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ここまでのおさらい、治打撲一方1
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瑤姫の視界を街の景色が流れていく。屋根から屋根へ跳び移りながらの移動中なので、自然と見晴らしは良い。
時刻はすでに五時を過ぎているのだが、夏の陽は長くてまだまだ沈みそうにない。その強い西陽に当てられた景の顔がすぐ近くにある。
(景にお姫様抱っこで運ばれるのは、これで何度目だっけ?)
ふと、そんなことを考えた。
瑤姫は景にお姫様抱っこをされるのが嫌いではない。というか、好きだ。とても好きなのだ。
闘薬術で抱えられて運ばれる時、実は人によってその快適度が異なる。
無意識の念動力によって運ばれる側の負荷が減らされるのだが、無意識であるがゆえに使い手ごとでそのかかり方が違うのだ。
心根の優しい人間に運ばれる時は、非常に快適だ。ほとんど負荷がかからないどころか、どんな姿勢でも疲れを感じない。
そして景に運ばれる時はというと、この上なく快適なのだった。
だから景が嫌味を言ってきても、怒鳴ってきても、心根の優しさを知っているから大してこたえなかった。
今も瑤姫をお姫様抱っこで運んでくれる景は、無意識にこちらを気づかってくれている。飛び跳ねて移動しているにもかかわらず、ひどく快適だった。
しかし瑤姫の胸は、まるで石でも乗せられているかのように重い。肉体に感じる快適感とは別に、喉につかえるような不快感の塊がある。
瑤姫はそれを吐き出すように、間近にある景の頬へ疑問をぶつけてみた。
「ねぇ、景ってどうして漢方が嫌いなの?」
ぶつけられた景の頬は、ピクリと動いた。
瑤姫がこう尋ねたのは、蚩尤との会話で景が漢方に激しく反応していたからだ。
蚩尤が医療を漢方に独占させるという話をした時、景はとても怒っていた。瑤姫は純粋に闘薬術の有効活用、そして占領政策の一種だろうと受け取ったが、景はもう少し違うものを感じていたように思う。
その怒り方は瑤姫が恐ろしいと思えるほどで、なぜか月子たちが殴られて怒った時も似たような恐ろしさを感じた。
だから瑤姫の知らない景を知るためには、そこが分からなければならないと思ったのだ。
「いいだろ、別に」
しかし景はいつも通り、適当な言葉ではぐらかそうとした。
「それより今は蚩尤のことだ。勝てなくても、一矢ぐらいは報いてやらないとな」
景はそのために瑤姫を抱えて移動している。向かう先は月子と由紀が教えてくれた、蚩尤の秘密基地だ。
あの後、亀井南陽と北陽の兄弟によってかなり正確な位置も分かっている。そこに乗り込んで、暴れるだけ暴れてやるつもりだった。
「大切な秘密基地みたいだからな。出来るだけぶっ壊して、悪態の一つも吐かせてやろうぜ」
そう言って笑う景の顔がぐっと引き下げられた。
瑤姫が首に回していた腕に力を込めて、自分へと抱き寄せたからだ。
「よ、瑤姫……?」
いきなりのことに、景は戸惑いの声を上げた。
瑤姫の頬が自分の頬に押し付けられ、甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。
瑤姫は花に変化できる神だからか、常に甘い香りを漂わせている。
「鯖折りよ。このまま骨を潰されたくなければ正直に話しなさい」
「……は?」
景は戸惑いをさらに深くした。どうにも言われていることが滅茶苦茶だ。
「いや……鯖折りって首に手をかけるんじゃなくて、胴体に腕を回して締め付けるもんだろ」
「じゃあ、こう」
瑤姫は指摘された通りに腕を胴体に回し、力いっぱい締め付けた。ただし顔は胸にうずめているから、傍目にはただ抱きついているようにしか見えない。
景としては抱えにくくなって迷惑だが、闘薬術の念動力のおかげで瑤姫はその体勢でも辛くない。
不安定な姿勢のまま、景に体を押し付け続けた。
「っていうか闘薬術で身体強化してるんだから、どうやっても折れないだろ……」
呆れたような景の胸を、瑤姫は大口を開けてガブリと噛んだ。
「いてっ」
実際に痛かったわけではないが、反射的に声が出た。
「いてっ、じゃないわよ!私はあなたの女神よ!?無駄なことは言わないで、聞かれたことに答えなさいよ!」
瑤姫はあらんかぎりの大声で叫んだ。胸に口を押し付けているから、体の奥まで響いてくる。
その振動に景が参っているところへ、瑤姫はさらに追い打ちをかけた。
「答えないと乳首を噛み千切るわよ」
まったくもって恐ろしいこの脅迫に、景は苦笑して降参することにした。
実際に千切れなくても、シャツくらいは噛み破りそうだ。乳首だけ穴の開いた恥ずかしい格好で殴り込みをしたくない。
「分かったよ。話す。話すからやめてくれ」
景はそう言ってから、マンションの上で足を止めた。高層とはいかずとも十階ほどはあるマンションで、ここなら立ち止まっていてもさほど目につかないだろう。
その屋上に瑤姫を下ろし、唾で濡れたシャツに苦笑を深めながら口を開く。
「別に、面白い話でもないけどな……」
そう一言断ってから話し始めた。
「俺が小学生の頃、ある人気芸能人が癌で亡くなったんだけど……」
***************
その日、小学生の景はいつも通りの学校生活を終え、いつも通りに下校した。
今日もごく普通の、ありふれた日だ。
そう思えたのは玄関の扉を開けるところまでだった。
「だから!うちじゃないって言ってるでしょ!」
父がスマホを片手に怒鳴ってた。
景の父親は基本的には温厚な人で、怒っているのを見ることなどほとんどない。
しかし今の父はどう見ても激昂してるとしか思えない様子だった。
「確かにうちには来ましたよ!でもそれはこの人の病気が発覚する一年以上前なんですって!」
また怒鳴りながら、父はテレビの画面を指さした。
音声通話なので相手に見えるはずなどないのだが、そうせずにはいられないほど焦っているようだった。
代わりというわけではないが、景がそのテレビ画面に目を向けた。
(ワイドショー?……あ、よく見るあの芸能人が死んだのか)
流れている番組では人気芸能人の訃報について報道されていた。ゴールデンのバラエティ番組にもよく出ていたので景も知っている芸能人だ。
パネルに書いてあるのを見ると、癌で死んだらしい。
それ自体は別にありふれたニュースなのだが、そこには他にもいくつか情報が書かれていた。
『手術せず、抗がん剤も使わず』
『漢方だよりの自然派治療?』
『科学的根拠に基づかない自己治療で手遅れに』
それらの文字の羅列から、幼い景でもおおよその事情は把握できた。
(そういえばあの芸能人、自然派?とか言って天然のものだけを売ってる会社を経営してたんだっけ?)
テレビでそんな話をしていたような記憶がある。
つまり、たまにいる『天然物以外は体に入れたくありません』、『化学合成された人工物は体に悪いに決まってる』という種類の人間だったのだろう。
(それでちゃんとした治療を受けない内に癌が進行して、死んじゃったんだ)
事実は大方のところ、景の考えた通りだった。
この芸能人はちゃんとした病院でしかるべき治療法を提示されたにも関わらず、それを拒否したのだ。
そして発見当初なら十分に治療可能だった癌が大きくなり、さらに転移し、手がつけられなくなった。
結果として、死なでもの命を失ってしまったのである。
(でも……何であそこに、うちの薬局の写真があるんだ?)
テレビ画面に映されたワイドショーのパネル、その一隅に『張中漢方堂薬局』という看板を掲げた薬局の写真が載せられていた。
景の実家の薬局だ。
意味も分からずボーっとそれを見つめる景の耳に、変わらず怒り心頭の父の声が響く。
「そりゃ昨日はうちのお客さんだって答えましたよ!ご本人もSNSで紹介してくれましたし!でもいつ来たのかとか、何を買ったのかとか言わなかったでしょうが!なのに、どうしてうちが癌に効くとかいう怪しげな漢方を売ったことになってるんですか!」
(……え?うちが怪しげな漢方を売ったから死んだことになってるの?)
父の叫ぶような抗議から、薄っすらと事態が推察できた。
そしてそれが地上波のテレビで流れているというのは、とんでもない事態なのだろうと小学生の景にも理解できた。
しばらく電話口で怒鳴り散らしていた父は通話を終え、そのスマホをクッションに投げつけた。
こんな風に物に当たる父を見たことのない景は、驚いて鞄を床に落とした。
「……ああ、景。帰ってたのか。ちょっと大変なことになっててな……」
父は落ち着こうと意識し、数度深呼吸してから続けた。
「テレビでうちの薬局が報道されて……」
そう言って父は大体の経緯を話してくれたが、やはり景の推察したのとほぼ同じだった。
癌を患った人気芸能人が手術や抗がん剤を拒否し、漢方などの天然物を使った自己治療を試みた。そしてそれを行っている内に癌が進行し、亡くなってしまった。
その漢方薬を売った薬局として、景の実家の漢方薬局が今まさに報道されている。
つまり、患者の適切な治療を妨げてまで儲けようとした薬局として報じられているのだ。
根拠になったのは、二年も前にその芸能人がSNSに上げていた張中漢方堂薬局の写真だ。胃腸の不調を訴えて相談したところ、良い漢方を勧めてもらったという投稿だった。
これを見た一部のSNSユーザーが、今回の漢方を売ったのも同じ薬局だろうと言い出した。
そこには何の根拠もなかったのだが、その芸能人が薬局の前で撮った写真がバッチリある。すぐに大炎上に発展した。
それがテレビ局の目にもとまったわけだが、本当に張中漢方堂薬局で間違いないかの確認は局の方でも行われなければならない。
当然のことながら、直接電話があった。それが昨日のことだ。
「昨日電話で答えたのは、あの芸能人がうちのお客さんだってことだけだ。あの時ご本人からSNSに上げていいか聞かれてたし、ならそれは答えていいと思ったんだよ。でもいつ、何を買って行ったかは個人情報に当たる。だから答えられないって言ったら、それをただの誤魔化しだと思われたらしくてな……」
景の父親は苦々しげにそう話した。
そして今日の報道に至ったのである。
すぐに抗議の電話を入れたわけだが、訂正の報道は少なくとも明日以降になるということだった。テレビ局の方でも改めて事実確認などが必要になるらしい。
「景、お前もこれから色々と言われるかもしれないが、堂々としていろ。何か聞かれたら、正直にありのままを話せばいい。うちの薬局は何も悪いことはしてないんだからな」
両手を肩に置かれ、景は諭されるようにそう言われた。
景もその通りだと思ったから、無言でしっかりとうなずいた。
ただ、そうしたからと言って嫌な目に遭わないわけではないということは、翌日にはすぐに分かった。
登校したところ、校門のところでほとんど知らない上級生から、
「人殺しの薬局だ!」
と言って指さされたのだ。おそらく親か誰かから例の報道のことを聞かされたのだろう。
「え?何々?何の話?」
と言って他の生徒たちが集まってきたので、景は真実を説明しようと近づいていった。
しかしそこでまたその上級生が、
「漢方臭いんだよ!あっち行け!」
と言いながら蹴りを食らわしてきた。
小学生のうちは数歳差でも体格の違いが大きい。
景は二、三メートルも飛ばされて、逃げるようにその場を去った。
そしてその日からしばらくは最悪の日々だった。
「漢方臭い」
「人殺し」
等の悪口は定番で、
「詐欺」
「毒薬屋」
「銭ゲバ」
とも言われた。
もちろん景の両親が学校に申し入れて、先生から生徒たちへの説明はしてくれた。
しかし一部の馬鹿な子供はいじめて良いものを手放すのが惜しかったのか、その後も景を攻撃し続けた。
特に『漢方臭い』という文句は、今回の一件と関係ないといえば関係ない。その後もそんなことを言ってくる人間はいた。
子供にとって臭いなどの汚いモノ扱いは辛い。精神的にこたえる。
景はこの時点でかなり漢方に対して嫌な思いを抱いていた。実家の薬局でその臭いを嗅ぐだけで気分が悪くなった。
唯一幸いだったのは、景と仲の良い友人たちは皆が景のことをかばってくれたことだ。
嫌な人間が来れば守るように間に立ち、他のクラスに行って説明してくれたりもした。
また、店のある商店街の人間たちも親切だった。慰めてくれただけでなく、誤報道だというビラも配ってくれた。
身近な人たちは誰もが優しく、幼い景の心には近しい人間こそが大切にすべきものだと強く刻み込まれた。
しかし、報道を信じた芸能人のファンたちは薬局に嫌がらせをしてくるのである。真実を知りもしないのに迷惑電話をしてきたり、勝手に出前を入れたり、店に落書きをしたり、汚したり……
自然と景の中で、世間とか世の中の人間といった大きな枠に入る存在の比重は小さくなっていった。
もちろん後日、番組内で訂正の報道はされたのだが、そんなものは三十秒にも満たない時間であり、そうそう目には止まらない。
誤解したままのファンも多く、嫌がらせや苦情はしばらく止まなかった。
そしてその処理のために、景が店を手伝わされることが多くなった。落書きはなかなか落ちないし、掃除をするのも大変なのだ。
しかも漢方臭いといういじめは続いている。最悪な気分で薬局の床を拭いていたある日、景の耳に、
パリーンッ!
という甲高い音が響いた。
そしてその直後、額が妙に熱くなった。
足元を見ると、ガラスが散乱した中にコンクリートブロックが落ちている。そしてそこへポタポタと赤いものが落ちてきた。
薬局のガラス戸にコンクリートブロックが投げつけられ、割れたガラスの破片が景の額を傷つけたのだ。
死ぬような傷ではなかったのだろうが、景はなかなか見ない量の己の血に呆然とした。
「お前!何をするんだ!」
景の父親が叫びながら店の奥から飛び出してくる。
犯人と思われる男は逃げもせず、父と取っ組み合いになった。
「お前の店が!お前の店があの人を殺したんだろうが!人殺しがこれくらいで文句を言うな!」
どうやら誤解がまだ解けていないままのファンが起こした暴挙らしい。
「それは誤報道で……」
と、父はすでに幾度となく繰り返した説明をしようとした。
しかしこのファンは聞こうとする素振りをまるで見せず、一方的にまくし立てる。
「だいたい漢方薬なんて現代では不要なんだよ!漢方がなくたって死ぬ人はいないけど、あるから死ぬ人が出ちゃったじゃないか!」
「それは、漢方が悪いわけじゃ……」
漢方薬局の店主は当然そう反論する。
しかし、このファンにはファンなりの理屈があった。
「悪いんだよ!漢方は効果が出るまでに何ヶ月もかかることがあります、とか言うのが常套句だろうが!その何ヶ月で手遅れになる人もいるんだよ!」
「いや、漢方でも合っていれば早めに効果が……」
「じゃあ何ヶ月もかかることはないんだな!?」
「それは……」
「あるんだろうが!それ自体が漢方の罪なんだよ!」
景は母親に額の傷を押さえられながら、二人の言い合いを聞いていた。
そして意外なことに、景は自身を不条理に傷つけたファンの男の言うことに関して一定の理を見出していた。
確かに漢方は十分な効果が出るまでにしばらくかかることもある。
父が言おうとしたように、その人に合った適切な処方であれば早期に効果が出ることが多いのだが、長めに飲むこともままあるのが実情だ。
景はそう聞いていたからファンの言うことがあながち間違いではないと思った。
悪いことに、漢方臭いと言われて漢方が嫌になっていた時期でもある。
景はその気分にも乗せられて、自身の将来を一つ決めることにした。
***************
「それで俺は大人になったら薬剤師になって、漢方を買いに来た人に片っ端から病院での検査と治療を勧めようと思ったんだよ」
遠い目で景がそう言ったのを聞き、瑤姫は苦笑してしまった。
漢方薬局の息子が、漢方を買いに来た人間に対して受診と検査を勧めるために薬剤師になろうとしている。
そんな笑い話のような存在が目の前にいるのだ。苦笑しない方がおかしい。
「何ていうか……学費を出してるご両親に同情するわ」
「俺もだ」
息子本人に同情されたのでは両親も立つ瀬がないだろう。
何にせよ、瑤姫は景からの話を聞いて粗方の疑問は解消できた。
不幸な事件と幼い感性によって、景の漢方嫌いは形作られたわけだ。
それに、景の戦いに対する姿勢についても得心がいった。この青年は世の中のために戦えと言われても拒絶する一方で、月子や由紀が関わってくると迷いなく戦いに身を投じる。
それは幼い景が事情を知りもしない赤の他人から悪意を向けられ、身近な人間たちがかばってくれたからだ。
世間や社会のためと言われてもピンとこないが、近しい人間のためなら立ち上がれる。そういう人間に育つだけの事情があった。
その姿勢にせよ、漢方嫌いにせよ、ある程度の非合理性を持っていることに、おそらく景も気づいている。だから景はなかなか話そうとしなかったのだろう。
瑤姫はそう考えて、これ以上景の言うことを否定するのはやめた。
その代わり、一つ質問を投げかける。
「ねぇ、景。あなたも今日まで薬学部で色々学んできたんでしょ?その上で、今でも漢方を買いに来た人に、ただ受診を勧めればいいと思う?」
「……ふん」
と、鼻を鳴らして景は答えた。
「俺はもう子供じゃないし、現実主義者だからな。片っ端から病院に行けって言うのが問題ありまくりなのは分かってるさ」
どんなケースでもすぐに病院へ行けばいい、という考えには大きな問題がある。景は講義でそう習ったし、その通りだと思った。
市販薬や自己努力で健康を維持する行為をセルフメディケーションというが、現代社会においてセルフメディケーションはとても重要視されている。
過剰な受診は医療費を増加させるし、そんな時間がない人も多い。それに患者があふれて病院機能がパンクすれば、本当に必要な人に十分なケアが届かなくなる。
「結局のところ、大切なのは適切な受診勧奨だ。でもその適切ってのは人によってある程度違って、俺はきっと受診を勧める閾値の低めな薬剤師になると思う。他の人よりも早めの受診を勧めるよ」
「いいんじゃない?そういう薬剤師がいても。お店の売上とか、お客さんの期待に応えたい気持ちとか、そういうのが邪魔して受診勧奨が遅くなることは普通にあるでしょ?でも景はそんなのとは無縁の薬剤師になれるわよ」
実際には現場で働く上で、そういうものと無縁でいられる薬剤師などいないだろう。
しかし景ならその中で、患者のことを第一に考えられる薬剤師になれるだろうと思った。
「あとね、もう一つ聞かせて欲しいの。医聖としてしばらく活動して、今でも景は漢方が嫌い?」
瑤姫は微笑みながら、そう尋ねた。聞く前から答えを知っているからこそ、できる顔だ。
風邪の引きはじめに効いた葛根湯
インフルエンザに効いた麻黄湯
虚弱者の風邪に効いた桂枝湯
過敏性腸症候群に効いた桂枝加芍薬湯と桂枝加芍薬大黄湯
生理痛に効いた当帰建中湯
更年期障害やPMSに効いた桂枝茯苓丸、当帰芍薬散、加味逍遙散
疲労や消耗に効いた補中益気湯
夏バテに効いた清暑益気湯
夜泣きやパニックに効いた甘麦大棗湯
こむら返りに効いた芍薬甘草湯
ストレス性の胃腸炎に効いた半夏瀉心湯
機能性ディスペプシアに効いた六君子湯と、それを構成する基本処方の四君子湯、二陳湯
それらのもたらす利益を、救われた人たちを知っている景が、漢方なんて無くなればいいなどと思っているはずがない。
それを分かった上での余裕の微笑みに、景はいつもとは少し違う苛立ちを覚えた。
再度ふん、と鼻を鳴らし、どこか恥ずかしげに瑤姫から目を逸らした。
「まぁ……漢方が効きそう人は飲んでみりゃいいんじゃないか?」
それはつまるところ、漢方に対してトラウマを持ったこの青年が、漢方の有用性を認めたという告白だ。
その素直でない言い方に、瑤姫はアハハと大きな笑い声を上げた。
景としても笑われても仕方ないという自覚があるから、不機嫌な顔でそっぽを向き続ける。
瑤姫はその顔に突撃するように、ピョンと跳ねて飛びついた。
「うわっと……」
慌てて景がそれを受け止めると、先ほどと同じ、お姫様抱っこの形になった。
「よ~し、じゃあスッキリしたところで、蚩尤のバカを殴りに行きましょう!」
えいえいおー、と元気良く拳を上げる。
その明るさに景はフッと息を吐いて、気持ちを入れ替えることにした。このバカみたいな明るさを前にしたら、いつまでも暗い顔はしていられない。
鋭い目つきでこれから行く先を睨みつけた。西陽を掲げるように佇む山頂の向こう、そこに蚩尤がいるはずだ。
「そうだな。どこまでやれるかは分からないけど、このままじゃどうにも収まりがつかない」
景はそう言って、片頬を二イッと持ち上げた。
口元は笑っているのに、目だけは笑っていない。抑えきれない怒りを滲ませた、迫力のある顔だ。
しかし、瑤姫はもう怖くない。
この青年に初めて出会った時、張中景という名前の漢字を見て、自分にも張仲景のような医聖が見つかったのだと喜んだ。
しかし景の言動は伝説に謳われる張仲景とはかけ離れていて、瑤姫は人でなしと罵った。にんべんが無いだけで、こんなにも違うのかと憤った。
きっと本物の張仲景は、こんな凶悪な笑い方もしなかっただろう。
「でも、私の張仲景はあなたでいい」
瑤姫はクスリと笑い、ごくごく小さな声でつぶやいた。
ほとんど口の中だけで発せられたその言葉は、景の耳に届いたけれどよく聞き取れなかった。
「ん?何か言ったか?」
「ううん、何でもない」
瑤姫は首を横に振り、再び拳を上げる。
「それより早くレッツラゴーよ!走りなさい!私の医聖!」
その言い様に、景はやれやれと肩をすくめてから駆け出した。
時刻はすでに五時を過ぎているのだが、夏の陽は長くてまだまだ沈みそうにない。その強い西陽に当てられた景の顔がすぐ近くにある。
(景にお姫様抱っこで運ばれるのは、これで何度目だっけ?)
ふと、そんなことを考えた。
瑤姫は景にお姫様抱っこをされるのが嫌いではない。というか、好きだ。とても好きなのだ。
闘薬術で抱えられて運ばれる時、実は人によってその快適度が異なる。
無意識の念動力によって運ばれる側の負荷が減らされるのだが、無意識であるがゆえに使い手ごとでそのかかり方が違うのだ。
心根の優しい人間に運ばれる時は、非常に快適だ。ほとんど負荷がかからないどころか、どんな姿勢でも疲れを感じない。
そして景に運ばれる時はというと、この上なく快適なのだった。
だから景が嫌味を言ってきても、怒鳴ってきても、心根の優しさを知っているから大してこたえなかった。
今も瑤姫をお姫様抱っこで運んでくれる景は、無意識にこちらを気づかってくれている。飛び跳ねて移動しているにもかかわらず、ひどく快適だった。
しかし瑤姫の胸は、まるで石でも乗せられているかのように重い。肉体に感じる快適感とは別に、喉につかえるような不快感の塊がある。
瑤姫はそれを吐き出すように、間近にある景の頬へ疑問をぶつけてみた。
「ねぇ、景ってどうして漢方が嫌いなの?」
ぶつけられた景の頬は、ピクリと動いた。
瑤姫がこう尋ねたのは、蚩尤との会話で景が漢方に激しく反応していたからだ。
蚩尤が医療を漢方に独占させるという話をした時、景はとても怒っていた。瑤姫は純粋に闘薬術の有効活用、そして占領政策の一種だろうと受け取ったが、景はもう少し違うものを感じていたように思う。
その怒り方は瑤姫が恐ろしいと思えるほどで、なぜか月子たちが殴られて怒った時も似たような恐ろしさを感じた。
だから瑤姫の知らない景を知るためには、そこが分からなければならないと思ったのだ。
「いいだろ、別に」
しかし景はいつも通り、適当な言葉ではぐらかそうとした。
「それより今は蚩尤のことだ。勝てなくても、一矢ぐらいは報いてやらないとな」
景はそのために瑤姫を抱えて移動している。向かう先は月子と由紀が教えてくれた、蚩尤の秘密基地だ。
あの後、亀井南陽と北陽の兄弟によってかなり正確な位置も分かっている。そこに乗り込んで、暴れるだけ暴れてやるつもりだった。
「大切な秘密基地みたいだからな。出来るだけぶっ壊して、悪態の一つも吐かせてやろうぜ」
そう言って笑う景の顔がぐっと引き下げられた。
瑤姫が首に回していた腕に力を込めて、自分へと抱き寄せたからだ。
「よ、瑤姫……?」
いきなりのことに、景は戸惑いの声を上げた。
瑤姫の頬が自分の頬に押し付けられ、甘い花の香りが鼻腔をくすぐる。
瑤姫は花に変化できる神だからか、常に甘い香りを漂わせている。
「鯖折りよ。このまま骨を潰されたくなければ正直に話しなさい」
「……は?」
景は戸惑いをさらに深くした。どうにも言われていることが滅茶苦茶だ。
「いや……鯖折りって首に手をかけるんじゃなくて、胴体に腕を回して締め付けるもんだろ」
「じゃあ、こう」
瑤姫は指摘された通りに腕を胴体に回し、力いっぱい締め付けた。ただし顔は胸にうずめているから、傍目にはただ抱きついているようにしか見えない。
景としては抱えにくくなって迷惑だが、闘薬術の念動力のおかげで瑤姫はその体勢でも辛くない。
不安定な姿勢のまま、景に体を押し付け続けた。
「っていうか闘薬術で身体強化してるんだから、どうやっても折れないだろ……」
呆れたような景の胸を、瑤姫は大口を開けてガブリと噛んだ。
「いてっ」
実際に痛かったわけではないが、反射的に声が出た。
「いてっ、じゃないわよ!私はあなたの女神よ!?無駄なことは言わないで、聞かれたことに答えなさいよ!」
瑤姫はあらんかぎりの大声で叫んだ。胸に口を押し付けているから、体の奥まで響いてくる。
その振動に景が参っているところへ、瑤姫はさらに追い打ちをかけた。
「答えないと乳首を噛み千切るわよ」
まったくもって恐ろしいこの脅迫に、景は苦笑して降参することにした。
実際に千切れなくても、シャツくらいは噛み破りそうだ。乳首だけ穴の開いた恥ずかしい格好で殴り込みをしたくない。
「分かったよ。話す。話すからやめてくれ」
景はそう言ってから、マンションの上で足を止めた。高層とはいかずとも十階ほどはあるマンションで、ここなら立ち止まっていてもさほど目につかないだろう。
その屋上に瑤姫を下ろし、唾で濡れたシャツに苦笑を深めながら口を開く。
「別に、面白い話でもないけどな……」
そう一言断ってから話し始めた。
「俺が小学生の頃、ある人気芸能人が癌で亡くなったんだけど……」
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その日、小学生の景はいつも通りの学校生活を終え、いつも通りに下校した。
今日もごく普通の、ありふれた日だ。
そう思えたのは玄関の扉を開けるところまでだった。
「だから!うちじゃないって言ってるでしょ!」
父がスマホを片手に怒鳴ってた。
景の父親は基本的には温厚な人で、怒っているのを見ることなどほとんどない。
しかし今の父はどう見ても激昂してるとしか思えない様子だった。
「確かにうちには来ましたよ!でもそれはこの人の病気が発覚する一年以上前なんですって!」
また怒鳴りながら、父はテレビの画面を指さした。
音声通話なので相手に見えるはずなどないのだが、そうせずにはいられないほど焦っているようだった。
代わりというわけではないが、景がそのテレビ画面に目を向けた。
(ワイドショー?……あ、よく見るあの芸能人が死んだのか)
流れている番組では人気芸能人の訃報について報道されていた。ゴールデンのバラエティ番組にもよく出ていたので景も知っている芸能人だ。
パネルに書いてあるのを見ると、癌で死んだらしい。
それ自体は別にありふれたニュースなのだが、そこには他にもいくつか情報が書かれていた。
『手術せず、抗がん剤も使わず』
『漢方だよりの自然派治療?』
『科学的根拠に基づかない自己治療で手遅れに』
それらの文字の羅列から、幼い景でもおおよその事情は把握できた。
(そういえばあの芸能人、自然派?とか言って天然のものだけを売ってる会社を経営してたんだっけ?)
テレビでそんな話をしていたような記憶がある。
つまり、たまにいる『天然物以外は体に入れたくありません』、『化学合成された人工物は体に悪いに決まってる』という種類の人間だったのだろう。
(それでちゃんとした治療を受けない内に癌が進行して、死んじゃったんだ)
事実は大方のところ、景の考えた通りだった。
この芸能人はちゃんとした病院でしかるべき治療法を提示されたにも関わらず、それを拒否したのだ。
そして発見当初なら十分に治療可能だった癌が大きくなり、さらに転移し、手がつけられなくなった。
結果として、死なでもの命を失ってしまったのである。
(でも……何であそこに、うちの薬局の写真があるんだ?)
テレビ画面に映されたワイドショーのパネル、その一隅に『張中漢方堂薬局』という看板を掲げた薬局の写真が載せられていた。
景の実家の薬局だ。
意味も分からずボーっとそれを見つめる景の耳に、変わらず怒り心頭の父の声が響く。
「そりゃ昨日はうちのお客さんだって答えましたよ!ご本人もSNSで紹介してくれましたし!でもいつ来たのかとか、何を買ったのかとか言わなかったでしょうが!なのに、どうしてうちが癌に効くとかいう怪しげな漢方を売ったことになってるんですか!」
(……え?うちが怪しげな漢方を売ったから死んだことになってるの?)
父の叫ぶような抗議から、薄っすらと事態が推察できた。
そしてそれが地上波のテレビで流れているというのは、とんでもない事態なのだろうと小学生の景にも理解できた。
しばらく電話口で怒鳴り散らしていた父は通話を終え、そのスマホをクッションに投げつけた。
こんな風に物に当たる父を見たことのない景は、驚いて鞄を床に落とした。
「……ああ、景。帰ってたのか。ちょっと大変なことになっててな……」
父は落ち着こうと意識し、数度深呼吸してから続けた。
「テレビでうちの薬局が報道されて……」
そう言って父は大体の経緯を話してくれたが、やはり景の推察したのとほぼ同じだった。
癌を患った人気芸能人が手術や抗がん剤を拒否し、漢方などの天然物を使った自己治療を試みた。そしてそれを行っている内に癌が進行し、亡くなってしまった。
その漢方薬を売った薬局として、景の実家の漢方薬局が今まさに報道されている。
つまり、患者の適切な治療を妨げてまで儲けようとした薬局として報じられているのだ。
根拠になったのは、二年も前にその芸能人がSNSに上げていた張中漢方堂薬局の写真だ。胃腸の不調を訴えて相談したところ、良い漢方を勧めてもらったという投稿だった。
これを見た一部のSNSユーザーが、今回の漢方を売ったのも同じ薬局だろうと言い出した。
そこには何の根拠もなかったのだが、その芸能人が薬局の前で撮った写真がバッチリある。すぐに大炎上に発展した。
それがテレビ局の目にもとまったわけだが、本当に張中漢方堂薬局で間違いないかの確認は局の方でも行われなければならない。
当然のことながら、直接電話があった。それが昨日のことだ。
「昨日電話で答えたのは、あの芸能人がうちのお客さんだってことだけだ。あの時ご本人からSNSに上げていいか聞かれてたし、ならそれは答えていいと思ったんだよ。でもいつ、何を買って行ったかは個人情報に当たる。だから答えられないって言ったら、それをただの誤魔化しだと思われたらしくてな……」
景の父親は苦々しげにそう話した。
そして今日の報道に至ったのである。
すぐに抗議の電話を入れたわけだが、訂正の報道は少なくとも明日以降になるということだった。テレビ局の方でも改めて事実確認などが必要になるらしい。
「景、お前もこれから色々と言われるかもしれないが、堂々としていろ。何か聞かれたら、正直にありのままを話せばいい。うちの薬局は何も悪いことはしてないんだからな」
両手を肩に置かれ、景は諭されるようにそう言われた。
景もその通りだと思ったから、無言でしっかりとうなずいた。
ただ、そうしたからと言って嫌な目に遭わないわけではないということは、翌日にはすぐに分かった。
登校したところ、校門のところでほとんど知らない上級生から、
「人殺しの薬局だ!」
と言って指さされたのだ。おそらく親か誰かから例の報道のことを聞かされたのだろう。
「え?何々?何の話?」
と言って他の生徒たちが集まってきたので、景は真実を説明しようと近づいていった。
しかしそこでまたその上級生が、
「漢方臭いんだよ!あっち行け!」
と言いながら蹴りを食らわしてきた。
小学生のうちは数歳差でも体格の違いが大きい。
景は二、三メートルも飛ばされて、逃げるようにその場を去った。
そしてその日からしばらくは最悪の日々だった。
「漢方臭い」
「人殺し」
等の悪口は定番で、
「詐欺」
「毒薬屋」
「銭ゲバ」
とも言われた。
もちろん景の両親が学校に申し入れて、先生から生徒たちへの説明はしてくれた。
しかし一部の馬鹿な子供はいじめて良いものを手放すのが惜しかったのか、その後も景を攻撃し続けた。
特に『漢方臭い』という文句は、今回の一件と関係ないといえば関係ない。その後もそんなことを言ってくる人間はいた。
子供にとって臭いなどの汚いモノ扱いは辛い。精神的にこたえる。
景はこの時点でかなり漢方に対して嫌な思いを抱いていた。実家の薬局でその臭いを嗅ぐだけで気分が悪くなった。
唯一幸いだったのは、景と仲の良い友人たちは皆が景のことをかばってくれたことだ。
嫌な人間が来れば守るように間に立ち、他のクラスに行って説明してくれたりもした。
また、店のある商店街の人間たちも親切だった。慰めてくれただけでなく、誤報道だというビラも配ってくれた。
身近な人たちは誰もが優しく、幼い景の心には近しい人間こそが大切にすべきものだと強く刻み込まれた。
しかし、報道を信じた芸能人のファンたちは薬局に嫌がらせをしてくるのである。真実を知りもしないのに迷惑電話をしてきたり、勝手に出前を入れたり、店に落書きをしたり、汚したり……
自然と景の中で、世間とか世の中の人間といった大きな枠に入る存在の比重は小さくなっていった。
もちろん後日、番組内で訂正の報道はされたのだが、そんなものは三十秒にも満たない時間であり、そうそう目には止まらない。
誤解したままのファンも多く、嫌がらせや苦情はしばらく止まなかった。
そしてその処理のために、景が店を手伝わされることが多くなった。落書きはなかなか落ちないし、掃除をするのも大変なのだ。
しかも漢方臭いといういじめは続いている。最悪な気分で薬局の床を拭いていたある日、景の耳に、
パリーンッ!
という甲高い音が響いた。
そしてその直後、額が妙に熱くなった。
足元を見ると、ガラスが散乱した中にコンクリートブロックが落ちている。そしてそこへポタポタと赤いものが落ちてきた。
薬局のガラス戸にコンクリートブロックが投げつけられ、割れたガラスの破片が景の額を傷つけたのだ。
死ぬような傷ではなかったのだろうが、景はなかなか見ない量の己の血に呆然とした。
「お前!何をするんだ!」
景の父親が叫びながら店の奥から飛び出してくる。
犯人と思われる男は逃げもせず、父と取っ組み合いになった。
「お前の店が!お前の店があの人を殺したんだろうが!人殺しがこれくらいで文句を言うな!」
どうやら誤解がまだ解けていないままのファンが起こした暴挙らしい。
「それは誤報道で……」
と、父はすでに幾度となく繰り返した説明をしようとした。
しかしこのファンは聞こうとする素振りをまるで見せず、一方的にまくし立てる。
「だいたい漢方薬なんて現代では不要なんだよ!漢方がなくたって死ぬ人はいないけど、あるから死ぬ人が出ちゃったじゃないか!」
「それは、漢方が悪いわけじゃ……」
漢方薬局の店主は当然そう反論する。
しかし、このファンにはファンなりの理屈があった。
「悪いんだよ!漢方は効果が出るまでに何ヶ月もかかることがあります、とか言うのが常套句だろうが!その何ヶ月で手遅れになる人もいるんだよ!」
「いや、漢方でも合っていれば早めに効果が……」
「じゃあ何ヶ月もかかることはないんだな!?」
「それは……」
「あるんだろうが!それ自体が漢方の罪なんだよ!」
景は母親に額の傷を押さえられながら、二人の言い合いを聞いていた。
そして意外なことに、景は自身を不条理に傷つけたファンの男の言うことに関して一定の理を見出していた。
確かに漢方は十分な効果が出るまでにしばらくかかることもある。
父が言おうとしたように、その人に合った適切な処方であれば早期に効果が出ることが多いのだが、長めに飲むこともままあるのが実情だ。
景はそう聞いていたからファンの言うことがあながち間違いではないと思った。
悪いことに、漢方臭いと言われて漢方が嫌になっていた時期でもある。
景はその気分にも乗せられて、自身の将来を一つ決めることにした。
***************
「それで俺は大人になったら薬剤師になって、漢方を買いに来た人に片っ端から病院での検査と治療を勧めようと思ったんだよ」
遠い目で景がそう言ったのを聞き、瑤姫は苦笑してしまった。
漢方薬局の息子が、漢方を買いに来た人間に対して受診と検査を勧めるために薬剤師になろうとしている。
そんな笑い話のような存在が目の前にいるのだ。苦笑しない方がおかしい。
「何ていうか……学費を出してるご両親に同情するわ」
「俺もだ」
息子本人に同情されたのでは両親も立つ瀬がないだろう。
何にせよ、瑤姫は景からの話を聞いて粗方の疑問は解消できた。
不幸な事件と幼い感性によって、景の漢方嫌いは形作られたわけだ。
それに、景の戦いに対する姿勢についても得心がいった。この青年は世の中のために戦えと言われても拒絶する一方で、月子や由紀が関わってくると迷いなく戦いに身を投じる。
それは幼い景が事情を知りもしない赤の他人から悪意を向けられ、身近な人間たちがかばってくれたからだ。
世間や社会のためと言われてもピンとこないが、近しい人間のためなら立ち上がれる。そういう人間に育つだけの事情があった。
その姿勢にせよ、漢方嫌いにせよ、ある程度の非合理性を持っていることに、おそらく景も気づいている。だから景はなかなか話そうとしなかったのだろう。
瑤姫はそう考えて、これ以上景の言うことを否定するのはやめた。
その代わり、一つ質問を投げかける。
「ねぇ、景。あなたも今日まで薬学部で色々学んできたんでしょ?その上で、今でも漢方を買いに来た人に、ただ受診を勧めればいいと思う?」
「……ふん」
と、鼻を鳴らして景は答えた。
「俺はもう子供じゃないし、現実主義者だからな。片っ端から病院に行けって言うのが問題ありまくりなのは分かってるさ」
どんなケースでもすぐに病院へ行けばいい、という考えには大きな問題がある。景は講義でそう習ったし、その通りだと思った。
市販薬や自己努力で健康を維持する行為をセルフメディケーションというが、現代社会においてセルフメディケーションはとても重要視されている。
過剰な受診は医療費を増加させるし、そんな時間がない人も多い。それに患者があふれて病院機能がパンクすれば、本当に必要な人に十分なケアが届かなくなる。
「結局のところ、大切なのは適切な受診勧奨だ。でもその適切ってのは人によってある程度違って、俺はきっと受診を勧める閾値の低めな薬剤師になると思う。他の人よりも早めの受診を勧めるよ」
「いいんじゃない?そういう薬剤師がいても。お店の売上とか、お客さんの期待に応えたい気持ちとか、そういうのが邪魔して受診勧奨が遅くなることは普通にあるでしょ?でも景はそんなのとは無縁の薬剤師になれるわよ」
実際には現場で働く上で、そういうものと無縁でいられる薬剤師などいないだろう。
しかし景ならその中で、患者のことを第一に考えられる薬剤師になれるだろうと思った。
「あとね、もう一つ聞かせて欲しいの。医聖としてしばらく活動して、今でも景は漢方が嫌い?」
瑤姫は微笑みながら、そう尋ねた。聞く前から答えを知っているからこそ、できる顔だ。
風邪の引きはじめに効いた葛根湯
インフルエンザに効いた麻黄湯
虚弱者の風邪に効いた桂枝湯
過敏性腸症候群に効いた桂枝加芍薬湯と桂枝加芍薬大黄湯
生理痛に効いた当帰建中湯
更年期障害やPMSに効いた桂枝茯苓丸、当帰芍薬散、加味逍遙散
疲労や消耗に効いた補中益気湯
夏バテに効いた清暑益気湯
夜泣きやパニックに効いた甘麦大棗湯
こむら返りに効いた芍薬甘草湯
ストレス性の胃腸炎に効いた半夏瀉心湯
機能性ディスペプシアに効いた六君子湯と、それを構成する基本処方の四君子湯、二陳湯
それらのもたらす利益を、救われた人たちを知っている景が、漢方なんて無くなればいいなどと思っているはずがない。
それを分かった上での余裕の微笑みに、景はいつもとは少し違う苛立ちを覚えた。
再度ふん、と鼻を鳴らし、どこか恥ずかしげに瑤姫から目を逸らした。
「まぁ……漢方が効きそう人は飲んでみりゃいいんじゃないか?」
それはつまるところ、漢方に対してトラウマを持ったこの青年が、漢方の有用性を認めたという告白だ。
その素直でない言い方に、瑤姫はアハハと大きな笑い声を上げた。
景としても笑われても仕方ないという自覚があるから、不機嫌な顔でそっぽを向き続ける。
瑤姫はその顔に突撃するように、ピョンと跳ねて飛びついた。
「うわっと……」
慌てて景がそれを受け止めると、先ほどと同じ、お姫様抱っこの形になった。
「よ~し、じゃあスッキリしたところで、蚩尤のバカを殴りに行きましょう!」
えいえいおー、と元気良く拳を上げる。
その明るさに景はフッと息を吐いて、気持ちを入れ替えることにした。このバカみたいな明るさを前にしたら、いつまでも暗い顔はしていられない。
鋭い目つきでこれから行く先を睨みつけた。西陽を掲げるように佇む山頂の向こう、そこに蚩尤がいるはずだ。
「そうだな。どこまでやれるかは分からないけど、このままじゃどうにも収まりがつかない」
景はそう言って、片頬を二イッと持ち上げた。
口元は笑っているのに、目だけは笑っていない。抑えきれない怒りを滲ませた、迫力のある顔だ。
しかし、瑤姫はもう怖くない。
この青年に初めて出会った時、張中景という名前の漢字を見て、自分にも張仲景のような医聖が見つかったのだと喜んだ。
しかし景の言動は伝説に謳われる張仲景とはかけ離れていて、瑤姫は人でなしと罵った。にんべんが無いだけで、こんなにも違うのかと憤った。
きっと本物の張仲景は、こんな凶悪な笑い方もしなかっただろう。
「でも、私の張仲景はあなたでいい」
瑤姫はクスリと笑い、ごくごく小さな声でつぶやいた。
ほとんど口の中だけで発せられたその言葉は、景の耳に届いたけれどよく聞き取れなかった。
「ん?何か言ったか?」
「ううん、何でもない」
瑤姫は首を横に振り、再び拳を上げる。
「それより早くレッツラゴーよ!走りなさい!私の医聖!」
その言い様に、景はやれやれと肩をすくめてから駆け出した。
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