上 下
137 / 391
交州

珍しい男

しおりを挟む
「すまなかった」

 隊長からの報告を聞き終わった曹操の第一声はそれだった。

「お前たちのような優秀な兵をつけるべき男ではなかった。私の判断の誤りだ。許せ」

 主君として軽々に頭を下げるわけにはいかなかったが、それでも曹操は目礼して謝罪の意を示した。

 隊長は恐縮して体を小さくし、深く頭を下げる。

「いえ、力及ばず申し訳ございません」

「結果に関しては張翔が一義的に責任を負う。護衛のお前たちが気にすることはない」

「はっ」

 曹操の言葉に隊長はさらに深く頭を下げた。この人のこういった所がたまらなく好きだった。

 曹操は文武芸術あらゆる才を持ち、加えて部下が身を呈してでも守りたくなるような魅力を備えている。

 隊長はこの乱世を終わらせられるのは曹操だけだと確信していた。

「そもそも虎豹騎を行かせたのが間違いだったな。親衛隊の方が士燮殿への誠意が伝わるだろうという意見があったからだが、士燮殿が評判通りの男ならそんなことは気にすまい。私から挨拶があったという事実だけあれば、それを上手く使う男だ」

「私の印象もおっしゃる通りでした」

 隊長の同意に曹操はうなずき返したが、心の中では別のことを考えていた。

(もし許靖殿が来てくれていれば、人事のことが抜群に改善するはずだったのだが……)

 人の上に立つ者として、許靖の能力は喉から手が出るほどに欲しくなるものだった。

 袁徽から荀彧ジュンイクへ許靖を推薦するような手紙が届いたという話を聞いた時は、小躍りするほどに嬉しく思ったものだ。

 しかし、そこに許靖の意志はなかった。

(現実はこんなものだろう)

 ため息をつきたい気分ではあったが、部下の前なのでそれは控えた。

 こういった現実を一つ一つ地道に潰した結果が今の曹操だ。一つ思い通りにならなくても、これからも現実に向き合っていくだけだった。

 曹操は帝を擁し、中華でも有数の力を持った群雄の一人になっている。

 が、それでも現実は厳しい。まだまだ四方に敵は多く、先は長そうだ。

 己の足元から伸びる長大な道を漠然と想像しながら、ふと思ったことを尋ねた。

「そういえば、許靖殿の奥方はそれほどまでに強かったのか?何年か前に会った時でも、すでにかなりの手練だと感じたが」

 隊長は自嘲気味に笑った。実際に自分は勝てなかったのだ。

「化物ですね。まぁ、曹操様の軍勢には許褚キョチョ様や徐晃ジョコウ様、曹仁ソウジン様など人間とも思えない方が多くいらっしゃいますが」

「あいつらと並べられるとは、よほどのものだな。それこそ奥方だけでも招きたいほどだ」

 そこで曹操は花琳の茶の香りを思い出した。

「奥方とは戦っただけなのか?茶は振る舞われなかったか?」

「茶、ですか。残念ながらそのような機会はありませんでした」

「そうか。では長旅の労いに、後で茶を淹れてやろう。美味いぞ。その奥方の直伝だ」

 隊長はまた恐縮して頭を下げた。曹操が美味いというのだからよほど期待していいだろう。曹操は感性が豊かで、ものの良し悪しをよく見分ける。

 そこで隊長はふと思い出して尋ねた。

「そういえば、張翔の処分はいかがなりましょうか?」

 どうでもいいような男だったが、あれに今後ものさばられては皆が迷惑する。処遇が気になるのは確かだった。

「あぁ、あれか……押しが強いから初見の相手でも強引に近づけると聞いていたのだ。だから外交に使ってみたが、完全に失敗だったな」

「……」

 隊長はなんとも言いようがなかった。

 確かに言われてみれば、張翔は持ち前の強引さで誰彼構わず友好的に話しかけていた。それで仲良くなった交州の役人もおり、許靖のことさえなければ案外悪くなかったのかもしれない。

 しかし自分も命じられて手伝ったとはいえ、結果としてありえない事をしでかしてしまっている。

 曹操は顎を撫でながら、どうでもいいといった感じで答えた。

「とりあえず今後、歴史にはあの男の名が一切残らないようにしよう」

 曹操の発言通り、史書・正史三国志において張翔の名はこの一件以外どこにも出てこない。どこか一箇所だけというのは、他にはあまり例のないことだ。

 それはそれで、珍しい男ではあった。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

令嬢の名門女学校で、パンツを初めて履くことになりました

フルーツパフェ
大衆娯楽
 とある事件を受けて、財閥のご令嬢が数多く通う女学校で校則が改訂された。  曰く、全校生徒はパンツを履くこと。  生徒の安全を確保するための善意で制定されたこの校則だが、学校側の意図に反して事態は思わぬ方向に?  史実上の事件を元に描かれた近代歴史小説。

信忠 ~“奇妙”と呼ばれた男~

佐倉伸哉
歴史・時代
 その男は、幼名を“奇妙丸”という。人の名前につけるような単語ではないが、名付けた父親が父親だけに仕方がないと思われた。  父親の名前は、織田信長。その男の名は――織田信忠。  稀代の英邁を父に持ち、その父から『天下の儀も御与奪なさるべき旨』と認められた。しかし、彼は父と同じ日に命を落としてしまう。  明智勢が本能寺に殺到し、信忠は京から脱出する事も可能だった。それなのに、どうして彼はそれを選ばなかったのか? その決断の裏には、彼の辿って来た道が関係していた――。  ◇この作品は『小説家になろう(https://ncode.syosetu.com/n9394ie/)』『カクヨム(https://kakuyomu.jp/works/16818093085367901420)』でも同時掲載しています◇

富嶽を駆けよ

有馬桓次郎
歴史・時代
★☆★ 第10回歴史・時代小説大賞〈あの時代の名脇役賞〉受賞作 ★☆★ https://www.alphapolis.co.jp/prize/result/853000200  天保三年。  尾張藩江戸屋敷の奥女中を勤めていた辰は、身長五尺七寸の大女。  嫁入りが決まって奉公も明けていたが、女人禁足の山・富士の山頂に立つという夢のため、養父と衝突しつつもなお深川で一人暮らしを続けている。  許婚の万次郎の口利きで富士講の大先達・小谷三志と面会した辰は、小谷翁の手引きで遂に富士山への登拝を決行する。  しかし人目を避けるために選ばれたその日程は、閉山から一ヶ月が経った長月二十六日。人跡の絶えた富士山は、五合目から上が完全に真冬となっていた。  逆巻く暴風、身を切る寒気、そして高山病……数多の試練を乗り越え、無事に富士山頂へ辿りつくことができた辰であったが──。  江戸後期、史上初の富士山女性登頂者「高山たつ」の挑戦を描く冒険記。

KAKIDAMISHI -The Ultimate Karate Battle-

ジェド
歴史・時代
1894年、東洋の島国・琉球王国が沖縄県となった明治時代―― 後の世で「空手」や「琉球古武術」と呼ばれることとなる武術は、琉球語で「ティー(手)」と呼ばれていた。 ティーの修業者たちにとって腕試しの場となるのは、自由組手形式の野試合「カキダミシ(掛け試し)」。 誇り高き武人たちは、時代に翻弄されながらも戦い続ける。 拳と思いが交錯する空手アクション歴史小説、ここに誕生! ・検索キーワード 空手道、琉球空手、沖縄空手、琉球古武道、剛柔流、上地流、小林流、少林寺流、少林流、松林流、和道流、松濤館流、糸東流、東恩流、劉衛流、極真会館、大山道場、芦原会館、正道会館、白蓮会館、国際FSA拳真館、大道塾空道

JKがいつもしていること

フルーツパフェ
大衆娯楽
平凡な女子高生達の日常を描く日常の叙事詩。 挿絵から御察しの通り、それ以外、言いようがありません。

近衛文麿奇譚

高鉢 健太
歴史・時代
日本史上最悪の宰相といわれる近衛文麿。 日本憲政史上ただ一人、関白という令外官によって大権を手にした異色の人物にはミステリアスな話が多い。 彼は果たして未来からの転生者であったのだろうか? ※なろうにも掲載

劉禅が勝つ三国志

みらいつりびと
歴史・時代
中国の三国時代、炎興元年(263年)、蜀の第二代皇帝、劉禅は魏の大軍に首府成都を攻められ、降伏する。 蜀は滅亡し、劉禅は幽州の安楽県で安楽公に封じられる。 私は道を誤ったのだろうか、と後悔しながら、泰始七年(271年)、劉禅は六十五歳で生涯を終える。 ところが、劉禅は前世の記憶を持ったまま、再び劉禅として誕生する。 ときは建安十二年(207年)。 蜀による三国統一をめざし、劉禅のやり直し三国志が始まる。 第1部は劉禅が魏滅の戦略を立てるまでです。全8回。 第2部は劉禅が成都を落とすまでです。全12回。 第3部は劉禅が夏候淵軍に勝つまでです。全11回。 第4部は劉禅が曹操を倒し、新秩序を打ち立てるまで。全8回。第39話が全4部の最終回です。

処理中です...