上 下
123 / 391
交州

蜜蜂と花

しおりを挟む
凜風リンプウ。集中できないなら筋力の鍛錬か、体を柔らかくする鍛錬をしていなさい。技の鍛錬は集中力を欠くと、動きがおかしくなって変な癖がつきます」

「……はい」

 花琳に自分の精神状態をずばり指摘され、凜風は力なく返事をした。

 言われた通り道場の隅へ行き、腕立てを始めた。最近は道場に来てもずっとこんな調子だ。

 今日こそは翠蘭スイランが来ているのではないかと期待して顔を出すが、やはり来ていない。それで落ち込み、まともな鍛錬ができない。

 一度、翠蘭の自宅へも行ってみたが、使用人らしい老婆に門前払いをくってしまった。凜風が来たら追い払うよう、あらかじめ言われていたようだった。

 きっと翠蘭の父親がそう命じていたのだと思う。それならば別に構わない。大した問題ではない。

(だけど、もし……もし翠蘭自身がそう望んでいたとしたら)

 そう思うと、胸の中が黒く塗り潰されたような気分になった。

 あの可愛い妹に拒絶されるなど、耐えられることではない。毎日のようにその恐怖に襲われ、家でもふさぎ込むことが多かった。

 今日は父の趙奉チョウホウも道場へ来ている。

 花琳に兵を鍛えてもらうためだと言って部下を連れて来ていたが、きっと凜風の道場での様子を見に来たのだろう。ここの所、娘が暗くなっているのを鬱陶しいほどに心配していた。そういう父親だ。

 今日も道場へ入るなりため息をつく娘を、明らかに気にかけていた。さすがに部下を前にして何も言いはしなかったが。

 腕立てを終えて立ち上がると、大きく息が乱れていた。

 翠蘭がいなくても道場で鍛錬すること自体は嫌ではない。少なくとも、息を乱している間はため息は出ないからだ。

 だから、いつも少し無理をしてしまう。体を痛めつけていた方が翠蘭のことを忘れていられる。

「お姉様」

 自分を呼ぶ翠蘭の声が聞こえた気がした。どうせ幻聴だろう。幻の翠蘭など、辛いだけだ。

 凜風はそう思い、少し間隔は短いがもう一度腕立てを始めようとした。

「お姉様」

 また幻聴が聞こえてきた。なかなかしつこい幻聴だ。凜風は無視して両手を床につけた。

「お姉様は……私のことが嫌いになってしまいましたか?」

 幻聴とはいえ、なんてことを言うんだ。自分が翠蘭のことを嫌いになんてなるわけがないじゃないか。

 凜風はそう思って幻を振り返ると、そこには妙に現実感の強い幻が悲しそうな目をして佇んでいた。

「……翠蘭?」

 凜風は我が目を疑った。そこにいるのはどうやら幻ではなく、本物の翠蘭らしい。

「翠蘭!」

 凜風は跳ねるようにして翠蘭へ飛びついた。

 翠蘭はその勢いを支えきれず、短い悲鳴を上げて床へ押し倒されてしまう。

 そんな翠蘭の胸に、凜風は顔をうずめた。少し泣いてしまったのを隠すためだ。

 だが、うずめられた翠蘭の方は堂々と涙目になっていた。

「もう、お姉様は相変わらずですね」

「だって……もう翠蘭と会えないのかと思ってたから」

 凜風の声は胸に顔をうずめていたので少しくぐもっていた。

 翠蘭にはそんな姉の様子がたまらなく愛おしい。

「ずっと来られなくてごめんなさい。私も本当は来たかったのですが……」

「そうだ翠蘭、顔を怪我は大丈夫?」

 凜風は跳び起きて翠蘭の顔をまじまじと見た。

 左頬のあざは、もうほとんど消えている。言われなければ分からないほどだ。

「この通り、もう大丈夫ですわ。そもそもそれほど大した怪我じゃなかったんですよ。昔から傷はきれいに消える方ですし」

 凜風は胸を撫で下ろした。可愛い妹の顔に傷など残しては一大事だと、ずっと心配していたのだ。

 久しぶりの再会を喜んでいる二人のところへ、花琳と許靖がやって来た。今日は許靖も運動のためということで、道場に顔を出している。

「翠蘭、よく来てくれたわね。私も嬉しいわ。でも、お父様のご許可はいただいているの?」

 翠蘭は曖昧に笑ってから頭を下げた。

「花琳先生、長い間お休みして申し訳ありません。毎回は来られないかもしれませんが、今日からまたよろしくお願いいたします」

 許靖は翠蘭の瞳の奥で、ナデシコの花がしおれるように頭を垂れるのを見た。

(何か隠し事があるな……思っていたほど感情の分からない娘というわけではなさそうだな)

 そう思った。

 瞳の奥の「天地」が見えない花琳でも、翠蘭が隠し事をしているのが分かっただろう。

 花琳は内心で多少の躊躇をしたが、何も言わずに翠蘭の参加を受け入れることにした。

「……せっかく久しぶりに来たんだから、今日は新しい技を教えましょうか。翠蘭、家でもちゃんと鍛錬はしていた?」

「はい。花琳先生に言われた通り、特に足腰の鍛錬は怠りませんでした」

「えらいわね。今日教える技は、決まったらとっても気持ちがいいわよ」

 凜風と翠蘭は、花琳の言葉に目を輝かせた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

妻がエロくて死にそうです

菅野鵜野
大衆娯楽
うだつの上がらないサラリーマンの士郎。だが、一つだけ自慢がある。 美しい妻、美佐子だ。同じ会社の上司にして、できる女で、日本人離れしたプロポーションを持つ。 こんな素敵な人が自分のようなフツーの男を選んだのには訳がある。 それは…… 限度を知らない性欲モンスターを妻に持つ男の日常

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

劉禅が勝つ三国志

みらいつりびと
歴史・時代
中国の三国時代、炎興元年(263年)、蜀の第二代皇帝、劉禅は魏の大軍に首府成都を攻められ、降伏する。 蜀は滅亡し、劉禅は幽州の安楽県で安楽公に封じられる。 私は道を誤ったのだろうか、と後悔しながら、泰始七年(271年)、劉禅は六十五歳で生涯を終える。 ところが、劉禅は前世の記憶を持ったまま、再び劉禅として誕生する。 ときは建安十二年(207年)。 蜀による三国統一をめざし、劉禅のやり直し三国志が始まる。 第1部は劉禅が魏滅の戦略を立てるまでです。全8回。 第2部は劉禅が成都を落とすまでです。全12回。 第3部は劉禅が夏候淵軍に勝つまでです。全11回。 第4部は劉禅が曹操を倒し、新秩序を打ち立てるまで。全8回。第39話が全4部の最終回です。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

夢の終わり ~蜀漢の滅亡~

久保カズヤ
歴史・時代
「───────あの空の極みは、何処であろうや」  三国志と呼ばれる、戦国時代を彩った最後の英雄、諸葛亮は五丈原に沈んだ。  蜀漢の皇帝にして、英雄「劉備」の血を継ぐ「劉禅」  最後の英雄「諸葛亮」の志を継いだ「姜維」  ── 天下統一  それを志すには、蜀漢はあまりに小さく、弱き国である。  国を、民を背負い、後の世で暗君と呼ばれることになる劉禅。  そして、若き天才として国の期待を一身に受ける事になった姜維。  二人は、沈みゆく祖国の中で、何を思い、何を目指し、何に生きたのか。  志は同じであっても、やがてすれ違い、二人は、離れていく。  これは、そんな、覚めゆく夢を描いた、寂しい、物語。 【 毎日更新 】 【 表紙は hidepp(@JohnnyHidepp) 様に描いていただきました 】

異世界日本軍と手を組んでアメリカ相手に奇跡の勝利❕

naosi
歴史・時代
大日本帝国海軍のほぼすべての戦力を出撃させ、挑んだレイテ沖海戦、それは日本最後の空母機動部隊を囮にアメリカ軍の輸送部隊を攻撃するというものだった。この海戦で主力艦艇のほぼすべてを失った。これにより、日本軍首脳部は本土決戦へと移っていく。日本艦隊を敗北させたアメリカ軍は本土攻撃の中継地点の為に硫黄島を攻略を開始した。しかし、アメリカ海兵隊が上陸を始めた時、支援と輸送船を護衛していたアメリカ第五艦隊が攻撃を受けった。それをしたのは、アメリカ軍が沈めたはずの艦艇ばかりの日本の連合艦隊だった。   この作品は個人的に日本がアメリカ軍に負けなかったらどうなっていたか、はたまた、別の世界から来た日本が敗北寸前の日本を救うと言う架空の戦記です。

大東亜戦争を有利に

ゆみすけ
歴史・時代
 日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を

【全話挿絵】発情✕転生 〜何あれ……誘ってるのかしら?〜【毎日更新】

墨笑
ファンタジー
『エロ×ギャグ×バトル+雑学』をテーマにした異世界ファンタジー小説です。 主人公はごく普通(?)の『むっつりすけべ』な女の子。 異世界転生に伴って召喚士としての才能を強化されたまでは良かったのですが、なぜか発情体質まで付与されていて……? 召喚士として様々な依頼をこなしながら、無駄にドキドキムラムラハァハァしてしまう日々を描きます。 明るく、楽しく読んでいただけることを目指して書きました。

処理中です...