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交州
珍しい男
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「すまなかった」
隊長からの報告を聞き終わった曹操の第一声はそれだった。
「お前たちのような優秀な兵をつけるべき男ではなかった。私の判断の誤りだ。許せ」
主君として軽々に頭を下げるわけにはいかなかったが、それでも曹操は目礼して謝罪の意を示した。
隊長は恐縮して体を小さくし、深く頭を下げる。
「いえ、力及ばず申し訳ございません」
「結果に関しては張翔が一義的に責任を負う。護衛のお前たちが気にすることはない」
「はっ」
曹操の言葉に隊長はさらに深く頭を下げた。この人のこういった所がたまらなく好きだった。
曹操は文武芸術あらゆる才を持ち、加えて部下が身を呈してでも守りたくなるような魅力を備えている。
隊長はこの乱世を終わらせられるのは曹操だけだと確信していた。
「そもそも虎豹騎を行かせたのが間違いだったな。親衛隊の方が士燮殿への誠意が伝わるだろうという意見があったからだが、士燮殿が評判通りの男ならそんなことは気にすまい。私から挨拶があったという事実だけあれば、それを上手く使う男だ」
「私の印象もおっしゃる通りでした」
隊長の同意に曹操はうなずき返したが、心の中では別のことを考えていた。
(もし許靖殿が来てくれていれば、人事のことが抜群に改善するはずだったのだが……)
人の上に立つ者として、許靖の能力は喉から手が出るほどに欲しくなるものだった。
袁徽から荀彧へ許靖を推薦するような手紙が届いたという話を聞いた時は、小躍りするほどに嬉しく思ったものだ。
しかし、そこに許靖の意志はなかった。
(現実はこんなものだろう)
ため息をつきたい気分ではあったが、部下の前なのでそれは控えた。
こういった現実を一つ一つ地道に潰した結果が今の曹操だ。一つ思い通りにならなくても、これからも現実に向き合っていくだけだった。
曹操は帝を擁し、中華でも有数の力を持った群雄の一人になっている。
が、それでも現実は厳しい。まだまだ四方に敵は多く、先は長そうだ。
己の足元から伸びる長大な道を漠然と想像しながら、ふと思ったことを尋ねた。
「そういえば、許靖殿の奥方はそれほどまでに強かったのか?何年か前に会った時でも、すでにかなりの手練だと感じたが」
隊長は自嘲気味に笑った。実際に自分は勝てなかったのだ。
「化物ですね。まぁ、曹操様の軍勢には許褚様や徐晃様、曹仁様など人間とも思えない方が多くいらっしゃいますが」
「あいつらと並べられるとは、よほどのものだな。それこそ奥方だけでも招きたいほどだ」
そこで曹操は花琳の茶の香りを思い出した。
「奥方とは戦っただけなのか?茶は振る舞われなかったか?」
「茶、ですか。残念ながらそのような機会はありませんでした」
「そうか。では長旅の労いに、後で茶を淹れてやろう。美味いぞ。その奥方の直伝だ」
隊長はまた恐縮して頭を下げた。曹操が美味いというのだからよほど期待していいだろう。曹操は感性が豊かで、ものの良し悪しをよく見分ける。
そこで隊長はふと思い出して尋ねた。
「そういえば、張翔の処分はいかがなりましょうか?」
どうでもいいような男だったが、あれに今後ものさばられては皆が迷惑する。処遇が気になるのは確かだった。
「あぁ、あれか……押しが強いから初見の相手でも強引に近づけると聞いていたのだ。だから外交に使ってみたが、完全に失敗だったな」
「……」
隊長はなんとも言いようがなかった。
確かに言われてみれば、張翔は持ち前の強引さで誰彼構わず友好的に話しかけていた。それで仲良くなった交州の役人もおり、許靖のことさえなければ案外悪くなかったのかもしれない。
しかし自分も命じられて手伝ったとはいえ、結果としてありえない事をしでかしてしまっている。
曹操は顎を撫でながら、どうでもいいといった感じで答えた。
「とりあえず今後、歴史にはあの男の名が一切残らないようにしよう」
曹操の発言通り、史書・正史三国志において張翔の名はこの一件以外どこにも出てこない。どこか一箇所だけというのは、他にはあまり例のないことだ。
それはそれで、珍しい男ではあった。
隊長からの報告を聞き終わった曹操の第一声はそれだった。
「お前たちのような優秀な兵をつけるべき男ではなかった。私の判断の誤りだ。許せ」
主君として軽々に頭を下げるわけにはいかなかったが、それでも曹操は目礼して謝罪の意を示した。
隊長は恐縮して体を小さくし、深く頭を下げる。
「いえ、力及ばず申し訳ございません」
「結果に関しては張翔が一義的に責任を負う。護衛のお前たちが気にすることはない」
「はっ」
曹操の言葉に隊長はさらに深く頭を下げた。この人のこういった所がたまらなく好きだった。
曹操は文武芸術あらゆる才を持ち、加えて部下が身を呈してでも守りたくなるような魅力を備えている。
隊長はこの乱世を終わらせられるのは曹操だけだと確信していた。
「そもそも虎豹騎を行かせたのが間違いだったな。親衛隊の方が士燮殿への誠意が伝わるだろうという意見があったからだが、士燮殿が評判通りの男ならそんなことは気にすまい。私から挨拶があったという事実だけあれば、それを上手く使う男だ」
「私の印象もおっしゃる通りでした」
隊長の同意に曹操はうなずき返したが、心の中では別のことを考えていた。
(もし許靖殿が来てくれていれば、人事のことが抜群に改善するはずだったのだが……)
人の上に立つ者として、許靖の能力は喉から手が出るほどに欲しくなるものだった。
袁徽から荀彧へ許靖を推薦するような手紙が届いたという話を聞いた時は、小躍りするほどに嬉しく思ったものだ。
しかし、そこに許靖の意志はなかった。
(現実はこんなものだろう)
ため息をつきたい気分ではあったが、部下の前なのでそれは控えた。
こういった現実を一つ一つ地道に潰した結果が今の曹操だ。一つ思い通りにならなくても、これからも現実に向き合っていくだけだった。
曹操は帝を擁し、中華でも有数の力を持った群雄の一人になっている。
が、それでも現実は厳しい。まだまだ四方に敵は多く、先は長そうだ。
己の足元から伸びる長大な道を漠然と想像しながら、ふと思ったことを尋ねた。
「そういえば、許靖殿の奥方はそれほどまでに強かったのか?何年か前に会った時でも、すでにかなりの手練だと感じたが」
隊長は自嘲気味に笑った。実際に自分は勝てなかったのだ。
「化物ですね。まぁ、曹操様の軍勢には許褚様や徐晃様、曹仁様など人間とも思えない方が多くいらっしゃいますが」
「あいつらと並べられるとは、よほどのものだな。それこそ奥方だけでも招きたいほどだ」
そこで曹操は花琳の茶の香りを思い出した。
「奥方とは戦っただけなのか?茶は振る舞われなかったか?」
「茶、ですか。残念ながらそのような機会はありませんでした」
「そうか。では長旅の労いに、後で茶を淹れてやろう。美味いぞ。その奥方の直伝だ」
隊長はまた恐縮して頭を下げた。曹操が美味いというのだからよほど期待していいだろう。曹操は感性が豊かで、ものの良し悪しをよく見分ける。
そこで隊長はふと思い出して尋ねた。
「そういえば、張翔の処分はいかがなりましょうか?」
どうでもいいような男だったが、あれに今後ものさばられては皆が迷惑する。処遇が気になるのは確かだった。
「あぁ、あれか……押しが強いから初見の相手でも強引に近づけると聞いていたのだ。だから外交に使ってみたが、完全に失敗だったな」
「……」
隊長はなんとも言いようがなかった。
確かに言われてみれば、張翔は持ち前の強引さで誰彼構わず友好的に話しかけていた。それで仲良くなった交州の役人もおり、許靖のことさえなければ案外悪くなかったのかもしれない。
しかし自分も命じられて手伝ったとはいえ、結果としてありえない事をしでかしてしまっている。
曹操は顎を撫でながら、どうでもいいといった感じで答えた。
「とりあえず今後、歴史にはあの男の名が一切残らないようにしよう」
曹操の発言通り、史書・正史三国志において張翔の名はこの一件以外どこにも出てこない。どこか一箇所だけというのは、他にはあまり例のないことだ。
それはそれで、珍しい男ではあった。
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