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清暑益気湯、加味逍遙散2

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 山脇由紀が近所の公園の前で足を止めたのは、夏の盛りの夕方だった。陽射しは傾いていても痛いほど強く、道を歩くのも嫌になる。

 だから早く家に帰りたかったのだが、クラスメイトがブランコに座っているのが目に入って思わず立ち止まった。

 ブランコを漕いでいたのならチラ見しただけで通り過ぎただろう。しかし座っていた。

 ぐったりと、力なく座っていたのだ。

(颯太君、お昼過ぎにも公園にいたけど……)

 いたのは山本颯太やまもとそうたという男子だ。

 由紀は昼過ぎに友達の家へ行く途中、このクラスメイトを見た。

 そして今は夕方になっている。まさかこれほどの真夏日に、昼から夕方まで公園で遊んでいたのだろうか。

(颯太君ってそういうタイプじゃないと思うけど……)

 由紀の言う『そういうタイプ』とは、暑いとか寒いとか分からないんじゃないだろうかと思うようなジャリボーイたちのことだ。真冬でも半袖を貫く彼らの気概を由紀は理解できない。

 しかし颯太は線の細い大人しめな男子で、全ての難事をテンションで乗り切ろうというタイプではない。

 それに今も楽しそうに遊んでいるのではなく、むしろぐったりとブランコに座っているだけなのだから心配になった。

 早く帰りたい気持ちを抑え、暑さに耐えながらブランコへと足を向けた。

「颯太君、なんか元気ないけど大丈夫?」

 颯太は声をかけられるまで、由紀がそばに立ったことにも気づかなかったようだ。ハッと顔を上げた。

 しかしその目は生気に乏しく、どこか焦点も合っていないように見えた。

「山脇さん……」

 声にも力がない。

 この炎天下でこの状態だ。由紀はまだ八歳とはいえ、何が起こっているかは察せられた。

「もしかして熱中症じゃない!?先生がよく言ってたやつ!」

 一年生の時も、二年生になってからも、暑くなると必ずその注意をされた。先生からだけでなく、祖父母からもだ。

 だから対処法はざっくり分かるので、由紀は手提げ袋から水筒を取り出した。中には祖母が持たせてくれたスポーツドリンクが入っている。

 家の中で遊ぶつもりだとは伝えたが、それでも子供は急に外で遊びたくなるかもしれない。それで念のためにと持たせてくれたものだった。

 結局は屋内だけで遊んだのでほとんど飲んでないそれを颯太の胸に押し付けた。

「あ、ありがと……」

 颯太は礼を言ってからまず一口だけ飲んだ。

 するとそれで乾きを思い出したかのように、急にピッチを上げて飲み始めた。

 ゴクゴクと喉を鳴らし、一気に飲み干す。一リットルほどの水筒がすぐに空になった。

「あとは……横にするんだっけ?こっち来て」

 由紀は颯太の手を引き、風通しの良い木陰まで連れてきて草の上に寝かせた。

 それから持っていた自由帳でパタパタとあおいでやる。颯太はやはりしんどかったようで、目を閉じてされるがままにあおがれた。

「大丈夫?大人を呼んでこようか?」

「いや……少しこうしてたら治りそうな気がする」

 本人がそう言うので、由紀もそばに座ってあおぎ続けてやった。

 そしてそのまま十分ほど経った頃、目を開けた颯太はゆっくり上半身を起こした。

「ありがとう。だいぶ楽になったよ」

 その言葉通り、顔色は良くなっているように見えた。しかし元気そのものという風ではない。

「本当に大丈夫?」

「多分、熱中症は大丈夫だと思う。一応水道で水は飲んでたし、ひどくはなかったんじゃないかな?」

「でもまだ元気なさそうに見えるけど」

「もともと暑くなってから元気がなくなってたんだ。なんかだるかったり、あんまりご飯を食べたくなかったり」

「えーっと……夏バテ?」

「うん。多分それ」

 由紀が夏場にあまりご飯が食べないと、祖父母は決まって『夏バテ?』と聞いてきた。だから由紀もその単語は知っている。

 暑くなると何となくだるくて、ご飯を食べたくなくなるアレだ。自分も経験がある。

 ただし、颯太の状態は由紀が今まで経験したものよりもひどいように見えた。

「颯太君のお母さんを呼んで来ようか?」

 颯太の家に遊びに行ったことはないが、近所なので場所くらいは分かる。

 怪我や病気はまず大人、というのは保育園の時からの常識だ。むしろ颯太が熱中症らしいと思った後、すぐに呼びに行くべきだったと反省していた。

 だから由紀はそう提案したのだが、颯太は首を横に振った。

「ううん、大丈夫だから放っておいて」

「じゃあ一緒に帰ろうよ」

「ううん、まだもう少しここにいる」

 この状況ですぐ帰ろうとしないのはおかしい。むしろ帰りたくない事情があるのではないかと由紀は思った。

 だとすると、今日昼に見かけた時から帰ってないのではないかという憶測も生まれる。

「もしかして、お昼からずっと公園にいる?」

「……うん」

 それは体調を崩して当然だ。今日の暑さは危険なほどだった。

 今は落ち着いたように見えていても、またすぐ悪くなるかもしれない。

 そう感じた由紀はやはり大人に頼るべきだと思った。

「やっぱりお母さん呼んで来るよ」

「やめて!ホントにそれはやめて!」

 颯太は由紀の腕を掴んで止めた。

 意外なほど強い力で、由紀はその必死さに少し驚いた。

「……もしかしてお母さんと喧嘩したの?それでずっと公園にいるとか」

 もしそうなら父母を亡くした由紀としては喧嘩すら羨ましく思えるのだが、颯太はまた首を横に振った。

「ううん。喧嘩じゃなくて、お母さんの方だけが怒ってるんだ」

「何か悪いことしたの?」

「してないよ。別に僕に怒ってるわけじゃなくて、何もなくても怒ってるんだ」

「イライラしてる?」

「そう、そんな感じ。だからちょっと物を落としたとか、テレビの音がうるさいとかで怒鳴られる」

「それは嫌だね……ずっとイライラしてるんだ」

「イライラが多いんだけど、急に泣き出したり、不安そうな顔になったりもしてる。お母さんは月に三日か四日くらいそんな風に変になる日があるんだ」

「そっか……今日はそういう日で、家にいたくないから公園にいたんだね」

「うん。いつもは友達の家で遊んだりしてるんだけど、今日は皆いなくて……」

 それならば、とりあえず自分の家に来てもらったらいい。祖母が颯太の体調不良もみてくれるだろう。

 そう思って由紀はスマホを取り出し、祖母へ電話をかけた。

 しかし出ない。

 呼び出し音を聞きながら、そういえば今日の祖母は遅くなると言っていたことを思い出した。

 食育教室という、料理や食事の大切さを色々な人に教える教室の講師をしているのだ。その日は夕食もそこで作って帰るので遅くなる。

 だから仮に電話に出ても、どうせしばらくは帰れないだろう。由紀はそう考えて呼び出すのを止めた。

 別に黙って颯太を連れて帰ってもいいが、体調が悪そうなのに大人がいないのは不安だ。

 それで次に頼りになる大人を頭に思い浮かべた。

(瑤姫ちゃんと景お兄ちゃん……)

 この二人は頼りになるどころか、由紀の命を救ってくれた実績まである。それに瑤姫は病気のことをよく知っているし、景も薬剤師の卵で漢方以外はよく勉強しているという話だった。

 だからこの二人の名が浮かんだのは当然といえば当然なのだが、実はそれだけではない。

 今朝からずっと感じていたものが、今頃になっていや増しているのだ。

(嫌な感じが強くなってる……邪気が濃くなってるんだ)

 日中も遊びながら気にはなっていたのだが、夕方になってさらにひどくなっていた。

 昼間に瑤姫、景、月子のメッセージグループにそのことを送っていたが、その時は念のため、と付け加えておいた。だからまだ三人から具体的なアクションはない。

 しかし颯太のこともあるし、この邪気の強さなら来てもらってもいいだろうと思った。

「颯太君、ちょっと待ってね。いま頼りになる大人を呼ぶから」

 由紀はディスプレイを素早くスワイプし、瑤姫たちに向けてメッセージを打ち始めた。

 子供の順応力とは凄まじいもので、スマホを手に入れて間もない由紀だがすでに字を書くよりもこうして入力するほうが早い。

「……どういう人?」

 颯太が不安そうに聞いてきたので、由紀はにっこり笑って答えた。

「最近よく遊んでる人。すごく優しいし、面白いよ」

 優しいし面白い。そして遊んでくれる。

 それは子供にとって安心感のある大人の特徴で、颯太はホッと息を吐くともう一度横になった。

 そうしていると、ほどなく景から返信があった。すぐに来てくれるということだ。

 メッセージには十五分程度で着く旨と、熱中症への対応が書いてある。

 由紀はそれに従って水道の所へ行き、ハンカチを濡らした。

 公園の水は初め熱湯のようだったが、しばらく出すとそれなりの冷たさにはなった。

 軽く絞ったそれを颯太の首筋に当ててやると、唸るような声を漏らした。

「うぁ……気持ちいい……ありがとう」

「もっとスポドリ飲みたかったら家のを取ってくるよ?」

「大丈夫。山脇さんは優しいね」

 颯太はそう言って、少し恥ずかしそうに微笑んだ。

 それを見た由紀の心臓はなぜか強く拍動した。

 颯太のはにかんだような顔が妙に可愛らしく見えて、不思議と目が離せなくなった。

 女の子は成長が早い。種子として胸に植わっていた母性が芽を出したのかもしれない。

 もしくはそれは母性でなく、庇護欲と恋心の入り混じった感情だったのかもしれない。それらが双葉の一枚ずつになり、胸にいきなり芽生えたことで心臓が驚いたのか。

 由紀は初めて覚える感情に熱中してしまった。母性にせよ、庇護欲にせよ、恋心にせよ、それらはどれも人を蕩けさせる。

 だからだろう。由紀は誰よりも鋭敏な感覚を持ち合わせているにも関わらず、颯太の母親が公園にやって来たことには気づかなかった。

 そして邪気がいっそう濃くなっていることにも。
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