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癒しの女神 side イアン
しおりを挟む「ブリジット・・・」
去っていく馬車を眺めながら、ドレイク公爵令息の射るような視線を思い出す。
あれは完全な嫉妬だ。
ブリジットの再従兄弟でカーライル商会の専属魔道具師。
初めて顔を合わせた時から僕を敵視していた。ブリジットを見る目は優しいから、きっと彼女の事が好きなんだろう。
「ブリジットは気づいてない上に、親戚の男としてしか見てないみたいだけどね」
何年も気づかれず、婚約者のいる女に報われない恋をし続けるのは辛いだろうな。
それを思うと、胸がスッとするよ。
そして彼がブリジットに執着して焦がれるほど、
─────────ゾクゾクする。
ああ、やっぱり僕は歪んでるな。
◇◇◇◇
「イアン、くれぐれもブリジット嬢に背を向けられるような事はするなよ。お前は入婿だ。立場を弁えろ。そしてカーライル商会と縁を持つ事でうちの会社にどれだけの利益を生むか常に頭に入れて行動するんだ。わかったな?」
───そのセリフはもう聞き飽きた。
何度も何度も立場を弁えろ。ブリジットを惹きつけろ。捨てられるような真似はするな。政略結婚の意味をちゃんと考えろ。
僕の意志は必要ないらしい。
ただ兄が継ぐ物流会社の発展のために、僕は駒となってブリジットに尽くすだけの人生。
別にそれが不満なわけではない。
ただ無表情で話す父の瞳に、自分はちゃんと人間として映っているのだろうかと、確かめたくなる時がある。
「ああ、イアン、ごめんなさいね。私が会社経営に携わっていないせいで、何を言っても旦那様に聞き入れてもらえないのよ」
母が僕を抱きしめながら悲劇のヒロインのように涙を流す。
「母上・・・」
僕は母の温もりに縋った。
この家で、母だけが僕を愛してくれる。
子供の頃から父とは距離があった。兄であるダスティンには笑顔を向けてたくさん話をするのに、僕にはあまり笑いかけてくれない。
必要な教育や必需品は兄と同じように良いものを用意してくれた。誕生日パーティーだって毎年開いてくれる。
プレゼントもくれる。
でも僕には兄に向けられるような笑顔を見せてくれた事は一度もなかった。
僕は母の死んだ兄によく似ている。とても優秀で立派な人だったと母はいつも聞かせてくれた。
母の実家である伯爵家の当主で、領民に慕われる素晴らしい領主だったと聞く。
僕は父上だけでなく、そんな優秀な領主だった伯父の血も引いているのだから、俺もきっと兄に劣らない優秀な人間になれると言われ続けた。
だから僕は大人になったら父の会社に入って、兄と父を支え、会社の発展に貢献してみせると誓った。
その為の勉強をしたいと父にねだったんだ。
そうしたら喜んでくれると思った。
褒めてくれると思った。
なのに、
「お前の婚約者が決まった。お前はカーライル侯爵家に婿入りしろ。だからうちの経営の勉強はしなくていい」
僕が立てた誓いは、8歳の時に砕け散った。
真実は、なんて事はない。
よくある話。
僕は伯父の子供だった。
母の実家に跡取りとして遠縁から養子に入ったのが伯父で、父と結婚する前から関係を持っていたのだろう。
子供の頃、母の実家の帰省についていった時、夜中にトイレで目覚めると隣に寝ていた母がいなかった。
不安で邸の中を探していたら、伯父の寝室で睦み合っている母と伯父がいた。
当時、子供だった僕は母達が何をしているのか分からなかったけど、伯父に激しく揺さぶられて悲鳴を上げている母が怖くて、僕は寝ていた客室に逃げた。
その後、閨教育が始まってから伯父と母が不倫関係である事を知った。母は上手く隠せていると思っているけど、多分父は知っている。
伯父と母が血の繋がらない兄妹で、関係を持っている事を。だから僕を見る目が冷たいのだろう。
そんな日々が数年続いた後、伯父が流行病で亡くなった。
当主になっても妻を娶らなかった伯父が、一目惚れしたという婚約者との結婚式を控えていた矢先の事だった。
その時の母は、取り乱すかと思っていた予想に反して、伯父の棺を眺めながら、静かに声を出さずに泣いていた。
それが無表情で怖かったのを覚えている。
それから母は、伯父に似ている僕に執着しだした。
兄には目もくれず僕を溺愛して、少しずつ伯爵家の空気は殺伐としたものへと変化していく。
僕も、今までこの目で見てきた事を誰にも言わなかった。
母にも事情を聞かなかった。
何となく、僕が知っている事を大人達に知られたら取り返しがつかない事になるような気がしたから。
その頃、僕が息をつけるのはブリジットと会う時間だけだった。
ブリジットの事は好きだ。
綺麗だし、頭が良いし、あまり子供らしくない喋り方で物作りが好きな変わった女の子。
そこが面白いなと思ってた。
それに何かと僕の世話を焼いてくれる優しくて暖かい子だった。だからすぐ好きになったし、ブリジットが奥さんになってくれるなんて、嬉しいと思ってた。
最初は、父は僕が嫌いだから家から追い出したいんだと思っていたけど、その頃には成長し、次男の役割をちゃんと心得ていた。
そして僕の婚約者にブリジットを選んでくれた事に感謝もした。別に僕の不幸を望んでいるわけじゃないんだなと思えたから。
そうじゃなかったらブリジットを選んでないはずだ。
彼女となら、穏やかな愛情を育めると思う。
でも、僕には誰にも言えない秘密があった。
それをブリジットに知られたら嫌われてしまうかもしれない。それが怖くて僕はバレないように蓋をする。
そして僕はいつものように母に溺愛され、ハネス家の駒となり、ブリジットに愛を囁く。
それでいいと思ってた。
それが一番、無難な生き方だと思っていたんだ。
でも僕はデイジーに出会ってしまった。
僕の秘密───歪んだ欲望を全て受け止めてくれる彼女。
本来の自分を出しても嫌悪されずに受け止めてもらえる安心感は、僕のどこか歪んだ心を癒してくれた。
デイジーは僕の癒しの女神なんだ。
この出会いが破滅の道を辿るなど考えつかない程に、デイジーとの情事に溺れていった。
『イアン、くれぐれもブリジット嬢に背を向けられるような事はするなよ。お前は入婿だ。立場を弁えろ。そしてカーライル商会と縁を持つ事でうちの会社にどれだけの利益を生むか常に頭に入れて行動するんだ。わかったな?』
父のあの言葉は、僕の意思を無視したわけではなく、そうする事が一番僕が幸せでいられる選択だと教えていたのだ。
それに気づかず僕は、
ブリジットを裏切った。
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