プルートーの胤裔

くぼう無学

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遺稿

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「十二年前の悲劇?」
 わたくしは〝十二年〟という数字を聞いて、我が記憶に残る数々の会話から、岸本鈴子の告白を思い出した。
〝十二年前の悲惨な事件、それを、絶対に起こさせないために。そうしなさいと、この祠の守りなさいと、祖母からこの土地と建物を預かっています〟
 鈴子の祖母、峰村リサは、旧紀瑛総連の科学技術省の主任だった。そして、現在は晦冥会の老師だと言う。彼女は、自分の孫娘の夫婦に、この土地とペンションを買い与え、祠の守り人になれと命じた。いったい何から守れというのか。それに、化学技術省の主任。そう聞いてわたくしは、鈴子の祖母に対して、ピペットやビーカーを手にした、白衣の女性研究員を思い浮かべた。トポロジー的な関係を表現した化学の構造式、それをホワイトボードにびっしりと書く、理系女子。はて、物理学の世界とこの祠、二つにどんな関係があるのだろうか。
 不知火は、我々とは反対側の壁の下で、片ひざを抱えて、遠い目を見せた。床に投げられたベレッタが、未練がましくわたくしの目を引く。
「十二年前、この地に於いて、不幸としか言いようのない事件が起こった。それは、塙昭夫という一人の記者によって、引き起こされた」
 ぴとり。どこかで、水の音。ここが地下室である事を思い出す。
「彼は、太古秀勝のように、頭のキレる野心家だった。当時彼は、勤めていた出版社の休暇を利用して、高崎から信州まで電車に揺られると、そこから湘南色の電車に乗り換えて、ここ、N高山の秋の空気に深呼吸をしていた。
 塙は、少年の頃に一度だけ、N高山へ観光に来ていた。彼の両親はその当時、代わる代わる写真を撮り合うほど仲が良く、さらには、二輪部品の製造、輸出をする父親の会社が、バンコクの通貨危機前の好景気でボロ儲けをして、金回りが良かった事もあり、ブルジョアなA観光ホテルに一家でやって来て、ひと夏を過ごした。今でも彼は〝高原〟という言葉を聞くと、決まって、N高山の真っ白な樹皮のシラカバと、静かに波を立てるI湖の、高原リゾートの風景を思い出した。ホテルのロビーにある売店で買った、ひっくり返すと牛の声が出るモーモー缶や、窓の隙間から吹き込む冷たい山風に当たりながら、家族で盛り上がったトランプゲーム、彼は、そういった在りし日の家族の幸せと、牧歌的で、四季の美しいN高山とを、一つに考えて、その後の人生を生きた。従って彼は、学生時代に突然やって来た、親の離婚という残念な結末に、ぽかりと開いた胸の孔に手を当てて、いつか自分が大出世をしてやって、N高山に立派な別荘を建て、そこへ二人を呼びつけて、くだらない口論は都会のロッカーに入れて、鍵を閉め、それから懐かしい映画のように、思いで話に花を咲かせたい、こんな夢を見るようになった。それは、三十を過ぎた彼に、人生の伴侶と成り得る素敵な女性にめぐり合って、二人の絆が日に日に深まるに従って、よりいっそう想いが強くなった。それなものだから、塙にとってN高山とは、人生の中で重要な意味を持つ観光地の一つだった」
 ぴとり。また、水の音。
「晩秋、背中にリュックを背負って、懐かしい風景に見惚れながら、塙は、そぼくな越後の風景や、藩営温泉の歴史の足跡を楽しんで、身軽な軽装で、野生の山中を歩き回った。体力が無かった少年の頃、登山途中に気持ちが折れて、父からおぶってもらった。それが今では、口笛を吹いて山頂の火山岩に片足を突いている。それは、雲の上から少年時代を眺望するような、こそばゆい気分だった。
 ここは、今でこそ、脱サラの代名詞的存在であったペンション経営、そのブームに乗って、個性的で自由な経営が出来ると口コミで、戸数三〇を超えるペンション街が出来上がってはいるが、十二年前は、まだ、ほとんど何もない雑木林だった。塙は、ススキの上に顔を出して、熊除けにラジオを聴きながら、ルートから外れて山歩きしていると、偶然にも、不可解な洞窟を発見した。と言うのも当時この祠には、現在のような石垣も、石扉も、何もない、ただの洞窟でしかなかった。偶然ひとが迷い込んだとしても、不思議ではなかった。それが、山栗やミズや椎茸にしか興味がない、ただの地元民であれば、それはそれで済んだ話だった。しかし彼は、一眼レフのカメラを構えて、好奇心の塊となって、洞窟の奥へと入って行った」
 背後から、そっとわたくしの袖をつかむ。その手を見て、顔を上げると、前をじっと見つめる美咲の顔があった。
「塙昭夫は、東洋文理社という、都内の出版社に勤務して、用事がなくても外へ出て、記事の題材を探すという、記者としての職業病が、このとき強く疼いた。ひと気の無い静かな森に、ひっそりと口を開けた洞窟、その奥にある摩訶不思議な祠。これは、いつの時代のものなのか、いったい誰が、何の目的で造ったものなのか。いよいよこれは、ミステリー特集として雑誌の題材に使えそうだと、息まいて、両手でカメラを構えた。祠の内部にフラッシュを焚いて、証拠写真としても、数々の写真を残した。その後で、興奮冷めやらぬ内に、ある程度の記録をまとめようと、スキー場に建った温泉宿に立ち寄って、破れた青い網戸の一間に、素泊まりを頼んだ」
 塙昭夫という男、十二年前に一人でN高山を歩いて、偶然にもこの祠を発見した。それは分かった。それは分かったが、不知火は、彼の少年の頃の記憶や、想い、その場で見た生々した情景を、克明に語っている。わたくしは、この点について大きな疑問を持った。話があまりに小説じみている。不知火の昔話は、尚も続いた。
「塙は、蜜入りのりんごを切って、器に乗せて運んで来た、フケの多い女将の顔を見た。その牡丹柄の袷の背中をつかまえて、彼は、山中で発見した祠について、ストレートに質問をぶつけてみた。果たして女将は、乱暴なくらい態度が悪くなった。それは例えば、中華人民共和国のタブーである天安門事件が、『敏感词』と呼ばれる、ネット検閲によって検索ができない状態のような、闇の深い、忌まわしき類のものだった。女将はお尻を突き出して、立って行った。
 女将の悪態、これが引き金となって、塙のジャーナリスト魂が、いっきに燃え上がった。彼はその晩から、裸電球に蛾がたかるような、素朴な居酒屋を梯子酒して、頑固な大将の機嫌を取った。土地の人は、一見警戒心が強く、排他的に見えた。が、相手の気心が知れると、途端に照れたような顔を見せる。黒マジックで壁に落書きしたような、肴のつまみ、その手料理を手あたり次第に注文して、酒をあおった。世間話がひと区切りついた所で、塙は、山中で見つけた洞窟について話を切り出した。上機嫌だった大将の笑顔に、サッと、黒い影が差した。しかしそれは、それっきり。そこには、フケの多い女将のような、乱暴な態度はなかった。それよりも、包丁を手に客に背中を向けると、お客さん、それはダメですよ、と、笑いごまかしながらも、はっきりと相手を諫めた。塙は、とぼけた振りをして、なんにも知らない振りをして、なぜかと、湧き水で造った美味しい地酒を飲んだ。大将は、水道の蛇口をひねって、じゃばじゃばと水を出し、生け簀の鯉をまな板に載せると、手際よく包丁を入れた。
『ここだけにしておいて下さい。あそこは、おっかねえんだ。平気でやっちまう、おっかねえ連中が、いるんでさあ。お客さんは、よそから来なったでしょう。もう二度と、行くもんじゃねえですよ。え、これでお終い』
 鯉のあらいを皿に盛って、醤油と一緒にテーブルへ置くと、大将はコップに水を入れて、ごくごくといっきに飲んだ。庭園池からは、鯉の飼育に必要な濾過槽の、ぶくぶくいう音が聞こえている。その後で、いくら話を戻しても、大将の方でつんぼのふりをして、とうとう閉店まで埒が明かなかった。
〝おっかねえ連中〟これは塙にとって、全く心当たりがないでもなかった。それは、日の沈んだ後の、青々と冴えた山の輪郭を見上げて、大きなくしゃみをした後で、思わぬやまびこに出会った、山歩き初日のこと。開湯から創業を開始したという、民芸品にあふれた旅館の待合に、リュックを下ろして、受付の中居がめくる、宿泊者名簿のノートの中に〝晦冥会〟という団体名を見た。その時には何とも思わないで、旅館のマッチを取っただけだったが、今にしてみると、大将の言う〝平気でやっちまうおっかねえ連中〟と、あの〝晦冥会〟という団体名が、塙の頭の中でぴたりと一致した。
 それから塙は、紙とペンを持って、N高山の麓の界隈に顔を出した。M高原駅の喫煙所で、観光タクシーの運転手と灰皿を囲んだり、みやげ屋に立ち寄って、もち米を笹皮にくるんで茹でたチマキ、それを買い物袋に入れて、勘定台に肘をついたり、する中で、この土地と、晦冥会との、歴史さえ感じる古くからの繋がりについて、何となく〝闇〟のようなものが存在しそうな印象を持った。山中に眠る不思議な祠と、晦冥会という怪しい宗教団体、この二つのキーワードは、少年の頃によく思い描いた、空想の世界を交えて、大特集記事にしたら、思わぬ反響が起きそうな気がして、塙は、腕まくりするように東京行きの電車に飛び乗った」
 不知火は話を切って、オーバルシェイプの眼鏡を外した。目を閉じて、目と目の間、鼻根と呼ばれる部分を、指でつまんでから、掛け直した。
「塙の勤める東洋文理社、そこには三〇名余りの記者が在籍していた。大手企業の他業種からの参入だったため、東洋は、伝統的な新聞社よりかは、比較的自由な社風の出版社であり、勤務時間はあってないようなものだった。塙は、夕方には長期休暇から戻って、散らかったデスクに向かうと、さっそく企画書に目を通して、唸っていた。あまりに真剣に唸って、隣の席で電話が鳴っても、聞こえない様子だった。通り掛かりにその受話器を取った男は、塙の妙な真剣さから、適当に電話を切って、彼の肩を揉んだ。同僚らしい冗談を言って、塙の企画書に目を向けた。その男とは、木津毅」
「宗村さん、木津毅とは、木原正樹の本名です」
「え?」
 美咲は、さらに顔を近づけて、
「天道葵と心中自殺をした、木原です」
「じゃあ、塙の同僚って、晦冥会?」
 不知火の顔が上がった。細長い眼鏡が光った。
「へえ、三流は三流なりに、調べているようね。そう、私と無理心中を図った、木原正樹こと、木津毅。当時彼は偶然にも、東洋文理社で記者をしていた。そして、同僚の塙が、某宗教団体と謎の祠の真相、と題する企画書に目を通していて、全身に鳥肌が立った。平静を装いながら、同僚の背中から一歩、また一歩と遠ざかって行った。晦冥会の本部に、緊急の連絡が入ったのは、この後すぐの事だった」
「ちょっと待ってくれ」
 もう、黙っていられない、そんなふうに両手を振って、わたくしは話をさえぎった。
「さっきから聞いていれば、普通じゃない。変だ。君の話は、聞けば聞くほど、おかしい」
「なにが?」
 美咲も無言で頷く。
「だって、そうだろう? どうして君は、十二年も前の、塙という男の少年の頃の記憶や、想い、その場で見た生々した情景が、克明に語れるのだ? 君はまるで、そうだな、当時の塙昭夫と一緒に、この土地を調べて回ったような、となりで同じ体験をしていたような、そんな口調じゃないか」
 不知火は鼻で笑うように、頭を下げた。
「なんだ、そのこと。じゃあ宗村さん、あなたは、どうしてだと思う? どうして私は、当時の塙昭夫の心情まで、話していると思う?」
 わたくしは、古い政治家のような問返しにあった。
「どうしてかって。そんなの、分からない。そうだな、考えられる可能性としては、君はペンションで住み込みのバイトをしながら、最近になって、十二年前のことを調べて回ったとか」
 ブブーッと、クイズ番組の不正解の効果音を口真似して、不知火は天井を見上げた。
「不正解。それでは、女将の袷の柄や、大将の出した料理は分からない、でしょう?」
 横にいる美咲と目を合わせた。彼女はゆっくりと首を振って〝自分にも分からない〟と、アイコンタクトを見せた。
「じゃあ」
 不知火は眼鏡を外して、テンプルを折った。
「やっぱりあなたたちは、三流。宮國瑞希だったら、即答でこう答える。
 正解は、私が彼の原稿に目を通したから」
「原稿?」
 話しながら不知火は、左手を前に出して、手のひらを返した。
「この左手が、彼を殺した。逃亡や抵抗、交渉や命乞い、それら何をする間もなく、塙は一瞬だった。私はその死体の上に立って、パラパラと原稿をめくった。野心をむき出しにして書かれた、塙昭夫の原稿。それをすべて暗記して、私はライターで火を点けた。晦冥会の祠に侵入した人間と、記録データ、その二つをこの世から抹消するために」
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