114 / 391
交州
寒と暑
しおりを挟む
「ほう、あなたが許靖殿でしたか。袁渙からあなたのことは聞き及んでいます。名高い月旦評は虚名ではない、と」
城から新しい住居へと案内される道中、許靖は袁徽を見かけて声をかけた。
「私も袁渙から袁徽殿のお話しはうかがっています。深い造詣を持った儒学者でいらっしゃる、と」
「あいつのことだ、私の事を頑固者の変人とも言っていたでしょう。あいつ自身も変に頑固なところがある癖に」
袁徽はそう言って笑い、許靖も笑った。袁渙は真面目で働き者の善人だが、確かに変に頑固な所がある。
許靖は笑いながら、二人から三歩離れたところで静かに二人の様子を見ている少女に目を向けた。歳は十代の前半から半ばだろうか。
袁徽はその視線に気付き、すぐに紹介してくれた。
「紹介が遅れました。娘の翠蘭です。ちょうど娘を連れて市へ向かう途中でしてな。私のように家族と共に避難している者が多いのですよ」
娘は美しい挙祖でお辞儀をし、静かな声で挨拶をした。
「翠蘭でございます。何かとお世話になることもあろうかと存じます。よしなにお付き合いくださいませ」
(さすがは高名な儒学者である袁徽殿の娘だな。まだ若いのに、見事な礼儀作法だ)
許靖はそう思い、思った通りを袁徽へ伝えた。
「いやいや、娘などまだまだですよ」
そう謙遜する袁徽だったが、娘を褒められてまんざらでもないようだった。
瞳の奥の「天地」である冬の湖畔には、明るい日差しが差し込んでいる。きっと自慢の娘なのだろう。
「一人娘でしてな。子がこの子だけなもので、手を抜かず教育してきたつもりではあります」
(なるほど、一人娘か。それは可愛かろう)
許靖は厳しい袁徽の意外な一面を見た気がした。
ただし、しつけ具合を見ると娘にも厳しく接しているようなので、袁徽の中だけの太陽なのだろう。
許靖は翠蘭の瞳にも目をやった。そこにはたおやかに咲く一輪のナデシコが佇んでいる。
ナデシコは別名を洛陽花とも言う。
(なるほど、交州ではあまり見られない洛陽の女性だ)
女性と言うにはまだ幼かったが、おそらく教養は大人顔負けなのだろう。
太守が教化に勤しまなければならない交州では、あまりお目にかかれそうにない少女だった。
「許靖殿、共にこの交州に儒学の火を灯しましょうぞ」
袁徽は許靖の手を握り、そのように言い残して去って行った。
一部の現地人から嫌われていても、袁徽自身は信念をもって働いているのがよく分かった。
***************
袁徽と別れてからまたしばらく行くと、今度は袁徽の仇敵、趙奉に出会った。
趙奉も一人の少女を連れている。
許靖から話しかけると、向こうも許靖のことを聞いているようだった。
「あんたが許靖殿か。どっかの誰かさんと違って、ずいぶん人格者だと聞いてるよ。よろしく頼む」
そう言って右手を差し出した。
許靖はその手をしっかりと握ったが、この手はどっかの誰かさんについ先ほど握られた手だ。笑顔がやや固くなったかもしれない。
「こちらこそ、よろしくお願いします。士燮様が趙奉殿は優秀な兵だとおっしゃっていました。そういった方が身近にいることを心強く思います」
趙奉は許靖の言葉を素直に喜んだ。
その笑顔が明るくて、兵の中でも趙奉は好かれているのだろうとよく分かった。
趙奉は連れていた少女を指した。
「こっちは娘の凜風だ。美人だろう」
そう言って趙奉は娘の頭をわしわしと撫でた。
凜風はその手を鬱陶しそうに払いのけ、髪の毛を直しながら頭を下げてくる。
「凜風です。よろしく」
凜風は齢の頃、十代前半から半ばといったところだろう。翠蘭とほぼ同年代だ。
ただ翠蘭とは対照的に礼儀作法などあまり気にしないようで、挨拶もざっくばらんとしたものだった。その代わり、立ち居振る舞いから明るく俊敏な少女なのだろうと感じられた。
許靖は凜風の瞳に目をやった。
(瞳の奥の「天地」は、蜜蜂か……活発に蜜を集めているな。活動的で、生産的な活動を好む子だろう)
そんなことを感じた。
「一人娘でな、甘やかしたせいか最近はずいぶんと反抗的になってきた」
趙奉はそう言ってまた娘の頭を撫でようとしたが、素早くかわされて右手が空を切った。
趙奉は気にした様子もなく言葉を続ける。
「それでもこうやって市について来てくれるんだからな。可愛い娘だよ」
「新しい服を買ってくれるって言うからついて来ただけだよ。本当なら一人で行きたいんだけど」
そんな娘の言葉を、趙奉は明るく笑って吹き飛ばした。
趙奉の瞳の奥の「天地」では、中心に据えられた篝火がより一層明るく輝いている。
(袁徽殿も趙奉殿も、一人娘が可愛いことには違いはない。人間なんてものは、根本は皆同じだ。仲良くできれば良いものだが……)
許靖は心中でため息をついた。
そんなことは露とも気付かない趙奉は、笑顔で片腕を上げて去って行った。
袁徽も趙奉も行き先は市だ。
許靖はまたひと悶着なければよいがと、無駄な気苦労を一つ背負ってから歩き出した。
城から新しい住居へと案内される道中、許靖は袁徽を見かけて声をかけた。
「私も袁渙から袁徽殿のお話しはうかがっています。深い造詣を持った儒学者でいらっしゃる、と」
「あいつのことだ、私の事を頑固者の変人とも言っていたでしょう。あいつ自身も変に頑固なところがある癖に」
袁徽はそう言って笑い、許靖も笑った。袁渙は真面目で働き者の善人だが、確かに変に頑固な所がある。
許靖は笑いながら、二人から三歩離れたところで静かに二人の様子を見ている少女に目を向けた。歳は十代の前半から半ばだろうか。
袁徽はその視線に気付き、すぐに紹介してくれた。
「紹介が遅れました。娘の翠蘭です。ちょうど娘を連れて市へ向かう途中でしてな。私のように家族と共に避難している者が多いのですよ」
娘は美しい挙祖でお辞儀をし、静かな声で挨拶をした。
「翠蘭でございます。何かとお世話になることもあろうかと存じます。よしなにお付き合いくださいませ」
(さすがは高名な儒学者である袁徽殿の娘だな。まだ若いのに、見事な礼儀作法だ)
許靖はそう思い、思った通りを袁徽へ伝えた。
「いやいや、娘などまだまだですよ」
そう謙遜する袁徽だったが、娘を褒められてまんざらでもないようだった。
瞳の奥の「天地」である冬の湖畔には、明るい日差しが差し込んでいる。きっと自慢の娘なのだろう。
「一人娘でしてな。子がこの子だけなもので、手を抜かず教育してきたつもりではあります」
(なるほど、一人娘か。それは可愛かろう)
許靖は厳しい袁徽の意外な一面を見た気がした。
ただし、しつけ具合を見ると娘にも厳しく接しているようなので、袁徽の中だけの太陽なのだろう。
許靖は翠蘭の瞳にも目をやった。そこにはたおやかに咲く一輪のナデシコが佇んでいる。
ナデシコは別名を洛陽花とも言う。
(なるほど、交州ではあまり見られない洛陽の女性だ)
女性と言うにはまだ幼かったが、おそらく教養は大人顔負けなのだろう。
太守が教化に勤しまなければならない交州では、あまりお目にかかれそうにない少女だった。
「許靖殿、共にこの交州に儒学の火を灯しましょうぞ」
袁徽は許靖の手を握り、そのように言い残して去って行った。
一部の現地人から嫌われていても、袁徽自身は信念をもって働いているのがよく分かった。
***************
袁徽と別れてからまたしばらく行くと、今度は袁徽の仇敵、趙奉に出会った。
趙奉も一人の少女を連れている。
許靖から話しかけると、向こうも許靖のことを聞いているようだった。
「あんたが許靖殿か。どっかの誰かさんと違って、ずいぶん人格者だと聞いてるよ。よろしく頼む」
そう言って右手を差し出した。
許靖はその手をしっかりと握ったが、この手はどっかの誰かさんについ先ほど握られた手だ。笑顔がやや固くなったかもしれない。
「こちらこそ、よろしくお願いします。士燮様が趙奉殿は優秀な兵だとおっしゃっていました。そういった方が身近にいることを心強く思います」
趙奉は許靖の言葉を素直に喜んだ。
その笑顔が明るくて、兵の中でも趙奉は好かれているのだろうとよく分かった。
趙奉は連れていた少女を指した。
「こっちは娘の凜風だ。美人だろう」
そう言って趙奉は娘の頭をわしわしと撫でた。
凜風はその手を鬱陶しそうに払いのけ、髪の毛を直しながら頭を下げてくる。
「凜風です。よろしく」
凜風は齢の頃、十代前半から半ばといったところだろう。翠蘭とほぼ同年代だ。
ただ翠蘭とは対照的に礼儀作法などあまり気にしないようで、挨拶もざっくばらんとしたものだった。その代わり、立ち居振る舞いから明るく俊敏な少女なのだろうと感じられた。
許靖は凜風の瞳に目をやった。
(瞳の奥の「天地」は、蜜蜂か……活発に蜜を集めているな。活動的で、生産的な活動を好む子だろう)
そんなことを感じた。
「一人娘でな、甘やかしたせいか最近はずいぶんと反抗的になってきた」
趙奉はそう言ってまた娘の頭を撫でようとしたが、素早くかわされて右手が空を切った。
趙奉は気にした様子もなく言葉を続ける。
「それでもこうやって市について来てくれるんだからな。可愛い娘だよ」
「新しい服を買ってくれるって言うからついて来ただけだよ。本当なら一人で行きたいんだけど」
そんな娘の言葉を、趙奉は明るく笑って吹き飛ばした。
趙奉の瞳の奥の「天地」では、中心に据えられた篝火がより一層明るく輝いている。
(袁徽殿も趙奉殿も、一人娘が可愛いことには違いはない。人間なんてものは、根本は皆同じだ。仲良くできれば良いものだが……)
許靖は心中でため息をついた。
そんなことは露とも気付かない趙奉は、笑顔で片腕を上げて去って行った。
袁徽も趙奉も行き先は市だ。
許靖はまたひと悶着なければよいがと、無駄な気苦労を一つ背負ってから歩き出した。
0
お気に入りに追加
46
あなたにおすすめの小説
妻がエロくて死にそうです
菅野鵜野
大衆娯楽
うだつの上がらないサラリーマンの士郎。だが、一つだけ自慢がある。
美しい妻、美佐子だ。同じ会社の上司にして、できる女で、日本人離れしたプロポーションを持つ。
こんな素敵な人が自分のようなフツーの男を選んだのには訳がある。
それは……
限度を知らない性欲モンスターを妻に持つ男の日常
GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲
俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。
今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。
「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」
その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。
当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!?
姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。
共に
第8回歴史時代小説参加しました!
劉禅が勝つ三国志
みらいつりびと
歴史・時代
中国の三国時代、炎興元年(263年)、蜀の第二代皇帝、劉禅は魏の大軍に首府成都を攻められ、降伏する。
蜀は滅亡し、劉禅は幽州の安楽県で安楽公に封じられる。
私は道を誤ったのだろうか、と後悔しながら、泰始七年(271年)、劉禅は六十五歳で生涯を終える。
ところが、劉禅は前世の記憶を持ったまま、再び劉禅として誕生する。
ときは建安十二年(207年)。
蜀による三国統一をめざし、劉禅のやり直し三国志が始まる。
第1部は劉禅が魏滅の戦略を立てるまでです。全8回。
第2部は劉禅が成都を落とすまでです。全12回。
第3部は劉禅が夏候淵軍に勝つまでです。全11回。
第4部は劉禅が曹操を倒し、新秩序を打ち立てるまで。全8回。第39話が全4部の最終回です。
寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい
白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。
私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。
「あの人、私が
夢の終わり ~蜀漢の滅亡~
久保カズヤ
歴史・時代
「───────あの空の極みは、何処であろうや」
三国志と呼ばれる、戦国時代を彩った最後の英雄、諸葛亮は五丈原に沈んだ。
蜀漢の皇帝にして、英雄「劉備」の血を継ぐ「劉禅」
最後の英雄「諸葛亮」の志を継いだ「姜維」
── 天下統一
それを志すには、蜀漢はあまりに小さく、弱き国である。
国を、民を背負い、後の世で暗君と呼ばれることになる劉禅。
そして、若き天才として国の期待を一身に受ける事になった姜維。
二人は、沈みゆく祖国の中で、何を思い、何を目指し、何に生きたのか。
志は同じであっても、やがてすれ違い、二人は、離れていく。
これは、そんな、覚めゆく夢を描いた、寂しい、物語。
【 毎日更新 】
【 表紙は hidepp(@JohnnyHidepp) 様に描いていただきました 】
異世界日本軍と手を組んでアメリカ相手に奇跡の勝利❕
naosi
歴史・時代
大日本帝国海軍のほぼすべての戦力を出撃させ、挑んだレイテ沖海戦、それは日本最後の空母機動部隊を囮にアメリカ軍の輸送部隊を攻撃するというものだった。この海戦で主力艦艇のほぼすべてを失った。これにより、日本軍首脳部は本土決戦へと移っていく。日本艦隊を敗北させたアメリカ軍は本土攻撃の中継地点の為に硫黄島を攻略を開始した。しかし、アメリカ海兵隊が上陸を始めた時、支援と輸送船を護衛していたアメリカ第五艦隊が攻撃を受けった。それをしたのは、アメリカ軍が沈めたはずの艦艇ばかりの日本の連合艦隊だった。
この作品は個人的に日本がアメリカ軍に負けなかったらどうなっていたか、はたまた、別の世界から来た日本が敗北寸前の日本を救うと言う架空の戦記です。
大東亜戦争を有利に
ゆみすけ
歴史・時代
日本は大東亜戦争に負けた、完敗であった。 そこから架空戦記なるものが増殖する。 しかしおもしろくない、つまらない。 であるから自分なりに無双日本軍を架空戦記に参戦させました。 主観満載のラノベ戦記ですから、ご感弁を
【全話挿絵】発情✕転生 〜何あれ……誘ってるのかしら?〜【毎日更新】
墨笑
ファンタジー
『エロ×ギャグ×バトル+雑学』をテーマにした異世界ファンタジー小説です。
主人公はごく普通(?)の『むっつりすけべ』な女の子。
異世界転生に伴って召喚士としての才能を強化されたまでは良かったのですが、なぜか発情体質まで付与されていて……?
召喚士として様々な依頼をこなしながら、無駄にドキドキムラムラハァハァしてしまう日々を描きます。
明るく、楽しく読んでいただけることを目指して書きました。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる