上 下
63 / 391
放浪

孔伷

しおりを挟む
孔伷コウチュウ殿の病は、それほどまでに重いのか……」

 許靖のつぶやきを、許欽はうなずいて肯定した。

 目を閉じて、辛い光景を思い浮かべる。

「今日もひどく血を吐かれました。熱も高く、下がりません。痰に血が混じる程度だったこれまでとは、素人目にも違います」

 許靖は息子の言葉にため息をついた。

 そして息子も父と同じようにする。

「驚くことに、そんな状態でも周囲を笑わそうと冗談を口にされています。そういう様子なのでまだまだ長生きされるのではないかと錯覚してしまうのですが……医師に言わせると『もう一月もたないだろう』とのことでした」

「……孔伷殿らしい」

 許靖は笑った。笑ってやることが、孔伷のためでもあると思った。

「惜しい人を亡くしてしまうな……」

 孔伷の元へ避難して二年足らず、本当に明るく、楽しい好人物だった。

 人を知るのに二年は十分な期間とは言えないが、それでも心から死を悼むには十分過ぎるほど好きになっていた。

 それに、性格が良いだけではなく仕事もできる。行政官としても、政治家としても、知人としても、本当に惜しい人が消えてしまうと思った。

「しかし父上、嘆いてばかりもいられません。後任もはっきりしませんし、我々も身の振り方も考えませんと」

 許欽の言うことはもっともだった。

 乱世はより混迷を極めている。

 つい先日、後に陽人ようじんの戦いと呼ばれる董卓と反董卓連合との大きな戦があった。

 両者押しつ押されつしたが、最終的には孫堅などの活躍によって反董卓連合が勝利をおさめている。

 この報が届いた時には街中が歓喜に沸いた。

(これで戦乱の時代は遠のくはずだ)

 誰もがそう思った。

 しかし、事態は民の希望通りにはならなかった。

 負けた董卓はなんと、首都たる洛陽を焼き払っていたのだ。

 比喩表現ではない。文字通り、都市一つをまるごと焼き払った。

 その上で、自分の本拠地により近い西の長安へと帝を連れて撤退した。

 董卓は前もって周囲の反対を押し切り、長安への遷都を公表してはいた。

(とはいえ、まさか洛陽を焼くほどの大胆な焦土戦術に出るとは……)

 それがこの国のほぼ全ての人間の感想だった。

 半董卓連合の将兵たちは廃墟と化したかつての首都を目の当たりにして、絶望した。誰もが洛陽の奪還を目指して戦っていたのだ。

 洛陽の焼失は詰まるところ、董卓を討って得られるはずだった都での栄華が消えてしまったことを意味する。

 しかも反董卓連合の将たちには長安まで長征するような想定がなかったから、準備などしていない。補給などを考えると、現実的にこれ以上の追撃戦は難しかった。

 目的の大部分を失った連合軍は、長安の董卓を放置して散り散りになってしまった。武将たちは自らの軍事的な基盤のある地に帰り、それぞれが半ば独立した形で立つこととなった。

 つまり世は『群雄割拠』の時代を迎えたのだ。これからはそれら群雄が支配地をめぐって争う、完全な乱世となる可能性が高かった。

(洛陽を焼き長安に遷都するなど、董卓は最悪の選択をしてくれた。まさかという選択で、やはり董卓も尋常の人ではないという事はよく分かったが……)

 許靖は絶望しながらも、董卓の大きさを感じざるを得なかった。それが良いにせよ悪いにせよ、ということではあるが。

 董卓が討たれてしまいになれば、それで乱世が遠のく可能性があったのだ。しかし、結局は平和な時代を望む者にとって最悪の状況になったといえる。

「欽、次の豫州刺史についての話は全く聞いてないのか?」

 許欽は二年足らずとはいえ、刺史の孔伷に付いてその政務を助けている。

 どうやら許欽は仕事が出来る方だったようで、孔伷は様々な仕事を振ってくれたらしい。

 まだ若く役職こそなかったが、それらをこなした息子は親から見てもずいぶんと頼もしくなった。役所でも、若年ながら発言力があるという噂だった。

 そのような立場であれば、自然と次の長官候補くらい耳に入っているはずだ。

「役所の噂では、袁紹殿と袁術殿がそれぞれ別の人間を指名するという話です。しかし、そうなると……」

「おそらく戦になるな」

(戦は嫌だ……!)

 許靖は自分の脈と呼吸が早くなってくるのを感じた。

 目を閉じて、ゆっくりと息を吐くようにする。そして花琳のことを思い浮かべ、左手の薬指にはめた指輪を回した。

 指輪は陶深が作ってくれたものだ。花琳にも揃いの物を作ってくれている。

 指輪の内側には小さな文字を彫ってもらった。許靖の指輪には花琳の名が、花琳の指輪には許靖の名が刻まれている。

 息をゆっくり吐き、花琳のことを思い浮かべ、指輪を回す。この一連の動作で、許靖がたまに起こす発作のようなものは大体の場合治まった。

 許欽も父が心の病を抱えていることは知っているので、落ち着くまでじっと待ってくれた。

(そういえば……心の病のことは家族に話しているが、自らの手で十人を殺したことはいまだに話せていないな……)

 許靖はふと、その事について考えた。最も近しい花琳にすら話せてないのだ。

(機会がなかったこともあるが、私自身が受け入れられていないからかな……だから口にする気になれない)

 許靖は自分の心をそう推量した。

「……すまない、もう大丈夫だ」

 しばらくして落ち着いた許靖は目を開けた。

「無理はなさらないでくださいね。それで次の刺史ですが、袁術殿の指名されるのは孫堅殿という噂があります」

「なに?あの孫堅殿か……ならば戦は孫堅殿が勝ちそうだな」

 許靖は数年前に見た孫堅の瞳を思い浮かべた。

 虎に率いられた海賊の「天地」。戦にはめっぽう強く、董卓軍が敗れた先日の大戦でも孫堅の働きが大きかったと聞く。

「孫堅殿ならば父上と知らぬ仲ではないでしょう。我らを保護してくれるように思いますが、いかがでしょう?」

 孫堅が許靖宅を訪ねてきたあの日、許欽は孫堅から戦の時にかぶっている赤い頭巾を手渡されていた。

 優しい孫堅の印象が強く残っているのだろう。そういえば、息子の孫策とも仲良く遊んでいたようだった。

 息子の問いに、許靖は首を縦にも横にも振らなかった。

「保護はしてくれるだろう。それどころか、きっと良い待遇で陣営に加えてくれようとするだろうな。しかし、孫堅殿は本質的に武人だ。今後も必ず戦に巻き込まれることになる」

(戦は、嫌なのだ……)

 許靖は再び強くそう思った。

 董卓に植え付けられた心の傷。それが許靖の心を大きく蝕んでいる。

『戦を学べ』

 そう言って董卓は許靖の前で殺戮をなし、許靖自身にも殺戮を行わせた。

 それ以来、許靖は戦のことを考えたり、剣の刃を見ただけで激しい動悸と息切れに見舞われるのだ。

「南の方へ避難しようと思うが、どうだろう?」

 苦しそうな表情を浮かべた父親の問いに、許欽はうなずいた。

「父上がそうおっしゃるなら、私は従います。中央から離れれば離れるほど安全だとは思いますし。ですが南といっても、どこへ行かれるおつもりでしょうか?」

「揚州刺史の陳温チンオンも私の知人だ。頼めば保護してくれるだろう」

 陳温は許靖と同郷の人で、旧知の友人だ。

 向こうも過去に許靖の能力を見込んで人物鑑定を依頼してきたこともあったので、政務に協力すれば厚遇してくれるだろう。

(とにかく、戦に巻き込まれるのだけは避けなければ……)

 許靖は薬指の指輪を回しながら、そればかりを考えていた。
しおりを挟む

あなたにおすすめの小説

私たち、幸せになります!

ハリネズミ
恋愛
 私、子爵令嬢セリア=シューリースは、家族の中で妹が贔屓され、自分が邪険に扱われる生活に嫌気が差していた。    私の婚約者と家族全員とで参加したパーティーで、婚約者から突然、婚約破棄を宣言された上に、私の妹を愛してしまったなどと言われる始末。ショックを受けて会場から出ようとするも、家族や婚約者に引き止められ、妹を擁護する家族たち。頭に血が上って怒鳴ろうとした私の言葉を遮ったのはパーティーの主催者であるアベル=ローゼン公爵だった。  家族に嫌気が差していた私は、一部始終を見ていて、私を気の毒に思ってくれた彼から誘いを受け、彼と結婚することになる――。  ※ゆるふわ世界観なので矛盾等は見逃してください※  ※9/12 感想でご指摘頂いた箇所を修正致しました。

アルファポリスという名の電網浮遊都市で歩き方がさっぱりわからず迷子になっているわたくしは、ちょっと涙目である。

萌菜加あん
エッセイ・ノンフィクション
三日ほど前にこちらのサイトに引っ越してきた萌菜加あんは、現在ちょっぴり涙目である。 なぜなら、こちらのサイトの歩き方がさっぱりわからず、かなり激しい迷子になってしまったからである。 この物語は、いや、このエッセイは、底辺作家の萌菜加あんが、 生存競争の激しいこのアルファポリスで、弱小なりに戦略を立てて、 アマゾンギフト券1000円分をゲットする(かもしれない)、努力と根性の物語、いや、エッセイである。(多分)

私は私で勝手に生きていきますから、どうぞご自由にお捨てになってください。

木山楽斗
恋愛
伯爵令嬢であるアルティリアは、婚約者からある日突然婚約破棄を告げられた。 彼はアルティリアが上から目線だと批判して、自らの妻として相応しくないと判断したのだ。 それに対して不満を述べたアルティリアだったが、婚約者の意思は固かった。こうして彼女は、理不尽に婚約を破棄されてしまったのである。 そのことに関して、アルティリアは実の父親から責められることになった。 公にはなっていないが、彼女は妾の子であり、家での扱いも悪かったのだ。 そのような環境で父親から責められたアルティリアの我慢は限界であった。伯爵家に必要ない。そう言われたアルティリアは父親に告げた。 「私は私で勝手に生きていきますから、どうぞご自由にお捨てになってください。私はそれで構いません」 こうしてアルティリアは、新たなる人生を送ることになった。 彼女は伯爵家のしがらみから解放されて、自由な人生を送ることになったのである。 同時に彼女を虐げていた者達は、その報いを受けることになった。彼らはアルティリアだけではなく様々な人から恨みを買っており、その立場というものは盤石なものではなかったのだ。

婚約解消して次期辺境伯に嫁いでみた

cyaru
恋愛
一目惚れで婚約を申し込まれたキュレット伯爵家のソシャリー。 お相手はボラツク侯爵家の次期当主ケイン。眉目秀麗でこれまで数多くの縁談が女性側から持ち込まれてきたがケインは女性には興味がないようで18歳になっても婚約者は今までいなかった。 婚約をした時は良かったのだが、問題は1か月に起きた。 過去にボラツク侯爵家から放逐された侯爵の妹が亡くなった。放っておけばいいのに侯爵は簡素な葬儀も行ったのだが、亡くなった妹の娘が牧師と共にやってきた。若い頃の妹にそっくりな娘はロザリア。 ボラツク侯爵家はロザリアを引き取り面倒を見ることを決定した。 婚約の時にはなかったがロザリアが独り立ちできる状態までが期間。 明らかにソシャリーが嫁げば、ロザリアがもれなくついてくる。 「マジか…」ソシャリーは心から遠慮したいと願う。 そして婚約者同士の距離を縮め、お互いの考えを語り合う場が月に数回設けられるようになったが、全てにもれなくロザリアがついてくる。 茶会に観劇、誕生日の贈り物もロザリアに買ったものを譲ってあげると謎の善意を押し売り。夜会もケインがエスコートしダンスを踊るのはロザリア。 幾度となく抗議を受け、ケインは考えを改めると誓ってくれたが本当に考えを改めたのか。改めていれば婚約は継続、そうでなければ解消だがソシャリーも年齢的に次を決めておかないと家のお荷物になってしまう。 「こちらは嫁いでくれるならそれに越したことはない」と父が用意をしてくれたのは「自分の責任なので面倒を見ている子の数は35」という次期辺境伯だった?! ★↑例の如く恐ろしく省略してます。 ★9月14日投稿開始、完結は9月16日です。 ★コメントの返信は遅いです。 ★タグが勝手すぎる!と思う方。ごめんなさい。検索してもヒットしないよう工夫してます。 ♡注意事項~この話を読む前に~♡ ※異世界を舞台にした創作話です。時代設定なし、史実に基づいた話ではありません。【妄想史であり世界史ではない】事をご理解ください。登場人物、場所全て架空です。 ※外道な作者の妄想で作られたガチなフィクションの上、ご都合主義なのでリアルな世界の常識と混同されないようお願いします。 ※心拍数や血圧の上昇、高血糖、アドレナリンの過剰分泌に責任はおえません。 ※価値観や言葉使いなど現実世界とは異なります(似てるモノ、同じものもあります) ※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。 ※話の基幹、伏線に関わる文言についてのご指摘は申し訳ないですが受けられません

婚約破棄された落ちこぼれ剣姫は、異国の王子に溺愛される

星宮歌
恋愛
 アルディア公爵家の長女、ネリア・アルディアは、落ちこぼれだ。  本来、貴族の女性には必ず備わっているはずの剣姫としての力を一切持たずに生まれてきた彼女は、その地位の高さと彼女が生まれる前に交わされた約束のために王太子の婚約者ではある。  しかし、王太子はネリアよりも、優秀な剣姫としての才能を持ち、母親譲りの美貌を持つネリアの妹、ミリア・アルディアと恋に落ち、社交界のパーティー会場でネリアに婚約破棄を言い渡す。  無能と蔑まれ、パーティー会場から追い出されるネリア。  帰ることもできず、下町で働こうにも、平民達にすら蔑まれるネリア。  その未来は絶望的に見えたが……?  これは、無能だったはずのネリアが、異国の王子に愛され、その力を開花させる溺愛物語である。  だいたい、毎日23時に更新することが多いかと思いますので、よろしくお願いしますっ。

夫と妹が不倫関係でした。

杉本凪咲
恋愛
結婚三年目。 私は夫の不倫現場を目撃する。 相手は私の妹だった。

スパイス料理を、異世界バルで!!

遊森謡子
ファンタジー
【書籍化】【旧題「スパイス・アップ!~異世界港町路地裏バル『ガヤガヤ亭』日誌~」】熱中症で倒れ、気がついたら異世界の涼しい森の中にいたコノミ。しゃべる子山羊の導きで、港町の隠れ家バル『ガヤガヤ亭』にやってきたけれど、店長の青年に半ば強引に料理人にスカウトされてしまった。どうやら多くの人を料理で喜ばせることができれば、日本に帰れるらしい。それならばと引き受けたものの、得意のスパイス料理を作ろうにも厨房にはコショウさえないし、店には何か秘密があるようで……。 コノミのスパイス料理が、異世界の町を変えていく!?

よくある婚約破棄なので

おのまとぺ
恋愛
ディアモンテ公爵家の令嬢ララが婚約を破棄された。 その噂は風に乗ってすぐにルーベ王国中に広がった。なんといっても相手は美男子と名高いフィルガルド王子。若い二人の結婚の日を国民は今か今かと夢見ていたのだ。 言葉数の少ない公爵令嬢が友人からの慰めに対して放った一言は、社交界に小さな波紋を呼ぶ。「災難だったわね」と声を掛けたアネット嬢にララが返した言葉は短かった。 「よくある婚約破棄なので」 ・すれ違う二人をめぐる短い話 ・前編は各自の証言になります ・後編は◆→ララ、◇→フィルガルド ・全25話完結

処理中です...