上 下
108 / 391
会稽郡

閑話 春風に鈴蘭が游ぶ

しおりを挟む
時は少し遡り、許靖たちがまだ会稽郡にいる時のこと。


「欽兄ちゃん、こんなところで何しているの?」

 庭で妻にそう問いかけられ、許欽は首だけで振り向いた。

 芽衣は結婚してからもいまだに『欽兄ちゃん』と呼ぶ。

 呼び方だけでなく、態度も別段変わらない。さらに言えば住む家だって変わらないし、部屋すらもそのままだ。各々の部屋があり、一緒に寝たい時にはどちらかがどちらかの部屋に行く。

 結婚してからもう二年以上が経つが、独身時代の延長のような生活を送っていた。

 最近になってようやく変わったことと言えば、芽衣のお腹が段々と大きくなってきていることくらいだろう。

「鈴蘭の花を見ているんだよ」

 許欽は幸せを詰め込んで膨らんだ妻を眺めながら答えた。鈴蘭の花もいいが、妻の腹もいい。

「相変わらず鈴蘭好きだね。せめて敷物くらい敷けばいいのに」

 芽衣は夫のものぐさを指摘した。

 許欽はおそらく人としても夫としてもしっかりした人だが、たまにこういった事がある。今も庭の地べたに直接尻を下ろして花を鑑賞していた。

 土で汚れた服を洗うのは妻なのに。

「いいんだよ、この方が。お尻からだって色々感じられるし、なんだか乙じゃないか」

 また適当なことを言っている。

 ただ、家でくつろいでいる時にはこんな姿を見せてくれる夫が芽衣は好きだった。

「じゃあ私も座ろっと」

 芽衣も許欽と並び、地べたに直接腰を下ろした。服は汚れるが、一枚洗うのも二枚洗うのも大して変わらないだろう。

「鈴蘭、綺麗だね。今も鈴蘭が一番好きな花?」

「そうだよ。私は鈴蘭が一番好きだ。芽衣はその時その時で好きな花が違うね」

「だって、季節によって綺麗な花って違うでしょ?その季節に咲いてる花が一番綺麗だと思う」

「確かにそうかもしれない」

「でも欽兄ちゃんは鈴蘭がずっと一番なんでしょ?」

「うん」

「なんで?」

 許欽はくすりと笑ってから、鈴蘭に目を向けたまま答えた。

「鈴蘭の花は芽衣がまだ小さい頃、初めて私にくれた贈り物なんだよ」

「えっ?」

 自分がやったことながら、全くの初耳だった。全然記憶にない。

「本当に小さかったから覚えていないだろうね。私が『とっても嬉しいよ、ありがとう』と言ったら、次の日もまた持ってきてくれた。その次の日も、そのまた次の日も。毎日持ってきてくれたよ」

「……そうなんだ。嬉しいって言われて、嬉しかったんだね」

「そうだろうね。でもそのうち花の季節が終わってしまって、どこを探しても鈴蘭はなくなってしまった。芽衣は大泣きしてたよ」

「あはは、可愛い」

「本当に可愛かったよ。でも可愛そうでもあったから教えてあげたんだ。『来年もまた咲くから大丈夫だよ』って」

「それで子供の私は納得した?」

「納得したかは分からないけど、芽衣は聞いてきたんだ。『欽兄ちゃんはその時までずっと鈴蘭好き?』って。だから私は『好きだよ、ずっと大好きだ。鈴蘭がずっとずっと一番大好きな花だよ』って答えた。だから私は、ずっとずっと鈴蘭が一番大好きなんだ」

「…………」

 もしかしたら、自分はなんとなく覚えているのかもしれないと芽衣は思った。

 今でも鈴蘭の花を見るとよく摘んで飾るし、庭の鈴蘭も許欽が喜ぶだろうと芽衣が植えたものだ。

 芽衣はそれ以上何かを問うこともなく、無言で許欽の肩に頭を寄せた。

 幸せだと思った。この時、世界で一番幸せなのは自分なのだと思った。

「今が私の人生で一番幸せな時だろうなぁ」

 少し感傷的なことを言い出した妻に、許欽は笑った。

「何言ってるんだ。芽衣にはこれから子供を産んでもらって、もっともっと幸せになってもらわないといけない」

「そうだね。でもね、もしこれから幸せなことが何一つ無かったとしても、私は生きていけるなって思うの。だって今のこの幸せがこれからの私を作っていくわけでしょ?じゃあ、私はきっと幸せの塊みたいなもんだよ。この幸せな時間とその記憶だけで、きっとずっと前を向いていられる」

 芽衣の話は論理とは言い難いものではあったが、それでも許欽には大いに納得できる話だった。

「そうか、確かにそうかも知れない。それにね……こんなに幸せな時間があったのだから、私はいつ死んだって満足でいられそうだ」

「やめてよ、死ぬなんて」

「いや、今はこんな世の中だ。いつ何があるか分からない。結婚前だって二人揃って死にかけたしね」

 許欽はそれを思い出してまた笑った。あの時はかなり痛かったはずだが、笑える程度には時が経っている。

「だから芽衣。もし私が先に死んだとしても、私が無念だったろうと思う必要はないよ。私は芽衣と生きてこられてとても幸せだった。そうなっても今言っていたように、前を向いて生きなさい」

「分かったけど……それは欽兄ちゃんだって同じだよ」

「いや、私には無理だ。だから私よりは長生きしてくれ」

「なにそれ、自分勝手」

「あっはっは」

 許欽は笑い声を上げながら、不平を言う芽衣の腹に触れた。

 そしてその中にある幸せを愛でるように撫でた。

「今この時の幸せが、この子たちにも繋がっていくんだ。嬉しいな……」

「うん……」

 許欽はひとしきり妻の腹を堪能してから、また鈴蘭に目を戻した。

 暖かな春の風が吹き、花々が楽しそうに揺れている。

 それはこの幸せな空間を、鈴蘭が戯れながら泳いでいるようにも見えた。

「春風に鈴蘭があそんでるな……」

 許欽はつぶやき、また芽衣の腹を撫でた。


↓おまけのイラスト、夢に旦那さんが出て来て幸せな酔いどれさんです↓
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

校長室のソファの染みを知っていますか?

フルーツパフェ
大衆娯楽
校長室ならば必ず置かれている黒いソファ。 しかしそれが何のために置かれているのか、考えたことはあるだろうか。 座面にこびりついた幾つもの染みが、その真実を物語る

GAME CHANGER 日本帝国1945からの逆襲

俊也
歴史・時代
時は1945年3月、敗色濃厚の日本軍。 今まさに沖縄に侵攻せんとする圧倒的戦力のアメリカ陸海軍を前に、日本の指導者達は若者達による航空機の自爆攻撃…特攻 で事態を打開しようとしていた。 「バカかお前ら、本当に戦争に勝つ気があるのか!?」 その男はただの学徒兵にも関わらず、平然とそう言い放ち特攻出撃を拒否した。 当初は困惑し怒り狂う日本海軍上層部であったが…!? 姉妹作「新訳 零戦戦記」共々宜しくお願い致します。 共に 第8回歴史時代小説参加しました!

大和型戦艦4番艦 帝国から棄てられた船~古(いにしえ)の愛へ~

花田 一劫
歴史・時代
東北大地震が発生した1週間後、小笠原清秀と言う青年と長岡与一郎と言う老人が道路巡回車で仕事のために東北自動車道を走っていた。 この1週間、長岡は震災による津波で行方不明となっている妻(玉)のことを捜していた。この日も疲労困憊の中、老人の身体に異変が生じてきた。徐々に動かなくなる神経機能の中で、老人はあることを思い出していた。 長岡が青年だった頃に出会った九鬼大佐と大和型戦艦4番艦桔梗丸のことを。 ~1941年~大和型戦艦4番艦111号(仮称:紀伊)は呉海軍工廠のドックで船を組み立てている作業の途中に、軍本部より工事中止及び船の廃棄の命令がなされたが、青木、長瀬と言う青年将校と岩瀬少佐の働きにより、大和型戦艦4番艦は廃棄を免れ、戦艦ではなく輸送船として生まれる(竣工する)ことになった。 船の名前は桔梗丸(船頭の名前は九鬼大佐)と決まった。 輸送船でありながらその当時最新鋭の武器を持ち、癖があるが最高の技量を持った船員達が集まり桔梗丸は戦地を切り抜け輸送業務をこなしてきた。 その桔梗丸が修理のため横須賀軍港に入港し、その時、長岡与一郎と言う新人が桔梗丸の船員に入ったが、九鬼船頭は遠い遥か遠い昔に長岡に会ったような気がしてならなかった。もしかして前世で会ったのか…。 それから桔梗丸は、兄弟艦の武蔵、信濃、大和の哀しくも壮絶な最後を看取るようになってしまった。 ~1945年8月~日本国の降伏後にも関わらずソビエト連邦が非道極まりなく、満洲、朝鮮、北海道へ攻め込んできた。桔梗丸は北海道へ向かい疎開船に乗っている民間人達を助けに行ったが、小笠原丸及び第二号新興丸は既にソ連の潜水艦の攻撃の餌食になり撃沈され、泰東丸も沈没しつつあった。桔梗丸はソ連の潜水艦2隻に対し最新鋭の怒りの主砲を発砲し、見事に撃沈した。 この行為が米国及びソ連国から(ソ連国は日本の民間船3隻を沈没させ民間人1.708名を殺戮した行為は棚に上げて)日本国が非難され国際問題となろうとしていた。桔梗丸は日本国から投降するように強硬な厳命があったが拒否した。しかし、桔梗丸は日本国には弓を引けず無抵抗のまま(一部、ソ連機への反撃あり)、日本国の戦闘機の爆撃を受け、最後は無念の自爆を遂げることになった。 桔梗丸の船員のうち、意識のないまま小島(宮城県江島)に一人生き残された長岡は、「何故、私一人だけが。」と思い悩み、残された理由について、探しの旅に出る。その理由は何なのか…。前世で何があったのか。与一郎と玉の古の愛の行方は…。

寝室から喘ぎ声が聞こえてきて震える私・・・ベッドの上で激しく絡む浮気女に復讐したい

白崎アイド
大衆娯楽
カチャッ。 私は静かに玄関のドアを開けて、足音を立てずに夫が寝ている寝室に向かって入っていく。 「あの人、私が

鈍亀の軌跡

高鉢 健太
歴史・時代
日本の潜水艦の歴史を変えた軌跡をたどるお話。

戦国の華と徒花

三田村優希(または南雲天音)
歴史・時代
武田信玄の命令によって、織田信長の妹であるお市の侍女として潜入した忍びの於小夜(おさよ)。 付き従う内にお市に心酔し、武田家を裏切る形となってしまう。 そんな彼女は人並みに恋をし、同じ武田の忍びである小十郎と夫婦になる。 二人を裏切り者と見做し、刺客が送られてくる。小十郎も柴田勝家の足軽頭となっており、刺客に怯えつつも何とか女児を出産し於奈津(おなつ)と命名する。 しかし頭領であり於小夜の叔父でもある新井庄助の命令で、於奈津は母親から引き離され忍びとしての英才教育を受けるために真田家へと送られてしまう。 悲嘆に暮れる於小夜だが、お市と共に悲運へと呑まれていく。 ※拙作「異郷の残菊」と繋がりがありますが、単独で読んでも問題がございません 【他サイト掲載:NOVEL DAYS】

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

剣客居酒屋 草間の陰

松 勇
歴史・時代
酒と肴と剣と闇 江戸情緒を添えて 江戸は本所にある居酒屋『草間』。 美味い肴が食えるということで有名なこの店の主人は、絶世の色男にして、無双の剣客でもある。 自分のことをほとんど話さないこの男、冬吉には実は隠された壮絶な過去があった。 多くの江戸の人々と関わり、その舌を満足させながら、剣の腕でも人々を救う。 その慌し日々の中で、己の過去と江戸の闇に巣食う者たちとの浅からぬ因縁に気付いていく。 店の奉公人や常連客と共に江戸を救う、包丁人にして剣客、冬吉の物語。

処理中です...