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目撃過誤
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「江口サダユキは、一人で乗車停留所へやって来たのではない。そうしてまた、一人でリフトに乗って、自殺をしたわけではない。もう一人、誰か別の人物と乗って、そいつに殺された。それは、自殺現場のリフトの背もたれに結ばれた、もう一本のロープによって、証明されている」
事件の真相は、この一本のロープの存在によって、自殺か、他殺か、その明暗を分ける事について、わたくしは、知的な魅力を感じて、思わず口にし、あごに手を当て、もう少し先へ考えを進めようとして、ハッと我に返った。敷島がゆっくりと瞬きをしてから、不知火の顔へ視線を戻した。
「たかが一本のロープ、されど、江口を死に導いた、ロンギヌスの槍とも言えよう、重要なロープ。不知火、どうやら君は、我々を少し見くびったようだな。一見無意味にも思われる、リフトの背もたれに結ばれたロープ、その使い道など、君は、誰にも分かるはずがないと高をくくって、犯行当時、ロープの回収を怠った。この判断ミスは、もはや取り返しがつかない」
不知火は、だんだん、真顔になった。
〝もう一つの不審な点は、やはり、この短いロープの存在です〟
江口の遺体が安置された、霊安室での話。
〝今回の江口の自殺の件に関して、彼が首吊りに使用するロープが、二本ある必要性が全くない。誰がどう考えてみても、長いロープ一本で首吊りには事が足りる。そこをなぜ、このような役割を果たさない短いロープが、リフトの背もたれに結ばれていたのか〟
首吊り自殺には必要のなかった、短いロープの存在。
自動拳銃の重さは、約一㎏弱と言われている。不知火は、やはり重たいと見え、右手へ持ち替えて、だらりと腕を垂らした。刑事たちが一斉に銃を構え直す。
「どう、証明しているって言うの。江口は当時、一人でリフトに乗ったと、リフトスタッフが証言しているじゃない。たかが一本のロープ、されど、と言うけれど、それよりも、江口を目撃した証言の方が、証明すべき事実を直接証明している事になるんじゃない? 実際、捜査本部はそう判断した」
「美咲」
敷島は、背中で呼んだ。
「は、はい。まず、目撃証言について考えるには、一九四八年に発生した、帝銀事件の平沢の目撃証言が例に挙げられます。〝犯人と似ている〟や〝犯人だと断定する〟という目撃過誤を犯した証人の存在、事情聴取が繰り返されていく中で、容疑者の平沢を真犯人と間違えていった、とされる、誤謬の過程があり、その信憑性の低さは、心理学視点からも既に認められている所です。
ある実験によると、記憶した事の四〇%が、わずか三〇分たらずで、消失してしまう事が分かっています。その後も記憶はうすれ、一日で六十六%、三日後には七十五%も忘れてしまうと言います。しかもその記憶は、相手に対する印象や、誘導によって、簡単に書き換えられたり、自分に都合よく再構築されます。これを、『無意識の転移』と言い、特に嫌悪感や、ある種の先入観を持っている相手に対して、起こりやすいと言われています。
この事からも分かる通り、目撃証言だけに頼って捜査を進める事は、のちに重大なミスが発生する可能性があります」
不知火は、冷ややかに笑った。
「江口サダユキをリフトに乗せたという、リフトスタッフの記憶は、『無意識の転移』によって書き換えられたと言うわけ? そんなバカな話、ある? それじゃ、人の言う事なんて、どれも信用できなくなるじゃない」
「その通りです。人の言う事なんて、信用しない方が利口です。ベターです。特に今回のような、どこの誰かも分からない相手をリフトに乗せて、〝江口サダユキをリフトに乗せたのは、この俺だ〟などと、目撃過誤の主張を繰り返す相手の場合には」
加藤は頻りに目を動かした。話の意図を探っているようだ。
「リフトスタッフが嘘を吐いているって、それ、本気で言っている?」
不知火は眉を寄せた。
「本気です。えっと、不知火さん。もう、しらを切るのはやめにしませんか? いま言った『無意識の転移』、これを最大限に活用して、リフトスタッフの記憶を狂わせたのは、他でもない、あなたです」
美咲は、きっぱりと相手の犯行を明言した。
「はあ? 私が、リフトスタッフの記憶を書き換えたっていうの?」
「犯行が行われた当時、あなたは、乗客補助を行うリフトスタッフに対して、つまらないクレームをつけたのです。乗車補助がムッとするような指摘をして」
〝あんたら、江口サダユキの自殺を疑っているんだってな〟
当時リフトスタッフをやっていた柵は、原動機の操作室から出て来て、言った。
〝昨日、江口サダユキをリフトに乗せたのは、この俺だ。今でもはっきりと覚えている、あいつは俺の仕事にケチをつけたんだ〟
江口サダユキは、一人リフトに乗る際、リフトスタッフの仕事にクレームをつけていた。
〝まあ下らねえ、ホントつまんねえ事で奴とやり合ったんだ。俺は今思い出しただけでも、あの時の事が腹立つんだ。あいつはだな、座席の雪を指差して、俺の服を強く引っ張ったんだ〟
『無意識の転移』、それは、特に嫌悪感やある種の先入観を持っている相手に対して、起こりやすいと言われている。当時の江口サダユキがとった、不可解とも思えるつまらないクレーム行為は、まさにリフトスタッフに嫌悪感をあたえ、相手の都合よく記憶の再構築をさせやすくしている、とも考えられる。
「さっきから、いったい何の話? 私がリフトスタッフにクレームをつけただって? あべこべじゃない、当時リフトに乗ろうとしていたのは、江口サダユキただ一人でしょう、座席に雪があったくらいでクレームをつけて、それは私ではない」
両手を広げて、不知火はみんなの顔を見ていった。
「あなたは、その場にいたのです。その場にいて、一人でリフトに乗ろうとして、リフトスタッフに対して、ジェスチャーだけでクレームをつけた。そして、乗車を拒否して、冊さんを怒らせて、リフトを停止までさせるトラブルを引き起こした」
わたくしは、美咲と不知火、両者の顔を見た。
「いない」
「いたのです。あなたは、事前に調べた江口の服装の情報から、ロクハチの青いウェアと、ダイスのゴーグルをつけて、一言もしゃべる事なく、短気な冊さんに因縁をつけて、やりあったのです」
〝あれでも芸能人だからな、ゴーグルにフェイスマスクをばっちりキメて、その時は誰だか分からなかった〟
ん? リフトに乗る時には気が付かなくて、遺体を見た時に初めて江口サダユキだって気が付いた?
〝そうだ。時間的に言えば、いちゃもんをつけた奴が上の降り場へ到着する時間と大体合っていたし、何しろ自殺した江口は一人でリフトに乗っていたし、ロクハチの青いウェアと、高そうなダイスのゴーグルが同じだったし、まあ間違いない〟
あれ? それは、間違いだ。事実ではない。全て〝だろう〟話だ。
〝江口サダユキは自殺したんだ、間違いない。何たって奴はひとっ言も喋らなかったんだからな。相当一人で思い詰めていたに違いない〟
加藤は視線を下げた。
「リフトスタッフは、まったく自分に都合よく、記憶を再構築していたと言うのか? もし、そうだとすると、我々は彼の目撃証言に」
敷島は、人差し指を立てて、以下のように付け加えた。
「目撃証言については、その取り扱いに十分注意しなければならない。二〇〇〇年に公にされた、ハリー・シェックらの研究では、彼らは六十二件の誤判とされた事件を収集し、出現率を使用した独自の手法で、誤判原因を解き明かした。すると、六十二件中、五十二件において、誤った目撃証言が、何らかの形で関わっていた事が明らかになった。その出現率は、八十四%、やはり、誤った目撃証言は誤判原因として突出している事が、先行研究から明らかになっている。過度に証人の確信によりかかった判断は危険であり、裁判所の判断は再考を要する面がある、としている。今回のリフトスタッフの目撃証言にしても、いちゃもんをつけて来た奴は気にくわない、腹が立つ、で『無意識の転移』が起こりやすくなり、発見された遺体のハチロク服装とダイスのゴーグル、それぞれのメーカーと色が全く同じ。一言も口をきかなかったのは、男が死のうと思い詰めていたから。リフトに乗ってから、遺体が発見までの時間がおおよそ合っている。これらが無意識に絡み合い、転移して、記憶の再構築が行われた。自分は、気にくわない江口サダユキをリフトに乗せた。因縁をつけて来たからよく覚えている。そいつはリフトに乗った後で、首吊り自殺をした。後で刑事に呼ばれて行って遺体を確認したが、間違いない、服装もゴーグルも同じ、江口サダユキだ。
これは、君がそっくり江口に成りすまして、リフトスタッフに嫌悪感やある種の先入観を施して、生まれた、過誤記憶に他ならない」
敷島が、ぴしゃりと結論を述べ、不知火の顔へ人差し指を向けた。
「それにだ。君は、どうして、江口とリフトスタッフの口論の内容を知っていたのだ?〝座席に雪があったくらいでクレームをつけて〟君はさっき、こう言っていたが、我々はまだ一言だって、クレームの内容を明かしていない」
その指先を目に入れて、不知火は、前髪をかき上げた。
「ああもう、うるさい。ひと言いえば、十も返って来る。口の減らない奴が、よってたかって」
そのまま髪を撫でていって、うなじに手のひらを当てた。
「それじゃ、まあ、百歩譲って、私が江口の服装を真似て、彼が一人でリフトに乗ったように見せかけたとして、私は、例によってクレームをつけた後、そのままリフト降り場まで行くのでしょう? そこに江口はいない。私はどうやって、彼を殺せるわけ?」
その回答が、やや遅れた。美咲は、急に歯切れが悪くなった感じだった。
「どうやって江口を殺せたか。この問題の解答は、その犯行が、物理的に可能である、という理論的なアプローチによって、導き出します。というのも、実際に犯行を遂行するのは、至難の業としか、言いようがないのです。犯人として想定している人物が、あなたのような暗殺のプロだから、とちょっと特殊な想定が必要となります。
最新のコンピュータ・シミュレーション技術を駆使して、当時の現場を模擬的に動かし、その時の再現性を確認しました。原動機の回転速度、起点から終点停留場までの距離、リフトと雪面までの距離、雪面の下にある地形、スノーボーダーのトップスピードの移動速度、ログハウスとの位置関係、乗車待ちの人数、四人一組のリフト係の交代の間隔、これらのデータをコンピュータへプロットし、演算させて、仮想空間での検証実験をひたすら繰り返しました」
〝今回の調査目的は、実際に犯行の行われたリフトに乗る事にあります。そして、現場でしか分からない情報をとにかくデータ化します〟
美咲がリフトの上で、レーザー距離計、全天球カメラ、風向風速計、超広帯域電磁波メーターなど、データロガーに取り込んだデータは、仮想空間を作り出す為に収集したものだった。
「敷島探偵グループが内規で持つ、模擬実験の成功率の規定は、B判定の八十五%以上、これは、全くクリアーできませんでした。それどころか、C判定の六十五%も、全く届きません。ですから、内閣総理大臣認可法人敷島探偵事務所として、今回の江口殺害の調査報告は、再現性試験の保証度不足から、公にする事はできません。一般的な犯罪者にとって、江口サダユキの殺害は、あまりに失敗するリスクが高過ぎて、通常では、犯行に使う事ができないレベルだと言う事です。仮想現実の世界に、二十代の女性のデータをプロットした、一〇〇〇体の人工知能、AIを用意して、今回の犯行を遂行させた結果、成功率わずか〇・二%という、最悪の結果となりました」
「〇・二%? 犯人が一〇〇〇人いて、二人しか成功しない?」
わたくしは、あ然として、美咲の横顔を見つめた。
「まあ、時間の関係上、何も学習されていないAIを使用しましたから、犯行の予行練習や、犯罪経験、スノーボードの技術、ワイヤーの取扱いなどのパラメーターが、高いAIでしたら、もう少し、〇・八%まで上がるかも知れません」
敷島が腕を組んだまま、わたくしの方をふり返った。
「宗村、もしも君が、犯行の予行練習を行い、様々な訓練を受けて、江口の暗殺をしなければならない、その成功率がわずか〇・八%だとして、一〇〇回挑戦して、一回でも成功しないかもしれないとしたら、どうだ、やるか?」
「やるわけがないだろう。そんな、『ミッション・インポッシブル』の映画のような仕事」
敷島が鼻で笑って、
「だが、不知火はやった。平気な顔をしてな。もしかしたら、今まで晦冥会の暗殺計画の中では、今回の江口暗殺計画は、比較的成功率の高い方だったかも知れない」
敷島の顔が影になった。
「俺はな、宗村、今ではこう考えている。もしも不知火の暗殺スキルのコンピュータへのプロットが成功して、不知火のAIを一〇〇〇体用意できたら、江口の暗殺の成功率は一〇〇%、一〇〇〇体とも成功している、と。そうして、その一〇〇〇体の不知火のAIは、一〇〇〇体とも、いま我々の目の前に立っている、と」
これを聞いてわたくしは、サイバーチックに目を光らせた、不知火のAI一〇〇〇体が、彼女の背中にずらりと並んでいるような、恐ろしい想像をした。
事件の真相は、この一本のロープの存在によって、自殺か、他殺か、その明暗を分ける事について、わたくしは、知的な魅力を感じて、思わず口にし、あごに手を当て、もう少し先へ考えを進めようとして、ハッと我に返った。敷島がゆっくりと瞬きをしてから、不知火の顔へ視線を戻した。
「たかが一本のロープ、されど、江口を死に導いた、ロンギヌスの槍とも言えよう、重要なロープ。不知火、どうやら君は、我々を少し見くびったようだな。一見無意味にも思われる、リフトの背もたれに結ばれたロープ、その使い道など、君は、誰にも分かるはずがないと高をくくって、犯行当時、ロープの回収を怠った。この判断ミスは、もはや取り返しがつかない」
不知火は、だんだん、真顔になった。
〝もう一つの不審な点は、やはり、この短いロープの存在です〟
江口の遺体が安置された、霊安室での話。
〝今回の江口の自殺の件に関して、彼が首吊りに使用するロープが、二本ある必要性が全くない。誰がどう考えてみても、長いロープ一本で首吊りには事が足りる。そこをなぜ、このような役割を果たさない短いロープが、リフトの背もたれに結ばれていたのか〟
首吊り自殺には必要のなかった、短いロープの存在。
自動拳銃の重さは、約一㎏弱と言われている。不知火は、やはり重たいと見え、右手へ持ち替えて、だらりと腕を垂らした。刑事たちが一斉に銃を構え直す。
「どう、証明しているって言うの。江口は当時、一人でリフトに乗ったと、リフトスタッフが証言しているじゃない。たかが一本のロープ、されど、と言うけれど、それよりも、江口を目撃した証言の方が、証明すべき事実を直接証明している事になるんじゃない? 実際、捜査本部はそう判断した」
「美咲」
敷島は、背中で呼んだ。
「は、はい。まず、目撃証言について考えるには、一九四八年に発生した、帝銀事件の平沢の目撃証言が例に挙げられます。〝犯人と似ている〟や〝犯人だと断定する〟という目撃過誤を犯した証人の存在、事情聴取が繰り返されていく中で、容疑者の平沢を真犯人と間違えていった、とされる、誤謬の過程があり、その信憑性の低さは、心理学視点からも既に認められている所です。
ある実験によると、記憶した事の四〇%が、わずか三〇分たらずで、消失してしまう事が分かっています。その後も記憶はうすれ、一日で六十六%、三日後には七十五%も忘れてしまうと言います。しかもその記憶は、相手に対する印象や、誘導によって、簡単に書き換えられたり、自分に都合よく再構築されます。これを、『無意識の転移』と言い、特に嫌悪感や、ある種の先入観を持っている相手に対して、起こりやすいと言われています。
この事からも分かる通り、目撃証言だけに頼って捜査を進める事は、のちに重大なミスが発生する可能性があります」
不知火は、冷ややかに笑った。
「江口サダユキをリフトに乗せたという、リフトスタッフの記憶は、『無意識の転移』によって書き換えられたと言うわけ? そんなバカな話、ある? それじゃ、人の言う事なんて、どれも信用できなくなるじゃない」
「その通りです。人の言う事なんて、信用しない方が利口です。ベターです。特に今回のような、どこの誰かも分からない相手をリフトに乗せて、〝江口サダユキをリフトに乗せたのは、この俺だ〟などと、目撃過誤の主張を繰り返す相手の場合には」
加藤は頻りに目を動かした。話の意図を探っているようだ。
「リフトスタッフが嘘を吐いているって、それ、本気で言っている?」
不知火は眉を寄せた。
「本気です。えっと、不知火さん。もう、しらを切るのはやめにしませんか? いま言った『無意識の転移』、これを最大限に活用して、リフトスタッフの記憶を狂わせたのは、他でもない、あなたです」
美咲は、きっぱりと相手の犯行を明言した。
「はあ? 私が、リフトスタッフの記憶を書き換えたっていうの?」
「犯行が行われた当時、あなたは、乗客補助を行うリフトスタッフに対して、つまらないクレームをつけたのです。乗車補助がムッとするような指摘をして」
〝あんたら、江口サダユキの自殺を疑っているんだってな〟
当時リフトスタッフをやっていた柵は、原動機の操作室から出て来て、言った。
〝昨日、江口サダユキをリフトに乗せたのは、この俺だ。今でもはっきりと覚えている、あいつは俺の仕事にケチをつけたんだ〟
江口サダユキは、一人リフトに乗る際、リフトスタッフの仕事にクレームをつけていた。
〝まあ下らねえ、ホントつまんねえ事で奴とやり合ったんだ。俺は今思い出しただけでも、あの時の事が腹立つんだ。あいつはだな、座席の雪を指差して、俺の服を強く引っ張ったんだ〟
『無意識の転移』、それは、特に嫌悪感やある種の先入観を持っている相手に対して、起こりやすいと言われている。当時の江口サダユキがとった、不可解とも思えるつまらないクレーム行為は、まさにリフトスタッフに嫌悪感をあたえ、相手の都合よく記憶の再構築をさせやすくしている、とも考えられる。
「さっきから、いったい何の話? 私がリフトスタッフにクレームをつけただって? あべこべじゃない、当時リフトに乗ろうとしていたのは、江口サダユキただ一人でしょう、座席に雪があったくらいでクレームをつけて、それは私ではない」
両手を広げて、不知火はみんなの顔を見ていった。
「あなたは、その場にいたのです。その場にいて、一人でリフトに乗ろうとして、リフトスタッフに対して、ジェスチャーだけでクレームをつけた。そして、乗車を拒否して、冊さんを怒らせて、リフトを停止までさせるトラブルを引き起こした」
わたくしは、美咲と不知火、両者の顔を見た。
「いない」
「いたのです。あなたは、事前に調べた江口の服装の情報から、ロクハチの青いウェアと、ダイスのゴーグルをつけて、一言もしゃべる事なく、短気な冊さんに因縁をつけて、やりあったのです」
〝あれでも芸能人だからな、ゴーグルにフェイスマスクをばっちりキメて、その時は誰だか分からなかった〟
ん? リフトに乗る時には気が付かなくて、遺体を見た時に初めて江口サダユキだって気が付いた?
〝そうだ。時間的に言えば、いちゃもんをつけた奴が上の降り場へ到着する時間と大体合っていたし、何しろ自殺した江口は一人でリフトに乗っていたし、ロクハチの青いウェアと、高そうなダイスのゴーグルが同じだったし、まあ間違いない〟
あれ? それは、間違いだ。事実ではない。全て〝だろう〟話だ。
〝江口サダユキは自殺したんだ、間違いない。何たって奴はひとっ言も喋らなかったんだからな。相当一人で思い詰めていたに違いない〟
加藤は視線を下げた。
「リフトスタッフは、まったく自分に都合よく、記憶を再構築していたと言うのか? もし、そうだとすると、我々は彼の目撃証言に」
敷島は、人差し指を立てて、以下のように付け加えた。
「目撃証言については、その取り扱いに十分注意しなければならない。二〇〇〇年に公にされた、ハリー・シェックらの研究では、彼らは六十二件の誤判とされた事件を収集し、出現率を使用した独自の手法で、誤判原因を解き明かした。すると、六十二件中、五十二件において、誤った目撃証言が、何らかの形で関わっていた事が明らかになった。その出現率は、八十四%、やはり、誤った目撃証言は誤判原因として突出している事が、先行研究から明らかになっている。過度に証人の確信によりかかった判断は危険であり、裁判所の判断は再考を要する面がある、としている。今回のリフトスタッフの目撃証言にしても、いちゃもんをつけて来た奴は気にくわない、腹が立つ、で『無意識の転移』が起こりやすくなり、発見された遺体のハチロク服装とダイスのゴーグル、それぞれのメーカーと色が全く同じ。一言も口をきかなかったのは、男が死のうと思い詰めていたから。リフトに乗ってから、遺体が発見までの時間がおおよそ合っている。これらが無意識に絡み合い、転移して、記憶の再構築が行われた。自分は、気にくわない江口サダユキをリフトに乗せた。因縁をつけて来たからよく覚えている。そいつはリフトに乗った後で、首吊り自殺をした。後で刑事に呼ばれて行って遺体を確認したが、間違いない、服装もゴーグルも同じ、江口サダユキだ。
これは、君がそっくり江口に成りすまして、リフトスタッフに嫌悪感やある種の先入観を施して、生まれた、過誤記憶に他ならない」
敷島が、ぴしゃりと結論を述べ、不知火の顔へ人差し指を向けた。
「それにだ。君は、どうして、江口とリフトスタッフの口論の内容を知っていたのだ?〝座席に雪があったくらいでクレームをつけて〟君はさっき、こう言っていたが、我々はまだ一言だって、クレームの内容を明かしていない」
その指先を目に入れて、不知火は、前髪をかき上げた。
「ああもう、うるさい。ひと言いえば、十も返って来る。口の減らない奴が、よってたかって」
そのまま髪を撫でていって、うなじに手のひらを当てた。
「それじゃ、まあ、百歩譲って、私が江口の服装を真似て、彼が一人でリフトに乗ったように見せかけたとして、私は、例によってクレームをつけた後、そのままリフト降り場まで行くのでしょう? そこに江口はいない。私はどうやって、彼を殺せるわけ?」
その回答が、やや遅れた。美咲は、急に歯切れが悪くなった感じだった。
「どうやって江口を殺せたか。この問題の解答は、その犯行が、物理的に可能である、という理論的なアプローチによって、導き出します。というのも、実際に犯行を遂行するのは、至難の業としか、言いようがないのです。犯人として想定している人物が、あなたのような暗殺のプロだから、とちょっと特殊な想定が必要となります。
最新のコンピュータ・シミュレーション技術を駆使して、当時の現場を模擬的に動かし、その時の再現性を確認しました。原動機の回転速度、起点から終点停留場までの距離、リフトと雪面までの距離、雪面の下にある地形、スノーボーダーのトップスピードの移動速度、ログハウスとの位置関係、乗車待ちの人数、四人一組のリフト係の交代の間隔、これらのデータをコンピュータへプロットし、演算させて、仮想空間での検証実験をひたすら繰り返しました」
〝今回の調査目的は、実際に犯行の行われたリフトに乗る事にあります。そして、現場でしか分からない情報をとにかくデータ化します〟
美咲がリフトの上で、レーザー距離計、全天球カメラ、風向風速計、超広帯域電磁波メーターなど、データロガーに取り込んだデータは、仮想空間を作り出す為に収集したものだった。
「敷島探偵グループが内規で持つ、模擬実験の成功率の規定は、B判定の八十五%以上、これは、全くクリアーできませんでした。それどころか、C判定の六十五%も、全く届きません。ですから、内閣総理大臣認可法人敷島探偵事務所として、今回の江口殺害の調査報告は、再現性試験の保証度不足から、公にする事はできません。一般的な犯罪者にとって、江口サダユキの殺害は、あまりに失敗するリスクが高過ぎて、通常では、犯行に使う事ができないレベルだと言う事です。仮想現実の世界に、二十代の女性のデータをプロットした、一〇〇〇体の人工知能、AIを用意して、今回の犯行を遂行させた結果、成功率わずか〇・二%という、最悪の結果となりました」
「〇・二%? 犯人が一〇〇〇人いて、二人しか成功しない?」
わたくしは、あ然として、美咲の横顔を見つめた。
「まあ、時間の関係上、何も学習されていないAIを使用しましたから、犯行の予行練習や、犯罪経験、スノーボードの技術、ワイヤーの取扱いなどのパラメーターが、高いAIでしたら、もう少し、〇・八%まで上がるかも知れません」
敷島が腕を組んだまま、わたくしの方をふり返った。
「宗村、もしも君が、犯行の予行練習を行い、様々な訓練を受けて、江口の暗殺をしなければならない、その成功率がわずか〇・八%だとして、一〇〇回挑戦して、一回でも成功しないかもしれないとしたら、どうだ、やるか?」
「やるわけがないだろう。そんな、『ミッション・インポッシブル』の映画のような仕事」
敷島が鼻で笑って、
「だが、不知火はやった。平気な顔をしてな。もしかしたら、今まで晦冥会の暗殺計画の中では、今回の江口暗殺計画は、比較的成功率の高い方だったかも知れない」
敷島の顔が影になった。
「俺はな、宗村、今ではこう考えている。もしも不知火の暗殺スキルのコンピュータへのプロットが成功して、不知火のAIを一〇〇〇体用意できたら、江口の暗殺の成功率は一〇〇%、一〇〇〇体とも成功している、と。そうして、その一〇〇〇体の不知火のAIは、一〇〇〇体とも、いま我々の目の前に立っている、と」
これを聞いてわたくしは、サイバーチックに目を光らせた、不知火のAI一〇〇〇体が、彼女の背中にずらりと並んでいるような、恐ろしい想像をした。
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