三国志 群像譚 ~瞳の奥の天地~ 家族愛の三国志大河

墨笑

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豫州

腐敗官吏

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 朱烈が叫んで韓儀の方へ踏み出すのと、許靖が椅子を蹴って立ち上がるのとがほぼ同時だったろう。

 許靖は突進する朱烈の腹に頭から突っ込んだ。

 少々でない衝撃が許靖の頭と首に響いたが、なんとか耐えて腰を抱き止める。

「離せ許靖!この男は今ここで、俺の手で殺さねばならん!」

 そう叫んで振りほどこうとする朱烈に、許靖は必死にまとわりついた。

「駄目です!あなたの心の中心は、規律と、法と、正義でできている!いま正式な手続きを経ずに私刑で裁けば、あなた自身の心も壊れます!」

「規律だと!?法だと!?正義だと!?部下たちの無残な死に様を聞いただろう!こいつのような人間は、そんなもの無視してすぐに殺すべきだったのだ!それを私がもたもたしていたから……」

 朱烈の精神が崩れかけているのは韓儀への憎しみだけではなく、自責の念が強く影響しているのだろう。いや、むしろ後者のほうが大きいのかもしれない。

(このまま実際に手を下させてしまったら、きっともう後戻りできない!)

 許靖はそう感じていた。

 それまでの自分を構成していた大事なものを、自らの手で壊す行為だからだ。だがもし今止めることができれば、また元の「天地」に戻すことも可能なはずだった。

「では、死んだ部下たちの気持ちはどうなります!?」

「なに?」

「死ぬ間際まであなたのことを思った部下たちは、あなたの心を愛していたはずです!規律と、法と、正義の朱烈を!今あなたが汚れてしまったら、あなたこそ部下たちに会わす顔がないはずだ!」

「…………」

 朱烈は返す言葉が見つからないまま、激しく呼吸を繰り返した。しかし、やがてかぶりを振った。

「……だが結局のところ今回の自白とて、中央からいいように変えられる可能性もあるのだ」

 それは事前に聞いていたことではあった。

 無罪とはいかないまでも、中央からの干渉次第では軽い刑や役職の罷免で終わることも考えられるとのことだった。

 震える手で剣を上げかけた朱烈の肩が、ぐいっと後ろに引かれた。

 そして次の瞬間、パンッと小気味良い音が部屋に響く。

 見ると、劉翊が朱烈の横面を平手で張っていた。

「朱烈、下らんことを気にするな。こいつの処罰については俺が必ず何とかする。だから、お前はこれまでのお前でいろ。部下たちや俺が愛したお前でいろ。これまでそうしていたように、規律と、法と、正義に基づいて韓儀を捕縛せよ。それが太守の命令だ!!」

 それは有無を言わせない、言えるとは到底思えない威厳に満ちた命令だった。

「劉翊様……」

 朱烈は張られた右側の目から一筋だけ涙を流し、劉翊を見つめ返した。

 そして背筋を伸ばし、踵を鳴らして直立した。

「了解いたしました。郡丞、韓儀を殺人の嫌疑で捕縛いたします」

 その凛とした口調に、許靖は安堵して朱烈から離れた。

 念のため瞳の奥の「天地」を確認すると、崩れかけた街にはまだ雨が降っていた。

 しかし、それは先ほどの泥のような雨とは違う。清らかな乳のような白色の雨だった。

 街を汚していた暗い色がその雨で急速に流されていく。建物の崩壊も止まり、倒れていた人々も起き上がった。

(これならもう大丈夫だ)

「これは驚いたな。朱烈と……劉翊様か?」

 許靖がほっとしている間もなく、韓儀がそうつぶやいた。

 護衛二人にかばわれるようにして、その後ろに立っている。護衛たちは先ほどの鉄球の武器を構え、油断なくこちらをうかがっていた。

 護衛の後ろに隠れている余裕からか、韓儀は笑っていた。

「これはまた……うまく化けられたものですね、劉翊様」

 劉翊も余裕のある表情で笑い返す。

「お前もこんな風に化粧してみてはどうだ?別人になるというのは、思いのほか楽しいぞ。太守などやっていると気が抜けんのでな。別人になったと思えば、色々なことから解放された気分になる」

「私は結構ですよ。私は、私でいるのが好きなのでね」

「まあそう言うな。処刑後の死に化粧ぐらいは手配してやれるぞ」

 韓儀は笑顔のまま沈黙した。

 劉翊は言葉を重ねる。

「太守たる私の前で自白したのだ。もう言い逃れはできん。兵も待機させてある。大人しくこのまま連行されろ」

 韓儀は黙って劉翊を睨み付けていたが、やがて、

「……嘘だな」

そう言ってニヤリと顔を歪めた。

「何がだ」

「兵は待機させていないはずだ」

(妙なところで頭が回る)

 許靖は背筋に冷たいものを感じた。

 韓儀は笑みを浮かべながら続ける。

「太守もご存じのとおり、俺の手のかかった者は民にも、役人にも、兵にもかなりの数がいる。その誰からも兵が動いていることについて報告がない」

「全員、捕縛してあるのさ」

「それも嘘だな。そんな事ができないほどの人数なのは知っているはずだ。つまり、今は俺に情報が洩れて警戒されないように、内密に動いているのだな。兵はあくまで無事に屋敷を出てから動かす気だったのだろう。太守直接の指揮であれば、さすがに俺の息がかかっている者たちも動かざるを得ない」

 劉翊は答えない。韓儀はそれを肯定と受け取った。

「つまり、ここでお前たちを始末しさえすればそれで終わりだ」

 韓儀は懐から鈴を出すと、それを鳴らして大声で叫んだ。

「賊だ!占い師が賊だった!全員殺せ!絶対に屋敷から生かして出すなよ!」

 廊下からバタバタと物音が聞こえ、それが屋敷中に伝播していくのが分かった。

 韓儀は可笑しそうに笑った。

「うちの私兵は五十人を下らんぞ。逃げるのはまず無理だ。まぁ、この二人だけでも間違いなく勝てるが」

 その言葉に、護衛二人が一歩前へ踏み出した。

 それまで沈黙していた毛清穆が、それを見て口を開いた。

「確かにあの二人はできそうじゃな。わしでも少し時間がかかるかもしれん。その間に部屋を囲まれるほうが厄介じゃ。朱烈、花琳」

 二人が答えるように一歩踏み出した。

「わしは外を何とかしておく。あの二人は任せるが、よいか?」

「承知」

「かしこまりましたわ」
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