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9話(5)#愛はない。逃げ出すことも出来ない。ただ言いなりになって快楽を与えるのみーー。

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「仕事へは行かないのか?」
「有休を取ったんだよ、弥生。今日は出張ってことになっている」


 この家に来てから、皐が仕事へ行く姿を一度も見ていない。コーヒーを飲みながら、微かな笑みを浮かべ、ゆっくりとした口調で話す皐に怖さを覚える。


 この家は相変わらずだ。内側からは窓が開かず、息苦しい。履いていたサンダルは着いたと同時に捨てられてしまった。


 私専用の執筆部屋は机と座椅子のみ。私が読みたいと言った本は、無造作に床の上へ積まれている。私にはここしか居場所がない。


 リビングから執筆部屋に移動する。執筆する気も起きず、床に座り、ただ、本を読む。


 がちゃ。


 ドアが開き、皐が私を見つめた。


「原稿はどこにあるの? 弥生」
「言われた通り、原稿は恋愛小説で仕上げてあるよ。私が捻じ曲げたところも修正した。1日開放してくれるなら取りに行く」


 ぱたん。本を閉じ、皐をみた。先程と変わらず、薄い笑みを浮かべている。


「それは出来ないなぁ。だって、弥生のことだから、原稿の持ち主は恋人だろう? 会わせないよ」
「なら、渡すことは出来ない」
「いいよ、それでも。時間はたっぷりある、イチから書いてもらうからさぁ」


 皐がゆっくり私の居る部屋へ入ってきた。自分のテリトリーに入ってくるみたいで、嫌悪感を抱く。


 どうやって話をつければいいんだ? 原稿一本を仕上げて、キリをつけるべきなのか? 皐に対する気持ちがないと伝えたら納得してくれるのか?


 しかし、一度は別れを告げている。そんな分かりきったことを伝えて何かなるのだろうか。


 考えているうちに、自分の目の前で、皐が着ているブラウスのボタンを、ひとつずつ外し始めた。外れたボタンの隙間からは膨らんだ胸と下着が見える。


 更に、スカートのホックを外し、スカートが床にするりと落ちた。


「何して……」


 側に寄り添ってくる皐に手首を掴まれた。ボタンの外れたブラウスの隙間から、手が胸に当てられる。柔らかい感覚が手のひらに広がった。


「あの頃みたいにもう一度、愛を重ねようよ、弥生」


 皐の浮かべる気味の悪い笑みに背筋が凍る。柔らかな胸の感触と同時に、気持ち悪さからくる吐き気で動けなくなる。好きでもない人間の肌に触れるとは、こんなに不快なものだったのか。


 知らなかった。


「ほら、抱いてよ。弥生」


 じりじりと接近し、太腿の上に手が置かれた。徐々に上がってくる手に寒気がする。


「お願いだから、やめて……」


 身体は強烈な拒否反応を起こす。胸の中から差し迫ってくるような感覚に襲われ、うっ、と吐きそうになり、手で口元を押さえた。


「あははっ! そんなお願いでやめると思ったの? バカだね、弥生は。仕方ないなぁ。ブラジャーは自分で外してあげるよ」


 皐が両手を後ろに回し、ホックを外し始めている。全部脱ぐ気か? やめてくれ。


「っう……私は抱かない」


 吐き気を堪えながら、言葉を搾り出す。


「ちゃんと抱かせてあげるから心配しなくていいよ」


 脱いだブラウスからあらわになったふくよかな胸を見せ、またがわれた。


 ーーあぁ、病んでいる。


 変わった女ではあったが、こんなにも話が通じない相手だっただろうか。記憶にある限り、軟禁はされても、無理強いはされなかった。


 彼女の自分への執着に恐怖する。このままでは、まずい。皐の肩を両手で押さえ、近づかないように距離を取った。


「何するの? これからが、楽しい時間なのに」
「やめよう。好きではない相手は抱けない」
「私が愛してるから、大丈夫なんだよ? 抱きたくないなら、せめて、私を満足させてよ。弥生」


 少し首を傾け、薄く微笑まれる。その笑みがおぞましい。


 この状況からは逃れられないのか。それとも満足させれば、一時的にでも、この状況から抜け出すことは出来るのだろうか? どちらにせよ、選択肢はなさそうだ。


 挿れなくてもいい。満足だけさせれば、この気持ち悪さからは解放されるだろう。


 気持ち悪さと恐怖で震える手に力を入れ、皐をそっと押し倒す。意欲が湧かず、次に踏み出すことが出来ない。


「まだ? 弥生」


 闇のように黒く深い、大きな目が私を見る。


 愛はない。口付けはしない。相手に快楽を与えるのみ。


 皐の体に触れ、愛撫していく。とても気持ちが悪い。自分のやっている行動も。私の行動に対して、喘ぎ、反応する相手のことも。


 睦月とは会わない方がいいような気さえ、してくる。もうやめたい。自然に手が止まる。


「弥生、下」


 それが何を意味するのかすぐ分かる。


「…………やっぱりやめよう」


 弱々しい声しか喉から出ない。


「弥生、下」


 同じ言葉を繰り返される。奴隷のように皐の言う通りにする。薄いショーツの上を指でなぞり、動かす。触れている布は湿りをみせた。


「っはあ…っん…指、中入れてよ…んっ…あん…あっ…あっ」
「もういいでしょ……私は望んでいない」


 動かしている指を一度止める。これ以上は嫌だ。自分自身を汚したくない。


 なんで睦月さんを突き飛ばしてしまったんだ。なんで家を出てしまったんだ。なんでついてきてしまったんだ。なんで、なんで、なんで。


 こんなことになるなら、睦月さんにあのまま抱かれていれば良かった。なんて愚かな。


 望んでいない前戯は時間が長く感じる。誰も助けてはくれないのだ。もういい、早く終わらせよう。ショーツの下に指を入れようとした瞬間、電話の音が鳴り響いた。


「鳴ってるよ」


 助かった。安堵しながら、皐の上から降りる。


「今良いところだったのに」


 皐が脱いだブラウスを羽織り、仕事用のカバンから慌ただしく、携帯を取り出し、電話に出た。


「白川です。急用でなければ切ります。へぇ。如月先生の原稿を持ってると名乗りでる人から電話があったんですか。以前もありましたよね。でも会ったら、原稿を見て欲しいだけのニセモノだった」


 皐がチラッと私の方を見る。何かあるのか。手を洗いたい。皐が電話している間に、急いでキッチンへ向かう。


「本物かどうかは会って原稿を見て、確かめます。私の携帯番号を教えておいてください。080××ーー」


 悪夢の時間が終わった。指先に残る、とろりとした愛液を水道で洗い流す。水と一緒に少しだけ、気持ち悪さと吐き気も流れていった気がした。


 電話を切った皐が声をかけてきた。


「明日、弥生の原稿を誰かが売りにくるんだって。残念だったね」


 睦月さんが? そんな馬鹿な。睦月さんがそんなことするはずがない。


「人の物を勝手に売るような人ではない」
「信頼してるんだね。妬いちゃうなぁ。続き、する?」
「しない」



 執筆部屋に戻り、ドアを閉め、そのまま座り込んだ。



 分かっている。私の原稿を勝手に売るような人ではない。それでも、皐の言葉が引っかかり、疑心暗鬼になる。



 睦月さんに会いたい。



 ただその想いだけが今の自分を支えていた。




 *



 ーー次の日


「お兄ちゃん、今日仕事は?」


 USBメモリに如月の原稿を移していると、後ろから卯月が覗き込んで来た。


「有休取った」
「如月の原稿どうするの?」
「これを持って行って、如月の担当と話す。居場所とか分かればいいんだけど……これって印刷するべき?」
「知らないよ~~別にパソコンで見てもらえばよくない? その量印刷したら高そう」


 どうせ、本人が知らないところで原稿を渡すつもりはない。ただの釣りエサだ。お金をかけるのは勿体無い。USBに移し終わり、出かける準備をした。


「じゃあ、行ってくるね~~」


 卯月を見送り、今まで疎かにしてきた家事を全て片付ける。如月が戻ってきたら、こんな状態じゃ迎えることは出来ない。


「お兄ちゃん!」


 卯月が急に戻ってきた。どうしたのだろう?


「もし、如月と居るのが担当だとしたら、その指輪はめてたら、取り合ってくれないかも。じゃあね!」


 バタン。


 それだけ言い残し、行ってしまった。


「ったく。遅刻するって」


 出来れば外したくないのだけど。色んな可能性を考慮し、指輪を外す。


 あの時すぐ追いかけていれば良かった。後悔先に立たずだ。まだ気持ちは繋がっていると信じている。いや、信じたい。そんな願いを込めて、外した指輪を如月の指輪に立てかけた。


 昨日出版社に教えてもらった番号に電話をかける。すぐに相手は電話に出た。


「昨日電話番号を教えてもらい、電話しました。如月先生の原稿の件なのですが」
『あぁ。今日、見せてもらえるんだったかな。メッセージで送る住所の喫茶店に、来て欲しいなぁ。時間は10時で。では』


 電話越しの女性の声は落ち着いた声で、ゆっくりと話す印象だった。そして、こちらの都合はまるで聞かない。


 有休を取ったからいいのだが、一方的に決め、切られてしまった。こちらとしては、不安しかない。約束の時間まで、後少し。急いで身支度を済ませ、家を出た。



 ーーーーーーーーーーーー
 ーーーーーーーー
 ーーーー



 メッセージに届いた待ち合わせ場所は、よく利用する駅の近くにある喫茶店だった。前を通ったことはあるが、入ったことはない。クラシカルな雰囲気の漂う喫茶店の扉を引いた。


「お一人様ですか?」
「いえ、待ち合わせです」


 長い黒髪の女性が席を立ち、近づいてきた。


「やぁ。まさか、本当に男がくるとは思わなかったよ。てっきり、母性や愛に溢れた、面倒見の良い女が来るかと思ってた。これは驚いた」


 電話越しで聞いた同じ喋り方。この人だ。


「君は、弥生の恋人だな。顔を見れば分かる。弥生は、意外と面食いだからなぁ。不細工が来たら、原稿も見ずに、帰ろうと思ったんだ」


 薄く笑う女性に案内されるまま、席につく。


「さぁ、ゆっくり話し合おうじゃないか」


 向かい合う席に不穏な空気が流れた。

 

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