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葛根湯2

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「クソ暑いな……」

 景はこの日、あごから滴る汗を拭いながら草引きをしていた。

 日差しが強い。真夏の日差しだ。

 ジリジリとした陽光に晒された肌が痛い。日焼け止めを塗っておくべきだったと心底後悔した。

 なぜわざわざこんな炎天下で草引きなどしなくてはならないのか。

 それはこれが景の自由意志に基づく行動ではなく、講義の補講という半強制的なイベントだからだった。

「テストに落ちたから補講ってのは分かるけど、補講が草引きってどういうことだよ」

 どうにも納得がいかず、草の根本を掴みながら愚痴をこぼした。

 ただし愚痴とはいえ、全くもって正当な意見だと思うのだ。

 テストで合格点を取れなかったのは自己責任で、それに関しては納得している。しかしその補講だというのならテストの内容を復習するのが普通ではないか。

 にも関わらずこの講義、生薬学しょうやくがくの担当教官は補講と称して学生たちに薬草園の草引きをさせているのだった。

(自分の薬草園の世話をさせてるだけじゃないか!)

 さすがに口には出さなかったが、心の中でそう叫んだ。

 彼、張中景はりなかけいは薬学部の学生だ。大学で薬のことを学んでいる。

 その必修科目の一つとして生薬学があるのだが、先日その小テストが行われた。鑑別試験という、目の前に出された生薬が何であるかを見分けるテストだ。

 生薬とは天然物を加工した薬のことで、例えば干した薬草などがこれに当たる。

 つまり薬草やらなんやらが順次回されてきて、その名前をテスト用紙に書き込んでいく試験なわけだ。

(一生使わねーよ)

 将来薬剤師になったとしても、この鑑別能力が役立つのはかなりのレアケースだろうと景は考えている。

 この青年は実家が漢方薬局な上に、バイトで薬局の事務員として働いてもいるので現場のことをいくらか知っていた。

 ほとんどの薬局では粉末状になった生薬しか使わないのだ。それだってあっても一種か二種かその程度で、一つも置いていないという薬局も多い。

 実家の漢方薬局では刻まれた生薬も在庫しているが、そういうところに就職する人間などほんの一握りと言うにも少ないだろう。

 だから馬鹿真面目な学生以外はあえて勉強せず不合格になり、補講という名の草引きを終えて単位をいただくのだった。

 先輩方から代々受け継がれてきた本学薬学部の伝統である。

(だから皆、『この草引きで単位がもらえるなら、まぁ……』なんて思ってるんだろうな)

 周囲を見回すと、たくさんの学生が景と同じように汗水垂らして草を引いている。しかし景ほど不満そうな顔をしている人間はいなかった。

 『暑い、早く終わってくれ』というのは全員共通の思いだろうが、それでも『仕方ない』とも思っているのだろう。はっきり言って、テスト勉強よりも一時間半ほど草を引く方が楽だ。

(でも、俺は違う)

 そもそも役に立つとは思えない知識をテストされていることに腹が立つのだ。

 草引きで補講終了ということから考えても、教官自身がこの知識を必須と思っていないのは間違いない。それはいかがなものか。

 そこまで考えて、ふとこれが自分勝手な理屈であると自省した。

(……いや、それは言い訳か。俺は結局のところ生薬とか漢方とか、そういうのが嫌いなんだ)

 嫌いな理由は色々ある。だがそれが景の不満の根本なのだった。

 個人的な思いという自覚はあるが、だからといって苛立ちは治まらない。

 その苛立ちに任せて草を引っ張ると、根まで抜けずに途中でちぎれてしまった。

 短くなった草は掴みづらく、いっそう抜きにくい。苛立ちはいや増した。

「くそっ、ここの地面固くて素手じゃ無理だ」

 景は立ち上がり、草引き用の道具を探して視線を巡らせた。

 教官は刃が振動するような高性能草引きマシンを使っているが、そこまでいかなくてもねじり鎌くらい転がっていたはずだ。

「……ん?」

 道具がどこだったかと探す景の視界の隅で、何かが光った気がした。目を刺すような光だ。

 そこに焦点を合わせると、太陽のような花が目に入った。

 蓮のようにふっくらとした花びらを広げているが、色は向日葵のような明るい橙色をしている。葉は相重なって繁り、まるで花を懐深くに抱いて守るかのようだった。

 景の目にはこの強い日差しの中、陽光にも負けないほど輝いているように感じられた。

(……何だ?呼ばれてる?)

 景はなんとなくその花に惹かれ、ふらふらと近づいていった。

 初めて見る花だ。近くで見るとまた雰囲気が変わり、不思議に色合いが揺らめいた。

「あの、先生。この花なんですが」

 手を上げて呼びかけると、教官が草引きマシンの動きを止めてこちらにやって来た。

「なに、張中君?どの花?」

 名前を覚えられていたことに少し驚きつつ、景は橙色の花を指さした。

「これです。抜いていいか分からなくて」

 景たちが草引きをしているのは大学の薬草園だ。

 間違って研究のために植えられた薬用植物を抜いてしまったら洒落にならない。だから聞いてみた。

 教官はしゃがみこんで、じっと花に目を凝らした。

「んんん?……これは僕が育ててるものじゃないけど……見たことがない花だね。何だろう?」

 どうやら教官も知らないものらしい。

 しかし何だろうと言われても、教官に分からないものが景に分かるはずもない。

 この教官が教授を務める生薬研究室の人間は研究テーマの関係上、ほぼ全員が植物マニアだ。

 例えばだが、

『芍薬の学名はPaeonia lactiflora Pall。ユキノシタ目ボタン科ボタン属の多年草だね』

などという、一般人では発音すら定かでない知識がスラスラ出てくる。景は彼らのことを変態集団だと思っていた。

 それが見たことないと言うのだから、景に分かるはずもない。

「さあ……何でしょうね?」

 当然そう答えた景に対し、教官はニコリと笑った。とてもいい笑顔をしている。

「じゃあ張中君、この花を植物標本にして提出してくれるかな」

 いきなり面倒事を頼まれた。

「えっ?」

「やり方は講義で教えたよね?」

 植物標本の作り方はそう難しくない。

 植物を根まできれいに採取してから水洗いし、新聞紙に挟んで重しを乗せて乾燥させるだけだ。要は押し花とそう変わらない。

 ただしカビが生えないように新聞紙を何度も替えなければならないから、面倒くさくはあるが。

 生薬学の講義では夏休みの課題として、帰省先で植物標本を作成して提出するよう言われていた。大学には全国各地から学生が集まって来るので、教官にとっては日本中の植生を研究する良い機会なのだそうだ。

(この人、自分の研究のことしか考えてねぇ!)

 あの時もそう思ったものだが、今もまさに同じことを思った。

 草引きといい植物標本といい、どう考えても学生を己の研究のために便利使いしている。

「作り方は覚えてますけど……」

 なぜ自分がそれをやらなければならないのか。研究室の学生でもないのに。

 そこまで言わずとも、景の気持ちは伝わったらしい。

 教官はさらに笑みを深くして、小声で一言付け加えた。

「やってくれたら生薬学の評点は最高にしてあげるよ」

 景はさすがに呆れてしまった。

 公私混同も甚だしい。

(いや、研究も公だから公私混同ではないか?)

 そう思い直したが、どうもこの人の研究は私的なものに感じてしまう。実際、アカデミックな人間は研究と趣味の線引が曖昧な者が多い。

 ただし呆れたとはいえ、景の返事はノーではなかった。

「分かりました。標本にする前に写真も撮ってデータを送りますね」

 即座にスマホを取り出し、カメラアプリを起動した。

 十分な報酬があるからには手を抜かずに働かなくてはならない。景の信条だ。

 全体を複数の角度から撮り、さらにマクロモードにして接写していく。

「おっ、俊敏な反応だね。張中君は見込みがある。うちの研究室に入らないかい?」

 教官はそんなことを言ってきたが、景は曖昧に笑って返答を避けた。

 今の景は三年生で、四年生からは全員がどこかの研究室に所属することになっている。ちなみにその選択が成績順になるため、景は良い評点が欲しいのだ。

(生薬とか漢方とか、そっち系の研究室だけは絶対に嫌だ!何が何でもそれ以外の研究室に入ってやる!)

 矛盾したような話だが、そのために生薬学の教官に従って高い評点を得たいと思った。

 景は実家が漢方薬局であるにも関わらず、生薬や漢方が大嫌いだ。だから成績を上げてそこから離れた研究室に入りたいと考えている。

「こんなもんかな」

 一通りの写真を撮り、スコップを使って根本から花を抜いた。細い根も切れないように注意する。

 教官はそれを眺めながら首をひねっていた。

「うーん……やっぱり見たことがない花だなぁ。この辺の植物なら大抵は分かるんだけど」

「誰かが研究のために植えたってことはないんですか?」

「ここは僕の薬草園だよ?研究室にそんな命知らずいないよ」

(命知らずて)

 笑顔が爽やかな分、余計に怖い。

「それにしても、本当に何科の植物かも分からないな……強いて言うなら昔読んだ神話の挿絵にあった花に似てるかな?」

「神話?」

「薬の神様にまつわる中国の古典でね、神農しんのうっていう神様の娘が瑤草ようそうっていう植物に姿を変えるんだよ」

「へぇ……」

 特段興味もないし、テストにも出なさそうなので景は適当に聞き流した。

 そしてすぐに標本作りの方へ気持ちを戻す。

「水道で土を洗い流してきますね」

「あ、申し訳ないけど水道じゃなくて、そこの坂を降りた川で洗ってくれるかな。排水口が詰まりかけてるんだ」

「分かりました」

 景は植物園の端から坂を降りて行った。少し下ると小さな川が流れている。

 きれいな川原だ。この大学では里山の研究をしている学部があり、自然もきちんと管理されている。

「この辺でいいかな……」

 景が川のそばにしゃがんで根を水に浸けようとすると、こめかみに鋭い痛みが走った。

「いった!?」

 頭蓋骨に穴でも開けられたのではないかと思うほどのひどい痛みだ。

 そしてその痛みでねじ込まれたかのように、頭の中に声が響いた。女の声だった。

『待って!』

 声がドキリとするような危機感を孕んでいて、景は慌てて手を止めた。立ち上がって周囲を見回す。

 が、誰もいない。

「……何だ?」

 景が小首をかしげていると、声はまた頭の中に響いてきた。今度は痛みはない。

『待って!私を標本にしないで!』

 何かの物音を勘違いしたのかと思ったが、やけにはっきり聞こえた。それに勘違いが二度も続くだろうか。

「えっと……誰かいる?」

 景が周りにそう声をかけると、三度目の声が響いた。

『えっ!?私の声が聞こえるの!?』

 どうやら本当に勘違いではないらしい。誰もいないのに声だけが聞こえる。

 景はこの気味の悪い体験に眉をひそめつつ、聞かれたことに対して返事をした。

「ああ、聞こえるけど……」

『やった!ついに見つけたわ!』

「……?見つけたって、何を?」

医聖いせいの因子を持つ人間よ!いやっほぅ!』

(医聖の因子?)

 何が何だか、さっぱり分からない。

 景はただただ困惑するばかりだったが、声の主は飛び上がっていそうなほどテンションが高かった。

「あの……意味が分からないんだけど……」

『いいからいいから、とりあえず私をこの川原のどこかに植えなさい』

「植える?っていうか、私って……」

『私はあなたが手に持っているハイパーチャーミングでキュートなお花さんよ。さぁさぁ、植えて植えて』

(マ、マジかよ……)

 ありえないことだと思いながら再び周囲を見回したが、やはりどこにも人影はない。

 声が頭の中に響いている時点で何か超常現象めいたものは感じていたが、本当に花が喋っているのか。

『何?お花から声が聞こえてビビってんの?それとも私の美声に聴き惚れてるのかしら?』

(……なんかこいつ、イラッとすんなぁ)

 景は何となく言いなりになりたくない気持ちになったが、このまま頭の中で喋り続けられてもウザい。

 仕方なく先の尖った石を拾い、それで川原の土を掘り始めた。

 しかしすぐに物言いがつく。

『あ、ちょっと待って。そこだと雨で増水した時に浸かるからもう少し川から離して』

『んー?そこは日当たりが悪くない?』

『もうちょっと土が柔らかいところにしてよ。根が張りづらいじゃない』

 いちいちそんなことを言ってくるので、さらに苛立ちが募ってくる。

 景はなんとかそれに耐え、幾度かの試行の末、ようやく満足してもらえるところに花を植え直せた。

『オッケー。じゃあ仕上げに、あなたの手で水をすくって私にかけて。水道水じゃない、自然のきれいな水ね』

 言われた通りに川の水を手ですくい、かけてやった。

 すると少量しかかけていないはずの水が花の根元からあふれ出し、そこから光の粒が立ち昇り始めた。

 キラキラとした粒子がDNAを思わせる二重螺旋を描きつつ、あれよと言う間に人の高さほどになった。

「ぇええっ!?」

 美しくはあるが、あまりに異常な光景だ。ギョッとして思わず声を上げてしまった。

 そして驚く間にも光の密度はどんどん濃くなり、次第に目を開けていられないほどの明るさになった。

「うわっ」

 景はまぶたを閉じ、さらに手で顔を覆った。しかし不思議なことに、それでも光が感じられる。

 そしてそれがひときわ強くなったと思ったら、光は急に跡形もなく消えてなくなった。

「い、一体何が……えっ!?」

 景が恐る恐る目を開けると、光が集まっていた場所に一人の女が立っていた。

 不思議な容姿をした女だ。まず色が普通ではない。

 腰まで伸びた髪の毛は新緑を思わせるような明るい緑色で、長いまつ毛のかかった瞳は向日葵のように輝く橙色だった。

 そんな見たこともない配色とは対象的に、肌の色は健康的な黄色人種そのものだ。ただしその表面には磨かれたようなきめの細やかさと透明感とがある。

 服装も変わっていた。着物に似ていて袖は長いが、和服とは少し違う。

(確かこれ……漢服とかいうんだっけ?昔の中国の服だよな)

 景は以前に漫画で読んだ知識を記憶から引きずり出していた。

 中国といえばチャイナドレスを思い浮かべがちだが、あれは清代よりも後にできた割と新しい服装なのだと書いてあった。漢民族の伝統的な衣装としては漢服の方が歴史が深い。

 日本ではまず見かけないのでコスプレのようでもあるが、コスプレにしては不思議なほど違和感がなかった。中身と服が完全に一体となっている。

 歳の頃はなぜかよく分からない。二十歳と言われればそんな気もするし、三十路と言われればそのくらいかなとも思う。ただいくつであれ、年齢などというものを超越した美しさがそこにはあった。

 そんな美女が小さく微笑んで景のことをじっと見つめている。

「はじめまして。私は瑤姫ようき。見ての通り、クールビューティーな女神様よ」

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