プルートーの胤裔

くぼう無学

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火渡り

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 炎を振り回すような音がして、暗い床に火が落ちた。火炎瓶はボトムから粉砕し、中にあったガソリンか何かの液体燃料が、扇を広げて煽ぐ形で、わたくしの方向へ流れて来た。それを追うように滑る火炎。
「うわっ!」
 わたくしは顔の前で両腕をクロスさせ、とぐろを巻く炎から顔を守った。着発式の投擲武器と呼ばれるだけあって、火炎瓶の焼夷の威力は想像以上、ほんの一瞬直火に顔を炙られただけで、顔から湯気が立ちそうな程の焼ける痛みを感じた。
 わたくしは片膝を突いて、床に落とした携帯電話を手で探った。見上げる火柱は、ビニール系の天幕を熱で溶かし、鼻を刺すような悪臭を放った。
 火炎瓶の液体燃料は、その限られた量から、幸いにもわたくしの足元には及ばず、従ってわたくしは、炎に巻かれて踊り狂うような、いわゆる火達磨の苦しみを味わわずに済んだ。着発の位置から考えても、先程の女の放火は、飽く迄この部屋の焼却が目的だったのだろう。
 とは言えこのままでは天幕の延焼に巻き込まれてしまうので、サーカスの火の輪潜りの要領で、わたくしは炎の向こうへ飛び込んだ。着地してよろめいた先の天幕の入口には、既に先程の女の姿は無かった。わたくしは命拾いに胸を撫で下ろす暇もなく、今度は、火の海と化した多目的ホールに出くわした。
「何なんだ、これは」
 ほんの先程まで、不用品や故障品の倉庫でしかなかったホールは、今や、燃え広がった森林火災の中へ迷い込んだような、赤一色の世界と化していた。植物園のような高さの天井は、計り知れない黒煙に覆われて、その存在さえはっきりとしなかった。この惨状を作り出した張本人は、不知火忍ただ一人に違いなかった。
「これは本格的にまずい」
 わたくしは、四方を烈火に取り囲まれて、避難すべき活路を見いだせず、ただただ火の勢いに逡巡を繰り返していた。ここへ来た時の方角は、大よその記憶で見当は付くが、そこを目指して火の中を走り出して、悪路で道を引き返す事なく、避難口まで辿り着ける自信はなかった。
 その時、火の熱で木材の水分が破裂する音に混ざって、大きく叫ぶような声が聞こえて来た。
「宗村さん、いますか! 宗村さん! 返事をして下さい!」
 金切り声を上げているのは若い女性のようだ。
「ここだ! ここにいる!」
 わたくしは天井を見上げて、両手で口の回りを覆うと、こちらも大声を張り上げた。間もなく天井から細かい雨が当たった。それが消防隊による水霧放水だと気が付くのに、数秒の時間を要した。次第にホールに立ち込める大量の湿気。しかしそれは多少なりとも体の湿った事で、周囲からの輻射熱が緩和された。
「いた! ここにいる!」
 防火服を着込んだ消防士が二名、大きな呼吸器を背負った姿で、炎を掻き分けるようにして現れた。ヘルメットから垂らしたしころを振って、空気ボンベから吸気管で繋がったマスクを取り出すと、わたくしの顔に面体を押し当てた。呼吸に応じた必要量の空気がボンベから流れ出す。わたくしはこふこふと咳き込んで、面体の表面を白く曇らせた。新鮮な空気を味わう間もなく、次にわたくしは、銀色の耐熱性素材のマントで頭からすっぽりと全身を覆われて、がっちりと消防士に腕を回され、炎の中を右へ左へ、押されたり引っ張られたりして、どうにか火災から救助されて行った。
 リング金具に右手を通し、腰に筒先を当てた消防士の、オレンジ色の防火服が、炎によるシュリーレン現象で揺らいで見える。筒先員の反対に立った放水補助が、鍛えられた大声で三番員に指示を出す。ノズルの先端を調整して放水パターンを棒状放水へ切り替えた。
 わたくしはそれら消火現場の真っ只中を通過して、ホールの出口から階段室へ抜けると、すぐに顔から面体が取り外された。同じく消防士も面体を外して、こちらの目の奥を見ながら、怪我の確認が行われ、人命救助の必要が無いと判断された。正直わたくしはそれ程の火傷や気道の熱傷などの自覚はなかった。
「他に逃げ遅れた人はいませんでしたか?」
 短髪の爽やかな消防士は、階段の途中まで上った他の消防士を強く手招きした。
「俺だけです。他には誰もいないです」
「宗村さん!」
 消防士に突き返されながら、必死に警察手帳を見せている羽賀の姿が、わたくしの目に飛び込んだ。
「羽賀さん?」
「宗村さん、ああ良かった、無事だったんですね!」
 羽賀は、水圧の反動で脈打つ消火ホースに戸惑いながら、こちらへ走って来た。先程の火事場での呼び声は、彼女のものだったのか。
「すいません、この人は今回の捜査関係者です。後は警察が責任を持ちます」
 消防士は警察手帳を一瞥して、そのまま面体を着用し直すと、再び火災のホールへと入って行った。羽賀は荒い息をして、大きく唾を飲み込んだ。
「避難の途中で、後ろにいたはずの宗村さんが、気が付くとどこにも見当たらなくなってしまって、一先ず駐車場に避難した後も、宗村さんの安否だけが確認できなくて、私、とにかく必死に探しました」
 頬に黒い煤が付着している。今回のわたくしは、警視庁の極秘捜査の重要参考人として、警察から協力要請を受けている。羽賀は自分たちの依頼人の安否に強い責任を感じたのだろう。
「そうでしたか、それは大変申し訳ない事をしたようです。俺一人の身勝手な行動が、このような騒ぎに発展してしまって」
 羽賀は携帯電話を耳に当てて、電話の相手にわたくしの安否を報告すると、そのまま通話しながら非常口から戸外へ出て、わたくしに大きな目をして見せると、避難する方向へ頭を傾けた。
「分かりました。加藤さんに会ったらそう伝えます。私はこれから宗村さんをペンションまで送ります。その後でそちらと合流します」
 非常口から吹き込む風を受けながら、わたくしは羽賀の背中を追って、極寒の戸外へ出た。加圧給気ファンにより、室内は陽圧となっているようだった。
 自然落下式屋根から落ちた雪の山を何度も除雪機でかいて出来た雪の大壁に沿って歩いた
「避難の途中で私たちとはぐれてしまったのですか?」
 羽賀は携帯電話を切ると、それをスーツパンツのポケットに入れた。
「ああ、いえ、実を言うとその」
 雪と泥でぬかるんだ、左右に両手を開いた程度の狭い通路で、しかも消化ホースが何本も入れ乱れている為、革靴で歩くわたくしは、どうしても遅れがちになった。
「火災の避難中に、不知火忍によく似た女を見つけて、俺はその後を尾行していたんです」
「え?」
 羽賀は振り返りざま、二つの無線機を使った消防士とぶつかりそうになった。刑事なのに案外そそっかしいなとわたくしは思った。
「大規模な火災で混乱した人の流れで、悠然と歩いて行く彼女の背中を追って、俺は先程の中地下のホールまで辿り着いたんです。そこの壁の一部で、おかしな煙が出ている部分があって、その中に、不知火が長期間潜伏していたと思われる隠し部屋を発見したんです」
 羽賀は歩く速度を緩めて、わたくしと肩を並べた。
「では宗村さんは、今までそこに」
「はい。あの部屋は恐らく、不正アクセスが繰り返し行われていた127号室の回線と配線が繋がっていたと思います。その回線を使って彼女は、昨日からSTGのサーバーへ不正アクセスを仕掛けていた。全ては綿密に計画された犯行だったんです。つまり我々が、ネットカフェの設計上の回線から不正アクセスの部屋を割り出した所で、結局無意味だったと言う事です」
 立山黒部の雪の大谷を思わせる、うすら高い雪壁を抜けると、わたくしたちは店舗の西側の駐車場へ顔を出した。そこには消防ポンプ車、はしご車などの赤色の車両、パトカーや救急車などの白色の車両が、縦横無尽に駐車場を埋め尽くしていて、正に大災害の様相を呈していた。
「まさかこんなに人目に付きやすいネットカフェの店内に、凶悪な連続殺人犯が潜んでいたなんて、どうりで警察の捜査の手が彼女に及ばないわけです。それで宗村さんは、その部屋で何かを見つけたのですか?」
 羽賀は駐車場を横断しようとして、救急車の通過に足を止めた。わたくしはコートのポケットに手を入れて、唯一の不知火の部屋から持ち出した、女性用の下着を顔の前に上げた。
「あ」
 羽賀はそれを見て、目を大きくした。
「これは、不知火忍の所持品の一つです。間違いない、彼女は女性です」
 わたくしは大真面目に手にした証拠品の説明をしたが、羽賀の冷たい視線は変わらなかった。
「ちょっと誤解しないで。これは、不知火の潜伏先の部屋から、彼女の犯行の物的証拠を持ち帰ろうとした時に、たまたまこれを手にしたら、ちょうどそこへ不知火と鉢合わせしてしまって、慌ててこいつを持って来てしまったんです」
「たまたまって、そんなの普通手に持ちます?」
 羽賀は顎に指を当てて、怪訝そうな薄目をした。
「暗かったものだから、リュックの中からほんの手探りで掴んだまでです。まああの様子だと、犯行に使用されたノートPCも、不可解な地図も写真も、何もかもが燃えて黒焦げになっているだろうな。クソッ、もう少し証拠になりそうな物を持ち出せれば」
 わたくしはそそくさとポケットに下着を戻した。眉間に皺を寄せた羽賀がその様子を見ていた。
「ところで石動刑事は?」
 わたくしは走り回る警察官を目で追った。
「石動さんでしたら、昨日の総合病院にいます。つい先程、バイフーの被害女性の意識が戻ったそうです」
「え⁉」 
 昨日石動刑事に連れられて病室のベッドで見たあの女性の事だ。意識が回復したという事は、バイフーと至近距離で接触していた可能性が非常に高い有力な証言となるはずだ。
「じゃあ、これからバイフーの詳しい情報が手に入るという事ですね」
 羽賀は、駐車場に駐車された車の中から、一台のコンパクトカーを見つけて、コートのポケットから車のキーを取り出した。
「意識が回復した所で、四週間も意識不明だった重篤患者が、我々とまともに会話ができる状態にあるとは限りません。先ずは医師の診断に従って、慎重にこちらも対応しなければなりません。それに、バイフーによる犯罪被害の記憶が、彼女にとって心的外傷後ストレス障害の引き金になる可能性だってあります。医師の判断にもよりますが、最悪な場合、連続殺人事件の重要な証言を得るまでに、数年は掛かる事だってあります」
「そんなに」
 後部座席のドアを開けて、シートに膝を突いた羽賀は、次には水の入ったペットボトルを手に顔を出した。
「はい、これ。口をゆすいで下さい。たぶん炭の味がします」
 ありがとう、とわたくしはペットボトルを受け取りながら、
「その被害女性って、一体どこの誰なんですか? 確か今頃は家族が来て担当医師から詳しい症状の説明を受けているとかって、言っていましたよね?」
 羽賀は運転席に乗り込んで、車のエンジンを掛けた。そして、わたくしの質問に対しての回答が、公務員として問題が無いか、一瞬精査するような間が空いた。
「やっぱり、守秘義務ですか。そう易々と警察は個人情報を口にできないですよね」
 わたくしは助手席のドアを開けて、運転席の羽賀の横顔を見た。白いもち肌の頬の辺りが、厳しい寒さによって赤らんでいる。
「すいません。これだけ宗村さんにご協力頂きながら、今言った宗村さんの質問に対して、私の口から回答できる事はありません」
「そうですか」
 羽賀はくりくりとした可愛い目をこちらへ向けた。
「でも、これは公務員として言えないのではありません。口止めです。バイフーの被害女性の存在を知る警察官全員に、口止めがされているんです」
「口止め?」
 思いもよらない回答だった。
「そうです。この横暴な口止めは、警察の中でもとても評判が悪かったです。私も猛反発しました。だって、公判で事案の真相を明らかにする我々司法警察が、意図的に情報を遮断するだなんて、私、とにかく許せませんでした」
「ちょ、ちょっと。一体何の話ですか」
 羽賀は大きく腕を組んで、前方へ顔を向けた。
「確か宗村さんのお知り合いでしたよね? 警察官を口止めしたのは、敷島レナと言う女です」
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