歌え!シエラ・クロウ

くぼう無学

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ルドヴィックのからかい

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 ソフィとリューイッヒ、それにシエラを加えた三人は、ドーンズの森を抜け、広い草原を歩いていた。日もだいぶ落ちて、彼女らの影法師が草の上に伸びている。
 その影の一つが 今、立ち止まってしゅんとなった。
「そうよね。こんな泥のついた手なんか握手したくないよね」
 たった今 シエラは、リューイッヒから握手を断られた所だった。
「この手もそうなんだけど、今のわたし 体中いたる所が泥まみれ。これじゃ 食い逃げと間違われたって、文句は言えない。髪の毛だってそう、こんなくすんだ色になっちゃって、もう元の色に戻らないんじゃないかって思う」
 再びみんなと歩き出しながら、
「あ。そうだ。最近 雨が降らなかったんだわ。雨の中を歩いていなかったから、体や服の汚れが落ちなかった。あれ、どうしたの? わたしなにか変なこと言った? わたしはこの一ヶ月 雨に打たれて体の汚れを落としていたの。どしゃ降りだとすごくよく落ちる。歩いているだけで、結構きれいになるの。それがうれしくて、わたし雨の中を全力で走ったりしたわ。でもね、いい塩梅と思って、いい気になって雨に打たれていると、今度は体が冷えて、風邪をひいてしまうの。そうなると二、三日は足止め。高熱が出て、世界が二重に見えて、まったく歩けなくなってしまうの。それだったら、まだ服が汚れていた方がマシよね。
 あとわたし こう見えて、とてもきれい好きなの。この格好からは想像もつかないでしょうけど、本当にそうなの。髪の毛だって、こんなに汚れていなければ、とても明るい色をしているし、肌だってみんなより白い方。突然知らない人からきれいな子だって言われた事もある。それがね、一たびこんなふうに汚れてしまうと、後はもうどうにでもなれって平気になるの。これ発見。今では泥まみれになって子供が笑っている気持ちがよく分かる」
 シエラの話はどこで息をしているのか不思議なくらい延々と続いた。それは一ヶ月分の話を紙に書いて くしゃくしゃに丸め、次から次へと投げつけられる勢いがあった。
「この土地は本当に自然が豊かだわ。すっごく素敵。草や木、蝶や小鳥、みんな気持ちのいい風に吹かれて、やさしくわたしに笑いかけてくるようよ。このままわたし、裸足になって踊りたい気分。それが出来るって、本当に素晴らしい事なの。だって、わたしの故郷なんて、そんな危険なマネはできないの。なんで危険かって、それは バーゲンダーツはめったに雨が降らないから、火山のように荒れ果てた土地なの。いびつな岩が、ゴロゴロと転がっていて、しっかりとしたブーツで歩かないと、足を傷つけてしまうの。風の強い日なんて、砂嵐みたいなのが起こって、その中で歌を歌おうものなら、どれだけ口の中に砂が入るか分からない。本当にひどい話に違いないわね」
 シエラの話はなおも続き、二人はそれを聞き流しながら歩いた。時にはその話に興味を引かれる事もあれば、時にはどうでもいい話もあって、リューイッヒなどは、明後日の方向を向いて歩いていた。それでも二人は、シエラの口をふさごうとまではしなかった。
 背の高い草が茂って、その草の間から大きな湖が現れた。細かく波立つ所がキラキラと光っている。
「さっきから水の匂いがすると思ったら、まあ、なんて大きな湖があるの? ひんやりと涼しい風が吹きつけて、服の中まで涼しくなる。きっとこの湖には美しい名前がつけられているのでしょうね?」
「チャスタリカ湖よ」
 ソフィは湖を向いて言った。
「チャスタリカ湖! いい名前だわ、わたしその名前 気に入ったわ。だって、何か伝説でもありそうな神秘的な名前だもの。奥行があるわ、その名前。
 それに比べて、わたしの住んでいるバーゲンダーツなんて、そんな名前、いやだわ。そう思わない? バーゲンと ダーツよ? これじゃあ神秘の入り込む余地がない。
 チャスタリカ湖かあ、いいなあ。ねえ、もしもこの湖に伝説があるのなら、きっとそれは悲しい乙女の伝説がいいと思わない? 悲しい乙女。愛する人を裏切ってしまった乙女。彼女は魔女にウソを吹き込まれ、行き違いから、愛する人を裏切ってしまったの。その罪は、気づいた時にはもう取り返しがつかない。永遠に、その罪を償っていかなければならない。来る日も来る日も、帰らぬ恋人の事を想い、彼女は静かな湖底で竪琴を奏でる」
 リューイッヒはハッと顔を上げソフィを見た。今のシエラの作り話が、ソフィの暗い過去に結びつきそうな筋のものだったからだ。ソフィはけれども涼しい顔をして沖の方を見ていた。
「わあ、あそこに水鳥の群れが見える! 水鳥ってホントうらやましい。自由で、気ままで、誰も手が届かない所で涼しげに泳いでいる。わたしもああすいすい水の中を泳げたらいいのになあ」
「いいわ、あんたもあそこで泳いで来な。その方があんたのその汚い体がちょっとはましになるってもんよ」
 リューイッヒはフンと鼻で笑った。それから何か言いたげなソフィと目が合った。シエラは何とも気にかけないで、
「人って、愉快な気分になると、自然と歌が歌いたくなるものね。ホント不思議。愉快になって来たなと思った時には、自然とメロディーを口ずさんでいる。人間って、よっぽど歌が好きな生き物なのね。
 ところがわたしときたらちょっと変なの。気持ちよく歌を歌おうとすると、まわりの人が歌うのをやめろと言うの。変だなと思って、一回、音楽の先生をつかまえて、わたしの歌を聴いてもらった事があるの。そしたらその先生、わたしの歌を聞いた途端、ピアノの弦を切っちまうくらい驚いて、玄関の外へわたしを立たせると急いてドアを閉めたの。それがどうしてか分からなくて、色々な人に聞いてみたら、それは君とびきり歌が下手だからだよって、笑われたわ。でもわたし、歌が下手って、実際どんなものなのか想像がつかないのよ。だって、わたしは愉快な気持ちで歌っているわけでしょう? それが上手だろうが下手だろうが、気持ちよく歌っているわけでしょう?」
 間違って冷たいお風呂に飛び込んでしまった時のように、リューイッヒは短い悲鳴を上げた。
「まあ! あんたってどこまでイカれているの! なんだって? 歌が下手だって? それなのに格式高いメイトリアール教会の聖歌隊に入りたいって? 冗談も休み休み言って欲しいわ!」
 シエラはきょとんとして、前を立ちふさがるリューイッヒへ目を上げた。
「いい? あたしたちの聖歌隊はお歌の稽古場ではないの。国王様にだってお聴かせできるくらいの凄腕の歌手の集団なの。音楽大学の先生に、君は歌の素質が十分にあると絶賛されるくらいじゃないと、そもそも聖歌隊に入隊はできない。それをあんた、歌が下手だなんて、もうここで帰りなさい。これ以上あんたの茶番に付き合っていられない」
 リューイッヒはさんざん相手の顔に人差し指を突き立てた。
「あら、それは知らなかったわ。歌が下手では、メイトリアール教会の聖歌隊には入れないの?」
 そんな二人のやり取りを見て、思わず肩を揺らして笑うソフィ。
「シエラったら、あなた本当におもしろい子。この辺にはいないタイプね。
 ねえ あなたに一つ聞きたい事があるのだけど。どうしてあなた、メイトリアール教会の聖歌隊に入りたいの? 歌が好きなら、どこでも好きな所で歌えばいいじゃない? 山へ行って歌ってもいいし、海へ行って歌ってもいい。それなのに、どうして 世界トップクラスの聖歌隊へ入らなければならないの?」
 シエラは急に真剣な顔つきになって、
「約束があるの。とても大切な約束。メイトリアール教会の聖歌隊に入るという約束があって、わたしは一か月も過酷な旅をして来たの。その約束は、二人の間でかたく守られて、秘密だから、今はここでは言えないけど、それがとても重要だって事は分かって欲しい」
「秘密だってさ」
 あきれたリューイッヒが万歳をした。
「それはそうと、もちろんわたしは歌うのが好き。思いっきり声を出して歌うと、背中に翼が生えて、どこへでも自由に飛んで行ける気持ちになるの。あまり大きな声で歌うと、まわりの人の迷惑になるから、誰もいない時に歌ったりするのだけど、もっと堂々と歌える場所が欲しいの。もっと上手に歌えれば、もっと気持ちよくなるかと思うのだけれども」
 リューイッヒはフンと言ってまた歩き出した。
「そんなに歌いたかったら、お風呂の中で歌っていればいいわ。あたしたちの歌のレッスンは、それはひどくつまらないもの。一音だって間違えてはならないし、才能が無ければ、いつまでたっても下のクラスから上がれないし、とにかく針のむしろのような厳しい聖歌隊だわ。突然おんおんと泣き出す子だっているくらいだもの」
 子供の心を挫くように、急にふり返って怖い顔を見せるリューイッヒ、しかしその顔をながめて、きょとんとした表情でシエラは、
「わたし泣くのは得意よ」
 そうこうしている内に、教会の方からルドヴィックがやって来た。リューイッヒはきゃーと歓声を上げて、駆け足で彼を迎えに行った。
「あら、ルドヴィックじゃない! いま お帰り?」
 ルドヴィックはひどく疲れた様子で、なんとか笑顔を作った。
「やっと終わったよ。ピーターのやつ、教会の壁にペンキを塗るかと思えば、ぜんぜん塗らないんだ。あっちこっち行って、まったく仕事に集中しない。そうこうしている内に、僕は二缶もペンキを塗ってしまった。いや、さすがに腕が痺れたよ。ちょっと頭に来たから、ピーターに全部道具を持たせた」
 うんざりと髪をかき上げるルドヴィック、それをうっとり見上げて、リューイッヒは祈るように両手を組み合わせる。
「まあ、それは可哀そうなルドヴィック。疲れたでしょう? もうちょっと教会で休んでいったら? お茶でも出すわ」
「いいよ、帰って、少し眠る」
 ソフィは背伸びをして教会の方を見た。
「ピーターの姿が見えないようだけど」
「あー」と言って彼は腰に手を当てて、「なにか先生と話し込んでいたな。帰ろうって誘っても、生返事ばかりで。多分ね、君の帰りを待っているんだと思う。まったく、付き合いきれないよ」
 ソフィはほんのり困った顔を見せた。
 リューイッヒは彼の腕を引っ張って、
「ねえ、ルドヴィック、あなたからも言ってあげられない? ソフィはピーターには困っているのよ、まったくその気がないのだから、いくらしつこく付きまとわれても、どうにもならないし、ほんと迷惑」
「僕が何を言ってもムダさ。ピーターはもう、ソフィに参ってしまっているのだから。
 うん? そこにいるのは誰だい?」
 少し離れた所に立っていたシエラ、その姿にルドヴィックはようやく気が付いた。
「ああ、その子はね、なんか、わたしたちの教会に用があるらしいの。あたしはね、汚いから、反対したのだけど、ソフィがどうしてもって」
 三人の所へ近づいて来るシエラ、そのまま元気良く彼の前に立って、大きく相手に握手を求める。
「はじめまして! わたしはシエラ・クロウ。どうぞよろしく! わたしの事をシエラと下の名前で呼んでくれても良いし、ミス・クロウと上の名前で呼んでくれても結構だわ。どちらでもお好きな方で。あ、でも、これからここに長らくご厄介になるかも知れないから、そうね、シエラって、親しみを込めて呼んでくれた方が、何かと都合が良いわ」
 小さな体を背伸びして、高い位置で握手を交わすシエラ、その 堂々とした彼女の態度に、ルドヴィックは一瞬 言葉を失った。
「えーっと、僕はルドヴィック。ルドヴィック・スピード。うわー、なんだい君は、おもしろい子だな。へー、なんでそんな格好をしているの? 頭のてっぺんからつま先まで、泥だらけじゃないか。実に見事だ。これなら僕だって、泥をかぶって挨拶しなければ失礼だ。うん」
 くすくすと笑うリューイッヒ。ソフィも、なにか面白いものでも見るような顔をしている。
「泥だらけ?」
「この泥はどこのだろう、ハネミア産かな? ドーミー産かな?」
 まったくアテの外れた顔をして シエラ、そのままただぼんやりと相手の顔をながめる。さらにルドヴィックは、相手の汚れた三つ編みを手にして、
「おお、君の髪はまるでモップだね! 世界中をぐるりと掃きまわった美しき色よ!」
 大きく両手をかざしながら、演劇にでもありそうにひざまずくルドヴィック。それを見たリューイッヒが思わずふき出した。
「やめてよ もう ルドヴィック、おかしくて死にそう」
 シエラの顔がだんだん下から赤くなって、髪の毛もぷるぷると小刻みに震え始めて、
「初対面だのに、泥だらけとか、モップだとか………そんなひどい事を言って。わたし、あんたなんか嫌い! 大っ嫌いだわ!」
 近くの小鳥が飛び立つくらいの大声を出して、シエラは目の前にある彼の足を踏みつけた。
「痛っ!」
「まあ!」
 青ざめたリューイッヒが、とっさにシエラの胸を突き飛ばした。よたよたと後ろへ下がって、相手を藪にらみするシエラ。
「あんた自分が何をしたのか分かっているの? 汚い格好をして、それをちょっとからかわれたからって、なんて乱暴な真似をするの!」
「いいんだリューイッヒ、僕も少しやり過ぎたようだ」
「いいえ、この子のした事は決して許されない! これだから流れ者は信用ならないのよ! ソフィがこの子の肩を持つから、妙にこんなのに親切にするから、あたししぶしぶここまで連れて来てやったけど、なんだってあんたはやる事がめちゃくちゃだわ!」
 何と罵られようが、何と叩かれようが、シエラは頑なに黙って、悔し涙を浮かべていた。
「ほら あんた、ちゃんとルドヴィックに謝りなさい。いきなり人の足を踏んでおいて、黙っているなんて、どういう了見よ」
 リューイッヒは相手の腕をつかみ、ぐいぐいとその手を左右へ引っ張った。するとシエラはこみ上げる感情がおさえ切れなくなって、わあっと泣き出して、突然 草の中を駆け出した。
「シエラ」
「あ、ソフィ! あんなの放っておきなさいってば、ソフィ!」
 そう叫んで、ぴょんぴょん飛びはねているリューイッヒ、けれどもそれだけで、彼女は一向にソフィを追おうとはしなかった。そっとその場にひざまずき、そこにあるルドヴィックの足を彼女はいたわり始めた。
『これはチャンス! ルドヴィックに接近できるチャンス! あたしはこれを機会に彼からうんと気に入られなきゃ』
 リューイッヒはそのまま彼の足に頬ずりを始めた。
 一方のルドヴィックは、疲れが吹き飛んだ顔をして、一人でいる時のようなリラックスした顔をして、いつまでもシエラの走り去った後を見つめていた。
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