プルートーの胤裔

くぼう無学

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自由行動

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 美咲はエレガントなブーケ柄ハンカチを綺麗に折ると、思い出したように席を立った。厨房に顔を出して、外倒し窓で煙草を吸っている岸本に珈琲の礼を言って、足早に自室に戻った。
「宗村さん、わたしがスノーボーダーに突き飛ばされた時、ゲレンデに散らばった貴重品は全て回収したと言いましたよね?」
 美咲はくるぶしと靴下の間から小型の金属片を抜いて、ノートパソコンの後ろに差した。わたくしは退屈そうにベッドに座って片膝を抱いた。
「目に付く貴重品は回収したよ。細かい小銭類は雪に埋まってよく分からなかったけど、カード類は全部拾ったはずだ」
 ノートパソコンの起動時間を利用して、美咲はタロット占いでも始めるように、クレジットカードや保険証や免許証などをデスクに配置した。
「わたしに衝突した相手も、散乱した所持品を回収していたって、そう言いましたよね?」
 わたくしは片膝を抱いたままベッドに倒れた。羽毛の布団は気持ちが良い。
「ああ、随分慌てていたよ。羽深って人の言うには、君にぶつかった相手も相当怪我を負っているらしいんだが、あの女はすぐに立ち上がって、散乱した所持品を拾い集めていた」
 寝転がったわたくしと、腕を組んだ美咲の目が合った。
「そう、ですか」
「それがどうかしたの?」
 美咲はあっと声を漏らして組んだ腕をほどいた。
「何でもありません。すいません、わたしちょっと調べたい事がありますから、宗村さんは、えーっと、そうですね、これから少し自由行動にしましょう」
 そう言って彼女は髪留めを口にくわえ、両手を後ろに回して髪の毛を一つにまとめた。
「自由行動、ねえ」
 胸ポケットから煙草を取り出して、残りの本数を数えた。心細い本数だった。近くのコンビニエンスストアへ行って、二日分の煙草を補充しようと思い立って、よしと両ひざに手を置いた。
 廊下に出ると、江口の部屋のドアが目に入った。警察の調べが終わったのか、今はぴたりとドアが閉じている。他の宿泊客はどうしているのだろうか。江口と口論をしていたカップルや、『樹氷』で見かけた久慈親子は、あのドアの向こうにいるのだろうか。顎に手を当てながら階段を下りると、階下から岸本のヒソヒソ声が聞こえきた。刑事に何かを説明しているようにも聞こえたが、階段を下りきって受付を見ると、背中を丸くした岸本が、固定電話の受話器を持っていた。
「ですから、それは無理な相談だと何度も言っているじゃないですか。今までだって冬の間の見回りは免除されていたんですから」
 岸本は談話室に現れたわたくしを振り返った。彼は更に声を小さくしてこちらに背中を向けた。
「こそこそと何を話しているんだ?」
 わたくしはゆっくりと煙草を抜き取った。岸本は最後には溜め息を落として、両手で受話器を置いた。
「ずいぶんと揉めていたじゃないか?」
 煙草をくわえて近寄った。
「ああ」
「ああって、お客さんか?」
 冷や汗をかいたようで、パタパタと襟元をつまんで煽いだ。
「お前には関係のない話だ」
 見回りを免除、とか何とか言っていたが、それ以上をわたくしは訊けなかった。
「それよりもさっきは何で彼女を泣かせていたんだ? 厨房の中まで聞こえたぞ。忠告しておくがな、あまり美人を泣かすもんじゃない」
 岸本の太い人差し指がわたくしの胸を突いた。
「それこそ君には関係のない話だ。こっちだって深い事情があるんだよ」
 煙草に火を着けるわたくしを前に、岸本は大きく腕を組んだ。
「ふーん。お互い十年も経てば、事情の一つや二つがあるってもんか。警察の事情聴取はどうだった?」
 岸本は坊主頭を一撫でした。
「どうもないよ。結局俺は江口との接点なんてないんだし、簡単な質問に答えて終わり。君の方が、ここのオーナーなんだし、結構長かったんじゃないか?」
 三和土を振り返ると、刑事たちの履物が見えた。江口の変死について今も監取りが続いているらしい。
「オーナーだって同じだよ。事務手続き的な質問に答えて終わり。あの石動って若いの、本庁の人間らしいが中々の刑事だ。後はこっちで調べさせてもらうって、余計な事は何も言わない」
「ふーん」
「そこから食堂を覗いてみろ。所轄の刑事はまだやっている」
 わたくしはアルトドイッチェのアンティークガラス越しに食堂を覗いた。テーブルの一卓に初老の刑事と久慈親子が向かい合って座っていた。娘の顔が病的にまで強張っているのがここからも分かった。
「美咲の兄貴は当たりだったか」
「なに?」
 一緒になって食堂を覗く岸本と目が合った。
「何でもないよ。俺たちも石動って刑事に事情聴取を受けたんだ。確かに君の言うように余計な事は何も言わなかったな」
『あなた方は晦冥会という宗教の信者ではありませんか?』
 この質問は余計な事ではなかったという事か?
「あ、そうだ。なあ岸本、車を貸してくれないか? 煙草が切れそうなんだ」
 そう言ってわたくしは胸ポケットを叩いて見せた。
「メジャーな銘柄なら常備してあるぞ」
 アメリカンスピリットのゴールドを抜いて見せた。
「お前、車の免許持っていたっけ?」
「持っているよ。こう見えてもミニの5ドアを所有しているんだ」
 岸本は顔を曇らせた。
「生意気な車に乗っているじゃないか。そんなの雪国で走っていたら笑われるぞ。こっちはジムニーが花形なんだからな。ちょっと待ってろ。いま鍵を持って来る」
 岸本は受付のカーテンを開けて小窓から上半身を突っ込んだ。そのまま鍵の音をさせながら体を引き抜いた。
「コンビニの場所はわかるか?」
 横着をして受付内の鍵を取ったものだから、顔が赤かった。
「昨夜ここへ来る時に看板を見た」
 岸本はエンジンスターター付の鍵と、丸めた新聞を突き出した。わたくしは不思議そうに新聞を受け取った。
「葵の心中事件が掲載された四週間前の朝刊だ。まだ見ていなかっただろう?」
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