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補中益気湯、当帰芍薬散4
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「下がれ月子!」
景は月子を後ろにかばいながら数歩後ずさった。
邪気の塊は一度空でぐるりと回り、街の一角へと落ちていった。
そしてその落下地点に月子は心当たりがある。
「あ、あそこ……ライフ漢方薬局のある辺りなんじゃ……」
呆然とつぶやく月子の手を景が強く引いた。
そして覆いかぶさるように抱きしめてくる。
(えっ!?)
月子が力強い抱擁にドキドキできたのはほんの一瞬で、すぐに強い衝撃に全身が襲われた。
景の背中が激しく打たれ、その勢いで自分も一緒に飛ばされたのだ。
かなりの距離宙を舞った二人だったが、景は空中で体勢を整えて足から着地した。そして月子の体も抱きしめた姿勢のまま受け止める。
「大丈夫か!?」
「えっ!?……う、うん!」
急接近した顔と顔の距離に胸が高鳴ったが、月子もそれどころではないことは承知している。
どうやら何かが自分たちを攻撃してきたようだ。そして景が身を挺してそれから守ってくれたのだろう。
「け、景君は大丈夫?」
「まぁ……大丈夫だ」
本当は背中がかなり痛いのだが、あらかじめ出している補中益気刀の効果で身体強度は上がっている。まだ十分動ける程度のダメージだった。
月子は安堵し、景を傷つけた何かを探すため周囲を見回そうとした。
が、その何かは視線をほとんど動かさずとも、すぐに見つけることができた。
「お……おっきいスライム!?」
月子の視界を埋め尽くさんばかりの巨大なスライムがそこにいた。
直径十メートルはあるのではなかろうかというゼリー状の半球体がプルプルと震えている。その中心には吉乃の夫が浮いていた。
ぐったりしているのは同じだが、先ほどまでと違い完全に意識はないようだ。白目をむいて、口も力なく開いたままだ。
あれだけの邪気を放出したにも関わらず、己も病邪化するだけの余力が残っていたらしい。
「来るぞ!」
景が月子にそう警告したのは、スライムの一部がグニャリと歪んで突き出てきたからだ。
カタツムリの角のようなそれはある程度の大きさになると急に速度を増し、景たちに襲いかかってきた。
「キャア!」
「っらあ!」
月子は身をすくませて悲鳴を上げるだけだったが、景はさすがに戦い慣れている。補中益気刀を振るって応戦した。
黄金の刀身がスライムに当たるとズバッと音がして、切断された先が地面に落ちた。
(簡単に斬れるな。やっぱりあらかじめ適切な処方を調べてると楽だ)
今回の戦いはかなり有利に進められそうだと思った景だったが、それは完全に油断だった。
いきなり腹部に強い衝撃を受けたのだ。
「ぐふっ!……な、なんだ!?」
腹を見ると、斬り落とされたスライムがめり込んでいた。地面で跳ねて突っ込んできたようだ。
「こいつ斬っても死なないのか!?」
景は粘菌の生態を思い出しながら、焦った声を上げた。
粘菌は切断しても切り離されたそれぞれで生存できる。この病邪も粘菌なのかは分からないが、性質は似ていると思うしかなさそうだ。
そして景の得物は刀で、基本的には斬るか突くかしかない。それが効かないとなると、どうすればいいのか。
「くそっ!」
悪態をつき、無駄かもしれないと思いながらも小さくなったスライムをさらに細切れにしてみた。遮二無二刀を振るう。
「おらららららぁ!」
斬られたスライムはやはり地面を跳ねて襲いかかってきた。しかも二つがくっつくと、また一つに戻るのだ。
「くそっ、キリがない!」
毒づく景に、月子が後ろから声をかけた。
「で、でも一番小さいのは消えたよ」
「何!?本当か!?」
景は見逃してしまったが、月子にはそれがはっきりと見えたのだ。
そしてその情報を受けて細かく斬っていくと、拳くらいのサイズからは消えることが分かった。
それ以上小さくなると邪気が浄化されて消失するのだ。
「……つまり、今回の戦いはこの馬鹿デカいのをひたすら細切れにしていく作業ってことか」
「た、体力の回復する補中益気刀向きではあるね……」
直径十メートルの半球を拳サイズに小分けしていく場合、何度刀を振らなければならないか。
その問を暗算でやってのけるほどの頭は景にも月子にもなかったが、とりあえず解は膨大な数字であることは分かった。
しかも好きに斬らせてくれるわけではなく、向こうからの攻撃を捌きつつの作業になる。
「月子は由紀ちゃんと一緒に下がっててくれ。基本、俺がやる」
景にそう言われ、月子は自分たちが先ほどまで隠れていた場所に顔を向けた。
見ると、補中益気刀を片手にこちらへ来ようとする由紀を、瑤姫が引っ張って止めていた。どうやら由紀は戦う気満々らしい。
月子は怖いので戦いたくないのだが、子供が頑張ろうとしているのを見るとただ逃げてもいられない。
それに、景の役に立ちたいという気持ちも当然あるのだ。
「わ、私もできる範囲で戦うよ」
「それなら離れたところで消し漏らしたやつを処理してくれ。多分だけど、ギリギリ消えないサイズがちょいちょい出てくるはずだ」
効率よく消していこうとすれば、ギリギリ消えるサイズに斬っていくのがいい。
しかしギリギリを狙えば当然ギリギリアウトのものも出てくるだろう。その処理をしてもらえれば景としても助かる。
(それに、小さいやつなら体当たりを食らっても大きな怪我にはならないだろ。二人にほど良い緊張感の実戦を経験させられる)
そんな目算を立てつつ、景は巨大スライムへ向かって補中益気刀を構え直した。
月子の方は言われた通り下がっていき、由紀に景からの指示を伝えた。すると由紀は戦っていいと言われたのが嬉しいらしく、明るい声を上げた。
景はその声に一抹の不安を抱きながら、巨大スライムへと踏み込んでいく。
スライムは間合いが詰まるとすぐに己の体を変形させ、先ほどのようにぶつけてきた。まともに当たれば吹っ飛ばされることは証明済みの重い打撃だ。
景はそれを落ち着いてかわし、補中益気刀を振り下ろした。
やはり処方は間違いないらしく、一刀で断ち切れる。しかも景はその切り離された塊が地面に落ちるよりも早く、さらに何刀も刃を入れた。
(身体強化の程度は、まぁまぁってとこか)
一般人が見ればありえないと思うような速度で刀を振りながら、景は補中益気刀についてそう評価した。
これだけ動けても葛根刀と比べれば劣っているのだ。ただし体力回復の特殊効果があることを考えれば、どちらが優れていると言えるものでもない。
「おらららららららららぁ!」
景はひたすら補中益気刀を振り続けた。
スライム自体は大して強くはない。もちろん月子たちならその攻撃を捌くだけでも容易ではないだろうが、少なくとも景にとっては油断さえしなければどうということはなかった。
しかし、とにかく少しずつしか消滅させられないのだ。葛根刀でも体力の強化はあるが、この馬鹿でかいスライムを消し切るまで休み無く動き続けるのは難しいだろう。
その点、補中益気刀は全力で刀を振り続けてもほとんど疲労を感じなかった。
「月子が言った通り、こういう持久戦なら補中益気刀向きだな!」
改めてそう認識しながら、たまに斬りそこねたのを月子たちの方へ向けて弾いた。
半分はトレーニングのつもりだから、自分で斬った方が楽そうだと思えるものでもそちらへやった。
「月子!由紀ちゃん!危なかったらすぐ声を上げるんだぞ!」
「うん!」
「は、はい!」
由紀と月子は返事をしてから、二人ともそれぞれ向かい合ったスライムへと補中益気刀を振り下ろした。
しかし当たらない。二体のスライムは地面を器用に跳ねて二人の斬撃をかわした。
しかもかわした直後に強く弾み、顔面向かって体当たりをしてきた。
「「キャッ!」」
二人の悲鳴が重なり、反射的に手にした補中益気刀を顔の前にやった。
すると勢いをつけて刃にぶつかったスライムが二つに斬れ、どちらも黒いモヤになった後、浄化されて消えていった。
「……やった!」
「た、倒した?」
倒したと言うにはあまりに受け身で、倒れてくれたと言うのが事実に近いだろう。
しかしそれでも二人にとっては初めての戦果であり、特に由紀の方はピョンピョン跳ねて喜んでいた。ポジティブな経験にはなったようだ。
「やっぱ初めのレベル上げはスライムだよな」
景は二人を横目に見つつ、そんなことを独りごちた。
ただ実のところ、景の心の内はあまり喜んでなどいない。
もちろん二人が経験を積むことで死ぬ可能性が減るのは喜ばしいのだが、もしこうなればもっと喜ばしいと思える想定があるのだ。
(……正直に言うと、適度に痛い思いをして戦いを拒否するようになってくれたら一番なんだけど)
本音の本音として、そう思うのだ。
景は由紀と月子が傷つくのが怖い。
規格外だと言われる自分ですら死を感じることがあったのに、平均にも達していないらしい二人はもっと危険だろう。
さらに言えば、二人が戦う気をなくしてくれれば自分もまた戦いを拒否できる。景は由紀と月子を放っておけないから、『もう戦わない』と言えなくなったのだ。
(適度に……適度にだぞ……)
二人の周りを跳ね回る小スライムにそんな事を念じていると、由紀の脇腹にスライムがぶつかった。
由紀の身体強化は景よりも弱い。体当たりはかなり痛かったようで、顔をしかめてよろめいた。
景は思わず駆けつけたくなったが、ぐっとこらえる。
由紀はまだ八歳だ。きっと泣くだろう。これでもう戦うのは嫌になるのではないかと考えた。
しかし由紀は泣かなかった。
それどころか自分に体当たりしたスライムを睨みつけ、
「やぁ!」
と気合を入れて叩き切った。
そしてそのスライムが黒いモヤになったのを見届けてから、すぐに次のスライムへと駆けていく。
ただその真っ直ぐな突撃が良くなかったのか、今度はスライムの体当たりが顔の真ん中に炸裂した。
「由紀ちゃん!」
景は少なからぬ後悔ととも声を上げた。
由紀は倒れはしなかったものの、グラリと後ろに傾いて鼻からは血が吹き出した。
(こ、これはさすがに……)
八歳の子供が耐えられることではないだろう。今度こそ間違いなく泣く。そして由紀の戦いはもうここまでだ。
そう確信した景だったが、由紀の目からは涙がこぼれるどころか火が吹き上がった。そこにあるのは恐怖ではなく、強い怒りだ。
鼻血を拭い、その血まみれになった手で刀の柄を握り直し、スライムへと斬りかかる。
闘薬術の使い手としては非力なはずの斬撃だが、それでも一刀でスライムは消え失せた。
「お父さん!お母さん!」
由紀はそう叫んで次の病邪を探し始める。
その声を聞いた途端、景は急に息苦しくなった。
ずっと刀を振り続けているからではない。まだ八歳の子供がこんなふうになってしまうほど大好きだった両親と引き離されたことを思うと、息の詰まるような思いがしたのだ。
(由紀ちゃんを戦いから遠ざけるのは相当難しいと思った方がいいな……)
景はそう結論づけ、今後は戦いの中で由紀の危険を少しでも減らす方向に尽力した方がいいと方針を転換した。
月子の方は由紀よりも慎重にやっているせいか、スライムの攻撃はまだ受けていない。ちょっとへっぴり腰だが何体か仕留めてもいた。
しかしそれでいっぱいいっぱいなようで、由紀の顔が血塗れになっていることにすら気づいていなかった。
(月子はテンパりがちだからこうやって経験を積ませるのが良いんだろうけど……やっぱり、そもそも二人ともできるだけ戦わないのが一番だな)
やはり景と比べてしまうと圧倒的に非力だった。
しかしそうなると、結局戦うのは景ということになる。
景はそんな状況を作り上げた駄女神に呪いのこもった視線を向けた。
瑤姫は戦闘の合間を見て由紀のところへ駆け寄り、血を拭いて鼻に詰め物をしてやっていた。
(そんなふうにかいがいしく子供の世話をしても駄目だ。お前は完全無欠の駄女神なんだよ。家じゃ何もしないし)
景は心中で夫婦のような愚痴を漏らしつつ、その怒りをひたすら巨大スライムにぶつけていった。
そうしてようやく四分の1ほども体積が減った頃だろうか。
由紀が急にスライムを追うのをやめ、明後日の方を向いた。
そして三人に聞こえるよう大きな声を出す。
「もう一匹……産まれるよ!」
その数秒後に起こった邪気の爆発的な増大は、鈍感な景でも言われれば気づく程度には感じることができた。
そして敏感な瑤姫と月子にはよりはっきりと新たな病邪の顕現が感じられたようだ。
「確かにもう一匹産まれちゃったわね。さっき邪気が飛んでいった方向だわ」
「あ、あっちはその人の奥さんがいるお店のあるところです!もしかして吉乃さんが病邪に……」
このクソ忙しい時に、というのが景の本音だったのだが、月子は違う。
今日初めて会ったとはいえ、抱きしめられた仲だ。本当に心配だった。
「わ、私だけでもお店に向かいます!」
瑤姫にそう言い残してスライムたちに背を向けた。
そもそも今の月子がしているのはサポート程度の働きだ。凄まじい速度でスライムを細切れにしていく景を見れば、自分がいなくてもさしたる違いはないだろうと思うのも当然だった。
しかし景がそれを止めた。月子がハッとするほど鋭い声だった。
「駄目だ!一人で行くのは危険過ぎる!」
きっぱりと制止され、月子は足を止めた。しかし承服はしかねる。
「で、でも吉乃さんが……」
「だからって月子が怪我していいわけじゃない!こいつを倒し切るまで待つんだ!」
悪いが景にとって吉乃は顔も知らない他人でしかない。それよりもすでに身内になっている月子の方が何億倍も大切だった。
張中景とはそういう青年なのだ。遠い他人にまで慈悲の気持ちを持たないが、友人知人には強い情が湧く。
それはある意味で極めて人間的であり、ある面から見れば偽善でもある。
だから戦いをずっと拒否していたくせに、いざ由紀や月子が巻き込まれれば一人で逃げることはできないのだった。
「じゃ、じゃあ……私もその大っきいの斬るから!」
月子は少しでも早く処理しようとやる気を見せたのだが、景からすれば迷惑な提案だ。
月子を守りながら戦う方が大変だし、月子が大怪我するのをただ見ていられるわけがない。細切れにされた小スライムとは打撃力が違うのだ。
つい舌打ちしそうになった。
「いいから下がってろ!小さいのを飛ばす頻度を増やすから、それを確実に処理してくれ!」
「で、でも……」
「瑤姫!」
景は苛立ちをぶつけるような大声で瑤姫を呼んだ。月子に己の感情を伝えるのと、瑤姫に対する八つ当たりを兼ねている。
「何かいい方法を考えろ!さっさとこいつを倒せるようなやつ!」
瑤姫の方は八つ当たられているという自覚があったのか、負けずに強い口調で言い返す。
「無茶言わないでよ!この患者は結構な重症で、このスライムも普通なら医聖が二、三十人がかりでもキツいやつよ!?そんな簡単にいくわけないでしょ!」
(俺、また何人分も働かされてんのか……)
景ははっきりと不満に思ったが、それどころではないのでいったんは胸にしまっておく。
「確認だけど、補中益気刀の特殊能力は体力回復だけなんだろうな!?いっつも大事なこと言い忘れてるだろ!」
言われて瑤姫は鼻で笑った。いくらなんでもと思ったのだ。
「さすがにそんな大事なことを言い忘れるわけ無いでしょ。もしかして必殺技でも期待してるわけ?それは少年漫画の読み過……ぎ……」
と、喋る瑤姫の声が最後小さくなっていった。
景は嫌な予感、というかむしろこの状況だと良い予感がした。
「……もしかしてあるのか?必殺技」
「……いや、えーっと……」
瑤姫は少し言葉を濁したものの、誰がどう見ても自分たちは切羽詰まっている。さすがに己の責任回避のために嘘をつくのははばかられた。
声のトーンはだいぶ下がったが、きちんと説明を始める。
「あのね……私、さっき『中気下陥』って単語を使ったでしょ?」
景もそういえばその意味を聞いていなかったなと思いながら相槌を打った。もちろん手はスライムを刻みながらだ。
「ああ、言ってたな」
「その中気下陥はお腹の気や臓器が下に陥ることを言うの。具体的な症状としては立ちくらみやめまい、手足のだるさ、内臓下垂、慢性的な下痢なんかで、体がストンと下に落ちるような、もしくは後ろに引っ張られるような感覚を受けることがままあるわ」
「脾虚とはまた別なのか?」
「中気下陥は脾虚によって引き起こされるのよ」
「そうか。補中益気湯は脾虚に良い生薬が入ってるから中気下陥にも効くってわけだな?」
景の早足過ぎる理解に対し、瑤姫の首は横に振られた。
「確かに脾虚が改善すれば中気下陥も抑えられるわ。でも補中益気湯には脾を補う生薬だけじゃなくて、下がった気を引き上げる『昇提』の生薬も含まれてるの」
「昇提……」
「そう、そしてその昇提作用こそが補中益気刀の必殺技になるのよ」
必殺技キタ、と思いながら景は先を促した。駄女神のポカを責めるのは全ての戦いが終わってからだ。
「どうすればいいんだ?」
「刀に強く念じて斬り上げなさい」
念じて斬り上げる、という単純な作業に景は眉を寄せた。必殺技という割にはやることが簡単過ぎると思ったのだ。
「斬り上げ?それだけでいいのか?」
「周囲の気を巻き込んで持ち上げるイメージを持つことが重要よ」
言われたことを意識しながら巨大スライムを見やる。
そういえばズドンと重そうな体をしていて、腹の気や臓器が下に陥るという中気下陥のイメージを体現しているような気がしてきた。
(こいつを上へと持ち上げるイメージか)
景はそれを心中に抱きながら、踏み込んでギリギリまで肉薄した。念を込められたその刀身はいっそう明るい黄金に輝く。
そして切っ先を地面をスレスレに走らせ、補中益気刀を思い切り振り上げた。
ゴゥッ
と音がするほど、瞬間的に強い上昇気流が発生した。
ただし気流とは言っても空気の流れではなく、気の流れだ。気が上へ向かって昇り龍の如く舞い上がる。
その力で超重量の巨大スライムが宙に浮いた。月子や由紀が目を疑うような圧巻の光景だった。
しかもそれだけではなく、上昇気流が発生させる付随現象までもが続いて生じた。
「た、竜巻!?」
景が思いもかけない結果に驚きの声を上げる。
目の前で突如として回転気流が発生したのだ。
確かに竜巻やつむじ風は上昇気流がきっかけで起こるものではある。しかし、いくらなんでも物理的には無茶苦茶な話だと思った。
(まぁ闘薬術自体が無茶苦茶なわけだけど……)
景がそう納得するしかないと諦めている間に、竜巻の規模と回転数はどんどん大きくなっていく。その力に抗えず、スライムの形がグニャリと湾曲した。
そしてついには加わる力がスライムの強度に勝ったらしい。表面が千切れ始めた。
小さく千切れた塊は黒いモヤになって消えていき、大きく千切れた塊は竜巻の中でさらに細く千切られた上で消えていく。
「すげぇな……」
景は十歩ばかり下がってからつぶやいた。下手に近くにいたら巻き込まれそうだ。
「ふっふっふ、それが補中益気刀の必殺技『昇提トルネード』よ!ちなみに威力はすごいけどクールタイムの長い必殺技だから注意してね。多分だけど、景でも数分は待たないと次を撃てないわよ」
瑤姫は自慢げではあったが、さすがに反省したのかきちんと細かい情報をくれた。
荒れ狂う竜巻の中でスライムはどんどんその容積を減らしていく。終いには中心部にいた吉乃の夫の周囲を申し訳程度に覆うばかりになった。
そしてその時点になって、ようやく竜巻はおさまった。力を失った男の体がドサリとベンチに落ちる。
「景、とどめよ!」
「分かってる!」
何を今さら仕切り始めてんだ、などと思いながら、景は男の胸に補中益気刀を突き刺した。
黄金の刀身が体に沈むと男は一度大きく痙攣して、その周囲を覆っていたスライムが完全に消滅した。
黒いモヤが周囲に広がり、やがてキラキラと浄化されて消えていく。
討伐完了だ。
「すごい!私も今の竜巻やりたい!」
興奮した由紀は小さな昇提トルネードを発生させて喜んでいたが、事態はその無邪気さを愛でられない程度には切迫している。
景は由紀に駆け寄るとすぐに抱き上げた。抱えて走るつもりなのだ。
「病邪はどっち!?」
問われた由紀はさすがにハッとして、すぐに強い邪気を感じる方へと誘導してくれた。
景は月子を後ろにかばいながら数歩後ずさった。
邪気の塊は一度空でぐるりと回り、街の一角へと落ちていった。
そしてその落下地点に月子は心当たりがある。
「あ、あそこ……ライフ漢方薬局のある辺りなんじゃ……」
呆然とつぶやく月子の手を景が強く引いた。
そして覆いかぶさるように抱きしめてくる。
(えっ!?)
月子が力強い抱擁にドキドキできたのはほんの一瞬で、すぐに強い衝撃に全身が襲われた。
景の背中が激しく打たれ、その勢いで自分も一緒に飛ばされたのだ。
かなりの距離宙を舞った二人だったが、景は空中で体勢を整えて足から着地した。そして月子の体も抱きしめた姿勢のまま受け止める。
「大丈夫か!?」
「えっ!?……う、うん!」
急接近した顔と顔の距離に胸が高鳴ったが、月子もそれどころではないことは承知している。
どうやら何かが自分たちを攻撃してきたようだ。そして景が身を挺してそれから守ってくれたのだろう。
「け、景君は大丈夫?」
「まぁ……大丈夫だ」
本当は背中がかなり痛いのだが、あらかじめ出している補中益気刀の効果で身体強度は上がっている。まだ十分動ける程度のダメージだった。
月子は安堵し、景を傷つけた何かを探すため周囲を見回そうとした。
が、その何かは視線をほとんど動かさずとも、すぐに見つけることができた。
「お……おっきいスライム!?」
月子の視界を埋め尽くさんばかりの巨大なスライムがそこにいた。
直径十メートルはあるのではなかろうかというゼリー状の半球体がプルプルと震えている。その中心には吉乃の夫が浮いていた。
ぐったりしているのは同じだが、先ほどまでと違い完全に意識はないようだ。白目をむいて、口も力なく開いたままだ。
あれだけの邪気を放出したにも関わらず、己も病邪化するだけの余力が残っていたらしい。
「来るぞ!」
景が月子にそう警告したのは、スライムの一部がグニャリと歪んで突き出てきたからだ。
カタツムリの角のようなそれはある程度の大きさになると急に速度を増し、景たちに襲いかかってきた。
「キャア!」
「っらあ!」
月子は身をすくませて悲鳴を上げるだけだったが、景はさすがに戦い慣れている。補中益気刀を振るって応戦した。
黄金の刀身がスライムに当たるとズバッと音がして、切断された先が地面に落ちた。
(簡単に斬れるな。やっぱりあらかじめ適切な処方を調べてると楽だ)
今回の戦いはかなり有利に進められそうだと思った景だったが、それは完全に油断だった。
いきなり腹部に強い衝撃を受けたのだ。
「ぐふっ!……な、なんだ!?」
腹を見ると、斬り落とされたスライムがめり込んでいた。地面で跳ねて突っ込んできたようだ。
「こいつ斬っても死なないのか!?」
景は粘菌の生態を思い出しながら、焦った声を上げた。
粘菌は切断しても切り離されたそれぞれで生存できる。この病邪も粘菌なのかは分からないが、性質は似ていると思うしかなさそうだ。
そして景の得物は刀で、基本的には斬るか突くかしかない。それが効かないとなると、どうすればいいのか。
「くそっ!」
悪態をつき、無駄かもしれないと思いながらも小さくなったスライムをさらに細切れにしてみた。遮二無二刀を振るう。
「おらららららぁ!」
斬られたスライムはやはり地面を跳ねて襲いかかってきた。しかも二つがくっつくと、また一つに戻るのだ。
「くそっ、キリがない!」
毒づく景に、月子が後ろから声をかけた。
「で、でも一番小さいのは消えたよ」
「何!?本当か!?」
景は見逃してしまったが、月子にはそれがはっきりと見えたのだ。
そしてその情報を受けて細かく斬っていくと、拳くらいのサイズからは消えることが分かった。
それ以上小さくなると邪気が浄化されて消失するのだ。
「……つまり、今回の戦いはこの馬鹿デカいのをひたすら細切れにしていく作業ってことか」
「た、体力の回復する補中益気刀向きではあるね……」
直径十メートルの半球を拳サイズに小分けしていく場合、何度刀を振らなければならないか。
その問を暗算でやってのけるほどの頭は景にも月子にもなかったが、とりあえず解は膨大な数字であることは分かった。
しかも好きに斬らせてくれるわけではなく、向こうからの攻撃を捌きつつの作業になる。
「月子は由紀ちゃんと一緒に下がっててくれ。基本、俺がやる」
景にそう言われ、月子は自分たちが先ほどまで隠れていた場所に顔を向けた。
見ると、補中益気刀を片手にこちらへ来ようとする由紀を、瑤姫が引っ張って止めていた。どうやら由紀は戦う気満々らしい。
月子は怖いので戦いたくないのだが、子供が頑張ろうとしているのを見るとただ逃げてもいられない。
それに、景の役に立ちたいという気持ちも当然あるのだ。
「わ、私もできる範囲で戦うよ」
「それなら離れたところで消し漏らしたやつを処理してくれ。多分だけど、ギリギリ消えないサイズがちょいちょい出てくるはずだ」
効率よく消していこうとすれば、ギリギリ消えるサイズに斬っていくのがいい。
しかしギリギリを狙えば当然ギリギリアウトのものも出てくるだろう。その処理をしてもらえれば景としても助かる。
(それに、小さいやつなら体当たりを食らっても大きな怪我にはならないだろ。二人にほど良い緊張感の実戦を経験させられる)
そんな目算を立てつつ、景は巨大スライムへ向かって補中益気刀を構え直した。
月子の方は言われた通り下がっていき、由紀に景からの指示を伝えた。すると由紀は戦っていいと言われたのが嬉しいらしく、明るい声を上げた。
景はその声に一抹の不安を抱きながら、巨大スライムへと踏み込んでいく。
スライムは間合いが詰まるとすぐに己の体を変形させ、先ほどのようにぶつけてきた。まともに当たれば吹っ飛ばされることは証明済みの重い打撃だ。
景はそれを落ち着いてかわし、補中益気刀を振り下ろした。
やはり処方は間違いないらしく、一刀で断ち切れる。しかも景はその切り離された塊が地面に落ちるよりも早く、さらに何刀も刃を入れた。
(身体強化の程度は、まぁまぁってとこか)
一般人が見ればありえないと思うような速度で刀を振りながら、景は補中益気刀についてそう評価した。
これだけ動けても葛根刀と比べれば劣っているのだ。ただし体力回復の特殊効果があることを考えれば、どちらが優れていると言えるものでもない。
「おらららららららららぁ!」
景はひたすら補中益気刀を振り続けた。
スライム自体は大して強くはない。もちろん月子たちならその攻撃を捌くだけでも容易ではないだろうが、少なくとも景にとっては油断さえしなければどうということはなかった。
しかし、とにかく少しずつしか消滅させられないのだ。葛根刀でも体力の強化はあるが、この馬鹿でかいスライムを消し切るまで休み無く動き続けるのは難しいだろう。
その点、補中益気刀は全力で刀を振り続けてもほとんど疲労を感じなかった。
「月子が言った通り、こういう持久戦なら補中益気刀向きだな!」
改めてそう認識しながら、たまに斬りそこねたのを月子たちの方へ向けて弾いた。
半分はトレーニングのつもりだから、自分で斬った方が楽そうだと思えるものでもそちらへやった。
「月子!由紀ちゃん!危なかったらすぐ声を上げるんだぞ!」
「うん!」
「は、はい!」
由紀と月子は返事をしてから、二人ともそれぞれ向かい合ったスライムへと補中益気刀を振り下ろした。
しかし当たらない。二体のスライムは地面を器用に跳ねて二人の斬撃をかわした。
しかもかわした直後に強く弾み、顔面向かって体当たりをしてきた。
「「キャッ!」」
二人の悲鳴が重なり、反射的に手にした補中益気刀を顔の前にやった。
すると勢いをつけて刃にぶつかったスライムが二つに斬れ、どちらも黒いモヤになった後、浄化されて消えていった。
「……やった!」
「た、倒した?」
倒したと言うにはあまりに受け身で、倒れてくれたと言うのが事実に近いだろう。
しかしそれでも二人にとっては初めての戦果であり、特に由紀の方はピョンピョン跳ねて喜んでいた。ポジティブな経験にはなったようだ。
「やっぱ初めのレベル上げはスライムだよな」
景は二人を横目に見つつ、そんなことを独りごちた。
ただ実のところ、景の心の内はあまり喜んでなどいない。
もちろん二人が経験を積むことで死ぬ可能性が減るのは喜ばしいのだが、もしこうなればもっと喜ばしいと思える想定があるのだ。
(……正直に言うと、適度に痛い思いをして戦いを拒否するようになってくれたら一番なんだけど)
本音の本音として、そう思うのだ。
景は由紀と月子が傷つくのが怖い。
規格外だと言われる自分ですら死を感じることがあったのに、平均にも達していないらしい二人はもっと危険だろう。
さらに言えば、二人が戦う気をなくしてくれれば自分もまた戦いを拒否できる。景は由紀と月子を放っておけないから、『もう戦わない』と言えなくなったのだ。
(適度に……適度にだぞ……)
二人の周りを跳ね回る小スライムにそんな事を念じていると、由紀の脇腹にスライムがぶつかった。
由紀の身体強化は景よりも弱い。体当たりはかなり痛かったようで、顔をしかめてよろめいた。
景は思わず駆けつけたくなったが、ぐっとこらえる。
由紀はまだ八歳だ。きっと泣くだろう。これでもう戦うのは嫌になるのではないかと考えた。
しかし由紀は泣かなかった。
それどころか自分に体当たりしたスライムを睨みつけ、
「やぁ!」
と気合を入れて叩き切った。
そしてそのスライムが黒いモヤになったのを見届けてから、すぐに次のスライムへと駆けていく。
ただその真っ直ぐな突撃が良くなかったのか、今度はスライムの体当たりが顔の真ん中に炸裂した。
「由紀ちゃん!」
景は少なからぬ後悔ととも声を上げた。
由紀は倒れはしなかったものの、グラリと後ろに傾いて鼻からは血が吹き出した。
(こ、これはさすがに……)
八歳の子供が耐えられることではないだろう。今度こそ間違いなく泣く。そして由紀の戦いはもうここまでだ。
そう確信した景だったが、由紀の目からは涙がこぼれるどころか火が吹き上がった。そこにあるのは恐怖ではなく、強い怒りだ。
鼻血を拭い、その血まみれになった手で刀の柄を握り直し、スライムへと斬りかかる。
闘薬術の使い手としては非力なはずの斬撃だが、それでも一刀でスライムは消え失せた。
「お父さん!お母さん!」
由紀はそう叫んで次の病邪を探し始める。
その声を聞いた途端、景は急に息苦しくなった。
ずっと刀を振り続けているからではない。まだ八歳の子供がこんなふうになってしまうほど大好きだった両親と引き離されたことを思うと、息の詰まるような思いがしたのだ。
(由紀ちゃんを戦いから遠ざけるのは相当難しいと思った方がいいな……)
景はそう結論づけ、今後は戦いの中で由紀の危険を少しでも減らす方向に尽力した方がいいと方針を転換した。
月子の方は由紀よりも慎重にやっているせいか、スライムの攻撃はまだ受けていない。ちょっとへっぴり腰だが何体か仕留めてもいた。
しかしそれでいっぱいいっぱいなようで、由紀の顔が血塗れになっていることにすら気づいていなかった。
(月子はテンパりがちだからこうやって経験を積ませるのが良いんだろうけど……やっぱり、そもそも二人ともできるだけ戦わないのが一番だな)
やはり景と比べてしまうと圧倒的に非力だった。
しかしそうなると、結局戦うのは景ということになる。
景はそんな状況を作り上げた駄女神に呪いのこもった視線を向けた。
瑤姫は戦闘の合間を見て由紀のところへ駆け寄り、血を拭いて鼻に詰め物をしてやっていた。
(そんなふうにかいがいしく子供の世話をしても駄目だ。お前は完全無欠の駄女神なんだよ。家じゃ何もしないし)
景は心中で夫婦のような愚痴を漏らしつつ、その怒りをひたすら巨大スライムにぶつけていった。
そうしてようやく四分の1ほども体積が減った頃だろうか。
由紀が急にスライムを追うのをやめ、明後日の方を向いた。
そして三人に聞こえるよう大きな声を出す。
「もう一匹……産まれるよ!」
その数秒後に起こった邪気の爆発的な増大は、鈍感な景でも言われれば気づく程度には感じることができた。
そして敏感な瑤姫と月子にはよりはっきりと新たな病邪の顕現が感じられたようだ。
「確かにもう一匹産まれちゃったわね。さっき邪気が飛んでいった方向だわ」
「あ、あっちはその人の奥さんがいるお店のあるところです!もしかして吉乃さんが病邪に……」
このクソ忙しい時に、というのが景の本音だったのだが、月子は違う。
今日初めて会ったとはいえ、抱きしめられた仲だ。本当に心配だった。
「わ、私だけでもお店に向かいます!」
瑤姫にそう言い残してスライムたちに背を向けた。
そもそも今の月子がしているのはサポート程度の働きだ。凄まじい速度でスライムを細切れにしていく景を見れば、自分がいなくてもさしたる違いはないだろうと思うのも当然だった。
しかし景がそれを止めた。月子がハッとするほど鋭い声だった。
「駄目だ!一人で行くのは危険過ぎる!」
きっぱりと制止され、月子は足を止めた。しかし承服はしかねる。
「で、でも吉乃さんが……」
「だからって月子が怪我していいわけじゃない!こいつを倒し切るまで待つんだ!」
悪いが景にとって吉乃は顔も知らない他人でしかない。それよりもすでに身内になっている月子の方が何億倍も大切だった。
張中景とはそういう青年なのだ。遠い他人にまで慈悲の気持ちを持たないが、友人知人には強い情が湧く。
それはある意味で極めて人間的であり、ある面から見れば偽善でもある。
だから戦いをずっと拒否していたくせに、いざ由紀や月子が巻き込まれれば一人で逃げることはできないのだった。
「じゃ、じゃあ……私もその大っきいの斬るから!」
月子は少しでも早く処理しようとやる気を見せたのだが、景からすれば迷惑な提案だ。
月子を守りながら戦う方が大変だし、月子が大怪我するのをただ見ていられるわけがない。細切れにされた小スライムとは打撃力が違うのだ。
つい舌打ちしそうになった。
「いいから下がってろ!小さいのを飛ばす頻度を増やすから、それを確実に処理してくれ!」
「で、でも……」
「瑤姫!」
景は苛立ちをぶつけるような大声で瑤姫を呼んだ。月子に己の感情を伝えるのと、瑤姫に対する八つ当たりを兼ねている。
「何かいい方法を考えろ!さっさとこいつを倒せるようなやつ!」
瑤姫の方は八つ当たられているという自覚があったのか、負けずに強い口調で言い返す。
「無茶言わないでよ!この患者は結構な重症で、このスライムも普通なら医聖が二、三十人がかりでもキツいやつよ!?そんな簡単にいくわけないでしょ!」
(俺、また何人分も働かされてんのか……)
景ははっきりと不満に思ったが、それどころではないのでいったんは胸にしまっておく。
「確認だけど、補中益気刀の特殊能力は体力回復だけなんだろうな!?いっつも大事なこと言い忘れてるだろ!」
言われて瑤姫は鼻で笑った。いくらなんでもと思ったのだ。
「さすがにそんな大事なことを言い忘れるわけ無いでしょ。もしかして必殺技でも期待してるわけ?それは少年漫画の読み過……ぎ……」
と、喋る瑤姫の声が最後小さくなっていった。
景は嫌な予感、というかむしろこの状況だと良い予感がした。
「……もしかしてあるのか?必殺技」
「……いや、えーっと……」
瑤姫は少し言葉を濁したものの、誰がどう見ても自分たちは切羽詰まっている。さすがに己の責任回避のために嘘をつくのははばかられた。
声のトーンはだいぶ下がったが、きちんと説明を始める。
「あのね……私、さっき『中気下陥』って単語を使ったでしょ?」
景もそういえばその意味を聞いていなかったなと思いながら相槌を打った。もちろん手はスライムを刻みながらだ。
「ああ、言ってたな」
「その中気下陥はお腹の気や臓器が下に陥ることを言うの。具体的な症状としては立ちくらみやめまい、手足のだるさ、内臓下垂、慢性的な下痢なんかで、体がストンと下に落ちるような、もしくは後ろに引っ張られるような感覚を受けることがままあるわ」
「脾虚とはまた別なのか?」
「中気下陥は脾虚によって引き起こされるのよ」
「そうか。補中益気湯は脾虚に良い生薬が入ってるから中気下陥にも効くってわけだな?」
景の早足過ぎる理解に対し、瑤姫の首は横に振られた。
「確かに脾虚が改善すれば中気下陥も抑えられるわ。でも補中益気湯には脾を補う生薬だけじゃなくて、下がった気を引き上げる『昇提』の生薬も含まれてるの」
「昇提……」
「そう、そしてその昇提作用こそが補中益気刀の必殺技になるのよ」
必殺技キタ、と思いながら景は先を促した。駄女神のポカを責めるのは全ての戦いが終わってからだ。
「どうすればいいんだ?」
「刀に強く念じて斬り上げなさい」
念じて斬り上げる、という単純な作業に景は眉を寄せた。必殺技という割にはやることが簡単過ぎると思ったのだ。
「斬り上げ?それだけでいいのか?」
「周囲の気を巻き込んで持ち上げるイメージを持つことが重要よ」
言われたことを意識しながら巨大スライムを見やる。
そういえばズドンと重そうな体をしていて、腹の気や臓器が下に陥るという中気下陥のイメージを体現しているような気がしてきた。
(こいつを上へと持ち上げるイメージか)
景はそれを心中に抱きながら、踏み込んでギリギリまで肉薄した。念を込められたその刀身はいっそう明るい黄金に輝く。
そして切っ先を地面をスレスレに走らせ、補中益気刀を思い切り振り上げた。
ゴゥッ
と音がするほど、瞬間的に強い上昇気流が発生した。
ただし気流とは言っても空気の流れではなく、気の流れだ。気が上へ向かって昇り龍の如く舞い上がる。
その力で超重量の巨大スライムが宙に浮いた。月子や由紀が目を疑うような圧巻の光景だった。
しかもそれだけではなく、上昇気流が発生させる付随現象までもが続いて生じた。
「た、竜巻!?」
景が思いもかけない結果に驚きの声を上げる。
目の前で突如として回転気流が発生したのだ。
確かに竜巻やつむじ風は上昇気流がきっかけで起こるものではある。しかし、いくらなんでも物理的には無茶苦茶な話だと思った。
(まぁ闘薬術自体が無茶苦茶なわけだけど……)
景がそう納得するしかないと諦めている間に、竜巻の規模と回転数はどんどん大きくなっていく。その力に抗えず、スライムの形がグニャリと湾曲した。
そしてついには加わる力がスライムの強度に勝ったらしい。表面が千切れ始めた。
小さく千切れた塊は黒いモヤになって消えていき、大きく千切れた塊は竜巻の中でさらに細く千切られた上で消えていく。
「すげぇな……」
景は十歩ばかり下がってからつぶやいた。下手に近くにいたら巻き込まれそうだ。
「ふっふっふ、それが補中益気刀の必殺技『昇提トルネード』よ!ちなみに威力はすごいけどクールタイムの長い必殺技だから注意してね。多分だけど、景でも数分は待たないと次を撃てないわよ」
瑤姫は自慢げではあったが、さすがに反省したのかきちんと細かい情報をくれた。
荒れ狂う竜巻の中でスライムはどんどんその容積を減らしていく。終いには中心部にいた吉乃の夫の周囲を申し訳程度に覆うばかりになった。
そしてその時点になって、ようやく竜巻はおさまった。力を失った男の体がドサリとベンチに落ちる。
「景、とどめよ!」
「分かってる!」
何を今さら仕切り始めてんだ、などと思いながら、景は男の胸に補中益気刀を突き刺した。
黄金の刀身が体に沈むと男は一度大きく痙攣して、その周囲を覆っていたスライムが完全に消滅した。
黒いモヤが周囲に広がり、やがてキラキラと浄化されて消えていく。
討伐完了だ。
「すごい!私も今の竜巻やりたい!」
興奮した由紀は小さな昇提トルネードを発生させて喜んでいたが、事態はその無邪気さを愛でられない程度には切迫している。
景は由紀に駆け寄るとすぐに抱き上げた。抱えて走るつもりなのだ。
「病邪はどっち!?」
問われた由紀はさすがにハッとして、すぐに強い邪気を感じる方へと誘導してくれた。
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