プルートーの胤裔

くぼう無学

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恋のパフォーマンス

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 わたくしは湯の花浮かぶ温泉に一人顔を浮かべていた。カチカチと高い喚起窓に雪の当たる音が聞こえた。夜になって、また吹雪が始まったらしい。
「それにしても」
 肩にたっぷりとお湯をかけた。
「晦冥会の殺し屋バイフーとは、一体誰の事なんだろうか」
 加水加温なしのかけ流しとは言え、本日の泉温はやけに熱く感じた。
「色仕掛けの得意な美人だというのだから、候補はそう多くはないはずだ」
 お湯から右手を出して、指を折り始めた。
「高田、は美人ではないし、久慈親子の娘、はまだ中学生なのだし、今朝江口と喧嘩したカップルの女は、まあ化粧は厚いが美人といえなくもないか。あとは天道と仲が良かったゲレンデレストランの倉石留美、それから岸本の嫁の岸本鈴子はどうなのだろうか。結婚式に一度見た事があるが、どんな顔をしていたっけかな。それから、それから、米元あずさ?」
 顔を洗う手が止まった。
「確かに、男にモテそうな顔立ちはしていたな。バイフーは色仕掛けで元信者を殺害していくという話だから、暗い食堂で突然背中から抱きついて来るなんて、何だか彼女の場合しっくりくる。それに、高田が警察に身の安全を求めてから、このペンションにやって来たタイミングというのが、ちょっと良過ぎる気がする」
 その時、脱衣所のガラス戸に人影が差した。後から向かいます、という美咲の椅子に座った姿を思い出した。日中に怪我した腰の包帯を、一人で取り外したいらしかった。美咲の色っぽい水着姿を期待して、わたくしは入口の戸の開くのを待った。しかし、アルミ戸が勢い良く開いて、突然別の女性が飛び込んで来たとあって、わたくしはあんぐりと口を開けた。
「宗村さん、おじゃましまーっす!」
 胸にバスタオルを巻いたあずさが、こちらに向かって両腕を開いた。
「お、おい!」
「安心して下さい宗村さん、宿泊客はみんなお風呂が済んじゃいましたから、入口の札を清掃中に変えてありまーす」
 軽く弾んだ調子で、後ろ手に戸を閉めた。
「何が安心しろだ。これは、さすがにマズイだろう!」
「なに興奮しているんですか宗村さん。お風呂ご一緒するだけじゃないですかあ」
 あずさは手桶を拾って、ひたひたと岩の上を歩いた。
「それが興奮すると言っているんだ。こんな所を岸本に見られたら、君はクビになるんじゃないか⁉」
「大丈夫ですよ、ジャンジャーン! 実は中は水着ですから」
 バスタオルが宙を飛んで、彼女の花柄のオフショルビキニ姿が現れた。あずさはティーンズファッション雑誌で見るような、腰に手を当てて右手を突き出すキュートなポーズを決めた。
「また………水着」
 飛んできたタオルに手を伸ばして、わたくしは転びそうになった。
「アルプの温泉は、地元仲間でも評判なんですよ? 美肌になる炭酸水素ナトリウムや、精神を安定させるリチウム、傷の修復に効くヨウ素などが、他の湯の何倍も多いんですって。毎日温泉に入っていると、みんなとことん泉質に詳しくなるんです。このペンションのすぐ裏には、雪解け地蔵って地熱で熱くなっているお地蔵さんがあるんですけど、そのせいか、源泉約六十二度、お茶はお湯が熱いほど濃く出るので、源泉温度も熱いほど温泉に溶け込む成分が濃いんです」
 あずさは洗い場でシャワーを体に当てると、髪の毛を縛って湯船に入った。
「もう、上がろうかな」
「なに言っているんですか! まだ入ったばかりじゃないですかあ。もったいないですよ、こんな良質な温泉はじっくりと肩まで浸かって、日頃の疲れを癒さないと」
 そう言ってあずさは、すーっと水面を揺らして近づいて来た。
「あのさあ、君がさあ、いくら積極的になったってさあ、俺は太古秀勝でもないんだし、しかも、俺には美咲という恋人がいるわけだから、こんなの君のとってなんの得にもならないよ? それに、こんな所を美咲に見つかったら、どうなると思う?」
「美咲さんは、とっても怒ると思います」
 あずさが肩を当てて来たので、少し横に逃げた。
「そうだろう? だったらさあ」
「宗村さんに」
「え?」
 わたくしは意外に思って、あずさの顔に目を下ろした。
「宗村さんは、何だかんだ言って、あたしから本気で逃げようとはしていないですよね? 本気で拒絶もしていないですよね? あたし、宗村さんのそういう所がとっても好きです。そこが、太古さんとは決定的に違います。どうせ美咲さんに聞いたと思いますけど、あたしは三年前の高三の冬に、太古さんに猛アタックしていました。だけど彼は、あたしなんか相手にしないで、しかもひどい態度を取り続けたんです。あたしに全く気がないのは分かっていましたけど、それにしたってあんな冷たい態度や、中傷的な言葉で突き放されて、あたし毎晩枕を濡らしました」
 あずさは笑顔のまま視線を下げた。
「あたしだって、あの時は今よりも若かったのだし、初めて身を焦がすような恋をしたんですけど、あんなひどい態度をとられたら、いくら能天気なあたしだって、トラウマになりそうでした」
 少女のように湯の中で膝を抱えた。
「だから、最後の方は意地になって、彼と美咲さんに付きまとっていました。負けたくなかったんです、そんな間違った彼のやり方に」
 わたくしは濡れた手で髪を掻き上げた。
「まあ、それはあれだな、太古という男は正義感が強そうだから、未成年でもある君の将来の為を想って、あえて冷たく接したんじゃないかな。変に期待を持たせるような発言をすれば、それはもっと君を傷つける事に繋がるし、間違った方向へ行ってしまえば、社会的制裁を受けかねないからね。だって相手は刑事だぞ?」
 あずさはわたくしの肩に両手を置いて、三回大きく揺すった。
「でも、嘘でもあたし、彼に振り向いて欲しかったです。確かにあの時の太古さんは、美咲さんとお付き合いをしていましたけど、ほんの一瞬でも、あたしの事が気になる瞬間があれば、その瞬間だけでも、あたしのために足を止めて欲しかったんです。あたしの良い点、美咲さんよりも優れている点だけは、やっぱり良いとして、ちゃんと認めて欲しかったんです」
 わたくしはあずさの手首を掴んで、ゆっくりと湯の中に沈めた。
「それは、まったくの非常識というものだ。そうだろう? 君がもし反対に美咲の立場だとしたら、君は一体どう思う? そんな気持ちで浮気する彼は、許せるか?」
「許せませんけど、許せませんけど、でも相手と向き合って話をつけるくらいの男気は、やっぱり見せて欲しいと思います。あたしの存在をちゃんと認めてくれて、それからどうしても美咲さんを選んだという事を、しっかりとあたしに話してくれるべきじゃなかったでしょうか?」
 恋に行き詰った幼い横顔を、わたくしは見た気がした。
「まあ、君の言う事も一理あるかもしれないね。今の話を聞く限りでは、太古って男は君に相当ひどい事をしたみたいだし、取り付く島もない状態では、君の気持ちのふんぎりも中々ついていないようだし。でもさあ、君だって彼女のいる男を誘惑するなんて、ちょっとひどい話だよ? 美咲は君によってどれだけ嫌な思いをしたと思う? そこを考えれば、君の取った行動はまったく感心できないね」
 わたくしは腕を組んで、うんうんと頷いた。
「あたしのこと、ひどい女だと思っていますか?」
「まあ、ひどい部類には入るね。当時、もしも太古秀勝が君の誘惑に負けたら、君は一体どうするつもりだったんだ。それは列記とした略奪愛だ」
 あずさはぽろぽろっと涙を落した。
「ひどい?」
 涙は湯船に落ちて小さな波紋を広げた。
「いや、別に君の全てがひどいというわけではなくてだな。君の恋のパフォーマンスがだな、人と大きく違うといっただけで」
「あたしの事を嫌いになりましたか?」
 あずさは膝を抱いて腕の中に顔を入れた。
「どうしてそうなるんだ。君の恋のパフォーマンスの話をしていると言うのに」
「だってひどい女だなんて、嫌いになったとしか思えません」
 わたくしは周囲を見渡して、あずさの肩に右手を置いた。
「別に俺が君の事を嫌いになる理由はないだろう。ただ、変わった娘だなあと、相当変わった娘だなあと、思って説教しただけで」
「じゃああたしのこと、嫌いになったわけじゃないんですね」
 あずさは腕の間から片目を上げた。
「まあ、そうかな」
 わたくしは人差し指で首筋を掻いた。
「嬉しい!」
 突然お湯を飛ばして、あずさが抱き付いて来た。わたくしは完全に不意を突かれて、背中からお湯の中に沈んだ。
「な、何をするんだ!」
 慌てて湯から顔を出して、びしょ濡れの髪を掻き上げた。不覚にも一口お湯を飲んでしまった。
「そういうパフォーマンスが!」
 ふと気が付くと、脱衣所のアルミ戸が開いていた。そこには、バスタオル姿の美咲が目を大きく開けていた。
「宗村さん」
「み、美咲」
 彼女はわたくしとあずさが湯煙の中で抱き合っているのを見ていた。その背後に、めらめらと不動明王のような炎が見えたのは、わたくしだけだろうか。
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