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豫州

腐敗官吏

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 毛清穆は素早く許靖の座っていた椅子を掴み、護衛二人へ投げつけた。

 二人の鉄球が同時に動き、それを紙くずのように叩き壊す。しかし、その破片が地に落ちる頃には毛清穆の体は部屋からすでに出ていた。

 護衛の一人がそれを追おうとしたが、韓儀が止めた。

「捨て置け。見た目通りの老いぼれではなさそうだが、外の人数を考えろ。屋敷からは出られん。それよりも俺を守れ」

 護衛二人は韓儀を背にしたまま、じりじりと朱烈、花琳との間合いを詰めた。

 朱烈と花琳は二人とも動かず、相手の来るのに任せている。

 許靖と王順、劉翊は部屋の隅へと下がっていた。

 三人とも自分たちが戦力にならないことを自覚している。事前の話し合いで荒事になった時にはそうするよう言われていた。実際、素人が下手に動いても邪魔になるだけだろう。

 朱烈、花琳と護衛二人との間に張られた緊張の糸が徐々に引き伸ばされていく。

 その糸の張力が限界を迎え、弾け切れた。

 護衛二人が鉄球を上段に振り上げ、それぞれ朱烈と花琳に向かって振り下ろす。

 朱烈はそれを横っ跳びにかわし、花琳は相手の懐へ踏み込むようにしてよけた。

 朱烈はそのまま護衛の一人と距離を取って向き合ったが、花琳の方は懐から離れ際に拳を右腕に叩きつけていた。

 腕を打たれた護衛が顔をしかめて身をよじる。

 朱烈は短剣を構え直した。

(こんな剣で受けられる武器ではないな)

 この短剣自体はなかなかの業物ではある。

 王順の店にあったものだが、装飾過剰な見た目とは裏腹によく切れた。握りの彫刻も、持ってみると手の平にピタリとはまるのだ。

 しかし、あの鉄球を受けたら一撃で折れてしまうだろう。

 護衛の一人がまた朱烈に向かって跳びかかって来た。鉄球を縦横無尽に振り回し、朱烈はそれをかろうじてかわした。

(あの鉄球をこの速度で振るのか)

 髪をかすめる大質量に戦慄しながら、相手の方が格上であることを認めざるをえなかった。

 朱烈もそれなりに腕が立つ方だが、力も速さも向こうが一段上だ。

 朱烈は防戦一方になった。横薙ぎの一撃を屈んでかわし、そこへ頭上から落ちてくる一撃を床に転がってかわす。

 先ほどまで朱烈がいた床に大穴が開いた。

(花琳の方は……)

 冷や汗をかきながら横目でそちらを見やると、花琳は鉄球をかわしざま、素早く護衛の右腕に拳を叩き込んで離れていた。

 護衛の顔が明らかに苦痛に歪んでいる。

(上手いな。こういった相手に慣れている)

 花琳は強いとはいえ、それでも女だ。力や速さが自分より勝っている相手と戦うのに慣れているようだった。

 相手の動きに合わせて隙を突く攻撃や、相手の力を利用した攻撃が上手い。

 花琳はその後も何度か相手の腕だけを狙って打ち身をくらわした。

 しばらくすると護衛は鉄球を床に投げ捨てて、腰にはいていた剣を抜いた。鉄球を振れないほどに腕を痛めたのだろう。

 が、剣を振るにはあまり支障ないようで、先ほどの鉄球とは比べ物にならない速度の斬撃が矢継ぎ早に繰り出される。

 その内の一撃が、明らかにかわせない間合いで花琳を襲った。部屋の隅で見ていた許靖の背筋が凍りつく。

 が、次の瞬間ギャリッと金属の擦れる音がして、護衛の剣は花琳の横へといなされた。

 花琳の腕には美しく刺繍された布が巻いてあったが、実は中に鉄甲が仕込まれている。ここで受ける限り、刃物は絶対に通らない。

 護衛の男も意外な展開に驚いたのか、一瞬の隙を見せた。

 その瞬間、花琳が一歩踏み込み、顔面、胸、腹に拳を叩き込み、さらに顎を蹴り上げた。

 護衛の男は韓儀の足元まで吹き飛んで倒れた。

「女相手に何をしている!早く起きろ!」

 韓儀に叱られたからではなかろうが、護衛は頭を振りながら素早く起き上がった。まだ剣もしっかりと握っている。

 花琳は腰を落として構え直した。

「あれでまだ立ちますか……先生のおっしゃった通り、時間がかかりそうですわね」

(……こちらは時間がかかるとかいう段階ではないが!)

 朱烈は鉄球を肩にかすめながら花琳の言葉を聞いていた。

 今のところ、ただひたすらによけ続けることしかできていない。牽制に何度か短剣を振っているが、牽制以上の効果は望めそうになかった。

 相手のほうが攻撃範囲も長く、こちらの刃が届きそうな見通しが立たない。

 が、小さな光明も見えてきた。よけ続けているうちに、わずかだが相手の息が切れてきたのだ。

 やはりよほどの怪力でもこの鉄球を振り回し続けるのはきついらしい。心なしか、速度もやや落ちてきたように思う。

(せめて、何かしらのきっかけがあれば)

 そう思った瞬間、視界の隅を何かが横切った。

 それは韓儀の方へ向かって飛んで行く。

「ぐわっあちちち!」

 見ると、韓儀が灰まみれになっていた。その足元には香炉が落ちている。

 部屋の隅では許靖がものを投げた姿勢のままで震えていた。

 花琳をただ見てるのに耐えられなくなり、護衛の気を逸らせようと近くにあった香炉を韓儀に向かって投げつけたのだ。

 とはいえ、本来人を傷つけることに人一倍恐怖心を抱く許靖である。大した怪我にならないと分かっていても、小刻みに全身が震えていた。

 だがそれにより、一瞬とはいえ護衛たちの気が逸れた。

 朱烈はその瞬間を逃さずに短剣を突き出す。花琳に倣って、鉄球を振る右腕を狙った。

(……浅い!)

 短剣は確かに相手に届いた。

 が、動きを損なうほどには刺さらなかったように思える。実際に護衛は腕から血を流しながらも、まだ鉄球を構えていた。

 韓儀は灰を払いながら、震える声で怒鳴った。

「許靖を殺せ!今すぐ殺せぇ!」

 そう命じられたものの、護衛二人は対峙する花琳と朱烈から目を離せる状況でない。そのため韓儀の命令は無視された。

 が、それは護衛二人に無視されただけで、無視できない人間が一人いた。

「……誰を殺せですって?」

 花琳の声は氷水を浴びせたように冷たかった。

 そして、それまで向き合っていた護衛から韓儀の方へと向き直る。

「……ヒッ!?」

 花琳の凍てつくような視線を浴びて、韓儀は喉からひきつけるような声を出した。

 本能的に殺気というものを感じているのか、蛇に睨まれた蛙のように身を縮ませて固まった。

 花琳は護衛を無視する形で韓儀へと駆け出した。

 当然、護衛はそれを止めるように横から剣を突き出したが、花琳の鉄甲に片腕で弾かれた。

 それでも行かせまいと、肩を掴もうと伸ばした腕が逆に花琳に掴まれる。

 そしてどこをどうしたのか、護衛の巨体が身長よりも高く浮き、韓儀の体へと落下していった。

「ぐえっ」

 巨漢の体重をその身に受けた韓儀は小動物が踏まれたような声を上げた。

 護衛は韓儀が緩衝材になったため大した傷は受けていないようで、素早く起き上がろうとする。

 が、それよりも花琳の踏み込みの方が早い。顎を思い切り蹴り上げられた。

 仰向けに倒れた護衛の腹へ、花琳はさらに拳を突き下ろす。護衛の体は一度ビクンと跳ねてから力を失い、ぐったりと動かなくなった。

 もう一人の護衛はこの様子に先ほど以上の動揺を見せた。朱烈はそれを見逃さず、先ほどと同じ右腕を突こうとした。

 護衛は慌てて腕を引いたが、その瞬間には腕ではなく右足が突かれていた。朱烈の狙い通りだ。

 そして床に転がったところで左足も貫かれる。護衛の両足から結構な量の血が流れ出た。

「自分で縛って止血しろ。そうすれば死にはせんだろう。お前たちには韓儀の罪について証言してもらわねばならん」

 そう言って懐から縄を取り出すと投げてやった。この足では戦闘能力はもうないと思っていいだろう。

 韓儀の方を振り返ると、ちょうど護衛の下から花琳に引きずり出されていることころだった。朱烈はそこへ早足で向かう。

「花琳さんもその男が憎かろうが、それは私にやらせてくれ」

 朱烈は引きずり出された韓儀の胸ぐらを荒く掴んで持ち上げた。

 韓儀が男とも思えない情けない声を上げる。

「ひぃっ!ま、待ってくれ……」

「今から私はお前を殴る。だがこれは私刑ではない。犯人の逃亡を防ぐため、少しばかり痛めつけて身体能力を奪うのだ」

 朱烈はそう言って思い切り振りかぶり、恐怖にひきつる顔面へ体重と感情の乗った拳を叩きつけた。

 韓儀は勢いよく床を転がってから昏倒した。開いた唇の間から、折れた歯が何本か覗いている。

 朱烈は懐からまた縄を取り出し、素早く韓儀を縛った。

 その後ろで、許靖が花琳へと駆け寄る。

「花琳さん、お怪我はありませんか?」

「ええ、許靖様のおかげで早めに仕留めることができました。でも、危険なことはやめてくださいね」

 そう言って優しく微笑みかける。その顔は先ほど韓儀へ向けていた顔と同じものとは到底思えなかった。

 そんな二人に、朱烈が韓儀を肩に抱えながら言った。

「怪我なく出られるかどうかはこれからだぞ。早く毛清穆先生を助けに行かねば」

 劉翊もそれに同意した。

「そうだな。先生も言っていたが、囲まれるのが一番厄介だ。早く行こう」

 そう言って五人が扉に向かおうとしたところで、逆に毛清穆が部屋に入ってきた。

「なんじゃ、こっちも終わっとったか」

 いつも通りの飄々とした表情で部屋を見回す。

「先生、ご無事で」

 許靖は毛清穆へと駆け寄ったが、その後ろに続く廊下が視界に入り、我が目を疑った。

 そこから見える範囲だけで十数人の兵士が倒れている。皆、意識がないようだった。

「外はもう大丈夫じゃよ」

「……もしかして、屋敷の兵すべてを倒されたのですか?」

 目を丸くする許靖に、毛清穆は笑って答えた。

「この暗さじゃ。全員かどうかなど分からん。じゃが四・五十人くらいはやったから、もう囲まれるほどの人数はおらんじゃろう。出る分には出られるはずじゃ」

 毛清穆の口調は『ちょっとそこまで買い物に行ってきた』といった程度のもので、息も切らしていない。

 許靖はどう答えていいか分からず、毛清穆の瞳の奥の「天地」を見やった。

 そこには柳の木が一本、ただ風に揺れているだけである。

(先生でこれなら、以前言っていた一騎当千の猛者とは一体どんな生き物なのだ……)

 許靖は柳の葉の揺らめきを眺めながら、武というものの底恐ろしさを思った。

 唖然として立ちすくむ許靖に、花琳がまた微笑みかける。

「許靖様、行きましょう。私のそばを離れないでくださいね」

 許靖は武というものの恐ろしさを思う一方、自分の手を取る武術娘の瞳を相変わらず美しいと感じていた。
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