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麻黄湯3

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「今回だけだ!本当に今回だけだからな!」

 景は玄関で急いで靴を履きながら、怒鳴るような口調で瑤姫へ念を押した。

 靴べらを使う間も惜しみ、乱暴につま先を叩きつけてかかとを突っ込む。

 その様子を後ろから眺めつつ、瑤姫は呆れたようにつぶやいた。

「景……あなたってもしかして本当にツンデレだったの?」

「なっ!?……だ、誰がツンデレだ!本当の本当に今回だけなんだよ!今回だけ戦ってやる!」

 微かに頬を赤らめた景は腕を大きく振って否定した。

 そしてその直後に心中で悪態をつく。

(くそっ、こんな馬鹿なやり取りしてる場合じゃない。もしかしたらうちの子たちの誰かが襲われてるかもしれないんだぞ)

 うちの子、というのはもちろん景の子供という意味ではない。景の働いている薬局で薬を渡した子供たちのことだ。

 自分でも、まさかとは思う。あの人形を配っているのは景の薬局だけというわけではないはずだ。

 しかしあれは今日届いたばかりの人形だったし、何となく悲鳴の声にも聞き覚えがあったのだ。

(……由紀ちゃんの声だった気がする。それに確か、由紀ちゃんの家ってあの辺だったよな?)

 一度、薬の在庫が足らなかった時に後から景が配達したことがあった。あの刑務所からそれほど遠くない所だったはずだ。

 それで景はまさかと思いつつも、今回だけは戦おうと決めたのだった。

「とにかく急ぐぞ。瑤姫はバイクの後ろには乗ったことあるか?」

 景の基本的な移動手段はバイクだ。死んだ祖父からレトロなネイキッドを受け継いでいる。

 少々古い型ではあるが、定期的にメンテナンスに出しているのでこれまで不具合らしい不具合もない。こいつなら自分たちを最速で運んでくれるはずだと思った。

 しかしそれに瑤姫から待ったがかかる。

「バイクよりも速い移動手段があるじゃない」

「え?何だそれ?」

 景の認識では市街地での移動において、バイクに勝るものなどない。渋滞にも強いし、細い道も通れる。

 バイクよりも速いとなると、それこそ空を飛ぶくらいしかないのではないかと思った。

「闘薬術よ。葛根刀を発動させて移動しなさい」

「あっ、身体強化か!」

 景は納得するとともに、疑問も抱いた。

 確かに葛根刀の発動時には驚くほど身体能力が強化されていた。しかしバイクよりも速く走れるということがありうるだろうか。

(でも一応は女神であるこいつが言うんだ。多分、本当に速く移動できるんだろうな)

 そう判断し、バイクはやめて徒歩で行くことにした。

「よし、じゃあ発動させてくれ!」

 勢い込んで頼んだが、瑤姫は首を横に振った。

「一度身につけた闘薬術は景自身で発動させるのよ。まずは『芽生えよ医聖の因子』と唱えなさい」

「め……芽生えよ、医聖の因子?」

 呪文に妙な気恥ずかしさを覚えたが、たどたどしい言葉でも闘薬術は発動するらしい。

 三日前と同じように、景の左腕に輝く腕輪が現れた。

「OKよ。あとは葛根湯の構成生薬を唱えてから腕輪に念じれば発動するわ」

「葛根湯の構成生薬?……いや、覚えてるわけないだろ!」

 景からすればあんなもの、お経のようなものだ。

 講義で一応教わってはいるが、漢方嫌いの景はまともに聞いていなかった。葛根湯だから葛根が入ってる、という程度の記憶しかない。

「仕方のない子ね……私が言うのを繰り返しなさい」

 瑤姫はため息を吐き、葛根湯の構成生薬を口にした。

葛根カッコン大棗タイソウ麻黄マオウ甘草カンゾウ桂皮ケイヒ芍薬シャクヤク生姜ショウキョウ

「「葛根カッコン大棗タイソウ麻黄マオウ甘草カンゾウ……えっと……」

「……はぁ……桂皮ケイヒ芍薬シャクヤク生姜ショウキョウよ」

「け、桂皮ケイヒ芍薬シャクヤク生姜ショウキョウ

 少し呆れられはしたが、何とか言えた。

 それから先ほど教わった通り腕輪に念じてみる。

「ええっと……いでよ、魔剣 葛根刀?」

 途端、腕輪から景の脳へ直接返事が届いた気がした。

 それと同時に腕輪の輝きが増し、次の瞬間には左手に刀が握られていた。

「……よし!」

「とりあえず葛根刀の発動は成功ね。あとは鞘を出しておきなさい。念じるだけで現れるわ」

 言われた通り念じてみると、抜き身の刀身が一瞬で黒塗りの鞘に覆われた。

 しかも鞘の下げ緒が勝手に伸びて腰に巻き付き、自動で固定されるという便利機能付きだった。

「オーケー。これで準備は完了ね」

 あとは瑤姫が邪気を感じ取り、そちらへ向かって進むだけになる。

 景は瑤姫に背中を向けた。

「それじゃ行くぞ。瑤姫のことは背負って行けばいいよな?」

「え~?私って見ての通り可憐な女神だしぃ、おんぶっていうよりぃ、やっぱりお姫様抱っこかな~?」

 突然くねくねと体をくねらせてそんなことを言ってくる。

 このタイミングでクソどうでもいい希望をのたまう駄女神に、景は本気でキレそうになった。

「この……」

「あ、それとも景はおんぶで背中おっぱいが良かった?まぁ今回はやる気も出してるし、それくらいのご褒美は考えてあげなくもないけど?」

「…………」

 もはやまともに相手をしていられないと思い、景は無言で瑤姫をお姫様抱っこしてやった。

「よしよし、いい子ね。それじゃ、ジャンプして屋根に飛び移りなさい」

「……は?」

「いや、だからジャンプで屋根」

 瑤姫の人差し指は屋根の上を指している。

 しかし人間が、しかも一人を抱えたまま屋根まで跳べるものだろうか。

 さすがに景はすぐに反応できなかった。

「何ぼーっとしてるのよ。ほら、急がないと。レッツラゴー!」

 つい今しがたお姫様抱っことか言っていた駄女神に急かされ、景はまた苛立ちを募らせた。

(っていうかレッツゴーってなんだ。ラは一体どこから来た)

 そんな疑問をいだいたものの、今はツッコミを入れている時間すら惜しい。

(とりあえず、やってみるしかないよな)

 そう決心し、膝を曲げて腰を沈ませた。

 それから全身のバネを使って跳ね上がる。

「……うわっ、おわわっ!」

「ちょっと!飛び過ぎよ!」

 二人の体は二階建て屋根を越えてさらに高く上がり、四階程度の高さでようやく止まった。

 それから自由落下に入り、ようやく屋根の上へと降り立つ。

「マ、マジか……」

「マジよ。これだけ飛べるんだから屋根の上を跳躍して行けるって分かるわよね?道とか関係ないし、移動速度はバイクの比じゃないわよ」

 瑤姫の言う通り、確かに相当速く移動できるだろう。

 それを理解した景は、早速刑務所のある方角へ向かってジャンプした。屋根から屋根へと飛び移っていく。

 まるで自分がスーパーヒーローにでもなったかのようだった。こんな状況でもなければ万能感に酔っていたかもしれない。

 しかし今は悦に浸る余裕などない。ただただ速く移動するために思い切り屋根を蹴っていく。

 その途中でふと気がついた。

「これ……単純な身体強化だけじゃないよな?屋根が壊れてないぞ」

 景は理系の学生らしく、自らそのことに気がついた。作用、反作用ということを考えると明らかにおかしい。

 屋根から屋根へ飛び移れるほどの強さで蹴っているのだ。それなのに振り返っても屋根には傷一つ付いていない。

 瑤姫は景の腕の中でうなずいた。

「その通りよ。闘薬術は身体能力を強化させるだけでなく、体の周りに特殊な力場を発生させるわ」

「力場?足場が壊れないように力がかかるってことか?」

「足場だけじゃなくて、使用者が無意識に求める方向へ力がかかるのよ。景が逆に屋根を壊したいと思っていれば、壊す方向に力場が発生するわ。ちなみに私が快適に運ばれてるのもそのお陰よ」

「ああ……確かにこれ、ジェットコースター以上だもんな。それでも瑤姫は大したGを感じてないってことか」

「そうよ。景が無意識に私のことを気遣ってくれてるからでしょうね。やっぱりツンデレなの?可愛い」

 そう言って頬をつつき、カラカラと笑う。

 イラッとした景は瑤姫が苦しむ方向に力場を発生させられないかと念じてみたが、今聞いた通り無意識の思考が反映されるものらしい。残念ながら瑤姫は平然としたままだった。

(放り投げたいけど、今はまだやってもらうことがあるからな)

 いったん怒りを収め、働いてもらうことにする。

「もうすぐ刑務所だけど、まだこの方向のままで大丈夫なのか?」

 ほんの短時間で凄まじい距離を移動した結果、遠くに刑務所の建物が見えるところまで来ていた。

 ここからは瑤姫が感じ取る邪気を追って行かなければならない。

「もう少し右ね。一時半の方向……さらに右へ移動してる」

 言われた通りに景はやや右へと進路を変えた。そして視線はさらにその右へと向ける。

 葛根刀の身体強化は視覚にも及んでいるらしく、かなり遠い場所、暗い場所でもクリアに見えた。

 いや、視覚だけではなく聴覚や触覚も鋭敏になっているようだ。少し周囲に気持ちを向けると、世界が広がっていくような感覚を覚えた。

(すごい……人間が普段知覚してるのって、世界のほんの一部だけなんだな)

 感動モノな体験ではあったが、今はそれを抑えて病邪を発見することに集中した。

「病邪って、皆この前のやつみたいな見た目なのか?」

「違うわよ。ああいうのも結構いるから似てる可能性はあるけど、病邪の姿や能力は千差万別で決まりはないわ」

 先日の『風邪の引き始め』は破壊光線を撃ちまくる幽霊だったが、そうとも限らないというわけだ。

 そもそも今回の病邪は依代となっている人間が自分の足で歩いていた。倒れた人間から幽霊が生えていた前回とはまるで違うのだろう。

「つまり、邪気を感じるしかないってことか」

「それが一番確実だけど、まず病邪には強い破壊衝動があるわ。何か壊されているような音がすれば、まずはそちらに向うといいわね」

「なるほど、行動パターンから探すわけだな。他にはよくやる行動とかないのか?」

「あとは依代となっている人間の欲求なんかでも動くわね。あんまり考えたくないことだけど……今回の場合だと、仮に依代が性犯罪者だった場合、誰かが襲われるなんてことも有り得るわ」

 景は血の気が引いた。本当に考えたくもないことだ。

 もし依代となった囚人が性犯罪者だったとして、それがしかも小児性愛者だったらどうなるだろう。

 悲鳴を上げていた女の子が襲われていてもおかしくはない。

(早く……早く見つけないと!)

 強く屋根を蹴ってからいっそう耳を澄まし、目を凝らす。

 すると何か異質な音とともに、視界の中で不自然な点が動いたように感じた。

 そこに目線を向けると、何か小さな物が空を飛んでいるのが認識できた。

 初めは鳥かと思ったが、鳥にしては大きい。しかもひどく強い風音を出して飛んでいる。

 鳥は自分で風を作るにしても羽ばたく程度だが、この飛行体はジェット機のように自ら空気を噴出して飛んでいるように感じられた。そんなものが自然にあるわけがない。

「……あれ!多分あれだ!」

 そう判断してさらに強く屋根を蹴った。

 そして少しずつ近づいていくと、その姿がはっきりと認識できた。

 やたらガタイの良い男が少女を抱えて空を飛んでいる。どう考えても病邪だろう。

「景の言う通り、あれが今回の病邪で間違いないわね。飛んでるし、多分だけど風を発生させる能力なんじゃないかしら?」

「風を?……いやいやいや!人が飛べるような風を起こせるって、どんだけヤバいやつなんだよ!」

 景はそれを想像してゾッとした。風速何メートルあれば人は空を飛べるのだろうか。

 その風で吹き飛ばされる自分を思い浮かべ、恐怖で身がすくみそうになる。

 しかし次の瞬間、男に抱えられた少女の顔がはっきり視認できたことでその恐怖は吹き飛んだ。

「由紀ちゃん!」

 まさかと思っていた事態が現実になってしまった。景の薬局のオアシス、山脇由紀だ。

 にへ~っというあの笑顔が歪められたことを思うと、景の腹の底からふつふつと怒りが沸き上がってきた。

(でも……遠目ではあるけど、ここから見た限りでは怪我とかはしてないみたいだな)

 由紀の顔は恐怖に染まっているものの、苦痛に呻いているようには見えない。

 いきなり見ず知らずの男に抱えられて空を飛んでいるという、その状況に怯えているのだろう。

「あいつ、由紀ちゃんをどこに連れて行く気だ……」

 つぶやく景のシャツを瑤姫が引いた。

「景、あそこ見て。あの山に向かってるんじゃない?」

 指し示された方を見ると、病邪の飛んでいく先には小山があった。

 頂上に古い神社が建っている小山で、そこだけは街中でも木々がうっそうと茂っていた。

「あの野郎、由紀ちゃんを人気のないところに連れ込もうとしてんのか。ただじゃおかないぞ」

「そうよやっちゃえ!ブッコロよブッコロ!」

 イラッとさせる瑤姫の煽りにいっそうの怒りを燃え上がらせながら、景は病邪の後を追った。

 そしてしばらく行くと、予想していた通り病邪は小山へと降りていった。
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