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洛陽

董卓

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「世間では『反董卓連合』というらしいぞ。知っているか?」

 董卓の声音はごく普段通りだったにも関わらず、許靖は心の底から震え上がった。

 それは反董卓連合、という単語を使われたからではない。その右手に下げた物体が許靖の心を芯から冷えさせていたからだ。

 今なら董卓が咳をしただけでも震えてしまうだろう。許靖はそこから目を離せなかった。

 その右の手が振られ、握られていたものが弧を描いて許靖の胸に当たる。

 許靖は反射的にそれを抱きかかえ、そして後ろに倒れこんだ。

(重い)

 頭に浮かんだのは、口にしてしまえば何でもないような感想だった。

 しかし体の方は全く別の感情に支配されており、喉からはひぃっと引きつるような声が絞り出された。

 倒れた後も足がガクガクと震えている。

「首を見るのは初めてか」

 董卓はその様子を無感動に眺めた。

 許靖が抱きかかえているのは、周毖シュウヒの生首だった。

 斬られてからだいぶ時が経っているのだろう、人の温かさはもうなかった。血もほとんど固まっていたが、さすがに抱きかかえてしまっては衣服や手が赤くなるのは仕方ない。

 開かれたままのうつろな瞳が許靖の目と合った。

 しかし、そこにはもはや周毖の「天地」である碁盤は見えない。ただ許靖の恐慌した顔だけがぼんやりと映っているだけだ。

 実は、つい先ほどまでそれが周毖の生首であることを、許靖は心のどこかで疑っていた。

 董卓の手元にあった時には髪の毛を掴まれてぶら下がっていたので、髪に皮膚が引っ張られて周毖の顔とは似ても似つかないものになっていたのだ。

 しかし今は生前の周毖と同じ顔で、ただしそこから全ての生気が抜け去っている。

「当然の結末だな。お前たちが採用した人間のことごとくが反乱に加担している。首を斬るなどと、楽な死なせ方をしてしまったのを後悔しているほどだ」

 董卓は許靖の方へと歩みを進めた。

「当然、お前も同じ道をたどるべきだが……」

 許靖の隣りにしゃがみこんで、その顔を横から覗き込む。許靖は恐怖でそちらを見られず、ただ周毖の瞳を見ていた。

 董卓の息遣いが許靖の頬に触れる。

「……周毖は死ぬ前に、お前は反乱に無関係だと言っていた。むしろ自分は許靖を利用して反乱に適しそうな人材を見極めていたのだ、と。そうなのか?」

 許靖は答えようとしたが、喉からは何の音も出なかった。

 仕方なく首をがくがくと縦に振る。

 董卓は真っ白になった許靖の横顔に舐めるような視線を這わせた。

「初めはお前を庇っているだけだろうと思った。お前の従兄弟も反乱に加担しているしな」

 許靖の従兄弟である許瑒キョトウという男が反董卓連合に名を連ねている。

 しかし、それは許靖の全くあずかり知らぬところだ。知っていればもっと早くに逃げている。

「しかし周毖の言った『許靖の臆病さは人を傷つけることもできないほどだ』という言葉だけは、本当だと思えてな。たまにいるのだ。徴兵されても敵を斬れない兵が。自分が斬られそうになってすら、敵を斬れない兵が。お前はその手の人間だと感じる。そんな人間が、戦を起こそうとするとは思えん」

 董卓は一つ息を吐くとスッと立ち上がり、背中を向けて扉の方へと歩いた。

「今回だけは助けてやろう。正直、お前の人物鑑定眼は惜しい」

 助命を伝えられた許靖は本来喜ぶべきところだったが、恐怖に塗り込められた表情はそれを表明することはできなかった。

 感謝の言葉も出ず、ただ噛み合わない歯の根がガチガチと鳴った。

「ただし、お前には今後も俺に背かぬよう、戦を起こそうなどどいう気を持たぬよう、教育を施す必要がある」

 そう言って董卓が扉を開けると、多くの男女と数人の兵たちが入ってきた。

 男女の人数は二十人ちょっとだろうか。その中には小さな子供や乳飲み子もいる。

 董卓は許靖を振り返った。その口の端が残忍に歪んでいる。

「戦というものを、教えてやる」

 そう言って一人の男を許靖の方へと押しやった。

 よろよろと許靖の前まで来た男の胸から、突然剣の切っ先が生えた。後ろから董卓に心臓を突き抜かれたのだ。

 董卓がその背中に手をかけて剣を引き抜くと、血が噴水のように吹き出した。生温かい液体が許靖を頭から濡らす。

 力を失った男の体は許靖の方へと倒れこんできた。

 許靖は周毖の生首を抱えたまま、出来たての死体の下敷きになった。許靖の口から声にならない悲鳴が上がる。

 他の男女たちからも恐怖の叫び声が上がり、それが一時に部屋を満たした。逃げ出そうとする者もいたが、すぐに兵たちに殴り倒された。

 董卓が笑い声を上げる。

「こいつらは周毖の親族だ。一族みな連座して処刑することにした。せっかくなので、こいつらをお前の教育に使おうと思ってな。戦がいかに恐ろしいものか、教えてやる」

 許靖に重なった死体を蹴ってどかした董卓は、血まみれになった髪の毛を掴んで立ち上がらせた。

「まずは血の臭いと温かさ、それから死体の重さだ。どうだ、人は死ぬと重かろう」

 犬のように短い呼吸を繰り返す許靖に、董卓は笑いかけた。

「では次だ。このように突き刺されて死んだ死体はまだ見栄えがするが、そうでない場合もある」

 そう言って顎をしゃくると、兵が次の男を押しやった。董卓はその男の頭へ、上から叩き潰すように剣を落とした。

 董卓が怪力なのは有名な話だ。剣は首の根本まで下がり、顔が縦に真っ二つになる。剣を抜かれると脳漿が流れ、飛び出た目玉がでろりと垂れた。

 許靖は恐怖で気を失いそうになった。

 しかし董卓の大音声だいおんじょうで意識を取り戻される。

「戦の恐ろしさはまだまだこんなものじゃあないぞ!潰れた顔も恐ろしいが、こっちを斬ったときの方が悲惨なことになる時がある」

 次に押し出された男は腹を真一文字に深く斬られた。そして董卓はその断面を開くよう曲げながら許靖の方へと放り投げた。

 死体から内臓があふれ、バタバタと手を振る許靖の腕に腸がまとわりついた。

 許靖は今度こそ完全に意識を失った。血と内臓にまみれたまま、その場に昏倒する。

 許靖の頭が床にぶつかる音が部屋に響いた。

 しかし董卓は許さない。兵に合図すると、すぐさま桶に用意した水が許靖にかけられた。

 咳き込みながら意識を回復させた許靖が体を起こす。

 董卓はそのそばにしゃがみ込んで、許靖の頬へ軽く平手打ちを加えた。

「おい、お勉強の途中に寝たらいかんだろうが。まだまだ学ぶことはたくさんあるぞ」

 許靖は平伏して地に頭を擦りつけた。

「どうか、もうお止しください!周毖に罪があっても親族に罪はございません。世の人心を掴むためにも、このようなむごい行いはどうか、どうか……」

「……この期に及んでまだ他人の心配をするか。ならん。こいつらは処刑すると決めた。周毖は敗者で、勝者は俺だ。周毖の物をどうするかは、俺に決める権利がある」

(親族は決して周毖の所有物ではないはずだ)

 そうは思ったが、言ったところで董卓の心には何も響かないだろう。

 戦で勝利し、敗者から全てを奪う。

 董卓の「天地」では、あたかもそれが世界の法則であるかのように略奪が繰り広げられていた。董卓の人格の大原則である略奪が、そう簡単に捻じ曲げられるとは思えない。

 許靖は別の言葉を選ぶことにした。

「……では、女子供の命だけでもお助けください。戦に勝利した際にも、女子供は戦利品として連れ帰ることが多いと聞きます。勝者たる董卓様の戦利品でございます。それだけでも傷つけずにご所有ください」

「なに?」

 董卓はすぐには反論せず、床に押し付けられた許靖の頭をじっと見ていた。

 しばらく考えてから口を開く。

「女子供は戦利品か……確かにそうだ。しかし俺の戦利品ならば、どうするかを決める権利も俺にあるな」

 許靖は床を見つめながら絶望的な気持ちになった。

 唇が震えて、それ以上の言葉が出てこない。

 董卓は許靖のそばから立ち上がった。そして、周毖の親族たちの方へと歩いていく。

 親族たちの悲鳴やすすり泣く声が聞こえてきた。

 しかし、許靖の体は血で固まったかのように動かない。呆然と床を見つめるだけで、歯を食いしばるための筋肉すら動かなかった。

 血に染まったその耳に、董卓の大きな声が届いた。

「よかろう!俺の戦利品として獲た女子供を、許靖に下賜かししてやる!」

 許靖は耳を疑った。疑いつつも、思わず顔を上げた。

 その目の前の床へ、一本の剣が突き刺さる。見ると、董卓が剣を投げつけたようだった。

「ただし条件がある。許靖、男どもはお前が殺すのだ」

 許靖はその言葉をすぐに理解できず、呆然とした。

 何も答えられない許靖に董卓は繰り返す。

「お前の手で殺せと言っているのだ。分かるか?お前は自分が殺した男の妻、殺した男の母、殺した男の子を自らの所有物とする。そしてそれを己のために使い、喰らうのだ。それが戦だ。それを学べ」

 許靖の体は先ほどのようにまた固まってしまった。

 目の前の剣を見つめるだけで、筋肉がピクリとも動かない。

「どうした、やらなければ女子供も全員殺すだけだぞ」

 その言葉に弾かれるように立ち上がった許靖は、血に濡れた手で剣を握った。

 剣は深く刺さっていたのですぐには抜けなかったが、何度か力を込めて前後に動かすと引き抜けた。

(重い)

 先ほど抱えた周毖の生首よりも重いように感じる。

 剣を握った許靖の様子を董卓は満足そうに眺めた。

「いいだろう、やれ。そして戦を分かれ。お前のような男は、それで二度と戦など起こしたくないと思えるはずだ。心の根にまで戦を忌避きひする感情が染み渡るはずだ」

 許靖は剣の柄を強く握った。手のひらについた血で、握りしめるほどにじりじりと滑った。

 男の一人が兵に背中を突き飛ばされ、許靖の前に立たされた。恐怖におびえた視線が、同じく恐怖に染まった許靖の視線と交差する。

 その男だけではなく、他の親族たちの視線も許靖を突き刺しているのが感じられた。

 親族の内、一人の老婆が子供たちを集めて目を閉じさせ、耳を塞がせた。しかし許靖にはそれに感謝を感じる余裕すらなかった。

(人を殺す……殺すって、どうやればいいんだ?)

 剣を手にしながら、許靖はそんな馬鹿なことを考えた。

 耳の奥で自分の心臓の鼓動がやけに大きく聞こえる。その鼓動に耳を傾けていると、毛清穆モウセイボクの懐かしい声が思い出された。

『人間は大きな血管が傷つかなければ、出血で死ぬようなことはそうそうない』

 それは同僚の怪我の受診に付き添った時、出血が多いと言って騒ぐ同僚に対して言われた言葉だった。

 あの時、毛清穆は大きな血管の位置をいくつか指さしていた。ということは、そこをこの剣で斬れば人は死ぬのだろうか。

 とにかく、出来るだけ楽に殺さなければならない。それだけを考えて、剣を振り上げた。

 男と親族達の悲鳴が耳に突き刺さる。

 それでも許靖は剣を振り下ろさなければならなかった。
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