プルートーの胤裔

くぼう無学

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雪解け地蔵

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 スノーモービルの急加速によって、わたくしの体はバックレストに押し付けられた。必死にタンデムシートにしがみ付いた。雪のこぶが来ると、上下に顎が振られた。時間が気になって、腕時計の風防を目に押し付ける。現在の時刻は午後八時一〇分。わたくしを引っ叩こうと右手を振り上げたまま、ぼろぼろと大粒の涙を落とす美咲の顔が浮かんだ。彼女が首吊り自殺の遺体となって発見されるまで、あと、四〇分。
「それじゃ君は、りおの透視が間違っていたと言うのか?」
 甲高い、三気筒エンジンの音に負けないように、大声を張り上げた。
「言っただろう、俺は透視なんて信じない。信じたい気持ちは、無いでも無い。しかしそれが在ると言ってしまえば、アホらしい気がする。首すじがむずかゆくなる。タネがあると分かっている、手品を見せられるようなものだ」
 後部座席にいるせいか、岸本の声はよく聞こえた。
「ただ、理穂ちゃんが描いたという地図が、タネや仕掛けのある手品だとして、だけどそれは、彼女の生まれるもっと前、ひと昔前の地図だ。お前の話では、理穂ちゃんはメモ書き程度に描いたらしいが、そんな芸当は誰にもできない。今となっては失われた地形や景色を、何も見ないで素描で描き上げるなんてな。その上、地図の分岐点に描いたその景色は、現在どこの図書館や歴史館にも記録がない、大変貴重なものだ」
 岸本は、透視と言う、人知の及ばぬ力をぐだぐだと否定はしているが、その実、先程から話を聞いていれば、りおの透視能力が否定しきれないと言った内容のものばかりだった。
「なぜ俺がたかが手書きの地図ごときにここまで動揺しているかと言うと、それは、この地域はもとより、なんにも無い山の中だったからだ。なんにも無い高山のススキの原に、突如スキー場が開発された。それに引っ張られる形で、あっと言う間に観光地が出来上がった。高級リゾートホテルからペンションビレッジ。そこへ勤務する人たちの集落。だからここは、歴史なんて何も無い、根なし草のような開拓地だ。
 それでも、この土地のちょっとした昔の写真なんかは、囲炉裏のある古い公民館の、渋柿塗りの黒板の押し入れに、重ねられていて、農夫が牛を引いて歩く白黒写真が、その価値を知らない若い人たちの手によって、ぞんざいな扱いを受けていた。彼らは、まあ俺もその一人だが、金にならない物に存在意義を感じない。自分たちが生きていない時代の写真なんて、オークションに出品して買い手のつかない写真なんて、平気で賽の神の火の中へ投げてしまう。空き家になった古民家へ立ち入って、元住民の遺品を眺めて、無意識に値踏みをする。これが習わしや因習尊重の心がない俺たちの民度だ。
 とにかく、この地域の昔の写真など、今では一枚も残っていない。みんな、見栄坊の格好をして写したフルカラーの写真ばかりだ。だから、いま言ったこの地域の昔の写真と、理穂ちゃんの描いた地図の絵とが、不思議なくらい一致した事に、俺はひどく動揺したのだ。しかもその地図上に記された、バッテン印と言うのが、どう言う訳だか俺のペンションの立地に位置している」
 スピードを上げたスノーモービルが、白樺の森から飛び出して、五メートル下のコルのパウダースノーへ落ちた。タンデムとトラックが、完全に雪に埋もれた。その状態から、排気と雪煙を巻き上げて、四ストロークエンジンの粘り強いトルクが、歯を食いしばるようにして、雪の上に顔を出した。なんてパワーのあるスノーモービルだ。
「じゃあ、君のペンションにも、晦冥会の祠があるのか?」
 わたくしのペンションに泊まった感じでは、一階から地下へ通じる階段はなかった。
「ない。うちには一応、地下室はあるにはあるが、ボイラー室だ。何の変哲もない」
「そう言えば、あのペンションは十年前、君の嫁が建てたって、言っていたよな?」
 岸本の返事が遅れた。
「ああ? よく知っているな。嫁と言うより、嫁の祖母だ」
 ふと気が付くと、ペンションビレッジの窓灯りが、ちらほら木々の隙間に輝いていた。それがみな、不思議と緑色に白光していた。祠を出て一〇分程度、急いでいるとは言え、下りは想像より早い。
「君の嫁なら、何か知っているんじゃないか? 晦冥会の祠のこと」
 岸本はヘルメットを横へ向けた。
「何を言っているんだ。あいつは、晦冥会なんて知らない。俺の、月に一度の祠の点検だって、あいつは夢にも思わないだろう。宗村、考え過ぎだ」
「しかし、君の嫁だって、晦冥会の信者じゃないか」
 再び、ヘルメットは横を向いた。
「お前、何を言っている。鈴子が晦冥会の信者だって? 誰がそんなバカな事を言っているんだ」
「え」
『意外と知らない人は多いですが、鈴子さんも高田さんも、晦冥会という大きな宗教の信者なんです』
 あずさは確かにこう言っていた。さらにこうも付け加えた。
『鈴子さんは、元々は紀瑛総連という昔からある宗教の信者でした。でも、月宗冥正会と紀瑛総連が『月下の託宣』の証言通りに、同じ宗派として晦冥会となって以来、そのまま晦冥会の信者となったわけです』
 岸本は、何も知らないのか? 嫁が都内のマンションに避難中である事も、あずさが不破昂佑の子孫である事も、何も知らないのか? だとすると岸本の嫁は、夫婦間に大いなる秘密を置きながら、へいへいと生活をして来た事になる。ちょっと、普通の神経ではない。
 スノーモービルは、エンジンの回転が三千以下になった所で、白煙をまき散らすかぶりが発生した。岸本の舌打ちの次に、水でも入ったかな、とぼやいた。我々は、そのままペンションの駐車場を抜けて、ポーチライトを自動点灯させるなどして、かまぼこ型の車庫の、その中まで入った。岸本は、メインスイッチを左に回して、点火回路をオフにしてから、キーを抜いた。
 わたくしは車庫から出て、ヘルメットを脱いで髪型を整えながら、食堂の上げ下げ窓の明かりへ目を向けた。
「そう言えば、ペンションの方はよかったのか?」
 車庫にいる岸本に、ヘルメットを渡した。
「いいわけないだろう! そもそもお前が、俺の悪事を警察にバラすとか何とか吹っ掛けて来て、ペンションを一時閉めさせてまで、無理やり俺を連れ出したんじゃないか!」
「そうだったっけか」
 ヘルメットのバイザーを展開し、インナーサンシェードを上げて、岸本は、携帯電話の画面を確認した。
「まあ、緊急の用事があって、小一時間不在にすると、その由と連絡先を書いた紙を、玄関のドアと食堂のガラスに貼っておいたから、特に大きな問題はなさそうだが」
 ぱちんと携帯電話を折って、お尻のポケットに入れると、岸本は、ヘルメットをシートに置いて、車庫のアルミシャッターを下ろした。
「ん?」
「どうした宗村」
 岸本は目を大きくして、わたくしの視線の先、ペンションに併設した車庫の方角を見た。
「何か見えたのか?」
「いや、人影のようなものが」
「人影?」
 岸本は、らせん状の回転刃、除雪機のオーガの跡のついた雪壁まで歩いて行った。そのすぐ右手には、楢の端材が積まれた薪小屋がある。
「ここか?」
 ペンション二階部分に設置した、レフ球投光器によって照らされた雪壁には、箱根の星の庭にある、巨大迷路の入口のような、雪と雪とに高く挟まれた通路が掘ってあった。
「そこだ。スノーボードウェアを着た、女だった」
「何だって?」
 岸本は、雪の壁に右手を置いて、ポケットから小型ライトを取り出すと、迷路の先をLEDらしい白い光で照らした。
「誰もいないぞ」
「奥へ消えたから、もっと先へ行ったのだろう。見間違いじゃない。髪が長くて、ニット帽と同色のスヌードを着けていた」
 岸本はもう一度、今度は迷路に足を踏み入れて、その奥を色々に照らした。わたくしは、岸本と肩を並べつつ、
「この先には、何があるんだ?」
「雪解け地蔵だ」
「雪解け地蔵? ああ、地熱で熱くなっているという、あれか」
『このペンションのすぐ裏には、雪解け地蔵って、地熱で熱くなっているお地蔵さんがあるんです』
 昨夜の風呂の中で、あずさが言っていたやつだ。
「雪解け地蔵とは、ここいらの人間が勝手につけた呼び名で、像容の合掌から見て、道祖神信仰別の辻地蔵に近い。ペンションのすぐ裏手にあって、一応は俺の所有敷地に安置されてあるが、誰がいつどのような経緯で造ったのか、その由来は未だに調べた事がない。その必要性も、俺は感じた事がない。地蔵を中心に放射状に雪が解けて、寒い日には湯気が立っている所を見ると、まあそう深くも無い地中に熱水泉でも通っているのだろう。全国放送のテレビ局の連中が、当時ここの区長と一緒に、撮影許可を取りに来たのが三年前、いっとき宿泊客から色々質問された事はあったが、それっきりだ」
 シリンジグリップに持ったLEDライトを、スポットビームからワイドビームへフォーカスコントロールし、岸本は、警戒態勢で雪の一本道を歩いて行った。
「どんな女だった? 歳は? ウェアの色は? 何か持っていたか?」
「分からん、一瞬の事だったから。とにかく髪は長かった」
「そのうち分かるか。どうせこの道は袋小路だ」
 雪道は、除雪機でかいた、と言うよりかは、人の手でせっせと毎日かいているように見えた。スコップの跡が見えたし、地面に靴の跡が多く目立ったからだ。
「これは、毎日君が除雪をしているのか?」
 岸本は、坊主頭に積もった雪を手で払った。
「違う。近所に信仰熱心な住人がいるらしく、毎朝スコップの音を立てている。ちょくちょく供物まで持って来るようで、まあ、縁起物だから、俺も大目には見ている。そうか、お前が見たという女は、その住人の姿じゃないのか?」
 蛇行しながら掘り進んだ雪の道が、途中から真っ直ぐに見通しが良くなると、LEDライトの鋭い光束が、なすあり地蔵のような、赤い前掛を付けた石の地蔵を照らした。朱地に金襴模様の布が飾られ、冬なのに、花や、水が供えてある。緑色のトタン葺きで、金具の付いたお堂には、一切の雪が見られないのが、印象的だった。
「ほら、誰かがいるじゃないか。さっきの女だ。地蔵の斜め前に立っている」
「本当だ」
 ボックス型のスノーボードウェアを着た、つば付きの白ニット帽の女が、こちらに背中を見せて、不気味なくらいはっきりとライトの光に照らされていた。
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