プルートーの胤裔

くぼう無学

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宗村さんの好きそうな話

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「宗村さん」
 耳元に囁き声が聞こえた。
 強い暖房によって喉が乾燥し、わたくしは眉間に皺を寄せて咳を二つした。雪曇りの朝の光が、カーテンの僅かな隙間から漏れ、壁が四角く発光して見えた。それでも室内は、夜明け前と変わらない薄暗さにあった。
 手探りの右手を動かして、シーツの上の携帯電話を拾うと、ロック画面に自分の顔を照らした。現在の時刻は八時二十分、これはまた随分と寝過ごした。
「宗村さん」
 わたくしは左手を動かそうとして、それが美咲の手の中にある事に気がついた。昨夜、お互いの手を繋いだそのままに、朝まで二人は眠ってしまったらしい。繋いだ手と手の重なりが、たわいない寝返りにさえ離れ離れになりそうな、儚くも浅い夢の途中。わたくしはもう一度、今度はこちらから手を握り直した。
『宗村さん、もう一度質問します』
 頭の中の無数のディスプレイが、次々と連鎖的に発光して行くように、昨夜の記憶が一気に甦った。
『この指輪は、一体誰の為のものなんですか?』
 肺に空気を入れて、ゆっくりと右手首を額の上に乗せる。
『そのお相手の名前によっては、わたし、考えを改めなければなりません』
 改めるって、何を。
「宗村さん」
 今度の囁き声は、わたくしを振り返らせようとするような、自己主張の強いものだった。さらに、耳元で囁く声の主が、わたくしの恋人役である椎名美咲ではないと、この時はっきりと意識をして、わたくしは上半身を起こした。
「げっ!」
 わたくしのベッドの隣りで寝ていたのは、寝間着姿の椎名美咲ではなく、バイト着の米元あずさだった。
「な、な、何をしているんだ君は!」
 わたくしはベッドから飛び降りて、掛布団を床に投げ捨てた。
「何って、宗村さんを起こしに来たんじゃないですか」
 あずさは乱れた髪を手櫛で整えて、よいしょとベッドの反対側から降りた。それから、てきぱきと部屋中のカーテンを開けて回った。
「俺の部屋で、俺のベッドで、一体何をしていた」
 真っ白な窓の光が現れて、わたくしは両腕を前に出して顔に日陰を作った。
「そんなに目くじらを立てなくっても、いいじゃないですか。宗村さんを少しびっくりさせてあげようと、ちょっぴりいたずらしただけなんですから」
 そう言って振り返ったあずさは、前髪を八対二で分けて、八の方をバレッタで留め、余った髪を耳に掛けていた。
「いたずらだって?」
 わたくしの心臓はばくばくいって、中々正常な心拍数に戻らなかった。
「それに、そんなに怒るんだったら、どうして宗村さんはあたしの手を握ったんですか? あたし、ちょっとびっくりしましたよ」
「なに」
 わたくしは意外に思って、自分の左手を見つめた。隣りで寝ているあずさを、恋人役の美咲と勘違いをして、彼女の手を握った事は間違いなかった。
「美咲は?」
 わたくしはベッドに腰を落として、室内をぐるりと見回した。
「美咲さんなら、今朝早くに車で出かけました」
「出かけた? こんな朝早くに、どこへ?」
「さあ。何でもスキー場に用があるとかって、言っていましたけど」
 あずさは人差し指を顎に当てて、窓明かりに横顔を見せた。
「スキー場? どうしたんだろう急に」
「宗村さんに黙って出掛けちゃうなんて、よっぽど緊急な用事だったんでしょうか」
 フレアデニムを揺らして、あずさはわたくしの隣に座った。わたくしはじろりと彼女を見下ろした。
「あの、仕事とかって、良いの? 岸本の料理を運んだりとか、バイトなんだからあるんじゃないの?」
 目の前の顔がぷっと吹き出した。
「何を言っているんですか宗村さん。他のお客さんはもうとっくに朝食が済んでいますよ。後は宗村さんだけなんですから、いい加減起こして来いって、オーナーに言われて来たんですあたし」
 わたくしは現在の時刻を思い出して、後頭部を掻いた。
「あ、そうだったの。だいぶ寝過ごしてしまったからな。あはははは」
 あずさはお尻一つ分、席を詰めるようにしてわたくしに近づいた。
「どうしたんですか? 昨夜だって、夜遅くまで外出していたじゃないですか?」
「ああ、ちょっとね」
 見上げるあずさの顔を見て、「あっ」と言って昨夜の岸本の言葉を思い出した。
「そう言えばさ。昨夜君から俺に電話があったって、岸本から聞いたんだけど、何か用があったの?」
「あ、そうでした」
 あずさが手を叩くと、フローラルフルーティーの香水の香りが漂ってきた。
「用ってほどでもなかったんですけど、宗村さんの好きそうな出来事が起きましたから、ちょっとお知らせしようかと思って」
「何だいそれは」
「昨日宗村さんと別れてからすぐに、高田さんからあたしの所に電話があったんです」
 わたくしは一瞬で目が覚めた。
「何だって?」
「あ、やっぱり宗村さんが好きそうな話でしたね」
 あずさはわたくしの驚いた顔を眺めた。
「高田さんは何て言って君に電話をよこしたんだ?」
 わたくしは彼女の肩に手を置いた。その掴んだ肩が、小学生のような小ささで、少なからずわたくしは驚いた。
「何て言ったか、んーと、なんて言ったんでしたか」
 両膝を抱いて、わざとらしい横目でわたくしを見た。嫌な予感がした。
「ああ、思い出せない。昨日高田さんは電話口で何て言ったんでしたっけ。そうだ、宗村さんがここで今あたしにキスをしてくれたら、きっと思い出せると思うんだけどな」
「また!」
 わたくしは苛立って立ち上がった。
「君は俺に協力的なのかそうでないのか、全く分からん。犯人を知っているとか何とか思わせぶりな態度ばかりとって、キスをしないと教えないなんて、なんでこんな意地悪な事をするんだ」
 あずさは長い髪を左右に振った。
「意地悪じゃないです。ご褒美が欲しいだけです。宗村さんがあたしにキスさえしてくれれば、全ては丸く収まる話じゃないですか」
「何が丸く収まるだ。かえって収拾のつかない問題に発展するだけだ」
「何が問題なんですか? 宗村さんは美咲さんと付き合っているとか嘘をついて、実はキスをしようとして引っ叩かれるような、情けない男じゃないですか」
 わたくしは言葉に詰まった。
「情けないって言うな! これは、これには深い事情があるんだ」
「深い事情って、何ですか? 美咲さんは敷島探偵グループの社員で、今回は宗村さんと恋人という役を演じているだけじゃないんですか?」
 わたくしは奥歯を噛んで、あずさを睨みつけると同時に、この娘はどれだけ鋭い洞察力を持っているのか、不気味にさえ感じた。
「君は、一体何者なんだ? 犯人を知っているだの、美咲がSТGの社員だの、どうも普通のバイトには見えない。実は君は、今回江口を殺害した犯人と裏で通じていて、彼の携帯電話を宿泊先の部屋に置いたんじゃないのか?」
 わたくしはわたくしの心の中にうずうずとしてわだかまっていた疑惑の全てを勢いあずさへぶつけていた。
「宗村さん」
「なんだ」
 あずさはゆっくりとこちらへ顔を上げて、先程と変わらぬ微笑みを見せた。
「宗村さん、それ、正解です。あたしが江口サダユキのケータイを彼の部屋に置きました」
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