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甘麦大棗湯、芍薬甘草湯1

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「ふぅ。なんとか乗り切ったな……」

 三年前期の薬学生、張中景は軽く伸びをしながら大学の講義室を出た。

 廊下には他の講義室からも続々と学生たちが出てきており、景と同じように『ふぅ』と息を吐いている。

 とりあえず終わった。そんな気持ちの学生がほとんどだ。

 今日は期末テストの最終日であり、今はその最後のテストがちょうど終わったところだった。

 もちろん十分な点数が取れなかった学生には追試が待っているのだが、とりあえずは終わったと言っていいだろう。

(今回は邪気絡みで色々あり過ぎたから追試コースかと思ったけど、意外にも何とかなったな。神農様からあれ以上の面倒事を頼まれることもなかったし)

 数日前、景は蚩尤しゆうの医聖たちが戦っているところに鉢合わせた。

 別にただ戦っているだけなら自分の分まで頑張ってくれと思うだけだったのだが、彼らはなぜか邪気をまとっていた。

 もちろん上位神の神農に認められたことではない。瑤姫も邪気の総量が増えることについて問題があると言っていた。

 だからそれを神農に報告したのだが、その時の景は後の対応までやらされることを覚悟で報告した。

 が、それ以上の命令は神農からは下らなかった。本当に意外なことである。

『ご苦労だった。後は私と他の神々で対応しておく』

 きっとこき使われるだろうと思っていた景は耳を疑ったが、聞き返してやぶ蛇になるのも嫌だ。頭を下げてさっさと退席した。

 そしてその神農の処置について後で瑤姫に聞いてみたところ、瑤姫は特に不思議には思わなかったと言う。

『私の医聖は三人だけだからでしょうね。お父様がどんな糾弾の仕方をするつもりなのか分からないけど、大した戦力にならないと思ったんじゃないかしら?』

 そんなもんかと思いつつも、瑤姫の口にした戦力という単語が景には気にかかった。

『戦力が必要になるのはなんでだ?神農様の神通力でパパっと解決できるもんじゃないのか?』

『もちろん神界で蚩尤を懲らしめるならそうするわよ。でも前に言ったと思うけど、下界で下手に私たち神々が手を出したら世界のバランスが崩れて崩壊しちゃうのよ。だから蚩尤が下界にいる限り、お父様の力は基本的に使えないわ』

『なるほどな。だから地上で使える戦力を集める必要があるわけか』

 と、そこまで言ってから景は一つ思い出した。

『……医聖の数って蚩尤が圧倒的に多かったはずだよな?』

 蚩尤の医聖は三百以上、他は百にも満たないという話だった。

 つまり懲らしめようにも、この地上で一番強いのは蚩尤ということにならないだろうか?

 景のそんな不安を瑤姫は笑い飛ばした。

『心配しなくても大丈夫よ。そもそも蚩尤がお父様の言うことを強硬に突っぱねるとは考えにくいわ。それは神界に帰れなくなるってことだから。戦力を集めるのも念のためって感じね』

 言われてみれば確かにそうだ。

 神界という場所について景はよく知らないが、神々はこの地上ではかなり能力を制限されているという話だった。帰りたくないはずはないだろう。

『それに多分だけど、戦力として招集されるのは私のお姉様、地母神后土こうどよ。后土お姉様はすごく立派な神で、兄弟姉妹の全員頭が上がらないんだから』

 すごく立派な神、というのがどんなのを指すのか不明だが、景としては人間の感覚での良識を期待するばかりだった。

 そんな瑤姫との会話を思い出していた景の肩が、急に重くなった。

 横を見ると、眩しいくらいに明るい顔がすぐそばにある。

「景、今乗り切ったって言ってたよな?ってことは今回も追試はなしか」

 現れたのは景の友人だった。

 名を香川修かがわおさむという。一緒にテストを受けた後、後ろで景のつぶやきを聞きつけて肩を組んできたのだった。

 修は同じ薬学部の同級生で、入学当時からの付き合いになる。髪を派手な金髪に染めた明るい容姿は景とはタイプが少々違うものの、ずっと仲は良かった。

(俺もこいつくらい大学生活をエンジョイできればいいんだけどな)

 景は修を見るたびによくそう思う。修は大学というモラトリアムを全力でエンジョイしている学生なのだ。

 飲み会やちょっとしたアウトドアなど、集まって遊ぶ系のサークルを複数掛け持ちしていると言えば、どんな生活をしているか大体想像できるだろう。いわゆるパリピのリア充である。

 しかも顔が良くてお洒落だ。彼女と別れればすぐに次と付き合い始めるので、ほとんど女を切らしたことがない。

 むしろ修にとって彼女とは、学生生活を楽しむツールなのではないかと感じるような生き方だった。

 ただし二股をかけたりはしないので、別に女たらしというイメージは持たれていない。単にモテる男というのが共通の認識になっている。

 そんな社交性オバケだからごく自然に肩など組んでくる。景もすでに二年半の付き合いだから、そんな修に慣れてはいるのだが。

「昨日までの自己採点と今日の手応えからすると、多分追試はなさそうだ」

「かー、やっぱり景はすげぇなぁ。今回は学食で勉強してるのを見かけないなと思ってたんだけど、ちゃんとやってたんだな」

「最近は家がいい感じに騒がしかったから帰って勉強してたんだ」

「えっ!?……もしかして彼女か?騒がしい彼女と同棲か?」

 修は声をひそめてみせた。といっても別に隠すことでもないと思っているのか、周りに聞こえないような声量ではない。

 こういう芝居がかった大きめのリアクションも社交性の一助になっているのだろう。

「いや、子供だよ。俺んちが小学生のたまり場になってたんだ」

「は?小学生?なんで?」

「バイト先に来る子にそうしていいよって言ったんだ。俺はその方が勉強効率上がるから」

「そりゃ知ってるけど……自宅が小学生ったまり場って、めちゃくちゃに荒らされないか?」

「……ああ、マジ荒れ地みたいになったわ」

 景は初日の子供たちの帰宅後を思い出して、苦い苦い顔になった。

 引き倒された家具、菓子クズの散乱、ゴミの放置、オモチャの忘れ物、勝手に開けられたタンスや押入れ、ノートからはみ出た筆跡による前衛芸術……

 勉強は確かに捗った。お陰でなんとか乗り切れたという実感がある。

 ただ、その片付けに結構な労力を割かれたのも事実だった。

 由紀のにへ~という楽しそうな笑顔を見るとまぁいいかと思ってしまう一方で、まいったなとも当然思う。

 ちなみに前回夏バテで病邪の依り代になっていた颯太という少年も来ていた。

 なんでもあれから体調が良く、しかも母親の機嫌も良いということですこぶる元気そうだった。

 母親には瑤姫の原状回復の神術で偽の記憶を植え付け、加味逍遙散を飲んだということにして家に送り届けておいた。あれがよく効いたという記憶があるはずだから、今後また不安定になったら服用してくれるだろう。

 それは本当に良かったと思うのだが、子供が元気ということは景の家がより荒れるということでもある。景の家は大変なことになった。

「お前も昔は小学生だったんだから、ちょっと考えれば分かんだろ……」

 呆れたような修の言葉に対しては、本当にその通りだと思う。ただ当時の自分は自覚なく荒らしていたので、客観的な認識など持てなかったのだ。

「自分でも考えなしだったとは思うよ。でも二日目からは戦力になる大人が来てくれたんだ」

「戦力って子供たちの世話したり、片付けたり?」

「そうそう。それでだいぶ楽になったよ」

 もちろん戦力になる大人とは瑤姫のことではない。月子だ。

 初日の夜、景はオモチャの忘れ物について由紀にメッセージと写真を送ったのだが、由紀個人宛ではなく瑤姫と月子も入っているグループの方に書き込んだ。

 そしてその写真にはオモチャだけでなく、荒れ果てた部屋も写っていた。

 月子も由紀とその友達が景の家を遊び場にするという話は知っていた。しかし月子も景と同様、まさかここまで家を荒らされるとは思っていなかった。

『よ、よかったら私が行って子供たちのお世話とか片付けとかしようか?』

 月子は景へ電話して、そう提案した。

 それは助かると思いつつも、さすがに申し訳ないと思った景は初め遠慮しようとした。

 が、そこですぐに月子の母である美空が電話を取り上げた。

『景君、月子の対人リハビリだと思ってやらせてくれないかな?子供相手ならこの子もあんまり緊張しないと思うのよ』

 それは半引きこもりだった娘を抱える母として、本音ではあった。

 ただしそれだけではなく、娘を好きな男の家に上がらせたらどうなるかという好奇心も多分にあった。要は野次馬根性である。

 そもそも月子がこんな電話をかけたのも、美空がそうしろと猛プッシュしたからだった。引っ込み思案な月子の性格では、思うだけでなかなか実行には移せない。

 そしてリハビリだと言われれば、景としても遠慮なく受け入れられる。

『そういうことなら是非お願いします。ホント助かります』

 こうして景は労働力を確保し、月子は景の家に上がれることになった。

 そして翌日、源一郎の車で送ってもらった月子はガチガチに緊張しながら景の家の戸をくぐった。考えてもみれば、引きこもる前でも男の家にお邪魔したことなどない。

 しかしその緊張は子供たちが来るとすぐに吹き飛んだ。

 由紀も含め、無邪気な小学生は月子が人見知りなことなど知ったことではない。遊んでくれるお姉さんだと思い、すぐに振り回し始めた。

 しかもやることが危ないのだ。タンスの引き出しを段々に開けて階段にし、上に登って飛び降りるという危険行為まで行っていた。

 月子の浮ついた気持ちはすぐに溶け、代わりに一時的な保護者としての義務感が芽生えた。

 一緒に遊びつつも危険行為を注意し、ルールを作ってやってはいけないことを決めた。それでタンスやら冷蔵庫やらが勝手に開けられることはなくなったし、決められた部屋以外には入らなくなった。

 ちなみに月子が頑張っている間に瑤姫はどうしていたかというと、普通に子供たちと楽しく遊んでいた。走り回ったり、ゲームをしたりだ。

 さすがにあまりに危ないことには注意するものの、例えばタンスの上からダイブしようとする子がいれば、止めるのではなくクッションを用意してやる感じだ。そして片付けもしない。

 だから月子は頑張った。子供たちから優しいお姉さんだと思われつつも、締めるべきところはきちんと締めた。

 結果として母の言っていた通り対人リハビリにはなったし、ちょっと自信もついた。保育士は無理でも、シッターくらいはできるのではないかと思えた。

(補中益気湯刀で体力を回復しながらなら、っていう条件付きではあるけど……)

 実際に、今回も何度かトイレに入ってそうしていた。半引きこもりが下駄も履かずに小学生の体力についていけるわけもない。

 ただそういった月子の頑張りもあり、景は非常によく集中してテスト勉強できたのだ。お陰で追試も免れることができたようだし、月子には感謝してもしきれない。

「なぁ修。その手伝ってくれた人に何かお礼の品を渡したいんだけど、どんなのがいいかな?二十歳の女の子なんだよ。修の得意分野だろ」

 景はふと思い立って修に尋ねてみた。若い女の扱いなら修で間違いないという信頼がある。

「なんだよ。人を遊び人みたいに言うなよ」

 などと言いながら、修も嫌な顔はしない。自分はモテるという自覚があるし、そんな自分が嫌いではない。

 それに、景には恩があるのだ。

「でもまぁ、景の頼みなら聞かないわけにもいかないな。随分と助けられたし」

 修は快活に笑って景の背中を叩いた。

 そして先に歩き出す。ついて来いということだろう。

「とりあえずショッピングモールに行こうぜ。そこでその子の好みとか聞きながら決めればいいだろ」

 ありがたい。これで月子に報いることができるだろう。

 景はそのことに安堵しながら、頼りになるリア充パリピの後を追った。
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