上 下
97 / 391
会稽郡

逃避行

しおりを挟む
 許靖の体が緊張でこわばった。そんな物は持ち合わせているはずもない。

(孫策軍では、潜入者に何か身分を明かすための物を持たせているということか)

 急に言葉に詰まった許靖へ、凌虎リョウコは怪訝な視線を向けた。

「どうした?常に携帯しているよう命じられているはずだ」

「……申し訳ございません、荷は全て船に積んでしまいました」

 許靖が言い訳を言い終える前に、凌虎は剣の柄に手をかけた。

 鞘にめられた宝玉が不気味に光る。

「軍法では潜入員が証を提示できぬ場合、即座に斬って良いことになっている」

 許靖を貫く鋭い視線は、凌虎の言が冗談ではないことを十分に分からせた。

 副官や周りの兵たちの視線も許靖を針で刺すようだった。

 初めに凌虎の知人であるように演技してみせたが、どうやら通じそうな雰囲気ではない。

(しかし、それで押し切るしかないか……)

 許靖が半ば無謀な覚悟を決めかけているところへ、今まで無言を貫いていた許欽が口を開いた。

「なるほど、確かに荷を全て船に置いてきたのは我らの落ち度でございます。ですが、私は潜入員の証よりも孫家への恩義と忠義とを示すものを持ち合わせております」

 そう言って許欽は懐から一枚の赤い布を取り出した。それを見た兵たちからどよめきが上がった。

 凌虎も細い目を丸くしてそれを見た。

「それは……亡き孫堅様の頭巾か」

 この赤い布は、許欽がまだ少年の頃に孫堅本人から実際にもらった物だ。孫堅が戦場で赤い頭巾をかぶっていた事はよく知られている。

 特に祖茂そもという側近が孫堅危機の際、この赤い頭巾をかぶって囮となり主君の危機を救ってからは、兵たちの間で伝説のような物になっていた。

 古い兵たちの中には孫堅から直接この赤い巾を貰い受けた者も幾人かおり、自慢の種となるものだから兵たちも一度くらいは見たことのある者が多かった。

「この頭巾は我ら親子が過去に縁あって孫堅様のために働かせていただいた際、ありがたくも手ずから賜われた物です。私は当時まだ少年でしたが、その時に孫家への忠誠を誓わせていただきました」

 許欽の言葉を聞きながら、凌虎は赤い布を凝視した。

「その色合い、年季の入り方……確かに孫堅様の頭巾のようだ」

 凌虎はそれ自体は認め、次に許欽と許靖とを馬上から厳しい目つきで見下ろした。

 二人はそれを真っ直ぐに見返す。

 恐怖と動揺とを隠すために、二人とも孫堅への忠誠を心の中で念じていた。仮りそめでも自分自身を騙せれば、相手も騙せるのではないかと思ったのだ。

 そしてそれは、過去に会った孫堅が尊敬に足る人柄であったため、そう難しいことではなかった。

「……いいだろう、時間も惜しい。全軍、北へ向かって前進だ」

 凌虎の一言で、隊は動き出した。

 略奪しに来る時とは違い、意外なほどの規律正しい動きで列を作り始めた。無言で粛々と進んでいく。

 許欽は凌虎の背中へ声をかけた。

「どうかご武運を。会稽郡での謝氏の羽振りは良うごさいますから、あんな船とは比べ物にならない財貨があるものと思われます」

 凌虎はその言葉には何の反応もせずに去って行った。

 許靖と許欽は最後の一兵がその場を発ってから、く気持ちを抑えつつ普通の歩速で小舟へと向かった。

 桟橋の先から小舟に乗り込むと、許靖はすぐに櫓を持って漕ぎ始めた。

 許欽は小舟に乗れて緊張の糸が切れたのか、膝から崩れるようにして座り込んだ。

 兵たちはまだそう遠くにいるわけではない。演技力を比べるとしたら、許欽の方がまだ若い分だけ詰めが甘いようだ。

 だがもし兵たちがそれを見ていたとしても、舟の揺れで倒れたようにしか見えなかっただろう。
しおりを挟む
感想 14

あなたにおすすめの小説

永き夜の遠の睡りの皆目醒め

七瀬京
歴史・時代
近藤勇の『首』が消えた……。 新撰組の局長として名を馳せた近藤勇は板橋で罪人として処刑されてから、その首を晒された。 しかし、その首が、ある日忽然と消えたのだった……。 近藤の『首』を巡り、過去と栄光と男たちの愛憎が交錯する。 首はどこにあるのか。 そして激動の時代、男たちはどこへ向かうのか……。 ※男性同士の恋愛表現がありますので苦手な方はご注意下さい

if 大坂夏の陣 〜勝ってはならぬ闘い〜

かまぼこのもと
歴史・時代
1615年5月。 徳川家康の天下統一は最終局面に入っていた。 堅固な大坂城を無力化させ、内部崩壊を煽り、ほぼ勝利を手中に入れる…… 豊臣家に味方する者はいない。 西国無双と呼ばれた立花宗茂も徳川家康の配下となった。 しかし、ほんの少しの違いにより戦局は全く違うものとなっていくのであった。 全5話……と思ってましたが、終わりそうにないので10話ほどになりそうなので、マルチバース豊臣家と別に連載することにしました。

西涼女侠伝

水城洋臣
歴史・時代
無敵の剣術を会得した男装の女剣士。立ち塞がるは三国志に名を刻む猛将馬超  舞台は三國志のハイライトとも言える時代、建安年間。曹操に敗れ関中を追われた馬超率いる反乱軍が涼州を襲う。正史に残る涼州動乱を、官位無き在野の侠客たちの視点で描く武侠譚。  役人の娘でありながら剣の道を選んだ男装の麗人・趙英。  家族の仇を追っている騎馬民族の少年・呼狐澹。  ふらりと現れた目的の分からぬ胡散臭い道士・緑風子。  荒野で出会った在野の流れ者たちの視点から描く、錦馬超の実態とは……。  主に正史を参考としていますが、随所で意図的に演義要素も残しており、また武侠小説としてのテイストも強く、一見重そうに見えて雰囲気は割とライトです。  三國志好きな人ならニヤニヤ出来る要素は散らしてますが、世界観説明のノリで注釈も多めなので、知らなくても楽しめるかと思います(多分)  涼州動乱と言えば馬超と王異ですが、ゲームやサブカル系でこの2人が好きな人はご注意。何せ基本正史ベースだもんで、2人とも現代人の感覚としちゃアレでして……。

サンタクロースが寝ている間にやってくる、本当の理由

フルーツパフェ
大衆娯楽
 クリスマスイブの聖夜、子供達が寝静まった頃。  トナカイに牽かせたそりと共に、サンタクロースは町中の子供達の家を訪れる。  いかなる家庭の子供も平等に、そしてプレゼントを無償で渡すこの老人はしかしなぜ、子供達が寝静まった頃に現れるのだろうか。  考えてみれば、サンタクロースが何者かを説明できる大人はどれだけいるだろう。  赤い服に白髭、トナカイのそり――知っていることと言えば、せいぜいその程度の外見的特徴だろう。  言い換えればそれに当てはまる存在は全て、サンタクロースということになる。  たとえ、その心の奥底に邪心を孕んでいたとしても。

剣客逓信 ―明治剣戟郵便録―

三條すずしろ
歴史・時代
【第9回歴史・時代小説大賞:痛快! エンタメ剣客賞受賞】 明治6年、警察より早くピストルを装備したのは郵便配達員だった――。 維新の動乱で届くことのなかった手紙や小包。そんな残された思いを配達する「御留郵便御用」の若者と老剣士が、時に不穏な明治の初めをひた走る。 密書や金品を狙う賊を退け大切なものを届ける特命郵便配達人、通称「剣客逓信(けんかくていしん)」。 武装する必要があるほど危険にさらされた初期の郵便時代、二人はやがてさらに大きな動乱に巻き込まれ――。 ※エブリスタでも連載中

クロワッサン物語

コダーマ
歴史・時代
 1683年、城塞都市ウィーンはオスマン帝国の大軍に包囲されていた。  第二次ウィーン包囲である。  戦況厳しいウィーンからは皇帝も逃げ出し、市壁の中には守備隊の兵士と市民軍、避難できなかった市民ら一万人弱が立て籠もった。  彼らをまとめ、指揮するウィーン防衛司令官、その名をシュターレンベルクという。  敵の数は三十万。  戦況は絶望的に想えるものの、シュターレンベルクには策があった。  ドナウ河の水運に恵まれたウィーンは、ドナウ艦隊を蔵している。  内陸に位置するオーストリア唯一の海軍だ。  彼らをウィーンの切り札とするのだ。  戦闘には参加させず、外界との唯一の道として、連絡も補給も彼等に依る。  そのうち、ウィーンには厳しい冬が訪れる。  オスマン帝国軍は野営には耐えられまい。  そんなシュターレンベルクの元に届いた報は『ドナウ艦隊の全滅』であった。  もはや、市壁の中にこもって救援を待つしかないウィーンだが、敵軍のシャーヒー砲は、連日、市に降り注いだ。  戦闘、策略、裏切り、絶望──。  シュターレンベルクはウィーンを守り抜けるのか。  第二次ウィーン包囲の二か月間を描いた歴史小説です。

滝川家の人びと

卯花月影
歴史・時代
故郷、甲賀で騒動を起こし、国を追われるようにして出奔した 若き日の滝川一益と滝川義太夫、 尾張に流れ着いた二人は織田信長に会い、織田家の一員として 天下布武の一役を担う。二人をとりまく織田家の人々のそれぞれの思惑が からみ、紆余曲折しながらも一益がたどり着く先はどこなのか。

天竜川で逢いましょう 起きたら関ヶ原の戦い直前の石田三成になっていた 。そもそも現代人が生首とか無理なので平和な世の中を作ろうと思います。

岩 大志
歴史・時代
ごくありふれた高校教師津久見裕太は、ひょんなことから頭を打ち、気を失う。 けたたましい轟音に気付き目を覚ますと多数の軍旗。 髭もじゃの男に「いよいよですな。」と、言われ混乱する津久見。 戦国時代の大きな分かれ道のド真ん中に転生した津久見はどうするのか!?

処理中です...