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出会い
弐
しおりを挟む「────あれ隆ちゃん! あんたまた来てたのかい。本当に懲りないね」
「山田のばあちゃん、いらっしゃい。懲りないんじゃなくて、一途なだけだよ。あ、今日の餡子は格段に美味いよ。俺が煮たからね」
「あはは、なら今日はおはぎを貰おうかねぇ」
寂れていたはずの和菓子屋「菓瑞」には、ここ最近朝からたくさんの人が訪れるようになった。
老若男女問わず訪れる客たちの目当てはもちろん和菓子、ではなく最近ここで働くようになった和装の男が目当てだった。
「ちょっと隆永さん!? 勝手に販売しないで下さい!」
店の奥から出てきた彼女は、いつの間にかレジを使いこなす隆永に目を見開きながら詰め寄った。
「あら、さっちゃん。おはよう~」
「山田のおばあちゃん、いらっしゃい! いつも贔屓にしてくれてありがとうね」
どいてください、と大して怖くもない顔で睨まれた隆永は「怒った顔も可愛いなぁ」と零す。
顔を真っ赤にした彼女は「もう!」と隆永の背中を押した。
彼女、松岡幸はこの和菓子屋「菓瑞」の店員でありこの店の店主の一人娘だ。
母親は幼くして死別し、父親一人だけで切り盛りするこの店を手伝いたいと、昨年大学を卒業してすぐに正式に店員として働きだしたらしい。
テキパキと働く幸の後ろ姿を見守る。
「はい、お待たせ。おばあちゃんこの後どこかいくの?」
「今日は神社へ朔参りにね。でもやっぱり病院に行こうかと思ってるよ」
「どっか悪いの?」
「最近肩が重くてねぇ」
あら大変、と自分の事のように不安げな表情を浮かべた幸。そんなやり取りに隆永は顎に手を当てた。
「それじゃあね、二人ともありがとう」
「困ったことがあったら言ってね。私もお父さんも、いつでも駆け付けるから」
幸がショーケースを回って紙袋を渡そうと動いたのを隆永が片手で制した。丸い目で己を見上げた幸に隆永は笑う。幸の手から紙袋を取った。
「ばーちゃん、外まで荷物持つよ」
「あらありがとう。さっちゃん、やっぱりいい男だよこの子は」
幸は顔を真っ赤にして「やめてよ、もう……」と唇を尖らせた。
外に出ると、隆永は紙袋を渡した。
「ばーちゃん、最近暗い所とか何か嫌な感じがする所に行った?」
「暗い所? そうねぇ、普段は暗くなる前に家に帰るし、なかったと思うんだけれど」
「なら変わった事とか」
変わったこと?と不思議そうに首を傾げると頬に手を当てて考え込む。そして数秒目しないうちに「あっ」と声を上げた。
「猫……」
その言葉に、隆永はすっと目を細めた。
「よく家に遊びに来てくれていた猫がね、この前家の前で車に轢かれていたの。可哀想に、たくさん血が出て……。もっと早くに私が気付いてあげられたら良かったんだけれど」
老婆の肩にしがみつく尾っぽが二本に裂けた猫が、ぴんと耳を立てる。
もちろんそんな猫がこの世のものであるはずがない。隆永たちはそのような生き物を妖、と呼んでいる。店へ入ってきた時から気が付いていた、この老婆には猫又が取り憑いている。化け猫の妖だ。
大方轢かれた恨みで化け猫になり、生前可愛がってくれて尚且つ死後の己を哀れんでくれたこの老婆に取り憑いてしまったのだろう。
猫又は普通害を与えない妖だ。しかし死ぬ直前の恨みが凶暴性を増加させ、人に害を与える存在に成り代わってしまったのだろう。
人に害を与えた時点で神役諸法度に則りその妖は祓う対象になる。隆永はすっとその肩に手を伸ばした。
「あの子が来てくれてから、夫もよく笑うようになって。私もあの子が来てくれるのを、毎日すごく楽しみにしてたの」
懐かしむように優しい表情を浮かべた老婆に、隆永はぴたりと手を止めた。頬に擦り寄る猫又をじっとみつめる。
「それじゃまた来るね。早く結婚できるといいねぇ」
「山田のばあちゃんからも頼んでよ」
「あはは、そんなことしたら清志さんに恨まれちまうよ」
幸の父親の名前を出して笑うと、手を振りながら歩いていく。
隆永は首をすくめると、一つ息を吐いて胸の前で柏手を打った。
「……綾に畏き天照國照統大神の御前に拝み奉り諸諸の命神等世世の御祖命教主命惠蒙れる人等の御前をも尊び奉りて恐こみ恐こみも白さく」
太く伸びやかで明朗な声が静かに響く。隆永が読上げるそれは、荒ぶる魂を鎮めるための祝詞と呼ばれる言葉だ。
「統大神の高く尊き霊威を蒙り奉りて任け給ひ寄さし給ひし大命の違ふ事無く怠る事無く仕へ奉ると諸諸の荒び疎ぶる禍津日の禍事に穢るる事無く横さの道に迷ひ入る事無く言退け行ひ和して玉鉾の直指す道を踏み違へじと真木柱太敷く立てて仕へ奉りし状を忝み奉りつつ復命竟へ奉らくを見備はし給ひ聞こし召し給ひて過ち犯しけむ禍事を見直し聞き直して教へ給ひ諭し給ひ霊の真澄の鏡弥照りに照り輝かしめ給ひて愈愈高き大命を寄さし給ひ身は健やかに家内睦び栄へしめ給ひ永遠に天下四方の國民を安けく在らしめ給へと恐こみ恐こみも白す」
最後の一言を奏上したその瞬間、猫又尾っぽがぴくりと動いた。そして隆永を振り返った猫又は不思議そうに首を傾げると、やがてまた老婆の頭に体を擦り付けミャオと鳴く。
これで大丈夫かな、と咳払いをすると店の中へ戻った。
無賃で祝詞奏上したなんて聞いたらまたあの煩い禰宜頭に説教をされそうだが、幸のためだから致し方ないだろう。
「おい、隆永。ちょっと手伝え」
店へ戻るなり厨房で作業をしていた幸の父親、清志が気難しそうな顔で隆永を呼びつけた。
「はい、お義父さん! 今行きます」
隆永は気前よくそう答えて小走りで厨房へ向かう。その途中で幸がなんとも言えない表情でこちらを睨んでいたので、ウィンクを返した。
「まだお義父さんじゃねぇ。親方って呼べ」
「そうですよね、これからでした。あはは」
何度も顔を出しているうちに、居座るなら手伝えと清志に言われてから店のあれこれを手伝うようになった。
初めは店番や接客がメインだったが、いつの間にか厨房の作業もいくつか任されるようになった。
表情の乏しい清志のことが初めのうちはよく分からなかったが、何日か共に過ごすうちにこうして厨房にも入れて貰えるようになったし、会う度に「娘さんを僕にください」と頼んでいるが「幸がいいって言ったらな」と言う返事に、嫌われてないことは確認済みだ。
「ちょっと! "まだ"も"これから"もないから!」
二人の会話に耳を立てていた幸が、売り場から顔をのぞかせて目くじらを立てる。
「幸さん、結婚してください」
「私の話聞いてました? また叩きだしますよ」
赤い顔でこちらを睨む幸。
"また"と幸が言うのも、隆永がここへ初めて来た日にプロポーズした時に驚いた幸に引っぱたかれたのだ。
どうやら彼女は口より先に手が出がちらしい。
「あはは、それはご勘弁」
上げた両手をヒラヒラさせて降参の態度を示した。
店仕舞いの時刻が近づき、レジ締めを手伝った隆永は帰り支度を整えていた。
「おい幸、ちょっと頼まれてくれ」
「どうしたの?」
「ラップを切らした。明日の仕込みで使うんだ。買い出し行ってくれるか」
「分かった。ついでに夕飯の買い物もしちゃおうかな」
いそいそとコートを取りに二階の自宅へ上がった幸の背中を見つめる。
「おい隆永、幸に付き合え」
「もちろんです。惚れた女を夜道一人で歩かせるわけには行きませんからね、お義父さん」
「まだ親方だ」
ふん、と鼻を鳴らした清志は厨房に戻って行った。
茶色のコートを作務衣の上に羽織った幸が降りてくる。まだ帰っていなかった隆永に目を瞬かせる。
「隆永さん、早く帰らないと遅くなりますよ。また真言さん怒るんじゃないですか?」
「もう暗いし一人じゃ心配だから、俺も買い物付き合うよ。真言には毎日怒られてるしどうって事ない」
「でも、家の買い物もするし……」
「なら尚更だ。荷物持ち要員ってことで」
「でも」と頬を染めて口篭る幸に、行くよと隆永は外に出た。
季節はまだ秋とはいえ夜はぐんと冷え込む。着物だけではもう寒いな、と袖に手を入れて腕を組んだ。
それにしても、と塀の影や電柱の裏へ視線を向ける。どれも害のないものばかりだが、この街はやたら妖が多い。こちらの様子を伺う目が、目視できるだけで十はいる。自分のような者が物珍しいのも一因ではあるのだろうけれど。
からから、と後ろで戸が閉まる音がして幸が駆け寄ってきた。
「お待たせ、しました」
「ん、行こうか。あ、手繋ぐ?」
ボッと顔を赤くした幸の平手が飛んできた。いてて、と右頬を擦りながらぷりぷりと怒って先を歩く幸の背中を追いかけた。
この遠慮ない平手もいいねと笑う。幸は潤んだ瞳で隆永を睨んだ。
「そんな性格じゃ、色んな女の人から殴られてるじゃないですか」
「あはは、親父にもぶたれたことないよ」
「……隆永さんってもしかして、すっごくいい所のご子息だったりします?」
「いい所のご子息ってほどでは無いけど、まあそれなりに有名な家系って感じかな」
へえ、と幸が興味深げに相槌を打つ。幸が己に興味を示すのは珍しい。
それなりにと伝えたが、この界隈の人間なら神々廻の名前を聞けば誰でも知っていると答えるだろう。
神々廻の家系は代々龍神を御祭神として祀るわくたかむの社、別称を稚高産神社に仕える家系である。社の規模は東日本では最大で、創建は奈良時代まで遡る。最古の社とされる"かむくらの社"に次いで古い社だ。
「古ければ古いほど良い」と考える者が多いこの界隈では創建の順に社の権威が強く、自動的にわくたかむの社に仕える神々廻家は高い地位に就くことができた。
御祭神の神託により選ばれる神主もここ二百年は神々廻の家系から外れたことはなく、血筋の濃さも他に追随を許さないほど圧倒的だった。
そんな家で育った隆永はもちろんそれなりの教育を施されてきたし、隆永を取り巻く人々も行く行くは宮司になる者として接してきた。
進学するまでは間違いなく良い所のお坊ちゃんに育っていたはずなのだが、初等部へ上がった頃に悪友と出会い、寮で過ごすうちに今の隆永が出来上がった次第だ。
「隆永さんのお家って神社なんですよね?」
「そうそう。古いもの大好きな古い人たちの巣窟だよ。鳥居をくぐったら法律は通用しないレベルだから、正直嫁に来るのはオススメできないけど」
「……プロポーズしたくせに」
「あははっ、そうだね」
からからと笑う隆永に、幸は眉根を寄せて唇を尖らせた。
初めは遠慮していた幸だったが、せっかく隆永がいるのならと十キロの米や徳用サイズのあれこれを買うともちろん隆永にそれを持たせた。
「いつもは重いから小さいのしか買えなくて」
まとめて買えなかった重い物を購入出来て幸は上機嫌にそう言う。
「また隆永さんをぱしりにしようかな」
「あはは、喜んで。幸さんのそういう強かな所も好きだよ」
幸は顔を赤くして隆永の横腹にパンチを入れる。全く本気じゃないその拳に隆永は頬が緩んだ。
「全く、隆永さんは直ぐにそんな……」
「本音だよ。俺、正直者だから」
追い打ちをかけるような言葉に幸は口を結んで黙りこくる。
「……何で、私なんですか?」
意外な反応に目を瞬かせた。
いつも隆永が「好き」やら「愛してる」やら「結婚してくれ」なんかを口にする度に、幸は顔を真っ赤にして話を終わらせようとするか話題を変えようと躍起になるからだ。
今日は二回も興味を示してくれた。
「もしかして、その返答次第によっては俺と結婚────」
「しません。私ナンパするような人は大嫌いなんです」
「あれはナンパじゃなくてプロポーズだよ」
うるさい!と噛み付く幸に、隆永は楽しげに声を上げた。
「ごめんごめん。でも"なんで私"……か。説明するのが難しいんだけど、幸さんに出会ったその瞬間、"この人だ"って思ったんだ」
「何ですかそれ。結婚詐欺師の手口みたい」
「あははっ、辛辣だな~。でもそうとしか言いようがないんだよ。俺の家ってちょっと変わっててさ、そういう直感とか霊感とか……感覚的な物を大事にするんだ」
「それは、お家が神社だから?」
まだ自分の家系の特殊性を説明するのは早い気がして「そんなところ」と曖昧に返す。
「実を言うとこれまでに散々お見合いの話が上がってきて、全部断ってたんだ。相手が悪い訳ではなくて、俺が"違う"と思ってしまったから」
「違う……?」
「そう。でも幸さんに出会った瞬間、体に雷が落ちたと思うほどの衝撃が走った。俗っぽい言い方をすると、一目惚れってやつかな」
大袈裟です、と幸はおかしそに肩をふるわせた。そんな幸を隆永は微笑みながら見つめる。
初めはそんな衝動的な感覚でプロポーズをしたかもしれない。けれど今は、自分に正直で表情がコロコロと変わって、誰にでも平等に優しく極度の照れ屋な彼女が心の底から愛おしく思えた。
「今日はやけに俺に興味持ってくれるね。嬉しいなぁ。惚れた?」
「またそんな事を……まだ全然惚れてません」
「"まだ"?」
意地悪かとは思いつつ揚げ足を取れば、案の定幸は目元を赤くして隆永の背をポカポカと叩いた。
「"まだ"も"これから"もありません!」
「あはは、この城を攻め落とすにはもう少し時間がかかりそうだね」
馬鹿ばっかり言ってないでさっさと歩く!と彼女は大股で先を行く。小さく肩をすくめて幸の背中を追いかけた。
「────隆永権宮司、真言です」
「どうぞー」
その夜、社へ帰宅してすぐに巫女頭に捕まり、社務所の会議室に溜まった書類仕事と共に放り込まれた。
反論する余地もなく睨みつけられ、更には外から鍵をかけられた。鍵をかけられてはどうにもならず、仕方なく書類に目を通していると湯呑みと茶請けを持った真言が入ってきた。
扇屋真言はわくたかむの社の禰宜頭を務める若者だ。隆永よりも二つほど年下で、彼の曽祖父の代からこの社で奉仕している。
彼自身、学生時代は非常に優秀な成績を収めており、優秀な生徒だけに声がかかる日本神社本庁への勧誘を蹴ってまでこの社で奉仕をしている。
幼少期から祖父や父に連れられて社へ何度も来ており、隆永の遊び相手になっていた。わくたかむの社へ奉仕が決まると、すぐに禰宜の役職が与えられ隆永のお目付け役を担うようになった。
「本当に食べるんですか? これ」
テーブルに湯のみを置きながら、真言は怪訝な声でそう尋ねる。湯のみのそばに置かれた小皿にはおはぎがちょこんとのっていた。
「ん? ああ、俺の婚約者のお父上が作ったものだからね。それにこの俺が食べれるくらい、甘ったるくなくて美味いんだよ」
「はぁ」
一つ伸びをすると小皿のおはぎを摘む。
口当たりのいい食感に程よい甘さ。甘いものが得意では無い隆永が、おはぎを食べて初めて「美味い」と感動したのだ。
「宮司がその"婚約者"を早く連れてこいと毎日毎日仰ってますが」
「そのうちね」
「勘弁してくださいよ! 隆永さんと宮司に板挟みにされる僕の気持ち、考えたことあります!?」
「ご苦労さん」
はああ、とこれみよがしに大きなため息をついた真言を気にすることも無く、「美味いなぁ」とおはぎを食べ進める。
「やっと見つけたご婚約者さまに浮かれるのは良いのですが、暫くはこちらに集中して頂くことになりますよ」
苦い顔を浮かべた真言が、新たに持ってきた書類を隆永の前に滑らした。報告書、とあるその紙を上からざっと目を通す。
「土蜘蛛か」
「ええ。現地の社の神職が対応したそうなのですが、修祓に失敗したようで」
「被害は?」
「対応に当たった社の神職五名が重軽傷、一般人への被害が十二件です」
多いな、と険しい顔を浮かべる。
土蜘蛛は一メートル以上の巨大な体を持つ蜘蛛の姿をした妖で、その力は強大で無差別に人を襲い食うとされている。その多くは山の中に生息し、神役諸法度では見つけ次第修祓を推奨されている。
「奥多摩か……」
「何か気になることでも?」
「いや」
黙りこくる隆永に何かを察したらしく、真言は静かに頭を下げて部屋を後にした。
被害のある西多摩郡奥多摩は大岳山で隔てられているとはいえ、幸の住むあきる野の隣。距離はあるが山さえ越えれば目と鼻の先だ。
考えすぎか、と湯のみの茶を啜る。
「忙しくなりそうだな……」
椅子の背もたれに体重を預けて天井を仰いだ。
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