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第8話 (1)
しおりを挟む身に過ぎる豪奢な部屋の装飾や、床一面に広がる複雑な紋様の絨毯の柔らかく豊かな感触。導かれるままに椅子に座らされたエルには、そのような美しい室内の様子など目に入ってはいなかった。
フォルッツェリオ国王レイグラントが居住し国政を執る政務府は、フォルッツェリオ国の前身アスリロザ国宰相の公邸だった。旧アスリロザ王城は現在は公的行事にしか使われていないため、人が常に住う居城としてはこの現フォルッツェリオ政務府が国内で最も贅沢な建物となっていた。アスリロザ国繁栄の象徴だ。
いまエルがいる部屋はいままで見てきたもののなかでも一等広く、一般の者が目にすることができないくらいの、細かなところまでたっぷりと装飾が施された家具などが置かれている。それもいまのエルの目にはほとんど写っていない。
エルの左隣には、身重のミーサッハが楽な姿勢で椅子の背もたれに寄りかかり、右隣にはデットが悠然と座っていた。
二人に挟まれたエルは不安に思うことなどなかったが、ここにやってきた目的の相手がどのように行動を起こしてくるのか予測もつかず、この二人に害がないことを願っていた。これまで経験したことのない緊張は、この建物に入る前からのことだった。
ビルトランの屋敷でミーサッハと再開し、今後のことを話し合ったあと、イグニシアスの精霊の知らせを受けて早急に戻ってきたデットに相談し、その後ビルトランに事情を話した。ミーサッハはエルについてはシリューズが過去に引き取った弟とだけ言った。話を聞き終えたビルトランは考え込む様子を見せ、レイグラントに目通りを願うことを一堂に告げた。その後ビルトランに導かれ、エルは皆と共にこの広大な城と言ってもいい政務府を訪れたのだった。
イグニシアスはこの謁見の場に居合わせることを遠慮し、別室で待機している。彼はいまだに婦人の衣服を纏っており、ビルトランにもいまだ正体を明かしてはいない。それはイグニシアス自身が申し出たことで、本名も明かさずニースのままで通していた。エルもデットも理解できないことだったが、イグニシアスは一言、「だってそのほうが面白いだろ?」とすませてしまった。イグニシアスのことはデット以上に不可思議で、エルにはさっぱりわからない。それが魅力的な人だとは思うが。
この部屋に通されてからいくらも経ってはいなかったが、エルには数時間が過ぎたように思えた。デットのほうを見ると、透いた琥珀の瞳がきらびやかに返ってきた。その瞳はなにも心配いらないと語っていた。
エルの緊張が自然と和らいだころ、エルたちが入室してきた扉とは別の、部屋の奥の重厚な木製扉が開いた。
両側からゆっくりと開いていくその扉の向こうからビルトランがまず姿を現した。部屋の内側に入り、入口横に留まると腰を曲げ礼の姿勢をとった。あとから入ってくる人物へ向けるものだろう。エルとデットは自然と立ち上がり、扉の奥を注視した。ミーサッハは平然と座ったままだ。
やがて現れた人から、エルは目を離せなかった。
名工が作り上げた芸術的な彫像が、色鮮やかに息吹いていた。
一目見ただけで戦士であるとわかる鍛えられた肉体は、筋力を存分に発揮したときの力強さだけではなく、俊敏さを兼ね備えているだろうと想像できる。
精悍さに満ちた相貌は、誰が見ても美形な男前であると感じるだろう。長い濃金色の髪が緩やかに自然な量感でその美貌を彩り、目が眩むほどの存在感は近寄りがたい雰囲気を醸し出していた。
より惹きつけられたのは、何者をも従わせるような強烈な光を放つ、青色の瞳。
その瞳の強い輝きは、神が手がけた彫像から、強き意思を持つ人間へと変えていた。正視せずともその瞳から感じられるのは、優しげではあるが鋭い洞察力を持った兄のものとも、デットの奥の深い瞳とも違う、指導者たる者の容赦のない厳しさ。
レイグラントという人物は、存在するだけで人を威圧する迫力を持った男だった。
エルは我に返ると、慌てて立礼した。デットもゆっくりとエルに倣った。
フォルッツェリオ国王レイグラントは、部屋の中にいた一同を眺めやると、エルたちが座っていた椅子と向かいの長椅子に腰を下ろした。その動作は流れるようで、少しの無駄もなかった。彼の着ている衣服は、華美すぎないが上等とひと目でわかる細かな刺繍の装飾で誂えられているが、身動きがとりやすくなっているのか、ある程度の伸縮性が彼の動きから感じられた。身体の制限を嫌う戦士の気質が垣間見えた。
レイグラントは立ったままの二人に座るように手を振り、二人が椅子に座り直したのを横目で見やる。彼はミーサッハの顔を注視していた。
「座ったままで失礼する」
表情も口調も繕わない遠慮のないミーサッハにレイグラントは口元だけで笑ってみせた。瞳は厳しさを湛えたまま。
「大事ないか」
低い声は胸に響くようなものだった。ずしりと、エルは声からもレイグラントの存在を強く感じた。
ミーサッハはここでようやくほほえんだ。
「早く出てこないかと待っているところだ」
レイグラントは笑い返した。今度は彼の瞳も和んだ。
デットは成り行きを見守っているようだった。
レイグラントが、エルのことを気づかぬはずがない。兄シリューズは、すぐに気がついたという。
エルと共にある、黒き精霊の存在を。
あえて気づかぬ素振りをしているのか、それとも、気にも止める必要のない取るに足らないものと考えているのか。エルにはわからない。レイグラントの心内も、デットの思いも。
「ビルトランから報告を受けたが、お前の口から語ってくれるのだろうな」
レイグラントの瞳が危険な色を含んだ。
エルは身が縮むような、後ずさりたくなるような感情を覚えた。戦士の強い気合いを目の当たりにするのは初めてではなかったが、高みに到達した者からしか感じられないものなのか、目に見えぬ気迫に圧された。
膝の上の硬く強張る手に、ミーサッハが優しく触れくれたことをエルは感じた。
「相変わらずだな。子供の前でそのように感情を表すものではない。まだまだ成長が足らぬのではないか?」
レイグラントが苦笑した。気配が幾分か和らぐ。
「いまの俺にそのような口がきけるのは、お前ともう一人くらいだ。ビルトランですら俺と二人きりのときでさえ口調には気を付けているというのに」
ミーサッハがエルのほうを見やり、レイグラントに視線を戻した。
「この子は、エリシュターナ。シリューズが引き取った弟だ。隣は、エリシュターナの友人のデットどの。急ぎの要件ゆえ、簡単な紹介ですまぬ」
ミーサッハの言葉にレイグラントは反応を示さない。エルとデットに視線を送ることなく、ミーサッハを見つめたまま瞳で続きを促した。
「昨夜のことは聞いておろう。侵入者はシリューズの死に関わる者かもしれぬ。デットどののご友人が腕のよい術者で、精霊に侵入者の跡を追わせていた。そなたの手を借りたい。わたしはシリューズに手をかけた者を赦せぬのでな。だが、この体ではなにもできぬ。侵入者がどのような人物かわからぬが、この国の上位の術者だろうということだ。そなたにも他人事ですまされぬことだろう? 国家兵団長の屋敷に忍び込む輩がこの国にいることは。シリューズの命を奪ったかもしれぬ人物を捕らえ、真相を問い質してもらいたい」
ミーサッハの口調は柔らかかったが、それゆえに毅然とした意思が感じられるものだった。
レイグラントは瞳を光らせ、危険な笑みを形づくる。感じる気配がより迫力を増していく。
「当然だな。すぐに手配しよう。ビルトラン」
「はっ!」
レイグラントの近くに控えていたビルトランが忠実な部下の姿勢で応じた。
「準備は整っているのだろう?」
「はい」
フォルッツェリオ国王は、懐妊中であっても気迫衰えぬカドルであるミーサッハの瞳を見つめたまま命を下した。
「直ちに捜索を開始せよ。相手が何者であろうともかまわん。フォルッツェリオ国王レイグラントの名において、必ず捕らえよ」
「かしこまりました」
国家兵団長ビルトランは、彼が仕えるただ一人に一礼し、即座に退出した。別室に控えているイグニシアスを連れて捜索に行く手筈になっていた。ビルトラン自身が国内戦力の中でも最強の男だ。ビルトランが率いる手勢があれば、侵入者たちは簡単には逃れられないだろう。
「問題は黒幕だ。侵入した術者が首謀者とは限らぬ。ビルトランなら当然考えているだろうが」
ミーサッハの言葉にレイグラントはうなずく。
「ビルトランに任せておけ」
ここで、レイグラントは初めてデットに視線を向けた。
その気配は、先ほどから見せているものとは比べものにならないほど凄みを増していた。
レイグラントは笑みを浮かべているのに、一点、デットを見つめる瞳の深奥からの眼光が違う。
「デットと、いったか。尽力に礼を言おう」
声は穏やかだった。言葉の内容も、そのまま受け取れば礼を尽くしているように聞こえる。
それでもエルの呼吸は一瞬止まった。
わずかに呼吸音を聞かせるだけで、この緊迫感が恐ろしい方向に行ってしまうのではないかと、身動き一つ起こせないと感じた。
なぜなら。
レイグラントの全身から、殺気が放たれていた。
辺りの空気を凍りつかせ、時間を止めるような、殺気が。
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