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会稽郡
閑話 春風に鈴蘭が游ぶ
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時は少し遡り、許靖たちがまだ会稽郡にいる時のこと。
「欽兄ちゃん、こんなところで何しているの?」
庭で妻にそう問いかけられ、許欽は首だけで振り向いた。
芽衣は結婚してからもいまだに『欽兄ちゃん』と呼ぶ。
呼び方だけでなく、態度も別段変わらない。さらに言えば住む家だって変わらないし、部屋すらもそのままだ。各々の部屋があり、一緒に寝たい時にはどちらかがどちらかの部屋に行く。
結婚してからもう二年以上が経つが、独身時代の延長のような生活を送っていた。
最近になってようやく変わったことと言えば、芽衣のお腹が段々と大きくなってきていることくらいだろう。
「鈴蘭の花を見ているんだよ」
許欽は幸せを詰め込んで膨らんだ妻を眺めながら答えた。鈴蘭の花もいいが、妻の腹もいい。
「相変わらず鈴蘭好きだね。せめて敷物くらい敷けばいいのに」
芽衣は夫のものぐさを指摘した。
許欽はおそらく人としても夫としてもしっかりした人だが、たまにこういった事がある。今も庭の地べたに直接尻を下ろして花を鑑賞していた。
土で汚れた服を洗うのは妻なのに。
「いいんだよ、この方が。お尻からだって色々感じられるし、なんだか乙じゃないか」
また適当なことを言っている。
ただ、家でくつろいでいる時にはこんな姿を見せてくれる夫が芽衣は好きだった。
「じゃあ私も座ろっと」
芽衣も許欽と並び、地べたに直接腰を下ろした。服は汚れるが、一枚洗うのも二枚洗うのも大して変わらないだろう。
「鈴蘭、綺麗だね。今も鈴蘭が一番好きな花?」
「そうだよ。私は鈴蘭が一番好きだ。芽衣はその時その時で好きな花が違うね」
「だって、季節によって綺麗な花って違うでしょ?その季節に咲いてる花が一番綺麗だと思う」
「確かにそうかもしれない」
「でも欽兄ちゃんは鈴蘭がずっと一番なんでしょ?」
「うん」
「なんで?」
許欽はくすりと笑ってから、鈴蘭に目を向けたまま答えた。
「鈴蘭の花は芽衣がまだ小さい頃、初めて私にくれた贈り物なんだよ」
「えっ?」
自分がやったことながら、全くの初耳だった。全然記憶にない。
「本当に小さかったから覚えていないだろうね。私が『とっても嬉しいよ、ありがとう』と言ったら、次の日もまた持ってきてくれた。その次の日も、そのまた次の日も。毎日持ってきてくれたよ」
「……そうなんだ。嬉しいって言われて、嬉しかったんだね」
「そうだろうね。でもそのうち花の季節が終わってしまって、どこを探しても鈴蘭はなくなってしまった。芽衣は大泣きしてたよ」
「あはは、可愛い」
「本当に可愛かったよ。でも可愛そうでもあったから教えてあげたんだ。『来年もまた咲くから大丈夫だよ』って」
「それで子供の私は納得した?」
「納得したかは分からないけど、芽衣は聞いてきたんだ。『欽兄ちゃんはその時までずっと鈴蘭好き?』って。だから私は『好きだよ、ずっと大好きだ。鈴蘭がずっとずっと一番大好きな花だよ』って答えた。だから私は、ずっとずっと鈴蘭が一番大好きなんだ」
「…………」
もしかしたら、自分はなんとなく覚えているのかもしれないと芽衣は思った。
今でも鈴蘭の花を見るとよく摘んで飾るし、庭の鈴蘭も許欽が喜ぶだろうと芽衣が植えたものだ。
芽衣はそれ以上何かを問うこともなく、無言で許欽の肩に頭を寄せた。
幸せだと思った。この時、世界で一番幸せなのは自分なのだと思った。
「今が私の人生で一番幸せな時だろうなぁ」
少し感傷的なことを言い出した妻に、許欽は笑った。
「何言ってるんだ。芽衣にはこれから子供を産んでもらって、もっともっと幸せになってもらわないといけない」
「そうだね。でもね、もしこれから幸せなことが何一つ無かったとしても、私は生きていけるなって思うの。だって今のこの幸せがこれからの私を作っていくわけでしょ?じゃあ、私はきっと幸せの塊みたいなもんだよ。この幸せな時間とその記憶だけで、きっとずっと前を向いていられる」
芽衣の話は論理とは言い難いものではあったが、それでも許欽には大いに納得できる話だった。
「そうか、確かにそうかも知れない。それにね……こんなに幸せな時間があったのだから、私はいつ死んだって満足でいられそうだ」
「やめてよ、死ぬなんて」
「いや、今はこんな世の中だ。いつ何があるか分からない。結婚前だって二人揃って死にかけたしね」
許欽はそれを思い出してまた笑った。あの時はかなり痛かったはずだが、笑える程度には時が経っている。
「だから芽衣。もし私が先に死んだとしても、私が無念だったろうと思う必要はないよ。私は芽衣と生きてこられてとても幸せだった。そうなっても今言っていたように、前を向いて生きなさい」
「分かったけど……それは欽兄ちゃんだって同じだよ」
「いや、私には無理だ。だから私よりは長生きしてくれ」
「なにそれ、自分勝手」
「あっはっは」
許欽は笑い声を上げながら、不平を言う芽衣の腹に触れた。
そしてその中にある幸せを愛でるように撫でた。
「今この時の幸せが、この子たちにも繋がっていくんだ。嬉しいな……」
「うん……」
許欽はひとしきり妻の腹を堪能してから、また鈴蘭に目を戻した。
暖かな春の風が吹き、花々が楽しそうに揺れている。
それはこの幸せな空間を、鈴蘭が戯れながら泳いでいるようにも見えた。
「春風に鈴蘭が游んでるな……」
許欽はつぶやき、また芽衣の腹を撫でた。
↓おまけのイラスト、夢に旦那さんが出て来て幸せな酔いどれさんです↓
「欽兄ちゃん、こんなところで何しているの?」
庭で妻にそう問いかけられ、許欽は首だけで振り向いた。
芽衣は結婚してからもいまだに『欽兄ちゃん』と呼ぶ。
呼び方だけでなく、態度も別段変わらない。さらに言えば住む家だって変わらないし、部屋すらもそのままだ。各々の部屋があり、一緒に寝たい時にはどちらかがどちらかの部屋に行く。
結婚してからもう二年以上が経つが、独身時代の延長のような生活を送っていた。
最近になってようやく変わったことと言えば、芽衣のお腹が段々と大きくなってきていることくらいだろう。
「鈴蘭の花を見ているんだよ」
許欽は幸せを詰め込んで膨らんだ妻を眺めながら答えた。鈴蘭の花もいいが、妻の腹もいい。
「相変わらず鈴蘭好きだね。せめて敷物くらい敷けばいいのに」
芽衣は夫のものぐさを指摘した。
許欽はおそらく人としても夫としてもしっかりした人だが、たまにこういった事がある。今も庭の地べたに直接尻を下ろして花を鑑賞していた。
土で汚れた服を洗うのは妻なのに。
「いいんだよ、この方が。お尻からだって色々感じられるし、なんだか乙じゃないか」
また適当なことを言っている。
ただ、家でくつろいでいる時にはこんな姿を見せてくれる夫が芽衣は好きだった。
「じゃあ私も座ろっと」
芽衣も許欽と並び、地べたに直接腰を下ろした。服は汚れるが、一枚洗うのも二枚洗うのも大して変わらないだろう。
「鈴蘭、綺麗だね。今も鈴蘭が一番好きな花?」
「そうだよ。私は鈴蘭が一番好きだ。芽衣はその時その時で好きな花が違うね」
「だって、季節によって綺麗な花って違うでしょ?その季節に咲いてる花が一番綺麗だと思う」
「確かにそうかもしれない」
「でも欽兄ちゃんは鈴蘭がずっと一番なんでしょ?」
「うん」
「なんで?」
許欽はくすりと笑ってから、鈴蘭に目を向けたまま答えた。
「鈴蘭の花は芽衣がまだ小さい頃、初めて私にくれた贈り物なんだよ」
「えっ?」
自分がやったことながら、全くの初耳だった。全然記憶にない。
「本当に小さかったから覚えていないだろうね。私が『とっても嬉しいよ、ありがとう』と言ったら、次の日もまた持ってきてくれた。その次の日も、そのまた次の日も。毎日持ってきてくれたよ」
「……そうなんだ。嬉しいって言われて、嬉しかったんだね」
「そうだろうね。でもそのうち花の季節が終わってしまって、どこを探しても鈴蘭はなくなってしまった。芽衣は大泣きしてたよ」
「あはは、可愛い」
「本当に可愛かったよ。でも可愛そうでもあったから教えてあげたんだ。『来年もまた咲くから大丈夫だよ』って」
「それで子供の私は納得した?」
「納得したかは分からないけど、芽衣は聞いてきたんだ。『欽兄ちゃんはその時までずっと鈴蘭好き?』って。だから私は『好きだよ、ずっと大好きだ。鈴蘭がずっとずっと一番大好きな花だよ』って答えた。だから私は、ずっとずっと鈴蘭が一番大好きなんだ」
「…………」
もしかしたら、自分はなんとなく覚えているのかもしれないと芽衣は思った。
今でも鈴蘭の花を見るとよく摘んで飾るし、庭の鈴蘭も許欽が喜ぶだろうと芽衣が植えたものだ。
芽衣はそれ以上何かを問うこともなく、無言で許欽の肩に頭を寄せた。
幸せだと思った。この時、世界で一番幸せなのは自分なのだと思った。
「今が私の人生で一番幸せな時だろうなぁ」
少し感傷的なことを言い出した妻に、許欽は笑った。
「何言ってるんだ。芽衣にはこれから子供を産んでもらって、もっともっと幸せになってもらわないといけない」
「そうだね。でもね、もしこれから幸せなことが何一つ無かったとしても、私は生きていけるなって思うの。だって今のこの幸せがこれからの私を作っていくわけでしょ?じゃあ、私はきっと幸せの塊みたいなもんだよ。この幸せな時間とその記憶だけで、きっとずっと前を向いていられる」
芽衣の話は論理とは言い難いものではあったが、それでも許欽には大いに納得できる話だった。
「そうか、確かにそうかも知れない。それにね……こんなに幸せな時間があったのだから、私はいつ死んだって満足でいられそうだ」
「やめてよ、死ぬなんて」
「いや、今はこんな世の中だ。いつ何があるか分からない。結婚前だって二人揃って死にかけたしね」
許欽はそれを思い出してまた笑った。あの時はかなり痛かったはずだが、笑える程度には時が経っている。
「だから芽衣。もし私が先に死んだとしても、私が無念だったろうと思う必要はないよ。私は芽衣と生きてこられてとても幸せだった。そうなっても今言っていたように、前を向いて生きなさい」
「分かったけど……それは欽兄ちゃんだって同じだよ」
「いや、私には無理だ。だから私よりは長生きしてくれ」
「なにそれ、自分勝手」
「あっはっは」
許欽は笑い声を上げながら、不平を言う芽衣の腹に触れた。
そしてその中にある幸せを愛でるように撫でた。
「今この時の幸せが、この子たちにも繋がっていくんだ。嬉しいな……」
「うん……」
許欽はひとしきり妻の腹を堪能してから、また鈴蘭に目を戻した。
暖かな春の風が吹き、花々が楽しそうに揺れている。
それはこの幸せな空間を、鈴蘭が戯れながら泳いでいるようにも見えた。
「春風に鈴蘭が游んでるな……」
許欽はつぶやき、また芽衣の腹を撫でた。
↓おまけのイラスト、夢に旦那さんが出て来て幸せな酔いどれさんです↓
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