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半夏瀉心湯、六君子湯、四君子湯、二陳湯5

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「月子!無事か!?……って、うわっ」

 景は驚きの声と共に、スマホを放り出してしまった。

 耳に当てようとしたスマホから急に視界いっぱいを埋め尽くすような何かがあふれたからだ。

「な、なんだ?」

 少し離れたところへ落ちたスマホを見ると、そこに月子の姿が浮かび上がっていた。

 といっても月子がスマホから出てきたわけではない。そもそも現れたのは全身ではなく、上半身だけだ。

 耳にスマホを当てて、

「け、景君?」

と呼び掛けている。

「……ホログラム?」

 向こうが少し透けたその外観から、景はそう推察した。

 神農によってそれは肯定される。

「そうだ。この方が向こうの様子が分かりやすかろうと思い、たった今機能を追加しておいた」

「いや、すごいけど言ってくれないとビックリしますよ……」

 景は控えめに不満を述べてから、改めて月子に話しかけた。

「月子、見たところ怪我とかはしてなさそうだけど、無事なのか?」

「え?う、うん、無事だけど……見たところって?」

 自分の姿がホログラムとして浮かび上がっているとは夢にも思わない月子は怪訝な顔をした。

 それを見た神農が軽く片手を振る。

「面倒だな。向こうも同じにしよう」

 その言葉が終わらないうちに、月子のスマホからも景の姿がホログラムとして現れた。

 月子は当然驚き、ひゃあっ、と声を上げてスマホを取り落とす。

「あー……俺もびっくりしたけど安心していい。神農様の神術でビデオ通話がアップグレードしただけだから」

「ア、アップグレードって……すごい未来チック……」

「これすごい!なんかカッコいい!」

 と、月子に抱きつくようにして由紀の姿がホログラムに現れた。

 その元気そうな様子を見て、景はホッと胸をなでおろした。

「由紀ちゃんも無事か……よかった」

「お兄ちゃん、やっほー。あ、瑤姫ちゃんも」

 景とそのそばに来た瑤姫に向けて手を振る由紀。

 景の近くに行けば向こうから見えるのだと分かった設楽夫婦も、景のそばに寄ってきた。

「月子、何か辛い目には遭ってないのかい?」

「ひどいことはされてないのね?」

 源一郎、美空が立て続けに質問し、娘はコクリとうなずいた。

「うん、大丈夫。っていうか、お父さんとお母さんも景君と一緒にいるんだね。そこは神社の本殿?」

 それに夫婦が答える前に、神農がまた腕を振りながらつぶやいた。

「もう少し互いによく見えるようにするか」

 その言葉の直後、ホログラムに映る光景が広くなった。より広範囲の景色を拾えるようにしたのだろう。

 向こうからは本殿全体の様子が見え、神農がいることも分かったらしい。月子が緊張に背筋を伸ばした。

 そして当然、景たちからは月子のいる環境が見えた。

 二人はどこかの部屋にいるようだ。

 大きな机にソファ、そして高価そうな調度品が見受けられることから、会社の社長室か応接室のようなところに感じられた。

 ただ少し気になったのが、窓が一つも見当たらないことだ。普通なら社長室でも応接室でも、窓がないような閉塞感の強い構造にはしないだろう。

 とはいえ、今は部屋のことなどどうでもいい。それよりも部屋の中にいる人間たちが重要なのだ。

 月子と由紀以外に、五人の人間がそこにいた。そしてその五人中、三人の顔に景は見覚えがあった。

「あの三人は……確か岡本大隊とかいう……」

 数日前、由紀を助けてくれた蚩尤の医聖たちだ。

 その大隊の長である岡本玄二おかもとげんじと、副官である男女二人が月子たちの背後に並んでいる。

「覚えていてもらえたか。あの時はバタバタしていて自己紹介もままならなかったからな。私は岡本玄二、蚩尤様の下で大隊一つを任されている者だ」

 玄二は改めて名乗ってから、ホログラムの景へ向かって深々と頭を下げた。

 そしてその姿勢のまま謝罪を口にする。

「張中君、先日は病邪の処理を任せっきりにしてしまい、申し訳なかった」

 それはどうやら予定外の謝罪だったようで、副官二人は玄二の行動に目を丸くしていた。

 しかし、その後の二人の反応は真逆だ。

 男の方は慌てて玄二に倣い頭を下げたが、女の方はツンとした澄まし顔のまま冷たい視線を送ってくる。

 月子と由紀の誘拐を思えば今のところ敵同士なはずで、女副官の態度が正しいと言えば正しいのだろう。

 しかし玄二はそれはそれと割り切っているようだ。よほど生真面目な性格なのだろう。

 そしてさらに言えば、男副官の方は多少流されやすいようで、女副官の方はクールに我が道を行くタイプのようだ。

 景はこの一連の流れだけでバラエティに富んだ三人だなと感じた。

「いや、まぁ……それはもう終わったことなんでいいんですけど、うちのを誘拐されてる件については文句を言ってもいいですよね?」

「二人をさらったのは私たちの隊ではなく、そこの樹里なのだが……まぁ実行役が誰かは重要ではないか」

 玄二が視線をやった先には妙に露出の多い女がいた。丈の短いシャツに、着崩した上着。へそと肩が完全に覗いている。

 一見スタイルの良いその細腕ではとても戦えそうにないが、ここにいるということはこの女も医聖なはずだ。

 景はそこを考慮し、油断なく心中で身構えてその女を見た。

 が、樹里の方は面白がるような視線を景へと向けている。

 値踏みしつつも楽しんでいるような目つきで、口元は艶然と上がっていた。

「へぇ……君が張中景君かぁ……すごいパワーだって聞いてたからどんなマッチョかと思ってたけど、結構可愛いじゃん」

 そう言ってから、唇に指を当てて小さく笑う。

 妙に色気のある笑い方で、景は戸惑ったように身じろぎした。

 その様子に月子がバッと後ろを振り返る。

「……何?急に怖い顔して。っていうか、彼とよく話したいからちょっと横によけてよ」

 軽く手を振る樹里の要求に、月子はむしろ二人を遮るように少し体をずらした。

 樹里がそのことについて口を開きかけた時、その場の最後の一人が声を上げて笑った。

「アハハハ、相変わらず樹里は強い男が好きだね」

 景がそちらに目をやると、場違いなほど幼い少年がそこにいた。

 漢服に三角笠という不思議な出で立ちで、よく見ると后土と同じように目が赤い。

 その不気味な赤さからもしやと思う景だったが、続く樹里とのやり取りでその推察は肯定された。

「蚩尤様だって強い医聖が好きでしょ?」

 その蚩尤という名を耳にして、景は無意識に身を固めた。

 世界征服を狙う親玉にしては見た目が幼すぎるが、そこは神なのだから考えても詮無いことだろう。

 その見た目可愛らしい戦神は、楽しそうに笑っている。

「僕の場合は単純な戦力として好きなんだよ。でも樹里の場合はまるで玉の輿に乗ろうとしているように見える」

「見えるっていうか、思いっきり玉の輿狙いですよ?蚩尤様が征服した後の世界は強い医聖が偉くなるんだし、今の内から有望そうなのには唾つけとかないと」

「それを弱い医聖が言うならまだしも、うちの四天王に近い強さの樹里が言うんだから可笑しいんだよ」

「そうですか?自分が強くて旦那も強かったら最強だなって思うだけですけど」

「樹里は貪欲だね」

 そう言ってから、また楽しそうに笑う。

 ひとしきりそんな会話をした後、蚩尤は景の方へと向き直った。

「さて。もう僕が誰か分かったと思うけど、改めて自己紹介だ。僕の名は蚩尤。そこの駄女神の弟だよ」

 駄女神、というのは当然后土のことではなく、瑤姫を指している。

 瑤姫自身もそれが分かったから、眉をつり上げて怒った。

「蚩尤!あなた……!」

「まぁ待て、瑤姫」

 と、神農が片手を上げて瑤姫を制した。

 その目は静かに蚩尤を捉えている。

「蚩尤よ。我がいるにも関わらず無視して張中景に話しかけたということは、汝の中で我には打つ手がないと確信しているわけだな?」

 蚩尤の目がスッと細まり、先ほど樹里に向けていたのとはまた違う笑みが作られた。

 冷ややかな、それでいて迫力のある笑みだ。

「そこまでは思っていませんが、少なくとも父上の神術で直接解決するという手段は取れないでしょう?今の下界を何よりも愛する父上のことです。崩壊させて作り直すということはしませんよね?」

 蚩尤の言い分に、神農は無表情に応じる。

「神々の手が必要最低限しか入っていない下界の重要性は汝とて理解していよう。人のみの発想で発展する技術や美術、価値観は神界にも大きく貢献している。ここ最近ではIT技術などが良い例だ。しかし神である汝に征服された世界で、そういう発展性が望めるか?」

 景には神農の言葉全てを理解することはできなかった。

 しかしそれでも、暗に『下界を崩壊させてでも手を下すぞ』と脅しているのは分かった。

 要は、神である蚩尤が征服した時点で、下界の価値は大きく減じると言っているわけだ。

 しかし蚩尤は動じない。むしろ冷笑でもってそれに応じた。

「父上が今の下界を崩壊させたくない一番の理由はそこではないでしょう?あなたが下界に抱いている感情、それは愛だ。それに、仮に下界の発展性が重要なのだとしても、能力制限された今の僕では人間独自の発展性を鈍らせるほどの力は行使できませんよ」

 言葉の応酬は、どうやら蚩尤に軍配が上がったらしい。

 神農はそれ以上何も言わずに口をつぐんだ。

(……つまり、やっぱり神農様が直接手を下すことはないってことか)

 そうなると蚩尤以外の神々が神農の戦力ということになるが、蚩尤の次に戦力を抱えていた后土があっけなくやられてしまっている。

 それ以外の神々が束になったところで勝てるのだろうか。

「あの……他に三柱の神様が医聖を従えているんですよね?今どこ?」

 火神・祝融しゅくゆう、水神・共工きょうこう、鳥神・女娃じょあの三柱がいるはずだ。

 それについて神農に聞こうとした景だったが、先に蚩尤の方が回答した。

「残念ながら、どの医聖たちもすでにほぼ壊滅状態だよ。うちの大隊を一隊ずつ送ってるから。もう結構前から連絡が取れないでしょう?」

 蚩尤が父へと視線をやるが、神農は答えない。つまり、蚩尤の言葉が真実であるということだ。

 ほぼ壊滅、ということは完全に制圧したわけではないのだろうが、戦力として期待できるものではないのだろう。

 つまり神農にとって、まともな戦力はもう景だけということになる。

「いや、これもう詰んでんじゃないですか……」

 景の苦々しげなつぶやきに、蚩尤はニィっと唇の端を上げた。

「その通りだよ。正確な理解だ。それで張中景、君は僕に協力してくれるよね?」

 問われた景を、瑤姫が横合いから睨んでくる。

 その強い視線をうっとおしく思いながら、景は蚩尤の質問に質問を返した。

「それはもう仕方なさそうかなって思うんですけど、その前にいくつか教えてもらえますか?」

「何だい?君になら何だって答えてあげるよ。僕は強い医聖が好きで、君はとても強いらしいからね」

 なぜか褒められている気がしない景だったが、とりあえずどうも、とだけ言ってから尋ねた。

「どうして世界征服をしようとしているのか、それと征服した後の世界がどうなるのか、その辺を詳しく教えてもらえますか?さっき戦争のためだろうって聞いたのは聞いたんですけど、できれば直接聞きたくて」

「ああ」

 蚩尤は鷹揚にうなずいて見せた。

 見た目は少年だが、こういった動作には神らしい重厚さがある。

「その通り、僕が世界を征服するのは、戦争を楽しむためだよ。神界ではもう長いこと戦がなくてね、戦神である僕は退屈で仕方ないのさ。だから下界に戦を求めたんだ」

(マジかよ……マジで戦争がエンターテイメントなのかよ……)

 そんな神に支配される世界を想像し、景は目まいのするような思いがした。

「じゃあ……征服した後の世界は戦争がもっと増えるってことですか?」

 それは最悪な世界だ、と思いながら問うた景だったが、意外なことに蚩尤から返ってきたのは否定の言葉だった。

「いや、そんなことはないと思う」

「え?いや、でも戦争を楽しみたいから世界を征服するんですよね?」

「そうだけど、別に増やそうとしなくても人間の世界って常時どこかで戦争してるじゃないか。むしろ医聖を使って世界中の国を降伏させた後は、人間の政治には最低限しか口を挟まずにいようと思ってるよ」

 これは完全に予想外の話だ。

 つまりいったんは蚩尤対世界の戦争があるものの、最終的にはほぼ元の通りということになるのか。

 それに邪気をまとった医聖のチートっぷりなら、死者を出さずに征服できそうな気もする。

「とどのつまり、医聖と世界の戦争を楽しめたらそれでいいってことですか?」

「それは違うよ。もちろんそこは楽しませてもらうけど、勝った後は一つの特権を世界中に認めてもらうんだ」

「特権?……って、どんな?」

「全ての戦争に、僕が望む立場で参加する権利だよ」

 景は言われたことがすぐに飲み込めず、ゆっくりと頭の中で噛み砕いた。

 この権利があると、何が出来るだろうか。

「……えーっと……例えばですけど、片方の軍の総司令官にいきなりなれる、とかそういうことですか?」

「その通り」

 蚩尤はこれ以上ないほどの嬉しげな笑顔で景の顔を指さした。

「いいね、君は賢い。この特権があれば世界中の戦争を指揮できるし、指揮に飽きたら一兵卒として参加することもできるんだ。尉官辺りの中間管理職をやるのも楽しそうだね」

 景はこの蚩尤の顔を知っている。欲しいおもちゃを買ってもらう直前の子供の顔だ。

 これを使ってどうやって遊ぼう、どれだけ楽しいだろうか。そんな気持ちのあふれた顔だった。

「もちろん、断れば医聖を使ってその勢力を潰す。それが出来るって世界に分からせておけば誰も文句は言わないだろう?それこそが僕の理想とする世界征服だ」

 普通に世界征服と言えば、世界を好きにできる権利を得ることを言うだろう。しかし蚩尤はそれに興味がないようだ。

 逆らえば潰される。それを世界に分からせさえすればそれでいい。

「もちろん僕の力の裏付けになる医聖たちには十分報いるよ。給与面だけじゃなく、何かしら個々人の望む特権を与えてもいいと思う」

「はいはいはい!」

 と、そこで樹里が元気良く手を上げた。

「私、遊園地で順番待ちしなくていい特権が欲しいです!」

 そんな可愛らしいことを言ってから、景へ向かってウインクしてみせる。

「この特権もらえたらデートしよっか?人気のアトラクションも乗り放題だよ」

 グイグイ来る樹里だったが、すでに玉の輿狙いという本音を聞いているので景はときめきようもない。

 それよりも視界の隅で月子が見たことのない顔をしているのが気にはなったが、話を進めるためにサラリと流した。

「医聖ならこんな冗談みたいな特権でも認められる世界になるわけですか」

「そうだね、樹里の言った程度の特権ならお安い御用だ。というか、そんなのは特権じゃなくてもお金でどうにか出来る程度の給金を与えるつもりだけどね」

「わぉ、蚩尤様ってば太っ腹~」

 蚩尤の言に華やいだ声を上げる樹里。

 一方の景は腕を組んで低く唸った。

(これなら医聖たちが蚩尤に従うのも当たり前だ。めっちゃ条件がいい)

 まさに特権階級になれるわけだ。

 そんな景の気持ちが漏れ出ていたのか、瑤姫が刺々しい声を出した。

「ちょっと景、もしかして裏切るつもりじゃないでしょうね?」

「いや、裏切るっていうか……そもそも勝ち筋ない気がするし、征服された後の世界もそんなに悪くなさそうじゃないか?あとは俺らが各国の軍隊を倒す時に、可能な限り被害を出さないように頑張れば……」

「何騙されてるの!その戦いは邪気まといで行われるのよ!?邪気が大量に発生して病邪が増えまくることが無視されてるじゃない!」

「あ」

 そこがすっかり頭から抜けていた景はバツが悪そうに目を逸らした。

 そういえば、そもそもはそこが問題視されていたのだ。世界征服という突飛なワードで見落としていた。

「しかも医聖が世界相手に戦争するってことは、病邪の討伐に割ける戦力が減るってことよ。どれだけの被害が出るか、想像に難くないでしょ」

 珍しく真っ当な瑤姫の主張に、景は反論を蚩尤に任せようと目を向けた。

 蚩尤はフフッと軽く笑って見せる。

「駄女神にしてはまともなことを言うじゃないか」

 再び駄女神と言われた瑤姫は顔を赤くして怒鳴った。

「蚩尤!あなたいつからお姉ちゃんをそんな風に呼ぶようになったの!?あんなに可愛い弟だったのに!」

「フン。いつからというよりも、なぜそうなったのかを考えた方がいいとは思わないか?」

「な、なぜって……なんでよ?」

 特段の理由を思いつかなかった瑤姫はただ問い返した。

 しかしその質問で、蚩尤の表情は氷のような超低温になる。

「……そんなんだから駄女神なんだよ」

 吐き捨てるようにつぶやいた。

 景はその後、蚩尤が瑤姫の駄目ポイントを説明してくれるのではないかと思った。というか、期待した。

 この駄女神が己の駄目さ加減を認識してくれれば、色々改善するのではないかと思ったのだ。

 しかし蚩尤はすでに改善など諦めているのか、興味を失ったように瑤姫から目を逸らして景だけを見た。

「……まぁ、病邪については放置もできないし可能な限り対応するよ。これに関してはそれくらいしか言えないかな」

 そうは言われても、病邪の危険性は身をもって知っている。しかも医聖が倒さなければずっと消えないのだ。

 微妙な顔をする景へ、蚩尤はフォローを入れることにした。

「君は一般人への影響を心配してるみたいだけど、マイナスがある分だけプラスも作るつもりだよ。例えば医聖の闘薬術を一般人の治療にも使うってのはどうかな?」

 闘薬術の治療効果は景も実感済みだ。もともと魔法のような技術だが、まさに魔法のようにインフルエンザが治ったのを見ている。

 それに景は薬学生として、治る患者が増えるのは当然喜ばしいと思う。

「それは確かにいいことですね……」

「だろう?」

 蚩尤は景の印象が少し改善されたと感じ、さらに舌を回した。

「闘薬術の使い道はなにも戦闘だけじゃない。その治療効果は政治的にも有効なんだよ。なんならしばらく医聖だけに医療を担わせるなんてのも政策の一つとして使えるね」

「……医聖だけに?」

「もちろん例えばの話だけどね。医師の社会的な地位の高さからも分かるように、医療の担い手というのは信頼されるものなんだ。そうやって信頼を得つつ、武力行使とのアメムチのバランスを取るのもアリだ」

 それは実際にやってもいいと思える政策だった。

 もちろん本音を言えば、医療を独占することによって政治的な力を得ようという意図もある。病気にならない人間などいないのだから、ここを押さえられれば従わざるを得ないだろう。

 もちろん邪気まといの武力だけでも世界に言うことを聞かせられるとは思っているが、スムーズにことを進めるには多種の力があるにこしたことはないのだ。

 蚩尤はそんな風に悪くない案だと思っているのだが、この発言の直後に景を包む空気が一変した。

 それまで蚩尤に従うのも仕方ないかという雰囲気だったのに、なぜか急に張り詰めたようになったのだ。

 全身からピリピリしたものを滲ませ、一段低くなった声で蚩尤の耳を打つ。

「漢方だけに……頼るっていうのか」

 殺気を潜ませたような声だった。ピンの外れかけた手榴弾でも放られたような気分になる。

 蚩尤は初め、本音の部分に気づいて反発したのかと思った。

 しかし景が口にしたのは、漢方のみに頼ることへの不満だった。

 そこに強くこだわる理由は分からなかったが、蚩尤としては優秀だという報告を受けている景を是非にも取り込みたい。すぐに言葉をひるがえすことにした。

「いや、例え話だと言っただろう?しかも今のは極端な話だよ。漢方だけで全ての疾患をカバーできるわけはないし、ちょっとしたタラレバ話さ」

「……ならいいんですけど」

 景はまとっていた重苦しい空気を解き、小さく息を吐いた。

 蚩尤も優秀な医聖を逃さずに済んだと内心で安堵した。

「まぁ僕としても色々注意はするから、邪気まといによる病邪の増加はいったんは受け入れてもらって……」

「だめ!絶対にだめ!」

 そこで強い否定の声を上げたのは由紀だった。

 少々難しい話をしていたこともあり、今まで黙っていたのだが、病邪が増えると聞いて黙っていられる娘ではない。

「病邪が増えたらお父さんとお母さんみたいに死んじゃう人が増えるんだよ!?そんなの絶対に許せない!邪気をまとって戦うのは絶対にだめ!」

「由紀ちゃん……」

 不幸な少女の生い立ちを知る景としては、その反応も仕方ないものと思える。

 そして今日まで病邪に対して見せていた憎しみの強さを思い返すに、由紀を納得させるのは難しいのではないかと思えた。

 そしてすでに、蚩尤はそれを経験で理解していた。

「彼女はどう説得しても聞く耳を持ってくれないんだ。この歳でこれだけ強い意志を持ってるのは素晴らしいことだと思うけど、僕としては困ってる。君から話をしてもらえないかな?」

 そう話を振られたものの、景だってどう言えば由紀に受け入れてもらえるかなど分からない。

 理論立てて説明しようにも、まだ小学二年生の由紀には難しいことも多い。それに邪気と病邪への憎しみはその理解を強く阻むだろう。

 現実主義者である景にとって最も大きいのは、『抵抗したところでどうせ勝てない』という一点なのだが、由紀の生い立ちなら『勝てなくても戦う』という選択になりかねない。

(どうしたもんか……)

 そんな困り顔の景へ、神農が声をかけてきた。

「張中景よ、これで先ほど我が言わんとしていたことが理解できたかな?」

「え?……ああ……いや、確かに由紀ちゃんが受け入れるのは難しいってのは分かりましたけど、だからって勝ち筋がないのはどうしようもありませんよ。負けるのが分かってて戦うって選択肢は、俺には……」

「ではもう少し分かりやすくしてやるか。設楽月子よ」

「えっ……は、はい!」

 自分に話が回ってくるとは思ってもみなかった月子は驚きで返事を上ずらせた。

 それまで樹里と景との間に警戒するような視線を行き来させていたが、信仰する神に呼ばれてハッと我に返る。

「敬虔な我が信徒である汝に命じる。蚩尤に味方してはならん。それと、今いる蚩尤の秘密基地の所在地を述べよ」

「しょ、所在地ですか?川中島果樹園のある山を登った山頂の少し向こうで……」

 ゴッ

 という低い音とともに、月子の言葉が途切れた。

 同時に月子の体が勢いよく横に倒れる。そのまま床を滑るほどの勢いだ。

 そうなった理由は見ていれば当たり前に分かった。蚩尤が拳で月子の頬を殴ったからだ。

 少年のような蚩尤の体格からは想像できないような左のストレートだった。
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