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豫州

馬磨き

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「なるほど、この量は確かに嫌にもなるかもしれんな」

 部屋に並んだ十以上の漬物の壺と、干し肉や干魚、燻製の山を見て、男はそう言った。これらが一部屋の半分以上を占めている。

「……お恥ずかしい。母が過保護なのです」

 許靖キョセイはそう言ってうつむいた。

「何を言う。良い母上ではないか。それに、今の私には宝の山だ。すまんが持てるだけ持っていくぞ」

 男はそう言って、部屋の隅に転がっていた布袋に食料を詰め始めた。

「では私は今から食べる分の料理を用意をしておきましょう」

「いや、それには及ばん。詰め終わったらすぐに出ていく」

 台所に向かう許靖を男は止めた。

「そう急がずともよろしいでしょう。むしろ夜更けまでこちらに隠れていた方が動きやすいのでは?」

 男はさすがに苦笑した。

「私は一応、脱獄犯だぞ?」

 そう忠告しながら、袋に食料を詰め続ける。

「お前に迷惑をかけるわけにはいかん。脅されて食料を奪われたならまだしも、料理を振る舞っているところを兵に見られれば協力者とみなされるぞ」

「そうかもしれませんが……」

 許靖は正直なところ、この事件に巻き込まれるのが恐ろしかった。男の言う通り、自分の身に災いが降りかかるかもしれないことは分かっている。

 しかしその心の底には臆病さだけでなく優しさが同居している。目の前に困っている人がいれば、つい手を差しのべてしまうのだ。

 つい、というのが最も適した表現だろう。特に深く考えず、つい、この男の力になろうとしていた。

「兵が山中を捜索しているというお話は聞きましたが、こちらにも来るでしょうか?」

「いつかは分からんが、当然来るな。このような場合、山狩りだけでなく周辺の家屋にも踏み込んで家探しするよう、教育してある」

 男は教育、といった。

(軍人か役人か?治安担当部署の管理職か、教育者か……)

 男の言葉尻には引っかかったが、許靖はあまり踏み込んだことを聞かないことにした。それはきっと、己の身を危険に近づけることになる。

「分かりました。とりあえず私が帰宅した時には兵隊らしき人影はこの周囲にいなかったと思います。すぐに現れることもないでしょう」

 この辺りは丘の上で人もまばらだ。

 そういえば共連れで歩いている人を見かけたようにも思うが、遠目には女性二人に見えた。少なくとも兵には見えなかったし、兵であればそう気付いただろう。

 男は袋に食料を詰めながらうなずいた。が、その時、表の戸を叩く音が聞こえた。

 許靖と男の目が合う。

 つい今しがた兵はいなさそうだと言ったばかりだけに、許靖の目は動揺に泳いだ。騙そうとしたわけではない。

 それが男にも伝わったのだろう、男は許靖を安心させるように一つうなずいた。そして小声で、早口に言った。

「もし兵なら私のことは黙っていてほしい。私が出て行ってから兵の屯所へ駈け込んで『しゃべれば刃物を後ろから投げつけると脅された』とでも言えばいい」

 許靖は急いで三度、首を縦に振った。

「それで、この家でどこか隠れられるところは……」

 男がそこまで口にしたところで、外から声がかかった。

「申し訳ございません。どなたか、いらっしゃらないでしょうか?」

 それは兵隊の言葉にしては優しすぎる口調だった。それどころか、この高い声はどう聞いても女の声だった。

 二人いるようで、声が聞こえた直後から玄関の外で女二人が言い合いをしているような声が漏れてくる。

 どうやら兵の家探しではない。

 そう感じ取った二人はほっと息を吐いた。

 それほど警戒する必要もないと感じた許靖は、とりあえず行李こうりと漬物の壺に囲まれた部屋の隅を指さした。行李も壺も大きくて大量に並んでいるので、奥まで入ってこない限り一応の死角にはなっている。

 男はうなずき、許靖の指示通りそこで体を縮こませた。

「はい、今出ます」

 許靖は気持ちを落ち着かせながら玄関へ向かった。

(近所の人か、通りすがりの人か)

 外からは、まだ言い合う声が聞こえてくる。

「お嬢様、やはりやめましょう」

「もう声をかけてしまったのよ。恐ろしければ、あなただけ帰りなさい」

「お嬢様を置いて帰れるわけないでしょう」

「であれば、腹をくくりなさい」

「そんな……」

 そんなやり取りが聞きとれる。

(やはり兵ではない)

 許靖は安心して戸を開けた。

 そこには二人の娘が立っていた。一人は二十歳ぐらいの長身で、落ち着いた雰囲気の娘。もう一人はまだ十代半ばを過ぎたくらいだろう、小柄で活発そうな娘だった。

 年上で長身の娘があるじ、年下で小柄な娘が従者のようで、それは二人の身なりから推察された。見たところ、高級役人か商人の娘とその従者、といったところか。

 従者が主の袖を引いて、不安そうに今回の訪問を止めようとしているようだった。

 主の娘はそれをパッと払い、

「失礼いたしました。私……」

 と、そこまで言ったところで、許靖と娘の目が合った。

 目が合った途端、娘の瞳の奥から大量の桜の花びらが奔流となってあふれ出た。

 その花びらは、まるで大河が氾濫を起こしたのではないかと思うほどの量と勢いで許靖を飲み込んでしまった。

(桜の花で、溺れ死ぬ……!!)

 一瞬そんな思考が頭に浮かんだが、気がつくと花びらたちは許靖を優しく包み込むように周囲を舞い始めていた。視界が桜一色に染め上げられ、この世のものとも思えない幻想的な光景が広がっている。

 許靖はしばしその美しさにみとれていたが、やがて視線が花びらをかき分けるようにしてその奥へとたどり着いた。

 そこには一本の桜の大樹がたたずんでいた。それは優美でありながら力強さを感じさせ、これまでに出会ったことがない、しかしどこか懐かしいように感じられる、不思議な桜だった。

(私は今、この娘の「天地」の中にいる)

 許靖はようやくそのことに気がついた。溺れそうなほどの花びらと、あまりに美しい桜の樹とに心奪われ、脳が麻痺したようになっている。

 自分が正気かどうかも分からない中で、許靖は思った。

(……ずっとここにいたい。ずっと、この木に寄り添っていたい)

 そう感じたのは、美しさや心地よさだけが理由ではない。荘厳とさえ感じさせる大樹であるにもかかわらず、許靖はその桜にどこか儚げな寂しさを感じていた。

 この大樹のいったいどこが儚げなのか、寂しそうなのか。仮に何千人、何万人が同じ景色を見たとしても、そう感じるのは許靖だけだっただろう。

 その不思議な儚さと寂しさに、許靖はずっと寄り添っていたいと感じたのだった。
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