歌え!シエラ・クロウ

くぼう無学

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道楽

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 ストルナードのコンクールは、今をときめく人気歌手、ローズマリー・ヨハンソンが歌うとあって、会場にはたくさんの観客が押し寄せた。新聞記者は、カメラのフラッシュを焚いて、次の撮影に備えた。ところがその騒ぎも、彼女の歌が始まると、ぴたりと止まった。みんなローズマリーの歌声にくぎ付けになった。その中にはもちろん、バレンタインとミルドレッドの姿もあった。バレンタインは真剣な顔をして、彼女の歌を聴いていたし、ミルドレッドも、眼鏡を光らせて、遠い舞台を見下ろしていた。
 舞台うらでは、シエラとドーラが、仲良く耳をすまして、彼女の歌を聴いていた。約一年前、たった一人でメイトリアール教会の聖歌隊に挑戦した、天才少女、そのずば抜けた歌声を聴いて、シエラもドーラも、自分たちの歌を恥ずかしく思った。
 ローズマリーは確かに、ストルナードの歌のコンクールに出場するまでもなかった。スペシャルゲストとして、地方の声楽ファンを楽しませたに過ぎなかった。
 そこへ来て、この会場でたった一人、ジャネット・ガードナーだけは、舞台のそでで腕を組んで、不服そうな顔をしていた。ローズマリーの歌が終わって、会場から割れんばかりの拍手が起こっても、彼女はいっさい、拍手をしなかった。ただ一言、「何も変わっていない」こうつぶやきを残して、さっさと舞台から去って行った。
 最終審査の結果、満場一致で、ローズマリーが最優秀賞、二位の優秀賞は、背の高いエマ・キャンベル、次いで、ドーラ・ブライスが三位の優良賞だった。感激したエマは、舞台へ上がって客席に大きく手を振っていたが、その隣のドーラは、表彰楯を受け取って、緊張のあまり魂が抜けたようになっていた。
「ドーラは、まあよくがんばったね。あれだけ大きな舞台に立って、目立ったミスも無く歌って、しかも優良賞にまで入賞したんだから、今年からメイトリアール教会へやったって、申し分ないね」
 ジャネットたち一行は、会場を後にし、今はタキシード姿の紳士たちと一緒にアーケードを歩いていた。
「わたしは?」とシエラ、自分の顔を指さして、
「予選落ちはどうなってしまうの? メイトリアール教会の聖歌隊には、恥ずかしくて入られないの?」
 ジャネットは大きく眉を上げて、
「あんたは来年、一年間はお預け。今年はドーラ一人にしておくよ」
「まあそりゃないわ先生! わたしだってがんばって歌ったわ。予選で落ちようが、落ちまいが、精いっぱい胸を張って歌ったわ!」
「違う譜面をね」と歩きながら笑うドーラ。
「ホント最悪。どこで譜面はすり替わったのかしら」
 アッピア街道に見られるような、サイコロ状の敷石を並べた石畳、そこへ蹄の音を立てて郵便馬車が走って行く。三人は帰宅のため、ストルナードの駅を目指した。
「でもまあ、シエラもがんばった方さ。初めての舞台で、堂々と胸を張って歌ったんだからね。その度胸だけは認めてやるよ。客席から大きなヤジが飛んだの、あんた覚えているかい?」
「ええ、大そうご立派なヤジだったわ」
 シエラは店先のかわいい帽子に心を奪われながら、
「だって舞台の上まで聞こえたもの、あのヤジ。だけどわたし、歌が下手クソって言われたくらいじゃ、なんとも思わないわ。それがどうしたの? て感じ」
 ジャネットは愉快そうにステッキを振って、
「そうさ、あんたはね、歌が下手クソなんだ。ヤジの一つや二つ、それこそ歌うのをやめろと胸倉つかまれようとも、気にしてはいけない。そのハートの強さが必要なのさ。今年からメイトリアール教会の聖歌隊に入って、下手クソ下手クソと言われながらも、くじけずに、石にかじりついてでも、みんなについて行く。この根性があんたには必要なのさ」
「まあ!」と言ってシエラ、ピョンピョンと敷石の上をはねて来て、ジャネットの腕にしがみついた。
「じゃあわたしも、今年からメイトリアールの聖歌隊に入隊できるのね? 予選に落ちたらダメかと思ったけど、やったわ先生、今の言葉、取り消しはなしよ!」
 浮かれ調子のシエラに、何かひと言忠告しようとふり返った時、ジャネットの目が一人の男に留まった。相手の方でも、その視線に気が付いて、目を大きくした。
「ダグラス、先生じゃないか」
 男はジャネットを旧姓で呼んだ。
「あんた、バレンタイン………。なんでこんな所に」
 ジャネットの表情がどんどん曇って行く。
 四時の汽車に間に合うように、こう条件をつけられて、シエラとドーラ、二人の少女はストルナードの町へ繰り出して行った。カラフルな出窓に東洋の人形を置いた小物屋さん、花壇のパティオがあるカフェレストラン、万国旗の下でジェラートを練るアイス屋さん、これら都会的なにぎやかさに、シエラは終始興奮していた。
「わたしがこの町を案内してあげるわ、ブライス家がひいきにしているお店があるの」
「お店? お店って、どんなお店?」
 楽しそうに走って行く二人を見送って、「さ、て、と」とジャネット、いかにもつまらなそうにふり返った。
「一体なんの用だい、バレンタイン。落ちぶれたあたしの姿でも笑いに来たのかい?」
 バレンタインは大きく両腕をひらいて、
「まさか! ダグラス先生はご自分の美学を追求するため、自ら職を退いて行った。落ちぶれるだなんて、思ってもみない言葉だね」
 この二人、同じ大学で教壇に立っていた元同僚、との事だが、久びさに会ったにしては、昔を懐かしむなどという事はまったくなかった。それどころか、ケンカ別れした相手とバッタリ会った、そんな険悪なムードだった。
「とにかく久しぶりに会ったんだ、こんな所で立ち話もなんだし、いいだろう? お茶でもおごるよ」
 むっつりとした相手を横目に、ついて来るよう背中を見せて、飲食店街へと消えて行くバレンタイン。「はあ」とため息をついて、その後を追うジャネット。
 ジャズ喫茶の店内に入ると、バレンタインはボーイを呼んで、珈琲を二つ頼んで、そのまま空いている席のイスを引いた。そこへジャネットが座るのを確認してから、自分は反対側の席に座った。あいかわらず態度がデカかった。
「いい店だ。ここはいつ来ても客が少ない。ロタオールではもうこんな店はない」
 ジャネットはステッキを置いて、
「あそこは学生の街だからね。朝から晩まで若者でごった返している」
 バレンタインは横を向いて、ことさらに足を組んだ。
「さてと、俺はな、ミルドレッドのような回りくどいやり方は嫌いなんだ。気が短いんだ。率直に聞くぜ。
 ダグラス先生、あんた一体なにをたくらんでいる?」
 ジャネットは真っすぐ相手の顔を見た。
「ダグラス先生は、ローズマリー・ヨハンソンというとんでもない才能を開花させた。さっきの大歓声を聞いたか? あれはもうトップシンガーの仲間入りをしている。大したものだ。ところがそうかと思えば、その次にはわけがわからん、学生たちの楽譜を破り捨てて、大学とケンカして、俺ともケンカして、辞職願を出して田舎へひっこんだ。これでロタオールも静かになったと思ったら、今度は妙な教え子二人をつれて、こんな小さな歌のコンクールに参加させている。あんた一体なにをたくらんでいる?」
 ボーイが優雅に珈琲を運んで来た。そのトレイから勝手にカップを取って、相手を困惑させるバレンタイン。
「何もたくらんではいない」
「ふん、そう来ると思った。あんたも教え子も同じだ」
「?」
 バレンタインは下を向いて頭を掻いた。
「ローズマリーも同じ答えだった。なんだってこんな小さな歌のコンクールに出場して、ぶっちぎりで最優秀賞を受賞しているんだ。遊んでいるとしか思えない。表彰式の後でとっつかまえて、その理由を問い詰めたんだ」
 ジャネットはこめかみに指を当てて、
「なんてデリカシーがない。あんたはいつも突然現れては自分の聞きたい事だけ聞いて来る。さぞローズマリーも困惑した事だろう。まったく、あんたは変わらない」
「ああ変わらんさ」
「その調子じゃあ、ロタオールも変わらないね」
「ああ変わらんさ」
 ジャネットはたっぷり珈琲にクリームを入れて、色が変わるまでそれをかき回した。そして遠い目をして、
「あたしはね、大学とケンカして、あんたともケンカして、教師を辞めた時、もう音楽なんて辞めようと思った。ラウスハットという、田舎に引っ越したのも、そう。音楽とは無縁の地で、まったく違った生活がしたかった。ようは声楽界から逃げたのさ」
 店内に置かれたグランドピアノから、フォーレが流れ始めた。
「うわさは、本当だったんだな」
 胸ポケットからチョコレートを取り出して、神妙な面持ちでそれをかじる。
「あんたとケンカした時、あたしが言った事、覚えているかい? 不安と期待を胸に、憧れのロタオールへやって来る少女たち、その希望に満ちた顔の前に、ぶ厚い楽譜を押し付ける。そして、みんな同じ歌い方をするよう強要する。型にハマった歌が歌えなければ、たちまち減点。そんな馬鹿な話があるかい? 彼女ら色とりどりの歌声を持って、色とりどりの才能をもって、輝かしいロタオールへ進学して来た。中には目を見張るような個性的な歌手もいる。それなのに、かのロタオールのレッスンでは、それら個性をいっさい許さない。才能をふみにじる。あたしはそんな教育方針に嫌気がさして、たまらなくなって、教え子の楽譜を破って回った」
 ジャネットは珈琲を一口、そのまま目を閉じて、動かなくなった。
「だってそれは、彼女らの歌手人生にとって、避けて通る事のできない重要な過程だぜ? 泣こうがわめこうが、楽譜の通りに歌う、それが声楽の世界では、最も大切な規則だ。俺は誰に何と言われようが、次つぎにやって来る少女たちに、楽譜に書いてある事を正確に叩き込む」
 グランドピアノを弾いているのは、白髪の老人、楽譜はひらいているが、目をとじて、指の先だけが動いている。クセの強い演奏。インスピレーション。その音色に耳を傾けながら、ジャネットは顔を上げた。
「ピアノは誰が弾くんだい? 歌は、誰が歌うんだい?」
「なんだ、それは」
 バレンタインは珈琲を口にしたまま、動きが止まった。
「あたしの師匠の言葉さ。結局、音楽と言えば、人間が奏でるのさ。人間なんてものは、水のようで、いくら同じ事をやっても、同じ通りには動かない。規則性がなくて、予測がつかない。その時の心情や、モチベーションによって、または恋人との関係によっても、いかようにでも歌は変わってしまう。
 そこを全否定したのが、ロタオール音楽大学の教育方針だよ。プログラムによって動くアンドロイドのように、楽譜の通り毎回同じ歌を歌う。そこを理想に掲げて、少女たちを洗脳していく」
「悪く言えば、そういう事になるだろうが、でも、そんな事を言ったって、国立大学法人が運営するロタオール音楽大学だぜ? そのディプロマが授与されれば、プロの音楽家として、どこへ行っても通用するし、それはダグラス先生、あんただって同じはず」
「あたしはもう、音楽家としては、やめにしたんだ。忘れて、すべてを忘れて、ラウスハットのサウスヒルという村でのんびり暮らしていた。本当にのんびりとした暮らしで、あそこでは同じ時間をくり返す絵画の中で暮らすようなものだった。あたしの頭の中から音楽がすっぽりなくなってしまった」
「ダグラス先生から、音楽がねえ」バレンタインは頬杖をついて、つまらなそうに珈琲をかき混ぜる。
「ところがねえ、そんな隠居生活を送っていたある日のこと、突然あの子の歌を聞いてしまったのさ」
「あの子?」
「あんたがヤジを飛ばした、二十四番目の歌手」
「あー」と言って、両手で髪を掻き上げてから、
「あの、予選落ちのやつか。あれはひでえ、ひでえ歌だったな。あ、そうだ。そういえばローズマリーが、妙な事を言っていた」
「妙なこと?」
「そうだ。ローズマリーのやつ、ほかの出場者になんて全く興味がなくて、同じ表彰式に立っていた、優秀賞のエマの名前すら覚えていなかった。そこへ来て、予選落ちのシエラ・クロウという名前だけは、一人だけ覚えていて、譜面がどうのと言って、一人で笑っていた」
 近くを通ったボーイを呼んで、空のカップを上げるバレンタイン、そのままジャネットを見たが、彼女は「いらない」と首をふった。
「へえ、ローズマリーがシエラの事をね。確かに二人は、譜面が入れ替わったというアクシデントがあったからね」
「まあそんな事はどうでもいい。それで、その予選落ちの下手くそが、どうしたって?」
 結論を急ぎたがる相手に、ジャネットは首をすくめて見せながら、
「あの子はねえ、去年の秋ごろ、高い木の上にのぼって、どでかい声で歌を歌ったのさ。底抜けに下手くそな歌を。その顔は夢いっぱい、その歌声はまったくの自由だった。伸ばしたい音はどこまでも伸ばす。切りたい音は容赦なく切る。まあ、清々しいくらいハチャメチャだった。美しいものばかりを選んで描いていた画家が、路傍の石の素朴さに心を打たれたようなものさ。しかもその石ときたら、そんじゃそこらの石ではなかった。あの子の自由な歌声は、あたしの中でくすぶっていた何かに火を点けた」
『歌ってのはな、にんげんが歌うんだ』
 ピアノに向かう白髪の老人が、亡き師の背中と重なって見えた。
「はあん、それでダグラス先生は、素朴な石、つまり歌が下手くそな娘に魅了されて、こんなコンクールにまで顔を出すようになった、というわけか」
「そうさ」
 バレンタインは、少し当てが外れた顔をして、大きく足を組み直した。
「でもあれじゃ、モノにならないだろう」
 ジャネットの頭の中に、頬をつねられたシエラの顔が浮かんだ。
「そう言われても仕方がないね。今はもう、毎日叱ってばかりだから。まだまだ特訓中。もう一人、ドーラ・ブライスって娘なら、モノにはなりそうだよ」
 バレンタインは座り直した。
「アレは使えるだろう、行き先はどこだ?」
「メイトリアール教会」
 ボーイが現れて、バレンタインのカップに珈琲を注いだ。
「あんなふきだまり、やめておけ」
「本人の希望だよ」
「やめろと言えばいい」
「あたしもあそこの臨時教師を頼まれているんだよ」
 バレンタインは頭を抱えて、
「ダグラス先生ともあろうお方が、あんな埃のかぶった教会の聖歌隊を? 世も末だな」
「馬鹿を言いなさんな。あそこにはローズマリーを打ち負かした、ソフィ・シンクレリアがいる。あまり地方を下に見ていると、一本取られるよ」
「あんなへっぽこ聖歌隊にか? 冗談はよしてくれ。あそこは伝統と格式というまやかしによって名声が守られているだけだ。坊さんのお経と変わらん」
 ジャネットは何か言いたい顔をしていたが、懐中時計を取り出して、ステッキに手を伸ばした。
「そら、汽車の時間さ。どうやらあんたとあたしは、別々の道を歩む運命らしい」
「同感だね。初めて会った時から、あんたとは気が合わないと思っていた。だがな、俺の道はあんたと違って、確実だ。ダグラス先生のような道楽とは違う」
 くすぐられたように、ジャネットは笑って、
「道楽か。まったくその通りだよ」
 おちこぼれの教え子の事を思い、ジャネットは嬉しそうにイスから立ち上がった。
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