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補中益気湯、当帰芍薬散2

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 この日、設楽月子は電車で一駅先の駅前を歩いていた。

 特段の用事があってここに来ているわけではない。目的は半引きこもりからのリハビリだ。

 もちろんそれは今後の月子にとって大切なことだが、それだけではない。瑤姫に釘を刺されたのだ。

『ねぇ月子。病邪探しだけなら全然できるようなこと言ってたけど、さすがに家と神社の往復だけじゃ索敵範囲として狭すぎるわよ。そこから出られるの?別に毎日出かけろとまでは言わないけど、少しは出歩いてもらった方が助かるんだけど』

 神にこう言われては、神社の娘として積極的に取り組まざるをえない。

 まずは母親と一緒に電車に乗ってみて、それから次に一人で乗ってみた。とりあえずは乗るだけで駅からは出ず、すぐ乗り換えて往復するだけだ。

 景とは果樹園まで行けたが、完全な一人と電車という環境は初めてだ。だから緩やかに試してみたのだが、そこまでは全く問題なかった。

 そして今はその次の段階として、一駅先で降りて少し歩くことをしている。

(意外と大丈夫だな……)

 月子は自分の胸を押さえながら、特別早くもない鼓動に安堵した。

 先日の果物狩りでも意外なほど大丈夫だったが、それは景がそばにいてくれたからかと思っていた。

 しかし、いない今でも大丈夫だ。

(でも、それも景君のお陰なんだよね)

 景のお陰で自分を汚くないと思えた。その自己肯定感が月子に自信と安心をもたらしてくれている。

 だから以前のように他人全部が怖いと感じることがなくなったのだ。

 とはいえまだ人と接するのは苦手で、特に初対面だと店員や街頭のチラシ配りでも腰が引けてしまう。

 それで月子は店にも立ち寄らず、ただ適当に歩き回っていた。

 元・半引きこもりとしては体力的に辛いのだが、運動も一つの目的なのでそこは頑張らなければならない。

(瑤姫様は病邪探しを中心にって言ってくれたけど……戦うことだってないわけじゃないし、やっぱり鍛えておかないと。それに……もうちょっと痩せた方がいいよね……)

 歩きながら無意識に腹の肉をつまむ。

 月子は太っているというほどではないが、少々むっちりしているのだ。これも半分引きこもっていたせいかもしれない。

 肉付きが良いので胸と尻の出てほしい部分は出ているのだが、腹肉まではいらない。

 ちなみに母の美空は先日の果物狩の折、その出ているところをバイクの二人乗りで景に押し付けろと言っていた。曰く、それで男はイチコロだと。

 しかし月子は恥ずかしくてできなかった。実はブレーキの際に何度か当たって景をドキドキさせてはいたのだが。

(お母さんは少し肉付きがいいくらいの方が男好きするとか言ってたけど、芸能人とか皆スリムじゃん)

 そう思って気合を入れ直し、鼻息荒くさらなる一歩を踏み出す。

 月子もまた、多くの女子と同じ勘違いをしてダイエットに精を出そうとしているのだった。

(……でもまぁ、すぐにへこたれそうではあるんだけど)

 情けなくもそう思ってしまうのには理由がある。

 暑い。本当に暑いのだ。

 月子は己の根性に関して自信があるわけではないが、たとえ高校球児ばりの根性があってもこの暑さには耐えられないのではないかと思った。

 七月の陽射しは日傘を差してなお、その存在を主張する。紫外線、赤外線、可視光全てをシャットアウトする布地のはずだが、それでも輻射熱は放つのだ。

(どこかお店に入って涼もうかな)

 普通の人間なら迷わずにそうするところだが、店員に話しかけられるのが苦手な月子としては二の足を踏んでしまう。

 とはいえ、このままでは本当に熱中症になってしまいそうだ。

(せめて興味の持てそうな店に……)

 重い足を動かすために、そういう視点で通りの店々を眺めた。

 すると、幸いにもすぐにこれと思える店を見つけられた。しかもそこなら買う予定の物がありそうなので、冷やかしとして気まずい思いをしなくて済む。

「……よしっ」

 月子は小声で気合を入れてからその店に入った。

 そして入ってすぐに後悔した。

 というのも、その店の内装が想像していたものとまるで違い、やたらお洒落だったからだ。

 明るいパステルカラーでまとめられた壁紙、ナチュラルな木目調の商品棚、余裕のある陳列、すっきりとしたレジカウンターにはアロマキャンドルが置かれ、優しい香りが店内を包んでいる。

 普通の女子ならこのお洒落空間にテンションを上げそうなものだが、月子はお洒落に関してまるで自信がない。だから自分がこの空間の違和感のように感じられてしまい、いたたまれない気分になったのだ。

「いらっしゃいませ」

 気後れする月子に店員の声がかかった。

 それだけで肩をビクンと震わせて、挙動不審に目を泳がせてしまう。

 しかし店員はそんな様子に頓着せず、にこやかに尋ねてきた。

「何かお探しですか?」

「あ……えっと……その……」

 もしや店を間違えてしまったかと思い、尋ね返す。

「こ、ここって漢方薬局じゃないんですか?」

 月子はそうだと思ってこの店に入って来たのだ。それならついでに我が家の常備薬を補充しておけばいいと考えた。

 もちろん月子が闘薬術を使えるようになっているので、調子が悪ければその刀を刺してもらうという選択肢もある。

 しかし母の美空はそれが少々気味が悪いらしく、自分は飲み薬で済ますと言っていた。

 父の源一郎は喜んで刺されると言っていたが、瑤姫から桂枝湯は風邪の引き始めに早く飲んだ方がいいと聞いている。ならば今後自分は外に出るつもりなのだから、在庫しておいて損はないはずだ。

 月子はつい十数秒前の記憶を探ったが、表の看板には確かに『ライフ漢方薬局』と書いてあったと思う。

 しかし店に一歩踏み込むと、月子の思う漢方薬局とはかけ離れた光景がそこにあった。

(アニメで見た漢方薬局の中ってもっとごちゃごちゃしてたけど……薬草が吊るされてたり、薬を入れるたくさんの引き出しがあったり……)

 ちなみに月子がアニメで見た『たくさんの引き出し』は、正式名称を百味箪笥ひゃくみだんすという。昔の医家や薬問屋で多種の生薬を収納するために、多くの引き出しがある箪笥がよく用いられていた。

 そういった月子のイメージを一言で表現するなら、と言うのがしっくり来るだろう。茶がほとんどを占めた店内を想像していたのだ。

 しかし目の前に広がっているのは明るいパステルカラーのお洒落空間である。店を間違えたかと思うのも無理はない。

 店員は目も合わせない月子にも柔和な笑みを続けてくれた。

「ええ、漢方薬局で間違いありませんよ。ライフ漢方薬局です。あの通り、漢方薬もたくさん置いていますし」

 店員に指さされた先をよく見ると、お洒落に陳列されているのは確かに漢方薬だった。

 商品棚や陳列方法だけでなく、パッケージも女性の好みそうなデザインだったので一見しただけでは気づかなかったのだろう。

「私、登録販売者の松原吉乃まつばらよしのといいます。何か困っていることがあれば、お気軽にご相談ください」

「登録販売者?」

 月子は耳慣れない単語を反射的に繰り返しながら、初めて店員の顔を見た。

(わっ、美人!)

 松原吉乃というその店員の姿は、月子の思う美人像そのものだった。

 色白で、痩せていて、撫で肩で、どこか儚げな印象を受ける。きっと男が見たら守ってあげたくなるような容姿ではなかろうか。

 少々むっちりした自分では、きっとそんな風には思ってもらえないだろう。

 瑤姫のような眩しい美人とはまた違う雰囲気だが、月子は瑤姫に対するのと同じように羨望の感情を持った。

「登録販売者というのは市販薬に関する資格で、一部の特に注意が必要な薬を除いて市販薬を販売することができるんです」

 吉乃は控えめなルージュに彩られた唇を滑らかに動かし、そう説明してくれた。

 薬剤師は知っていた月子だったが登録販売者は初耳だった。

 へぇ、と思いながら店内に置かれた漢方薬を見回す。

「漢方薬の中にもたくさん売れるものがあるんですね」

「たくさんというか、漢方薬は基本的に登録販売者でも売れますよ」

「えっ、そうなんですか?」

「もちろん漢方薬だって副作用がないわけじゃありませんけど、長年使われてきた分だけ比較的安心なお薬ですから」

 月子にとってこれは意外な話だ。

 つまり市販の漢方薬に関しては、薬剤師と登録販売者でできることが同じということになる。

「と、登録販売者ってすごいんですね」

「すごいかどうかは人によりますけど……少なくとも薬剤師みたいにそれ用の大学を出なくてもこれだけできるのは、確かにすごいことかもしれません」

「……?登録販売者になるための学校があるわけじゃないんですか?」

「ええ、勉強して試験さえ受かればなれますから。学歴要件もありませんし」

 月子は雷に打たれたような衝撃を受けた。

 というのも、半引きこもりだった月子の最終学歴は中卒だからだ。

 コンプレックスの多い月子だが、学歴もその一つ、というか、これからの人生を考えた時に無視できない事実であるという自覚がある。

 人によっては学歴なんて意味ないなどと言う者もいるが、現に求人を探した時に高卒以上とか大卒以上とか書いてあるのを見ると、

(意味ないわけあるか)

と腹立たしくすら思ってしまう。

 しかし登録販売者になるにためには、少なくとも資格を取る段階で学歴は本当に意味ないわけだ。それは月子にとって小さくない話だった。

「ちなみに私は高校を出てからドラッグストアで働きつつ、登録販売者の資格を取りました。そして二年前にこの漢方薬局を開業したんです」

 吉乃の言うことに、月子はまた驚いた。

 開業したということは、雇われ店員ではなく経営者ということだ。

「オ、オーナーさんなんですね。っていうか、登録販売者って薬局を開くこともできるんですか」

「できますよ。正確に言うと薬局の開設は無資格でもできて、薬剤師や登録販売者に店舗を管理をさせればいいんです。私の場合は自分で開設して、自分で管理してるわけですね」

 実際に無資格の開設者というのはよくいて、複数店舗を経営するのならそれで十分な稼ぎを得られることが多い。

 ただし一店舗でこれから始めようという場合には、雇うことになる薬剤師や登録販売者の人件費がなかなかに厳しい。

 結局は吉乃のように自ら現場を回すオーナーになるか、別に本業を持つか、そもそも稼げなくても大丈夫なほど蓄えがあるか、というパターンが多くなるだろう。

「まぁ本当は薬剤師である夫と一緒に開業するはずだったんですけど……」

 吉乃はふっと寂しそうな目になり、店の隅へと視線をやった。

 そちらの壁には県から交付される薬局の開設許可証とともに、一枚の写真が飾られている。

 吉乃と男性が笑顔で写っている写真だ。二人は畑の中にいて、両手に持った何かの作物を掲げている。

 漢方薬局に飾られている写真だから、何らかの薬用植物を収穫しているところなのだろうと察せられた。

(薬剤師の旦那さんと、死別?)

 月子の頭に景の顔が浮かんだ。

 別に景とは夫婦どころかまだ恋人にすらなっていないのだが、どうにも他人事とは思えない。無意識にひどく暗い顔になった。

 それに気づいた吉乃は慌てて手を振る。

「あっ、いえ、別に夫は死んだというわけじゃないんですよ。どこにいるか分からないというか……」

「……分からない?」

「行方不明なんです。二年前、海外に生薬の買い付けに行ったまま帰って来なくて」

(そ、それは死別よりはマシかもしれないけど……死別に近いような気がする……)

 海外で行方不明になっている人間が生きている可能性はどれくらいあるだろうか?

 そんな言葉を出せない月子の思いを察したのか、吉乃はすぐに情報を付け加えた。

「警察に相談して調べてもらったら、ちゃんと日本の空港に到着してることは分かったんです。でも空港からどこへ行ったのか、全く掴めませんでした」

 国内での行方不明ならまだ希望が持てそうだ。

 そう思った月子はようやく口を開くことができた。

「た、大変ですね。でもそんな状況でお店を開くなんてすごいと思います。もし私だったら薬剤師さんが一緒じゃないと不安でやめちゃいそうです」

 夫が薬剤師ということで無意識に自分と重ね合わせている月子はそんな感想を持った。

 しかし褒められた吉乃の顔に浮かんだのは、誇ると言うにはあまりに微妙な笑みだった。

「もう開店の手続きとか支払いとかほとんどしてたので開くしかなかったんです。すごく不安でしたし、今も不安です」

 そう言って、またチラリと夫の写真に目をやる。

「特にこのお客様は市販薬で済ませず、病院にかかった方がいいっていう判断ですね。薬局ではそういう受診勧奨がとても大切な業務になります。そしてそれを判断する時に、大学で病気について幅広く学んだ薬剤師がいるのといないのじゃ安心感が違いますから」

 月子は仮に自分が吉乃の立場になったとして、その重圧に絶えられるだろうかと想像した。

 無理だ。もし景が隣にいてくれるならまだ頑張ろうという気にもなるかもしれないが、一人では絶対にやりたくないと思った。

「ですからお話を聞いて、もし受診した方がいいと思ったら薬はお売りせずに受診することをお勧めしますのでご了承ください。漢方についても当然よく勉強しているつもりですが、私には荷が重い場合には懇意にしている漢方医の先生を紹介させていただきます」

 月子はそんな吉乃の話をフンフンと聞いてうなずき、一呼吸遅れてから気がついた。

 そういえば自分は客で、吉乃は店員なのだ。ひたすら吉乃の開業話を聞いていたが、本来ここですべき会話は購入する商品に関してだろう。

 登録販売者という資格、そして薬剤師である夫の失踪、この二点で月子の頭から薬の購入ということが飛んでいた。

「あ、えっと……すいません、商品とは関係のないことばかり聞いちゃって」

「いえいえ、私の方が勝手に話したんですよ。つい自分のことばかり喋っちゃって、こちらこそすいません」

 吉乃はつい、などと言ったが、実は商売人らしい多少の計算がある。

 こういった店では固定客を得ることが何より大切だが、客にとっては本来どの店も特別ではない。

 しかしこうやって店のストーリーを知ってもらえれば、それだけで一つ特別になる。すると固定客へ化けてくれる可能性が増すのだ。

「それで、どんなことでお悩みですか?それとも買うお薬はもう決めてます?」

 問われて月子は自分たち家族のことを話した。

 自分が下痢傾向の強い過敏性腸症候群で、桂枝加芍薬湯がよく効くこと。

 母が便秘傾向の強い過敏性腸症候群で、桂枝加芍薬大黄湯がよく効くこと。

 そして父が虚弱で風邪を引きやすく、桂枝湯がよく効くこと。

「でも桂枝加芍薬湯はいいので、他の二つをください」

 月子がそう言ったのは、なにも自分の闘薬術で自分を刺せばいいと思っているからではない。

(できることならまた景君の闘薬術でなんとかしてもらいたい)

 そんな気持ちがあるからだ。

 薄っすらとしか覚えていないが、病邪化した時のようにまた景に救って欲しいと思ってしまう。

「桂枝加芍薬湯はまだ手持ちがあるんですか?」

「え?えっと……そ、そっちはもらえる当てがあって……」

 吉乃に問われた月子は顔を赤くして答えた。それから景の顔を思い浮かべ、少しはにかむ。

 吉乃は女として、そんな月子の様子から敏感かつ正確に匂いを嗅ぎ取った。恋の匂いだ。

「もしかして……桂枝加芍薬湯をくれる人ってお客様の大切な人ですか?」

「えっ!?そ、その……そうです……けど……」

 彼氏かと聞かれれば残念ながら否定しなければならなかったが、大切な人かと聞かれれば大切に違いない。

 むしろ否定もできないので、月子はいっそう顔を赤くしながら肯定した。

 その初々しさに、吉乃は接客も忘れて女子高生のような声を上げた。

「キャー!いいですね!じゃあ恋するお客さんに応援の気持ちを込めて、このアロマオイルはサービスで差し上げます!」

 吉乃は軽やかに回りながらエッセンシャルオイルの小瓶を取り、カウンターに置く。

 いきなりのことに月子は戸惑った。

「ア、アロマ?」

「うちは漢方だけでなくアロマにも力を入れてるんですよ!さっきお話したように、ちょっと不安な開業だったので色々頑張ってるんです!」

 言われてみれば、店内には確かに漢方以外にもアロマ関係と思しき商品がそれなりの数ある。

 お洒落な内装に美人オーナーという組み合わせだから全く違和感がない。というか、むしろ漢方薬の方が少し違和感かもしれない。

 ただ漢方に関してはその違和感が良い意味でのギャップになっており、客の目を引いている。

(そっか、女性を主なターゲットにしてるからこういうお店になるんだ)

 月子は今さらながら理解した。

 どうにも漢方薬局のイメージとはかけ離れた店だと思っていたが、吉乃なりに掴めそうな客層などを考えてデザインしたのだろう。

 そしておそらくそれは上手くいっている。店を開いてすでに二年ほど経っているそうだが、採算が取れていないならもう閉まっているはずだ。

「実は私も気持ちは分かるんですよ!やっぱり好きな人から薬をもらいたいですよね!」

 吉乃はテンション高く言葉を重ねてきた。

「そ、そんな感じですけど……分かりますか?」

 好きな人から薬をもらいたい、というのは女子一般の思いではない気がする。

 月子はそう思ったが吉乃は、

「分かります!」

とまた繰り返してから、自分の履いているロングスカートの裾をたくし上げた。

(え?なんでそんなことを?)

 急に足を見せる意味が分からず眉を寄せた月子だったが、何を見せたかったかはすぐに分かった。

 むくんでいる。

 細身で美人の吉乃の足とは思えないほど足がむくんでいて、靴下の痕がピッタリ付いていた。

「私、こんなふうにむくみやすいんです。それに冷え性で、疲れやすくて、生理関連の不調も結構あるんです」

 吉乃はそう告白してから、店の棚に並んだ薬の一つを指さした。

「あそこにある漢方薬、当帰芍薬散とうきしゃくやくさんっていうんですが、私みたいな人にはよく効きます。特に色白、痩せ型、撫で肩の体質には合うことが多くて、私はまさにそうだからあれを飲めば楽になるって知ってるんです。でも……」

 吉乃は次に壁の写真へと目を向けた。そこには薬の買い付けに行ったまま行方不明だという夫の姿がある。

「……でも私は夫から薬をもらいたいんです。初めに当帰芍薬散のことを教えてくれたのは夫でした。今でもその時のことをよく夢に見ます」

 そう話す吉乃の表情は笑顔のままだった。月子の恋バナに興奮した時のまま変わっていない。

 しかし、そのことがむしろ月子には悲しげに見えた。

 最愛の人が夢に出てくるのは嬉しいことだろう。しかしその人は帰ってこないのだ。

 目覚めた時の絶望は如何ばかりか。

 そんな月子の悲しい想像には構いもせず、吉乃は話を続ける。

「それに、当帰芍薬散の主薬である『当帰』の名前は『当然帰る』という意味を連想させます。だからでしょうね。中国の民話には山で何年も行方不明だった夫が当帰を持って帰り、妻の病気を治すという話があるんです」

 吉乃が次に向けた視線の先には、洒落た表紙の書籍がいくつか並んでいた。値札がないので売り物ではなくディスプレイなのだろう。

 その中の一つ、『薬用植物伝承集』と題された本の背を吉乃の白い指がツツと撫でた。

 よく見ると、その本には小さなしおりが挟んである。

「私、その民話を何度も読みました。何度も何度も読んで、願掛けのつもりで当帰芍薬散は飲まず、ずっと待ってます」

 それから吉乃は月子へ向き直った。

 人の顔を真っ直ぐ見るのが苦手な月子だが、今の吉乃の顔からは目が離せなかった。

「私は待つことしかできませんけど、お客様はその人と話をできるんですよね?ならどうして欲しいか、自分の気持ちはちゃんと伝えなきゃ駄目ですよ」

 やはり吉乃は笑顔のまま話している。

 しかし真っ直ぐ見つめると、その笑顔は初めとは少しだけ違うように感じられた。

 その少しの違いが月子の心臓にキュッと刺さり、思わず自分の胸を鷲掴みにした。

 そしてその格好のまま、月子は壁にかかった写真の方へと歩いて行った。

「……?どうしたんですか?」

 吉乃にそう問われても、月子は振り返らない。じっと睨むように吉乃の夫を凝視した。

「いや……この顔……絶対に覚えておこうと思って……」

「え?」

 たっぷり一分間もそうしていてから、月子はふっと息を吐いて吉乃に向き直った。

「も、もし見かけたら、すぐこのお店に電話しますから」

 吉乃は驚いた顔をした後、立場も忘れて力いっぱい月子を抱きしめた。爽やかな柑橘系の香水の中にかすかな甘さが香る。

 細い腕に捕まってあたふたする月子は、まさかこの三十分後に当の夫を見つけることになるとは夢にも思わなかった。
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