並べられた盗品の向こうには、治安を担当する兵が立っている。その兵が念を押すように陳祗へ問いかけた。

「では、この女が君とお祖父様の荷物を盗んだということで間違いないね?全部この女が持っていた物なのだから」

 兵は少し離れた柱を指さした。

 そこには縄で縛られた女が繋がれている。

 二十歳そこそこという年齢だろうか。なかなか整った顔立ちをしているが、縛られる時に暴れでもしたのだろう、今は髪も衣服も乱れて憐れな様子になっていた。

「宿屋のご主人が君たちの荷物を覚えていてね。それを持っていた女を見かけて通報してくれたんだ。後で改めてお礼を言っておきなさい」

 その話は宿屋の主人からも聞いている。

 思えば祖父が亡くなった時にもあれこれと世話を焼いてくれた。宿泊者が体調を崩し、あまつさえ亡くなるなど宿にとっては厄介事でしかなかろうに、随分と人の好い主人だった。

「……お久しぶりです」

 陳祗は兵ではなく、女へ向かって頭を下げた。

 この女には見覚えがある。祖父が体調を崩した直前に、食事を馳走した女だ。

 あの時は盗難にあって困っているという話だったが、今は逆に盗人として捕縛されている。

 女は陳祗の方を見ようとせず、床の一点へ視線を固定させていた。

 体の筋肉を固め、まるで岩にでもなったかのように身動き一つしない。実際、岩になれるならそうしたかっただろう。

 陳祗は女の暗い顔をしばらく無言で見つめていた。

 なんの感情も読み取れないその視線は、むしろどこか遠くを見ているようでさえあった。

 それからやがて意を決したようにうなずくと、兵の方へと向き直った。

「これらは全てこの女性に差し上げたものです。盗まれたわけではないので、開放してあげてください」

 兵だけでなく、同席していた許靖も花琳も驚いて陳祗を見た。表情を消したその顔からは何も読み取れなかったが、どう考えても明らかな嘘だと分かる。

 女の顔はまだ床の方を向いてはいたが、驚きに目が見開かれていた。

 兵は冗談だとでも思ったのか、半ば笑いながら確認した。

「何を言ってるんだ。君は一度、荷物を盗まれたと言って我々に相談してきたはずだ。記録が残っている」

「私の思い違いでした。全て祖父がこの方に差し上げたものです」

「……この中にはどう考えても人にあげるようなものではない貴重品や、身分を示すような物品まである。適当な嘘をつくのはやめなさい」

「祖父にはおっちょこちょいなところがありますので。一部は間違えて渡してしまったのだと思います」

 陳祗は兵の目を真っ直ぐに見返して答えた。目に力を込め、全くそらそうとしない。

 それで兵の方も陳祗の意図と意志をよく理解できた。

「……陳祗君、といったね。我々は公の任務に就いているのだから、私情でもって人を裁くわけにはいかない。あくまで被害者がいるから加害者を捕縛できるわけだ。君が『被害は無かった』と言ってしまうと、我々は何もできないんだよ」

「何もしていただく必要はありません。私の勘違いでお手間をかけてしまい、申し訳ございませんでした」

 陳祗は深々と頭を下げた。

 兵はその下げられたまま上がらない頭を困ったように見下ろしていたが、やがてゆっくりとため息をついた。

 それから気だるそうに口を開く。

「……少なくとも、間違えてあげてしまった物はきちんと回収しておきなさい。この女も銭に変えられなさそうな物はもらっても仕方ないはずだ」

 女の顔はまだ床を向いていたが、予想だにしなかった展開に呆然としている。

 それから陳祗は重ねて兵に詫びと礼とを伝え、必要な荷物を回収して兵の詰め所から出て行った。

 その後ろには許靖と花琳だけではなく、縄をかけられていた女も一緒にいる。

 詰め所から出た女は呆然とした顔に少しずつ表情を取り戻し、頬を段々と紅潮させていった。

 そして、眉を釣り上げて陳祗を睨みつけた。

「……どういうつもり?あたしはあんたみたいなガキに同情されたわけ?」

 女の声は周囲の目を気にしてか、静かなものだった。しかし明らかに怒りに満ちている。

 許靖が女の瞳の奥の「天地」を見ると、そこにはアザミの花が咲いていた。

 アザミは美しく、景色の良い花だが棘が多い。触れようとすれば傷つけられる。

(少し攻撃的なところがある女性だな。扱いに気をつけないと、刺されそうだ)

 許靖はそう感じた。

 女の質問には陳祗ではなく、花琳が答えた。

「同情を引いて食事をご馳走になるのは構わないけども、同情で罪を庇ってもらうのは嫌なんですか?」

 女は怒りの眼差しを花琳の方へと向けた。花琳は冷ややかな目でそれを見返す。

 許靖は女二人の視線の間に立っていたので、体中に火花を浴びたような気持ちになった。

 ただ、許靖には女の感情の出どころが分かる気がした。

(相手を騙してかすめ取る分には自分の立場が上だが、同情で助けてもらうのは自分の方が下になってしまう。そういう事だろう)

 それが人として正しい事かどうかはさておき、許靖はそういった人間を今まで多く見てきた。

 不毛な自己顕示欲だが、人によっては大切だと思う者もいるのだろう。

 陳祗は許靖と並んで立ち、女二人の間に立っていさかいを止めようとした。

「やめてください。私はただ、お祖父様ならどうしただろうかと考えて行動しただけです。お祖父様は女性に対してはとにかく優しい方でしたから」

 その言葉で、許靖は先ほどの陳祗の言動に納得ができた。

(確かに兄上ならそうするだろうな。女性というだけで、理屈抜きに守ろうとする人だったからな)

 しかし、女の方は陳祗の言葉により自尊心を傷つけられたらしい。

「あんたの爺さんはよほど女を見下しているのね。それとも馬鹿にしてるのかしら」

 陳祗は女を不思議な生き物を見るような目で見た。

「女を見下す?馬鹿にする?……その感覚は私によく分かりませんが、お祖父様は決してそのような事を思う人ではありませんよ」

「はっ!女に優しい男なんてもんは皆そうなんだよ。女が下だと思ってるから、自分の気分を良くするために優しくしようとする。あたしにはそれが我慢できないんだよ!だからそんな男はみんな騙して奪ってやるんだ!」

 女は語調を激しくし、明らかな敵意を陳祗へ向けた。

 しかし、陳祗は女の言っていることがいよいよ理解できないといった風に眉根を寄せた。

「お祖父様が女性に優しくするのはそんな理由ではありません」

「じゃあ、何でそうするっていうのよ?」

 女はそう尋ねたが、どんなに難しく哲学的な答えを返されてもすぐに言い返せる自信があった。

(どんな男も同じだ。結局は男が上で女が下だっていう勘違いを心の底に敷いて生きている)

 そう考えている女へ、陳祗は言葉に実感を込めて放った。

「何でって……それは私のお祖父様が、女性のことが大大大大大大大大大大大大大大大大大っ好きだからです」

「……えーっと」

 女はすぐに言い返そうと思ったが、あまりに馬鹿らしい回答を返されてすぐに言葉が浮かばなかった。

 困惑する女に構わず、陳祗は祖父の話を続けた。

「お祖父様の女好きは並大抵のものではありません。女性であれば、老いも美醜も性格も関係ないのです。女性が女性であるというだけで、お祖父様には全て最上の価値がある。だから女性には優しくするのです」

 女はやはり返答に困った。馬鹿もそこまで振り切られると、逆に何を言っていいか分からない。

「お祖父様にとって女性は見下すどころか、むしろ雲の上、天と同等に位置するような存在です。馬鹿になどするわけがありせん。それだけ女性が大好きなのです」

「そ、そう……」

 女は陳祗へかろうじてそれだけを言えた。

(アザミの棘が、空振ったな)

 許靖は女の様子を見てそんな感想を持った。

 しかし、女も少年相手にこのまま引き下がるのはしゃくだった。

 やはり何か言い返してやろうと思って思考を巡らせている所へ、陳祗が太陽のような笑顔を向けてきた。

「そして、女性が好きだという感情は私にも遺伝されています。だから、私はあなたのことが好きです。大好きです。あなたが幸せになってくれればいいと思っています。だからそんなに怒らず、笑っていてください」

 面と向かい、曇りのない眩しい笑顔で好きだと言われた女は心臓を強く拍動させた。十をいくつか過ぎた程度の少年を相手に、心を狼狽うろたえさせてしまっている。

 怒りで紅潮していた女の頬は、相変わらず赤いままだった。しかし、今は別の感情で赤くなっているように思える。

 花琳はそのやり取りを見ながら片頬を引きつらせていた。

 許靖も末恐ろしいほどに魅力的な少年の笑顔に、もはや苦笑するしかない。

 ただそれでも、もう会うことのできない兄の残影がここにいる気がして嬉しくも感じるのだった。
しおりを挟む
感想 14

あなたにおすすめの小説

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―

三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】 明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。 維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。 密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。 武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。 ※エブリスタでも連載中

クロワッサン物語

コダーマ
歴史・時代
 1683年、城塞都市ウィーンはオスマン帝国の大軍に包囲されていた。  第二次ウィーン包囲である。  戦況厳しいウィーンからは皇帝も逃げ出し、市壁の中には守備隊の兵士と市民軍、避難できなかった市民ら一万人弱が立て籠もった。  彼らをまとめ、指揮するウィーン防衛司令官、その名をシュターレンベルクという。  敵の数は三十万。  戦況は絶望的に想えるものの、シュターレンベルクには策があった。  ドナウ河の水運に恵まれたウィーンは、ドナウ艦隊を蔵している。  内陸に位置するオーストリア唯一の海軍だ。  彼らをウィーンの切り札とするのだ。  戦闘には参加させず、外界との唯一の道として、連絡も補給も彼等に依る。  そのうち、ウィーンには厳しい冬が訪れる。  オスマン帝国軍は野営には耐えられまい。  そんなシュターレンベルクの元に届いた報は『ドナウ艦隊の全滅』であった。  もはや、市壁の中にこもって救援を待つしかないウィーンだが、敵軍のシャーヒー砲は、連日、市に降り注いだ。  戦闘、策略、裏切り、絶望──。  シュターレンベルクはウィーンを守り抜けるのか。  第二次ウィーン包囲の二か月間を描いた歴史小説です。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

処理中です...