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甘麦大棗湯、芍薬甘草湯3

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「さぁさぁ、このハイパー頼りになるお姉さんに事情を話してみなさい。包み隠さずね」

 瑤姫は仁王立ちになって腕を組み、偉そうにそうのたまった。

 それから困惑と疲労に彩られた顔の仁美、そしてその腕の中で眠る幼児に目をやる。

「その様子だと母一人子一人で大変だったんでしょ?遠慮なく……」

「おい」

 と、瑤姫の訳知り顔に景が声をぶつけた。若干トゲのある、いや、すごくトゲのある声だ。

「なんでお前がこの場にいるんだよ。マジで関係ないだろ。早くどっか行け」

「どっか行けはなくない?私んちなのに」

「いつからお前んちになったんだよ!?ここは俺んちだ!」

 その通り、ここは間違いなく張中景の自宅である。正確には亡くなった祖父母の家だが、景が進学してからは景が一人暮らしをしている景の家だ。

 とはいえ一人暮らしという点に関しては、一月ほど前に瑤姫が転がり込むまでは、というのが正確なところなのだが。

 景はその自宅に修と仁美、そしてその子供を連れて来ていた。

 初めは修の家で話をすればいいと思っていた景だったが、考えてもみれば修は彼女と別れてまだ間もない。もしかしたらその気配があるかも知れないと気を回し、それは避けた。

 ならば仁美の家が適当かとも思ってそう言ったのだが、仁美に拒否された。家の中があまりに荒れていて、とても人を上げることなどできないということだった。

 ちなみにそもそも景が同席する必要があるのかという話だが、そのことは当然まず最初に確認した。

『修、俺どうしよっか?』

 問われた修は無言で景の服を指先でつまんだ。その顔つきも非常に頼りない。

(子供か)

 心中でそうつぶやいたが、友人に頼られて嫌な気はしない。それに心配だった。

 普段の快活な修からは考えられない姿を目にして、景はこの友人が駄目になりかけていた時のことを思い出したのだ。

『んじゃ、俺んちで』

 そんなこんなで景と修はバイクで、仁美と子供は軽自動車で景の家まで移動した。

 ショッピングモールを出る前、景は瑤姫に電話してしばらく外出していてくれと頼んでおいた。事情も簡単に話した上でだ。

 しかし事情を話したのは失敗だった。

『何それ修羅場じゃない!傍から見る分には楽しそう!』

 瑤姫は電話口でテンション高くそんなことを言っていた。

(こいつ、裁判の傍聴とか楽しめるやつなんだろうな)

 例え赤の他人に関することでもトラブルに触れるのが嫌な景である。正直かなり引いた。

『ふざけたこと言ってないで、さっさと出ておけよ。月子と一緒に神社にでも行ってろ』

 月子の名前が出てきたのは、今日も子供たちが遊びに来ていたからだ。

 時間的に子供たちはもう帰っているはずだが、月子は源一郎か美空が迎えに来るまでいることが多い。それがいつも結構遅いので、多分まだいるだろうと思った。

『ねぇ月子ー、修羅場に興味ないー?』

 電話を切る前にそんな言葉が聞こえたが、さすがに冗談だろうと思って景は流してしまった。

 しかし帰ってみると、瑤姫はいた。月子もだ。

 月子はオロオロしていたが、瑤姫はむしろ楽しそうだった。

「ようこそいらっしゃい。こっちへどうぞ」

 満面の笑みで到着した四人を迎え、リビングへと案内する。居候のくせに完全な我が物顔だ。

 当然『誰?』という顔をした修と仁美に自己紹介もせず、冒頭の仕切りである。ソファに座った仁美を見下ろしながら事情を話せと要求してきた。

 景は頭痛とめまいで倒れそうになった。

「二人とも、本当にごめん。すぐつまみ出すから」

 瑤姫の腕を掴もうとしたが、するりとかわされてしまう。

「私はこの子たちのためにも出ていかないわよ」

 駄女神の意味の分からない言い分に、景は眉根を寄せた。

「はぁ?なんでお前がいたら仁美さんたちのためになるんだよ?」

「景が間に立って話を聞こうとしてるみたいだけど、こういう問題で男だけが仲裁するのって良くないわよ。公平を期して男も女もいるべきよ」

 意外にもまともな主張をされたことに景は驚き、たじろいだ。確かに男女問題で男だけが間に入るのはフェアでないかもしれない。

 しかし、どうにも詭弁な気がする。部屋を見回して反論の糸口を探し、月子が目に入った。

「そ、それを言うなら月子もいるし、女と男が二対一じゃないか」

 月子はビクッと体を震わせ、視線を泳がせた。

「わ、私はやっぱり出て……」

「いいから月子もそこにいなさい。ここはまず安心して事情を話してもらわないといけないところよ。女が多くて悪いことはないわ」

 先ほどと言っていることが微妙に違う。やはり詭弁だ。

 よくもまぁポンポンと適当な言い訳が出てくるものだと思ったが、景がそうツッコむ前に仁美が口を開いた。

「そんな風に気を使ってもらう必要はないよ。大した事情なんてないから全部話すつもりだし。っていうか本当は一生黙ってるつもりだったけど、もう言っちゃったから」

 あきらめたようなため息を一つ吐いて、仁美は話し始めた。

 事情としてはそれほど複雑ではない。

 二年前の四月、仁美は大学入学直後の修と付き合い始めた。

 まだ弱冠十八の修と違い、仁美は当時で二十五だった。高校卒業後から女だてらに建築現場で働いている、完全な社会人だ。

 その社会人が居酒屋で飲んでいる時に、新歓コンパで来ていた修に目をつけた。大学デビュー前の修はまだ初々しい田舎の高校生といった外見だった。

 これを可愛いと思った仁美は酔いに任せて声をかけた。そして酔いに任せて自宅へ連れ帰った。お持ち帰りである。

 そうして二人はなし崩し的に付き合うことになったのだが、実はこの時に仁美は妊娠した。

 それに気づかないまま交際を続け、修は仁美にのめり込んだ。何も知らない十八の青年がいきなり大人の女を知ったのだ。必然とすら言える。

 そして仁美もそんな修が可愛かった。七つも下の犬ころのような青年の可愛さにハマってしまった。

 しかし何度も連続で生理が来なければさすがに気づく。

 八月、大学初めての期末試験が終わる頃、仁美は観念したように産婦人科を受診して妊娠が確定した。

(一人で産んで、一人で育てよう)

 そう決めた。

 右も左も分からないまだ子供のような学生を誘惑し、あまつさえ妊娠したのだ。その責任は自分で取ろうと思った。

 だから思い出作りに夏休みの間だけ交際を続け、後期の講義が始まる前にこっぴどく振った。修が未練を残さないように、できるだけ嫌な女を演じて別れた。

 そしてその後、予定日より少し早く産まれたので十二月の終わりに出産した。それから一年ほど育児休業で仕事を休み、今は復帰して八ヶ月ちょっとだ。

 だから子供も一歳と八ヶ月になる。ママ、などの簡単な一語の言葉は言えるが、まだ二語は出てこない。それくらいの幼児だ。

 今は泣き疲れたのか車の中で寝てしまい、そのまま母の腕の中で眠っている。

(知らない間に父親になっていた気分ってどんなのかな?)

 景は子供をジッと見つめる修の横顔を覗き見た。

 はっきり言って、微妙な顔だ。そこにあるのは感動や感慨などではなく、戸惑いのようなものだった。

 それはそうだろう。妊娠中の覚悟もなければ出産という大イベントもなく、何より世話をしていない。

 子供の世話をしなければ親としての実感と自覚は産まれようがないものだ。

 ただし子供への気持ちはそうでも、仁美への気持ちはもっとはっきりしていた。不満とともに、責めるような目を向ける。

「な、なんで言ってくれなかったんだよ!言ってくれれば俺はちゃんと責任を取って……」

「シャラーップ!」

 なぜか修の言葉を止めたのは瑤姫だった。仁美が何か答えるよりも早くだ。

「修といったわね。あなた、どうして仁美が黙っていたか、分からないわけ?今『責任を取って』とか言おうとしてたけど、責任を取ってどうするの?」

 初対面の瑤姫にいきなり問い詰められて面食らった修だったが、聞かれたことには答えた。

「そ、それは……責任取って結婚したよ」

「結婚して、それから?」

「それから?……そりゃまぁ、大学辞めて、どこか適当な会社に就職して……」

「それよそれ!」

 瑤姫はバンッとテーブルを叩いた。

 置かれていた麦茶のコップから結露が落ちる。

「あなたは受験を乗り切って念願の薬学部に入ったんでしょう!?そんな希望あふれる十八の青年から夢を奪うようなこと、できると思う!?」

 言われて修はハッとして目を丸くした。そしてその目を仁美へと向ける。

 仁美の方はその目を見返さず、床に視線を落としたまま口を開いた。

「……修も大学三年にもなれば分かるでしょ?親元から離れたばかりの一年生なんて、まだまだ子供みたいなものなんだよ。それを十分な社会経験がある大人の女を捕まえて、妊娠した。そんな状況を自分で作っておきながら男に責任を取れなんて、無責任過ぎて言えないよ」

 想い人の気持ちを理解した修は強く拳を握り、それをワナワナと震わせた。

 肩も震えており、声も震えた。

「でも……それでも俺は……言って欲しかった……」

「ごめん……」

 仁美は謝り、子供の額に頬ずりした。

 その目から涙が流れて赤子の鼻先が濡れ、かすかに表情を動かす。

 その光景を景は複雑な思いで見ていた。

 なにゆえ複雑かと言うと、どういうわけか瑤姫が仕切って二人の思いが互いに伝わったからだ。

(いや、別に結果さえ良ければそれでいいんだけど……なんか釈然としないんだよな。瑤姫がしみじみうなずいてるのも妙に腹立つし)

 なぜお前が。

 景はどうしてもそんな思いを捨てきれないが、瑤姫自身にとってはどうでもいいことだ。

 調子に乗ってというわけでもないだろうが、また口を挟んだ。

「仁美のその様子だと、生活が大変なんじゃない?きっと仕事もしながらワンオペ育児なんでしょ」

 瑤姫がそう思ったのは仁美の全身から明らかに疲れが滲んでいるからだ。

 目の下には大きなクマができており、肌も荒れている。化粧をしていないのは疲労でそれどころではないからだろうと察せられた。

 仁美は力なくうなずいて、それを肯定した。そしてポツリポツリと漏らすようにその苦労を口にする。

「大変……うん……思ってたのの何倍も大変で……特に夜泣きがひどくて……二時間おき起こされて……一歳頃から治まってくるってネットに書いてあったのに……一歳八ヶ月になっても全然で……」

 仁美の口調はまるで悪夢でも語るようだった。

 というか、特に翌日も仕事がある人間が夜泣きの対応に追われるのはまさに悪夢だ。過酷すぎる。

 ちなみに夜泣きがいつまで続くかはかなり個人差が大きく、二歳を過ぎても続く子は続くので仁美の子が異常というわけではない。筆者の子供も三歳頃まで続いて絶望したものである。

「寝れないっていうのは本当に辛いわよね。ただ寝かさないだけっていう拷問があるくらいだし」

 拷問の話は場の全員が知っていたが、景と月子は瑤姫が神としてかなり古い時代から存在していることも知っている。その瑤姫が言うとやたら現実味があって、重く感じられた。

 現に仁美は拷問でも受けたようなひどい顔でうなずいた。

「そう……本当に辛くて……しかも最近は毎晩のようにこむら返りもあって……本当にほとんど眠れてなくて……」

 こむら返り。俗に『つる』と言われる症状だ。

 筋肉が攣縮れんしゅくを起こし、ひどい痛みを伴う。来る来ると分かるあの前兆は誰にとっても悪夢でしかない。

 夜泣きの合間にこむら返りまで起これば、確かに睡眠時間はまともに取れないだろう。

「ああ、夏だから」

 景が納得したようにつぶやいたのは、こむら返りの原因の一つに水分とミネラルのバランス崩壊があるからだ。つまり、こむら返りは汗をひどくかくことでも起こりうる。

「仁美さん、今も建築現場で働いてるの?」

 修に尋ねられ、仁美は首肯した。

 当然のことながら建築現場の多くは屋外だし、たとえ屋内でも空調の設置などは後のことも多いから暑い。とにかく暑い。

 さらに言えば、こむら返りは筋肉を酷使することも一因となるので、現場仕事は作業内容的にもリスクになりやすいだろう。

「夜泣きとこむら返りで全然眠れない。しかも翌日には仕事がある。それで心身ともにボロボロになって、たまたま会った修につい本当のことを喋っちゃったわけね?」

 瑤姫の的確な状況把握に、仁美はバツの悪い顔になりながらもうなずいた。

 自分がこんなにも苦労しているのに、『幸せ?』などと聞かれれば腹も立つだろう。

 しかも修の方は化粧する余裕すらない自分とは対照的に、いかにもキャンパスライフを満喫していますというような容姿になっている。

「仁美さん!ごめん!」

 事情を完全に理解した修は仁美へ駆け寄った。

 そしてその体を子供ごと抱きしめる。

「ごめん!本当にごめん!今まで仁美さんにばかり苦労をさせて、ごめん!」

「い、いや……そもそも私が勝手にそうしてたことだから……」

「だとしても!仁美さんがどう言ったところでやっぱり俺には責任があるんだ!これからはその苦労を一緒に背負わせてくれ!」

「……え?それって……」

「結婚しよう!」

 仁美の顔から一瞬で陰が消え去り、陽の射したような顔つきになった。

 景はそれを見て、そういえばこんな顔の女だったなと思い出した。この明るい顔が修は好きだと言っていたのだ。

 が、その顔はすぐにまた暗くなってしまう。

「で、でも私は修にちゃんと大学を……」

「大学はちゃんと出る!それまでは仁美さんに苦労をかけるかも知れないけど、その苦労を少しでも減らせるはずだろう!?夜だって俺は明日から夏休みだから、しばらくは夜泣きから開放してあげられる!」

 大学の夏休みは長い。少なくとも一月半以上は夜泣きに悩まされなくなるということだ。

(て……天国だ!)

 一月半だけでも今の仁美には冗談抜きで天国に感じられた。それくらい寝られないというのは辛いことなのだ。

 修は仁美を抱く腕に力を込めながら続けた。

「俺がいたからって全部が全部上手くいくとは思ってない!でも頼るだけは頼ってくれよ!ちゃんと責任を果たさせてくれ!」

 この修の心からの言葉に乗っかったのは、なぜかまた瑤姫だった。

「そうね。男にも責任ってものがあるし、何より今一番に考えるべきは、何がその子のためになるかってことよ。仁美はそれをよく考えて返事をなさい」

 すでに『なんでお前が』と思っているのは景だけという状況になっている。

 景がふと気になって月子に目をやると、感動したのか目を潤ませており、しかも瑤姫の言うことに何度もうなずいていた。

 そして現実に、子供のことを第一に考えろという瑤姫の言葉は仁美に強く響いた。

「そう……だね。私が追い詰められてる今の状況は、きっとこの子にとっても良くない。修、一緒にこの子を育ててくれる?」

「ああ!もちろんだよ!ありがとう!ありがとう!ありがとう!」

 修も仁美も泣き始めた。

 泣きながら、親子三人で暖かく寄り添っている。まさに一件落着だ。

 一件落着なのだが、景の心の内は少しモヤモヤしていた。

 瑤姫がいい感じにまとめてくれたわけだが、電話でも言っていた通り、この駄女神は修羅場を楽しもうとしていただけだ。面白半分でいたずらに首を突っ込んでみたに過ぎない。

 それが偶然上手いこといったのをいいことに、偉そうにうなずいているのだ。どうにも釈然としなかった。

(まぁ……修が幸せになるんなら別にいいんだけどさ)

 結局のところ、そういうことではある。

 大学デビューしてキャンパスライフを楽しんでいた修だが、こと女関係はいくら彼女が出来てもあまり幸せそうではなかった。もちろん人並みにデートなどはしていたが、仁美と付き合っていた時のような多幸感が端からは見えなかった。

 ずっと引きずっていたのだ。そしてその相手と結ばれた。結構なことに違いない。

 それでホッとしたのも束の間、突如として部屋の中を一陣の風が吹き抜けた。

 といっても暑いからリビングは閉め切って空調を入れている。風など吹くはずもない。

 しかしそれが吹いたのだ。ただの風ではなく、黒い風が。

「えっ、えっ、えっ!?」

「なんだ!?」

「これは……どういうこと?」

 まず月子が戸惑いの声を上げ、景が警戒して周囲を見回し、それから瑤姫が眉をひそめた。

 黒い風、邪気が風のように部屋を吹き抜けていったのだった。
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