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1巻
1-2
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目を細めてこちらを見る彼女に、夫婦の閨事情まで知られていることを察した。
「だって貴方、子供の作り方を忘れたようだもの。侯爵家当主なのに驚きだわ。それなのに妻だけ責められるなんて理不尽じゃなくて?」
「……っ」
必死に返す言葉を探すが、何も見つからない。何を言っても言い訳にしかならないような気がした。
考えてみれば、彼女は公爵なのだ。アシュリーが置いていった俺の素行調査書も、彼女が手助けして作られた可能性が高い。今更ながら、そんな考えにも至らずにのこのことバーンズ公爵家を頼った俺の行動はさぞ滑稽に映っただろう。今では背中どころか顔中に冷や汗が滴っている。
どのくらいの時間が経ったのか。俺が何も言えずずっと俯いたままでいると、頭上からため息が聞こえてきた。
「もういいわ。アシュリーは私の大事な友人なの。だから公爵家で捜索をかけます。お話は以上ですね。どうぞお帰りください」
「ちょ……ちょっと待ってください! さっきの……母や使用人たちの話は本当なんですか⁉」
「ご当主なんですから、それくらいご自分で確かめてはいかが? ジュリアン、お客様のお見送り頼んだわね」
「ああ。わかった」
「ちょっと待ってくださ――」
俺が言い切る前に、バーンズ女公爵は部屋を出て行ってしまった。
「……アシュリーはお前たち夫婦にどこまで話してるんだ?」
まさか閨を共にしていないことまで話しているとは……
「俺はそこまで詳しくは知らない。子供ができないことで悩んでいたのは知ってる」
「そ、そうか……」
子供ができないことをそこまで思い詰めているとは思わなかった。
普段、アシュリーは俺の前ではいつも笑っていたから――
子供については何度か話し合いはしていて、いつも「いずれは」「自然に任せる形で」という結論に至っていた。
父と母にも俺からそう伝えて、『二人で決めたことに一切口出しするな』と釘を刺してからはあまりうるさく言ってこなくなったから、納得してくれていると思っていた。
まさか俺の知らないところでアシュリーに何か言っていたのか?
「お節介かもしれないが、俺から一つ忠告をしておく」
少し目にかかる焦げ茶の前髪の隙間から、ジュリアンの若葉色の瞳がじっと俺を見据えた。
「な……なんだ?」
「妻が自分の隣にいるのは、当たり前のことじゃない。お前は多分、これからそれを嫌というほど思い知らされるだろうな」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だよ。隣にいたはずの愛する人がある日突然消えて、手の届かない人になることもある。愛情は無限にあるものじゃないんだよ。花だって水をやらなければ枯れてしまうだろう? お前は彼女の愛情に見合ったものを返していたのか? ――よくよく自分の行動を振り返るんだな」
なんだよ……。一体なんだってんだよ。
コイツの見透かした言い方にイラつく。
俺たちの何を知ってるっていうんだ!
「ア……アシュリーは戻ってくるさっ、だってつい最近まであんなに俺のこと愛してるって言ってたんだぞ! そんな急に気持ちが変わるのか? 十八年間も一緒にいたんだぞ?」
「だから?」
「は?」
「……あのな。血を分けた親や兄弟でさえ無条件でずっと一緒にいることはできないのに、なんで赤の他人の妻が側にいて当たり前だと思えるんだ? お前のその自信はどこから湧いて来てんだよ」
だって――アシュリーは子供の頃から俺だけを見てくれていたんだぞ。
ずっと、俺だけを愛してくれていた。それが俺の日常だったんだ。
「お前の言うその十八年は当たり前のものじゃなくて、彼女の支えで成り立っていた時間だ。お前は結婚してからそのことに一度でも感謝したことがあるのか? アシュリー嬢が望まなくなったらそんなもの簡単に壊れるんだよ。現にお前は今一人じゃないか」
軽蔑した目が俺を射抜く。
ああ――
やっぱりコイツも全部知ってるんだな。
俺がアシュリーに隠れて不貞を働いていたことを。恐らく女公爵も……
「さあ。もう帰れ。アシュリー嬢のことはこちらでも探す。ひと月前に知らせてくれればすぐに見つかったかもしれないのに、今からじゃ骨が折れるぞ。騎士団への捜索依頼も検討したほうがいいかもしれないな」
俺はもう何も言えなくなって、促されるままに公爵家を出た。
◇◇◇◇
「そうですか。女公爵様がそんなことを。……ええ。事実ですよ」
「なんだと?」
邸に戻ってから俺は家令に真実を確かめた。
アシュリーが本当に使用人たちから軽んじられていたのかを――
結果は肯定の返事。俺たちが何年も閨を共にしていないことは、ほとんどの者が知っていたらしい。部屋を整える使用人ならすぐにわかることだと。
表立って口にする者はいないが、彼らの間で憐れまれて噂されていたのは事実だった。使用人たちはアシュリーを軽んじ、遠巻きにしてあまり近づかなくなっていたという。家令が耳にして厳重注意をして回っていたが、あまり効果はなかったらしい。
そして母は二ヶ月に一度の頻度で領地から出てきて、妊娠はまだなのかと催促していたらしい。アシュリー宛に手紙もよく来ていたのだとか。
「なんで知らせなかった」
「奥様に止められていましたので」
「なぜ?」
「旦那様に子供に関する話題を出すと辛そうなお顔をされるから――だそうです」
家令の冷めた視線にいたたまれなくなる。
「今更ですよ。だから私は奥様が出て行かれた日に、ご実家と騎士団に知らせるべきだと申し上げたのです! それを坊ちゃんは……」
「わかっている! 明日騎士団に捜索を依頼する」
家令の言葉を遮って、俺は執務室を出た。
「何をやってんだ俺は……」
今となっては、なんで一ヶ月も放置できたのかわからない。
「無事でいてくれ、アシュリー……っ」
『今更ですよ』という家令の言葉が突き刺さる。本当にそうだ。
夫婦の寝室に入り、部屋を見渡す。アシュリーがいないだけで、とても広く殺風景に感じた。よく今まで一人で何も感じずに眠れたものだ。
アシュリーは俺の前ではいつも笑顔だったから、俺といるだけで幸せなんだと思っていた。
でも、違ったんだな。ただ俺が、何も知らないだけだった。
「――いや、違うな。知ってた。俺がアシュリーをずっと傷つけていたことを。……知ってて目を逸らして、ごまかしていただけだ……」
後ろの扉に寄りかかると、膝の力が抜けてしまい、そのままズルズルとその場にへたり込む。
何もかも、うまく回ってると思ってた。
バレなければいい。バレても俺を愛してるアシュリーなら許してくれるとさえ思っていた。
『お前のその自信はどこから湧いて来てんだよ』
不意に、ジュリアンの言葉が頭の中に浮かぶ。
「ホントにな……。何が『愛されてる』だよ。我が身可愛さに、アシュリーを犠牲にして……」
たまらなくなって髪の毛を掻きむしる。
俺は自分が辛くなるのが嫌で、ずっと現実から逃げていただけだ。
俺がこんな根拠のない自信を持てるのは、十八年間アシュリーが俺を愛して、支えてくれていたからなのに。
俺はその気持ちに胡座をかいて踏みにじった――
「すまない……っ、アシュリー……!」
結婚したら、どいつもこいつも遠慮なく子供や閨のことを聞いてくる。以前はそれが嫌でたまらなかった。放っておいてほしかった。
きっとアシュリーは、それを察して何も言わなくなったんだな。
俺だって抱けるならとっくに抱いてるさ。でも、もうアシュリーはそういう対象ではなくなってしまったんだ。こればかりはどうしようもない。
こんなことになるなんて、昔は思ってもみなかった。
アシュリーと初めて関係を持ったのは学園時代だった。子供の頃から愛していたアシュリーと結ばれて、幸せで満たされたのを覚えている。
この国では、婚姻まで純潔を求められるのは、王家や由緒ある高位貴族、契約に基づく政略結婚の場合のみだ。婚約者同士の婚前交渉については割と認められていて、俺たちみたいな恋愛結婚も多い。
ただ、結婚式前に子供ができるのはよしとされないので、婚姻前までは避妊をするのが一般的だ。
あの頃はアシュリーと繋がるたびに愛しさが増して、一生彼女を愛して守っていこうと思った。卒業後の結婚が待ち遠しかった。
その後、結婚して二人の時間が増えて、最初はすごく幸せだった。
せっかく毎日一緒にいられるのだからと、俺はまだ二人の時間を楽しみたくて、こっそり避妊薬を飲んでいた。
アシュリーも特に何も言っていなかったし、彼女も俺と二人きりの時間を望んでいると思っていた。今となっては俺の一方的な思い込み以外の何ものでもない。
そうして一年が経ってそろそろ子供を……と考え出した時に、俺は部隊長に就任し、一気に仕事が忙しくなった。そして出世に比例してだんだん閨の回数が減っていった。
たくさんの部下を抱えて仕事のプレッシャーも増え、更に侯爵家当主の仕事もある。
その頃はもう避妊薬は飲んでいなかったが、女性には妊娠しやすい時期があって、それに合わせて行為をしなければ妊娠しづらいらしい。
でも毎日がとにかく忙しくて、そんな状況で適切な日にタイミングを合わせるのはとても難しかった。安全日に抱いたら責められているような気さえした。
アシュリーは何も言わないから完全に俺の被害妄想だけど、抱きたい時に抱けない義務のような子作りは、俺にとってストレスになっていった。
でもアシュリーは何も悪くない。俺が侯爵家の一人息子であるにも関わらず、騎士の夢を捨てきれなくて、勝手に多くのものを抱え込んだだけ。
そして勝手にプレッシャーに圧されて余裕がなくなった。ただそれだけだ――
そして副団長にまで出世した今、気づいたら何年もアシュリーを抱いていなかった。
いや、抱けなかった。
何度か、アシュリーが妊娠しやすいという日に自ら誘ってきたことがある。
でも俺はその気になれなかった。
愛する人が誘ってくれて嬉しいはずなのに、俺は断ってしまった。
その時のアシュリーの傷ついた顔が忘れられない。
自分が傷つけたくせに、胸が痛かった。
そのうちアシュリーを傷つけるのが怖くて、そういう雰囲気になるのを極力避けた。
――子供が欲しくないわけじゃない。
アシュリーとの子なら、可愛いに決まってる。
でも、義務だと思うとその気になれない。
こればかりは生理現象だから仕方ないじゃないか?
不能になったのかと心配になったこともあった。
それで追いつめられて、俺は確かめに行ってしまったんだ……
同僚に娼館に誘われた時、いつもは断るのに、その日は断らずに行ってしまった。
今思えばそれは間違いだった。確かめた結果、アシュリーにだけ反応しないのがわかってしまったから――
結果を知って余計苦しくなっただけだった。
アシュリーのことは変わらず愛してる。
彼女との暮らしにはなんの不満もないし、他に好きな女ができたわけでもない。
ただ――抱けない。
なぜなのかさえ、もうわからない。向き合うのが怖い。
正直、離婚を考えたこともある。
アシュリーのことを思えば、そのほうがいいのかもしれないと。
でも決断できず、状況を変えることもできず、現実逃避して仕事に逃げたまま、ズルズルとここまで来てしまった。
ベッドに腰かけると、まだ微かにアシュリーの香りが残っている気がした。
俺が部屋に入れば、嬉しそうに淡い金の髪を揺らしてこちらに駆け寄り、いつも労いの言葉をかけてくれた。
俺を慈しむように、愛しそうに見つめてくるエメラルドグリーンの瞳が何よりも好きだったのに、なぜ大事にしなかったのだろう。
――その愛は、当たり前にそこにあるものじゃなかったのに。
第二章
「アシュリー、包帯と消毒薬が足りなくなりそうだから補充しといて。それから解毒薬も。もうすぐ辺境騎士団が帰ってくるから」
「わかりました。タオルやガーゼはこれで足ります? まだ追加しますか?」
「ああ、そうだな。備品室にあるもの全部持ってきてくれ。それからついでに毛布も頼む」
「わかりました!」
私は今、セイラの伝手を頼って辺境騎士団の見習い看護師として働いている。
辺境伯であるルードヴィヒ様の奥様――ソフィア様はセイラの叔母で、看護師の資格を持っている私を快く受け入れ、住む場所と仕事を提供してくれた。
離婚協議中の侯爵夫人なんて厄介者でしかないのに、辺境伯夫妻には感謝しかない。
騎士のライナスを支えたくて取得した看護師の資格が、こんなところで役に立つとは皮肉な話だ。
「お飾り妻」だと揶揄されるのが嫌で頑張って取得したけど、肝心の夫にはなんの役にも立てず、努力は空回りして終わった。
王宮で働くライナスは警護が主な任務で、よほどのことがない限り戦闘には出ない。
ケガをしてもかすり傷程度で、私の出る幕はなかった。
――でも、
『貴女が得た看護の知識は、辺境の地で重宝される。そして貴女の身は最強の辺境騎士団が守ってくれるわ。どう? 看護師として、行ってみる気はない?』
セイラからそう言われて、胸が熱くなった。
私を必要としてくれる場所。そんな場所があるのなら、ぜひ行きたい。
私の存在を認めてくれる場所でなら、憂いなく新しい人生のスタートを切ることができる気がするから。
両親には、邸を出る前に手紙を出した。
ライナスとは離婚すること。しばらく彼には会いたくないから、私の居場所は秘密にしてほしいこと。そして実家には戻らず、辺境で看護師として生きること。
もし、ライナスが訪ねてきたら私の居場所は知らないと言ってほしいこと。そして私への連絡は、完全にライナスと縁が切れるまではセイラを通してほしいとお願いした。
両親からの返事には、離婚を咎める内容は一切なく、ただただ娘のことを心配していると綴られていた。
手紙から両親の愛情を感じ、申し訳なくて涙が出た。
これ以上心配をかけないためにも、ちゃんとしっかり自分の足で立たなくちゃ。
今までの私はライナスを支えるためだけに生きてきたけれど、これからは自分のために生きるわ。
この地で看護師として、新しい人生を始めるの――
騎士団の帰還を知らせる鐘が鳴り、皆が慌ただしく彼らの受け入れ準備に取り掛かる。
処置室の前で初めて彼らを出迎えた時、私は目を見張った。
視界に飛び込んできた光景は、まさに地獄絵図のようだった。
ダルの森に出現した魔物を討伐しに向かった辺境騎士団は、ほとんどの者が大量の血に染まり、処置室は一瞬で戦場と化した。
生死を彷徨うほどの重傷患者を初めて見た私は、むせ返る血の匂いに吐きそうになり、足がガクガクと震えた。それは想像を絶する光景だった。
「アシュリーさん! 運ばれたケガ人たちにこのハンカチを巻きつけて重症度別に分けてください! 重傷患者は先に治療するから奥に運んで!」
「わ、わかりました‼」
震える足を叩いて無理矢理動かし、他の看護師たちと共に負傷者たちの状態を見て、症状別に色のついたハンカチを彼らの腕に結んでいく。
赤が重傷、黄色がケガは酷いが意識のある人、緑が軽傷、そして黒は、死亡または助けるのが無理な人……
幸い今回は黒いハンカチをつけなくて済んだ。よかったと胸を撫で下ろす。
「アシュリーさん! 手が空いていたらこっち手伝って!」
「はい!」
名前を呼ばれ、急いで重傷患者の治療サポートに入った。
医師の先生や先輩看護師たちの指示に従い、必要な器具や薬を手渡して次々と治療を終わらせていく。
そして騎士団が帰還して三時間後、ようやく全員の治療が一段落した。
死者が一人もいなくて本当によかった。最初はとても怖かったけど、治療に必死すぎて、動いているうちに恐怖も吹き飛んでしまっていたわ。
病室で片づけをしていたら、奥から先生がやってきた。
「アシュリー、本当にありがとう。お前さんのお陰でスピーディに治療を終えることができたよ。手遅れになる者がいなくてよかった。落ち着いたからしばらく休憩するといい」
「本当に、優秀な人が来てくれてとても助かるわ。この調子でよろしくね」
「お褒めに預かり光栄です。まだまだ至らないところを発見したので、次はもっと手際よくできるよう頑張りますね」
胸の横で拳をギュッと握ると、先生は「頼もしいな」と笑顔で私の働きぶりを褒めてくれた。
嬉しい。難しくて苦労したけど、勉強してよかったと心から思えた。
「――う……うぅ……っ」
一息ついていると、目の前の重傷患者が魘されだした。
額に汗をたくさんかいて、苦しそうに顔を顰めている。
「せっ、先生! 患者さんの様子が……っ」
慌てて先生を呼ぶと、すぐこちらに来て診察をしてくれた。
「大丈夫。ただ魘されてるだけだ。ここの騎士にはよくあるんだよ。討伐のトラウマを抱えてる奴が多いからな。しばらくしたら落ち着くと思うから、念のため看ててやってくれるか?」
「はい。わかりました」
討伐のトラウマ……
先ほどの惨状を思い浮かべれば、トラウマの一つや二つあってもおかしくない。
王都の騎士団との違いに戸惑いを覚える。
ライナスのいた王宮騎士団では、こんなに鬼気迫るような空気を感じたことは一度もなかった。
でも、よく考えれば当たり前のことだ。王都と辺境では相手にしている敵が違う。
彼らは人間だけではなく、魔物も相手にしているのだ。王都に魔物が入ってこないのは、こうして彼らが命をかけて国を守ってくれていたからなのだろう。
その姿を見て、看護師としてより一層、彼らの命を救いたいという使命感が生まれる。
彼らの一人一人が大事な戦士であり、国防の要なのだ。
そんな決意を新たにしていると、小さなうめき声が聞こえた。
「う……して……くれ」
「え?」
起きたのかしら? と思い、彼の口元に耳を近づけ、言葉を拾う。
「許し……て……くれ」
再び彼の顔を見ると、目尻から涙をこぼしていた。
「――辛い夢を見ているのね」
彼は全身傷だらけで、一番酷かったのは細い棒のような物で突き刺された胸部の傷だった。
運良く心臓を外れて致命傷を免れていたが、かなり出血していたのでまだ予断を許さない。
彼の顔色は未だに悪かった。
それなのに、更に怖い夢まで見て魘されるなんて……。これでは精神を削られて治るものも治らなくなってしまうわ。
「大丈夫よ。ここには貴方を責める人など誰もいない」
新しいタオルで彼の汗と涙を拭い、ベッドの横にある手を取って軽く握った。
すごく大きな手なのに、冷たくなって震えている。
そして未だに許しを乞う彼に、「大丈夫。もう怖くない」と何度も応えながら、私はその冷えた手が温まるように摩り続けた。すると次第に彼の声が途切れ途切れになり、やがて寝息が聞こえだした。
「よかった。落ち着いたみたいね」
そして彼が意識を取り戻したのは、窓枠にオレンジ色の光が差しかかる頃だった。
ぼんやりとしていた視線が私を捉える。
「――あれ、俺……死んだ? ……女神がいる」
◇◇◇◇
「アシュリー! もう仕事終わったのか?」
医務室を出ると、黒髪短髪の大柄な男性が声をかけてきた。
「カイゼル様……」
セイラと同じアメジストの瞳が細められ、私に微笑みかける。
「はい、もう帰ります。今日もお疲れ様でした」
余計なことを言われる前に頭を下げて踵を返すと、なぜか彼もついてきた。
彼はあの時ひどく魘されていた重傷患者で、なんとセイラの従兄――辺境伯様の二番目のご子息だった。
「アシュリー、今日こそ一緒に飯食いに行こうよ。看病してくれたお礼もしたいし」
「仕事をしたまでなのでお礼なんていりません。それに、カイゼル様は全治三ヶ月のケガで絶対安静の身なんですよ? なぜベッドで寝ていないんです? また先生に怒られますよ」
「大丈夫大丈夫。俺、昔から体だけは丈夫だから。これくらいのケガどうってことないって」
「何言ってるんですか。貴方死にかけたんですよ⁉ 全然大丈夫じゃないでしょう!」
しかも魘されて泣いてたくせに!
「いいから、早く病室に戻ってください」
「だって貴方、子供の作り方を忘れたようだもの。侯爵家当主なのに驚きだわ。それなのに妻だけ責められるなんて理不尽じゃなくて?」
「……っ」
必死に返す言葉を探すが、何も見つからない。何を言っても言い訳にしかならないような気がした。
考えてみれば、彼女は公爵なのだ。アシュリーが置いていった俺の素行調査書も、彼女が手助けして作られた可能性が高い。今更ながら、そんな考えにも至らずにのこのことバーンズ公爵家を頼った俺の行動はさぞ滑稽に映っただろう。今では背中どころか顔中に冷や汗が滴っている。
どのくらいの時間が経ったのか。俺が何も言えずずっと俯いたままでいると、頭上からため息が聞こえてきた。
「もういいわ。アシュリーは私の大事な友人なの。だから公爵家で捜索をかけます。お話は以上ですね。どうぞお帰りください」
「ちょ……ちょっと待ってください! さっきの……母や使用人たちの話は本当なんですか⁉」
「ご当主なんですから、それくらいご自分で確かめてはいかが? ジュリアン、お客様のお見送り頼んだわね」
「ああ。わかった」
「ちょっと待ってくださ――」
俺が言い切る前に、バーンズ女公爵は部屋を出て行ってしまった。
「……アシュリーはお前たち夫婦にどこまで話してるんだ?」
まさか閨を共にしていないことまで話しているとは……
「俺はそこまで詳しくは知らない。子供ができないことで悩んでいたのは知ってる」
「そ、そうか……」
子供ができないことをそこまで思い詰めているとは思わなかった。
普段、アシュリーは俺の前ではいつも笑っていたから――
子供については何度か話し合いはしていて、いつも「いずれは」「自然に任せる形で」という結論に至っていた。
父と母にも俺からそう伝えて、『二人で決めたことに一切口出しするな』と釘を刺してからはあまりうるさく言ってこなくなったから、納得してくれていると思っていた。
まさか俺の知らないところでアシュリーに何か言っていたのか?
「お節介かもしれないが、俺から一つ忠告をしておく」
少し目にかかる焦げ茶の前髪の隙間から、ジュリアンの若葉色の瞳がじっと俺を見据えた。
「な……なんだ?」
「妻が自分の隣にいるのは、当たり前のことじゃない。お前は多分、これからそれを嫌というほど思い知らされるだろうな」
「どういう意味だ」
「そのままの意味だよ。隣にいたはずの愛する人がある日突然消えて、手の届かない人になることもある。愛情は無限にあるものじゃないんだよ。花だって水をやらなければ枯れてしまうだろう? お前は彼女の愛情に見合ったものを返していたのか? ――よくよく自分の行動を振り返るんだな」
なんだよ……。一体なんだってんだよ。
コイツの見透かした言い方にイラつく。
俺たちの何を知ってるっていうんだ!
「ア……アシュリーは戻ってくるさっ、だってつい最近まであんなに俺のこと愛してるって言ってたんだぞ! そんな急に気持ちが変わるのか? 十八年間も一緒にいたんだぞ?」
「だから?」
「は?」
「……あのな。血を分けた親や兄弟でさえ無条件でずっと一緒にいることはできないのに、なんで赤の他人の妻が側にいて当たり前だと思えるんだ? お前のその自信はどこから湧いて来てんだよ」
だって――アシュリーは子供の頃から俺だけを見てくれていたんだぞ。
ずっと、俺だけを愛してくれていた。それが俺の日常だったんだ。
「お前の言うその十八年は当たり前のものじゃなくて、彼女の支えで成り立っていた時間だ。お前は結婚してからそのことに一度でも感謝したことがあるのか? アシュリー嬢が望まなくなったらそんなもの簡単に壊れるんだよ。現にお前は今一人じゃないか」
軽蔑した目が俺を射抜く。
ああ――
やっぱりコイツも全部知ってるんだな。
俺がアシュリーに隠れて不貞を働いていたことを。恐らく女公爵も……
「さあ。もう帰れ。アシュリー嬢のことはこちらでも探す。ひと月前に知らせてくれればすぐに見つかったかもしれないのに、今からじゃ骨が折れるぞ。騎士団への捜索依頼も検討したほうがいいかもしれないな」
俺はもう何も言えなくなって、促されるままに公爵家を出た。
◇◇◇◇
「そうですか。女公爵様がそんなことを。……ええ。事実ですよ」
「なんだと?」
邸に戻ってから俺は家令に真実を確かめた。
アシュリーが本当に使用人たちから軽んじられていたのかを――
結果は肯定の返事。俺たちが何年も閨を共にしていないことは、ほとんどの者が知っていたらしい。部屋を整える使用人ならすぐにわかることだと。
表立って口にする者はいないが、彼らの間で憐れまれて噂されていたのは事実だった。使用人たちはアシュリーを軽んじ、遠巻きにしてあまり近づかなくなっていたという。家令が耳にして厳重注意をして回っていたが、あまり効果はなかったらしい。
そして母は二ヶ月に一度の頻度で領地から出てきて、妊娠はまだなのかと催促していたらしい。アシュリー宛に手紙もよく来ていたのだとか。
「なんで知らせなかった」
「奥様に止められていましたので」
「なぜ?」
「旦那様に子供に関する話題を出すと辛そうなお顔をされるから――だそうです」
家令の冷めた視線にいたたまれなくなる。
「今更ですよ。だから私は奥様が出て行かれた日に、ご実家と騎士団に知らせるべきだと申し上げたのです! それを坊ちゃんは……」
「わかっている! 明日騎士団に捜索を依頼する」
家令の言葉を遮って、俺は執務室を出た。
「何をやってんだ俺は……」
今となっては、なんで一ヶ月も放置できたのかわからない。
「無事でいてくれ、アシュリー……っ」
『今更ですよ』という家令の言葉が突き刺さる。本当にそうだ。
夫婦の寝室に入り、部屋を見渡す。アシュリーがいないだけで、とても広く殺風景に感じた。よく今まで一人で何も感じずに眠れたものだ。
アシュリーは俺の前ではいつも笑顔だったから、俺といるだけで幸せなんだと思っていた。
でも、違ったんだな。ただ俺が、何も知らないだけだった。
「――いや、違うな。知ってた。俺がアシュリーをずっと傷つけていたことを。……知ってて目を逸らして、ごまかしていただけだ……」
後ろの扉に寄りかかると、膝の力が抜けてしまい、そのままズルズルとその場にへたり込む。
何もかも、うまく回ってると思ってた。
バレなければいい。バレても俺を愛してるアシュリーなら許してくれるとさえ思っていた。
『お前のその自信はどこから湧いて来てんだよ』
不意に、ジュリアンの言葉が頭の中に浮かぶ。
「ホントにな……。何が『愛されてる』だよ。我が身可愛さに、アシュリーを犠牲にして……」
たまらなくなって髪の毛を掻きむしる。
俺は自分が辛くなるのが嫌で、ずっと現実から逃げていただけだ。
俺がこんな根拠のない自信を持てるのは、十八年間アシュリーが俺を愛して、支えてくれていたからなのに。
俺はその気持ちに胡座をかいて踏みにじった――
「すまない……っ、アシュリー……!」
結婚したら、どいつもこいつも遠慮なく子供や閨のことを聞いてくる。以前はそれが嫌でたまらなかった。放っておいてほしかった。
きっとアシュリーは、それを察して何も言わなくなったんだな。
俺だって抱けるならとっくに抱いてるさ。でも、もうアシュリーはそういう対象ではなくなってしまったんだ。こればかりはどうしようもない。
こんなことになるなんて、昔は思ってもみなかった。
アシュリーと初めて関係を持ったのは学園時代だった。子供の頃から愛していたアシュリーと結ばれて、幸せで満たされたのを覚えている。
この国では、婚姻まで純潔を求められるのは、王家や由緒ある高位貴族、契約に基づく政略結婚の場合のみだ。婚約者同士の婚前交渉については割と認められていて、俺たちみたいな恋愛結婚も多い。
ただ、結婚式前に子供ができるのはよしとされないので、婚姻前までは避妊をするのが一般的だ。
あの頃はアシュリーと繋がるたびに愛しさが増して、一生彼女を愛して守っていこうと思った。卒業後の結婚が待ち遠しかった。
その後、結婚して二人の時間が増えて、最初はすごく幸せだった。
せっかく毎日一緒にいられるのだからと、俺はまだ二人の時間を楽しみたくて、こっそり避妊薬を飲んでいた。
アシュリーも特に何も言っていなかったし、彼女も俺と二人きりの時間を望んでいると思っていた。今となっては俺の一方的な思い込み以外の何ものでもない。
そうして一年が経ってそろそろ子供を……と考え出した時に、俺は部隊長に就任し、一気に仕事が忙しくなった。そして出世に比例してだんだん閨の回数が減っていった。
たくさんの部下を抱えて仕事のプレッシャーも増え、更に侯爵家当主の仕事もある。
その頃はもう避妊薬は飲んでいなかったが、女性には妊娠しやすい時期があって、それに合わせて行為をしなければ妊娠しづらいらしい。
でも毎日がとにかく忙しくて、そんな状況で適切な日にタイミングを合わせるのはとても難しかった。安全日に抱いたら責められているような気さえした。
アシュリーは何も言わないから完全に俺の被害妄想だけど、抱きたい時に抱けない義務のような子作りは、俺にとってストレスになっていった。
でもアシュリーは何も悪くない。俺が侯爵家の一人息子であるにも関わらず、騎士の夢を捨てきれなくて、勝手に多くのものを抱え込んだだけ。
そして勝手にプレッシャーに圧されて余裕がなくなった。ただそれだけだ――
そして副団長にまで出世した今、気づいたら何年もアシュリーを抱いていなかった。
いや、抱けなかった。
何度か、アシュリーが妊娠しやすいという日に自ら誘ってきたことがある。
でも俺はその気になれなかった。
愛する人が誘ってくれて嬉しいはずなのに、俺は断ってしまった。
その時のアシュリーの傷ついた顔が忘れられない。
自分が傷つけたくせに、胸が痛かった。
そのうちアシュリーを傷つけるのが怖くて、そういう雰囲気になるのを極力避けた。
――子供が欲しくないわけじゃない。
アシュリーとの子なら、可愛いに決まってる。
でも、義務だと思うとその気になれない。
こればかりは生理現象だから仕方ないじゃないか?
不能になったのかと心配になったこともあった。
それで追いつめられて、俺は確かめに行ってしまったんだ……
同僚に娼館に誘われた時、いつもは断るのに、その日は断らずに行ってしまった。
今思えばそれは間違いだった。確かめた結果、アシュリーにだけ反応しないのがわかってしまったから――
結果を知って余計苦しくなっただけだった。
アシュリーのことは変わらず愛してる。
彼女との暮らしにはなんの不満もないし、他に好きな女ができたわけでもない。
ただ――抱けない。
なぜなのかさえ、もうわからない。向き合うのが怖い。
正直、離婚を考えたこともある。
アシュリーのことを思えば、そのほうがいいのかもしれないと。
でも決断できず、状況を変えることもできず、現実逃避して仕事に逃げたまま、ズルズルとここまで来てしまった。
ベッドに腰かけると、まだ微かにアシュリーの香りが残っている気がした。
俺が部屋に入れば、嬉しそうに淡い金の髪を揺らしてこちらに駆け寄り、いつも労いの言葉をかけてくれた。
俺を慈しむように、愛しそうに見つめてくるエメラルドグリーンの瞳が何よりも好きだったのに、なぜ大事にしなかったのだろう。
――その愛は、当たり前にそこにあるものじゃなかったのに。
第二章
「アシュリー、包帯と消毒薬が足りなくなりそうだから補充しといて。それから解毒薬も。もうすぐ辺境騎士団が帰ってくるから」
「わかりました。タオルやガーゼはこれで足ります? まだ追加しますか?」
「ああ、そうだな。備品室にあるもの全部持ってきてくれ。それからついでに毛布も頼む」
「わかりました!」
私は今、セイラの伝手を頼って辺境騎士団の見習い看護師として働いている。
辺境伯であるルードヴィヒ様の奥様――ソフィア様はセイラの叔母で、看護師の資格を持っている私を快く受け入れ、住む場所と仕事を提供してくれた。
離婚協議中の侯爵夫人なんて厄介者でしかないのに、辺境伯夫妻には感謝しかない。
騎士のライナスを支えたくて取得した看護師の資格が、こんなところで役に立つとは皮肉な話だ。
「お飾り妻」だと揶揄されるのが嫌で頑張って取得したけど、肝心の夫にはなんの役にも立てず、努力は空回りして終わった。
王宮で働くライナスは警護が主な任務で、よほどのことがない限り戦闘には出ない。
ケガをしてもかすり傷程度で、私の出る幕はなかった。
――でも、
『貴女が得た看護の知識は、辺境の地で重宝される。そして貴女の身は最強の辺境騎士団が守ってくれるわ。どう? 看護師として、行ってみる気はない?』
セイラからそう言われて、胸が熱くなった。
私を必要としてくれる場所。そんな場所があるのなら、ぜひ行きたい。
私の存在を認めてくれる場所でなら、憂いなく新しい人生のスタートを切ることができる気がするから。
両親には、邸を出る前に手紙を出した。
ライナスとは離婚すること。しばらく彼には会いたくないから、私の居場所は秘密にしてほしいこと。そして実家には戻らず、辺境で看護師として生きること。
もし、ライナスが訪ねてきたら私の居場所は知らないと言ってほしいこと。そして私への連絡は、完全にライナスと縁が切れるまではセイラを通してほしいとお願いした。
両親からの返事には、離婚を咎める内容は一切なく、ただただ娘のことを心配していると綴られていた。
手紙から両親の愛情を感じ、申し訳なくて涙が出た。
これ以上心配をかけないためにも、ちゃんとしっかり自分の足で立たなくちゃ。
今までの私はライナスを支えるためだけに生きてきたけれど、これからは自分のために生きるわ。
この地で看護師として、新しい人生を始めるの――
騎士団の帰還を知らせる鐘が鳴り、皆が慌ただしく彼らの受け入れ準備に取り掛かる。
処置室の前で初めて彼らを出迎えた時、私は目を見張った。
視界に飛び込んできた光景は、まさに地獄絵図のようだった。
ダルの森に出現した魔物を討伐しに向かった辺境騎士団は、ほとんどの者が大量の血に染まり、処置室は一瞬で戦場と化した。
生死を彷徨うほどの重傷患者を初めて見た私は、むせ返る血の匂いに吐きそうになり、足がガクガクと震えた。それは想像を絶する光景だった。
「アシュリーさん! 運ばれたケガ人たちにこのハンカチを巻きつけて重症度別に分けてください! 重傷患者は先に治療するから奥に運んで!」
「わ、わかりました‼」
震える足を叩いて無理矢理動かし、他の看護師たちと共に負傷者たちの状態を見て、症状別に色のついたハンカチを彼らの腕に結んでいく。
赤が重傷、黄色がケガは酷いが意識のある人、緑が軽傷、そして黒は、死亡または助けるのが無理な人……
幸い今回は黒いハンカチをつけなくて済んだ。よかったと胸を撫で下ろす。
「アシュリーさん! 手が空いていたらこっち手伝って!」
「はい!」
名前を呼ばれ、急いで重傷患者の治療サポートに入った。
医師の先生や先輩看護師たちの指示に従い、必要な器具や薬を手渡して次々と治療を終わらせていく。
そして騎士団が帰還して三時間後、ようやく全員の治療が一段落した。
死者が一人もいなくて本当によかった。最初はとても怖かったけど、治療に必死すぎて、動いているうちに恐怖も吹き飛んでしまっていたわ。
病室で片づけをしていたら、奥から先生がやってきた。
「アシュリー、本当にありがとう。お前さんのお陰でスピーディに治療を終えることができたよ。手遅れになる者がいなくてよかった。落ち着いたからしばらく休憩するといい」
「本当に、優秀な人が来てくれてとても助かるわ。この調子でよろしくね」
「お褒めに預かり光栄です。まだまだ至らないところを発見したので、次はもっと手際よくできるよう頑張りますね」
胸の横で拳をギュッと握ると、先生は「頼もしいな」と笑顔で私の働きぶりを褒めてくれた。
嬉しい。難しくて苦労したけど、勉強してよかったと心から思えた。
「――う……うぅ……っ」
一息ついていると、目の前の重傷患者が魘されだした。
額に汗をたくさんかいて、苦しそうに顔を顰めている。
「せっ、先生! 患者さんの様子が……っ」
慌てて先生を呼ぶと、すぐこちらに来て診察をしてくれた。
「大丈夫。ただ魘されてるだけだ。ここの騎士にはよくあるんだよ。討伐のトラウマを抱えてる奴が多いからな。しばらくしたら落ち着くと思うから、念のため看ててやってくれるか?」
「はい。わかりました」
討伐のトラウマ……
先ほどの惨状を思い浮かべれば、トラウマの一つや二つあってもおかしくない。
王都の騎士団との違いに戸惑いを覚える。
ライナスのいた王宮騎士団では、こんなに鬼気迫るような空気を感じたことは一度もなかった。
でも、よく考えれば当たり前のことだ。王都と辺境では相手にしている敵が違う。
彼らは人間だけではなく、魔物も相手にしているのだ。王都に魔物が入ってこないのは、こうして彼らが命をかけて国を守ってくれていたからなのだろう。
その姿を見て、看護師としてより一層、彼らの命を救いたいという使命感が生まれる。
彼らの一人一人が大事な戦士であり、国防の要なのだ。
そんな決意を新たにしていると、小さなうめき声が聞こえた。
「う……して……くれ」
「え?」
起きたのかしら? と思い、彼の口元に耳を近づけ、言葉を拾う。
「許し……て……くれ」
再び彼の顔を見ると、目尻から涙をこぼしていた。
「――辛い夢を見ているのね」
彼は全身傷だらけで、一番酷かったのは細い棒のような物で突き刺された胸部の傷だった。
運良く心臓を外れて致命傷を免れていたが、かなり出血していたのでまだ予断を許さない。
彼の顔色は未だに悪かった。
それなのに、更に怖い夢まで見て魘されるなんて……。これでは精神を削られて治るものも治らなくなってしまうわ。
「大丈夫よ。ここには貴方を責める人など誰もいない」
新しいタオルで彼の汗と涙を拭い、ベッドの横にある手を取って軽く握った。
すごく大きな手なのに、冷たくなって震えている。
そして未だに許しを乞う彼に、「大丈夫。もう怖くない」と何度も応えながら、私はその冷えた手が温まるように摩り続けた。すると次第に彼の声が途切れ途切れになり、やがて寝息が聞こえだした。
「よかった。落ち着いたみたいね」
そして彼が意識を取り戻したのは、窓枠にオレンジ色の光が差しかかる頃だった。
ぼんやりとしていた視線が私を捉える。
「――あれ、俺……死んだ? ……女神がいる」
◇◇◇◇
「アシュリー! もう仕事終わったのか?」
医務室を出ると、黒髪短髪の大柄な男性が声をかけてきた。
「カイゼル様……」
セイラと同じアメジストの瞳が細められ、私に微笑みかける。
「はい、もう帰ります。今日もお疲れ様でした」
余計なことを言われる前に頭を下げて踵を返すと、なぜか彼もついてきた。
彼はあの時ひどく魘されていた重傷患者で、なんとセイラの従兄――辺境伯様の二番目のご子息だった。
「アシュリー、今日こそ一緒に飯食いに行こうよ。看病してくれたお礼もしたいし」
「仕事をしたまでなのでお礼なんていりません。それに、カイゼル様は全治三ヶ月のケガで絶対安静の身なんですよ? なぜベッドで寝ていないんです? また先生に怒られますよ」
「大丈夫大丈夫。俺、昔から体だけは丈夫だから。これくらいのケガどうってことないって」
「何言ってるんですか。貴方死にかけたんですよ⁉ 全然大丈夫じゃないでしょう!」
しかも魘されて泣いてたくせに!
「いいから、早く病室に戻ってください」
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