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以津真天の待ち人
捌
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────さま……巫女さま、巫女さま!
肩が叩かれるような感覚でハッと我に返った。辺りをきょろきょろと見回すと、見慣れた社務所の景色が広がっている。心配そうに私の顔を覗き込むかげぬいと目が合った。
突然目を開けたままぼうっとなさるので心配しましたよ。いかがなされました?」
「え、あれ、えっと……」
額に手を当てながら考える。わずかに頭の奥が痛んだ。
流れるように頭に入ってきた今の映像は、間違いなくかげぬいの思い出だ。けれど、どうして。今までなら妖の言葉に影響を受けたとしても夢に見る程度だったのに。
「私、どれくらいぼうっとしてました……?」
「さて、一分も経っていなかったとは思いますが」
「一分……」
再び黙り込んだ私に、心配そうな顔を浮かべたかげぬい。慌てて「ごめんなさい、何でもないの」と顔の前で両手を振った。
やがて三門さんが戻ってきて、かげぬいは三門さんと話し始める。そうこうしているうちに子供たちも戻ってきて、社は賑わいを取り戻す。 社務所に顔を出したババからそろそろ部屋へ戻るように促され、気も漫ろで妖たちに挨拶をして部屋へと戻った。
いろいろと考え込んでいたせいで眠るのが遅くなり、翌日は寝坊をしてしまった。十一時を回ったころに「学校ッ……!」と飛び起きて、休日であったことに気が付く。
ほっと胸をなでおろして布団をたたむと、部屋を出て居間に向かった。
居間のちゃぶ台にはラップが欠けられたサンドイッチが置いてあった。ラップの隅が少しだけめくられており、サンドイッチには小さなくぼみがいくつかあった。食卓にマヨネーズでできた小さな足跡を見つけ、それが家鳴の仕業であることに気が付く。
小さく笑ってから前に座り、「いただきます」と手を合わせた。
ゆっくりテレビを見ながら昼ご飯を済ませ、数学の宿題をやっつけてから社務所に顔を出した。三門さんが御札を作っているところだった。
「お、麻ちゃん。おはよう」
「おはようございます」
「サンドイッチ、まだ食卓にあった? さっき、もしかしたら家鳴に食べられてるんじゃないかって気が付いてさ」
ふふ、と笑ってから首を振る。
「ちょっとだけ齧られてました。でもちゃんと私の分は残してくれていたので、怒らないであげて下さいね」
三門さんは目を弓なりにして微笑む。
私は三門さんの前に進み、腰を下ろして正座をした。不思議そうに首を傾げた三門さんは、一度筆をおいて姿勢を正す。
「聞きたいことがあるんです」
「うん?」
「……いつも、妖の記憶を見たときは────葵やケヤキの記憶を見たときは、私が眠っているときだったんです。でも昨日、私は起きたまま、かげぬいの思い出を見ました。かげぬいが言うには、私は少しの間ぼうっとしていただけだったんです」
三門さんは真剣な顔で考え込むように目を伏せる。
思い返せば、詩子のときもそうだ。あの時はまるで私が詩子の記憶の中に入り込んだかのような現象が起きていた。それもほんのわずかな時間の中でだ。少し前まではそんなことはなかったのに、こちらへ引っ越してきてから変な風に妖たちの記憶に引き込まれている。
続けてそのように話すと、三門さんはすっと顔をあげた。
「昭徳さんの封じの力が弱まってきているのかもしれないね」
「じゃあ、本来私が持っている力が戻ってきているってことでしょうか……?」
「そうだね。そう考えていいと思う」
自分の掌を見つめた。
まだ自分の力がどういうもので、どう扱えばいいのかがちゃんと分かっていない。封じられている状態ですら、人を傷つけてしまうほどの力を持っていたのだ。ちゃんと私自身で扱うことができるのかと眉根を寄せる。
「不安にならなくてもいいよ。力の使い方を練習し始めよう」
三門さんは私を安心させるように柔らかい声でそう言う。お願いします、と不安げに頭を下げると、三門さんは「よし」と手を打った。
「丁度暇な時間帯だし、せっかくだから今から始めようか」
三門さんは書いていた御札を箱に仕舞うと、新しい半紙を広げて筆を持った。達筆な字で、半紙の左右に「言祝ぎ」「呪」と書く。少し身を乗り出してそれを見る。
「このふたつの説明は覚えてるかな?」
「……はい。私たちの持っている“言霊の力”を構成するふたつの要素、ですよね」
「その通り。呪が『陰』すなわちマイナス、言祝ぎが『陽』すなわちプラスの要素だ。例えば、祝福したり、感謝を伝える祝詞に言霊の力を乗せるとき、言祝ぎの要素を強めることで祝詞本来の力が発揮される。逆に『呪』の力が強ければ、祝詞の力は災いに転じることもあるんだ。そして残念なことに、このふたつの要素を明確に分けて使いこなすのはとても難しい。けれど、比較的簡単に強めたり弱めたりする方法がひとつだけある」
三門さんは一つ笑ってから「見てて」と言うと、半紙を真ん中でふたつに裂いた。立ち上がって、『呪』と書かれた方の半分を宙に放り投げる。ふわりふわりと宙で二回揺れた半紙、その時。
「裂けッ!」
突然三門さんは怒鳴るように低く鋭い声で叫んだ。声とほぼ同時に、半紙はナイフで切り裂かれたように勢いよく真っ二つになった。
目の前の光景に言葉を失う。腰を抜かしたように畳に手をついた。
三門さんは続けて『言祝ぎ』の半紙を宙に放り投げる。咄嗟に首を竦めて身構える。先ほどと同じようなタイミングで、「裂け」と言った三門さんの声は、優しく穏やかな声だった。
そっと破くようにふんわりと真ん中で裂けた半紙は畳の上にひらりと落ちる。ばらばらになったそれを集めると、三門さんは元の位置に座った。
「試しに、一度目は呪を、二度目は言祝ぎの要素を強めてみたけど、何か違いに気が付いたかな?」
暫く考えて「────声色、ですか?」そう尋ねる。大当たり、と三門さんは指で丸を作った。
「高く優しい声は言祝ぎは、低く鋭い声は呪を強くする。単純だけれど、言霊を扱う基本的な部分はここにあるんだ」
そう言えば、三門さんが祝詞を奏上するときの声は、たしかに優しい声だった。子守唄を歌うような、清らかで温かい声だ。
「……だから、私が祝詞を唱えるとき、優しい声でって」
三門さんは一つ頷いた。
「いつも自分が人と話しているときの声色が言祝ぎと呪が等しく保たれた状態になるんだ。だから普段から高い声や低い声を心掛けてみて」
そう言った三門さんに首を傾げた。
低い声が呪の要素を強める原因になるのならば、低い声を心掛ける必要はないのではないだろうか。災いに転じてしまうかもしれないのに、わざわざ呪の要素を扱う練習をするのはなぜだろう。
私が疑問に思っていることが分かったのか、三門さんは言葉を続けた。
「祝福をもたらす祝詞だけじゃ、皆を守り導くことができないんだ。時には『呪』の要素を強めて、祝詞を唱えることもある」
少し寂しそうに、三門さんは伏し目がちにそう言う。
どういう意味なのかあまりよく分からずにいると、「麻ちゃんはまだ『言祝ぎ』を意識するだけでいいよ」と笑った。
昼過ぎまで三門さんと一緒に社務所で練習に励み、午後からは仕事があるらしく私は外に出かけた。あまり人の来ない、丁度いい練習場所はないかとうろうろしていると川の近くで葵に会った。
ほとんど強制的に河原へ引っ張られ、そこで世間話をしながら練習に励む。三門さんに教えてもらった半紙を投げて言霊の力で裂く練習方法を試してみたが、半紙は一ミリも避けることなく地べたに落ちる。
葵が「なにやってんだよ」とケラケラ笑ったので、むうっと唇を尖らせた。
「言霊の練習だよ。難しいんだから」
「何だ、妖術の類いか」
妖術? と聞き返す。妖が使うことのできる不思議な力をそう言うのだと教えてくれた。なんでも、普通の妖では使うことができず、一部の特別な妖だけが扱うことができるのだとか。
「生まれつき妖術が使えるかどうかが決まっているんだよ。天狗や妖狐、鬼なんかの力の強い妖は大体使えるぞ」
葵はふふんと胸を張った。
「私の妖術を見たいか? 仕方がないなあ、少しだけだぞ! 疲れるけど、麻の頼みなら仕方ない!」
ふんふん、と鼻息荒く私から距離を取った葵。その姿に思わずくすくすと笑い声を漏らした。最近、葵と話していると「妹がいたらこんな感じなのかなあ」なんて思うときがある。
遠くまで走って行った葵は「見てるかーッ」と叫んだ。返事の代わりに大きく手を振り返す。
「危ないから動くなよーッ」
「……え? 危ない? 葵、一体なにを」
そう呟いた瞬間、葵がこちらに向かって勢いよく両手を突き出した。
風が目に見えたのは、生まれて初めてだった。確かに巨大ななにかの塊が、ものすごい速さでこちらに進んできている。
飛行機が離陸するときのような轟音が耳の横を通り過ぎたかと思うと、二・三メートル離れた所に立っていた木が一瞬にして折れた。枝が数本、なんていうレベルではない。幹の一番太い所からぼっきり真っ二つになっていたのだ。
あんぐり目を開けたまま真っ二つになった幹を茫然と見つめる。足取り軽く駆け寄ってきた葵は「どうだ凄いだろ!」と大袈裟に胸を張って見せた。
「め、めちゃくちゃ危ないじゃん!」
「だから動くなって言っただろ? それに実際麻には何の危害も与えてないぞ。すごいだろ」
不機嫌そうに葵は足元の小石を蹴飛ばした。
「確かにすごいけど……折れた木はもとに戻らないんだよ」
頭の隅にケヤキの兄弟たちの顔が蘇る。葵もやり過ぎたと思ったらしく眉を下げて肩を落とした。
どうしたものか、と倒れた木の傍でしゃがみ込んで考える。
「……あ」
「あ?」
不思議そうに葵が私を見た。倒れた木と私の手を交互に見つめる。できるかな、と手を握った。
三門さんの祝詞を唱えるときの声を思い出した。優しく、穏やかで、包み込むような温かい声。言祝ぎが強い言霊の力だ。
折れた部分の幹に手を当てて、鼓動を落ち着かせるようにすっと息を吸った。
「────いたいのいたいの、飛んでいけ」
体の中で、何か温かいものが膨らんだような気がした。倒れた木の幹に添える手がわずかに温かい。もしかして上手くいったんじゃ、と期待が膨らむ。
しかし折れたその部分は何の変化も見せず、同じ姿のままだった。
「……駄目だったみたい」
「そりゃ、昨日今日操れるもんじゃないんだから当たり前だろ」
ズバリそう言われてしまいがっくりと肩を落とす。
やっぱり練習しなきゃダメか。
ひとつ大きなため息を吐いたその瞬間、静電気が走ったように全身の肌にぴりっとした感覚が走った。驚いて首をあげると、葵も何かを感じ取ったらしい、険しい顔で遠くを睨んでいる。
「また術者だ。アイツが何かしたんだ。仲間が泣いている」
そう言った葵が駆け出す。
「待って葵!」
慌ててその背を追いかけた。
見えなくなった葵の背中がやっと見えてきたかと思うと、他にも二つの人影があった。駆け寄ると、葵が化け猫の子どもを背で庇うようにして立っている。桃色の着物を着ているその女の子は、社でも何度か遊んだことがある。
「葵!」
声をかけると女の子が私に気が付き両手を広げながら走ってくる。
「巫女さまーッ」
手を広げて抱きとめると、私の首に顔を埋めて火が付いたようにわっと泣き出した。二の腕に鋭いもので切り裂かれたような傷を負っていた。背中を撫でて落ち着かせる。
眉間に皺を寄せながら顔をあげる。
「────賀茂くん」
冷ややかな目と目が合った。女の子を抱き寄せる手に自然と力が入る。
「巫女さま、いたい」
腕の中からそんな声が聞こえて慌てて力を弱めた。
「ごめんね、少し辛抱してね」
ポケットからハンカチを取り出してそれで傷口を縛った。顔を顰める女の子の頭を優しくなでる。
「何をしている。それから離れろ」
淡々とした声にかっと頭に血が上った。
「賀茂くんがこの子に、怪我させたの」
「だったらなんだ」
彼は煩わしそうに溜息を吐いた。何の感情も籠っていない目がこちらを見据えている。
「こんな時間に人里へ降りてきている妖だ。害がある。俺はそれを祓う義務がある」
「ちがうもん……っ、母さんが病気で、三門さまに、お薬もらいに……」
だんだんと声が小さくなっていき、女の子はひっと息を飲んで私の背中に隠れる。握りしめた拳が怒りで震えた。
「葵、この子と社に」
「……ああ、こいつに仕返ししてからなッ!」
その瞬間、ばさりと翼が空気を押す音が聞こえた。私の前を黒い何か通り過ぎる。翼だった。光をあびて黒光りするそれは、まるで始めからそこにあったように違和感なく動いた。目の前の光景がゆっくりと動いていく。
横目で賀茂くんの手が動いたのが見えた。考えるよりも先に体が動いた。大きく翼を羽ばたかせ少し宙に浮いた葵の手を強く掴む。
葵がバランスを崩した。目を見開いて振り返る。
賀茂くんの手が胸まで上がる。その唇が動くのと同時に強く手を引いた。
「麻!?」
葵の驚いた声、女の子の悲鳴、何かが空気を切り裂く音が響く。強い衝撃が身体中に走って体が傾いた。
「社に、三門さんに……」
最後まで言い切ることはできなかった。視界の隅が徐々に白くなっていく感覚にあらがうこともできず、そのまま意識を手放した。
────さま……巫女さま、巫女さま!
肩が叩かれるような感覚でハッと我に返った。辺りをきょろきょろと見回すと、見慣れた社務所の景色が広がっている。心配そうに私の顔を覗き込むかげぬいと目が合った。
突然目を開けたままぼうっとなさるので心配しましたよ。いかがなされました?」
「え、あれ、えっと……」
額に手を当てながら考える。わずかに頭の奥が痛んだ。
流れるように頭に入ってきた今の映像は、間違いなくかげぬいの思い出だ。けれど、どうして。今までなら妖の言葉に影響を受けたとしても夢に見る程度だったのに。
「私、どれくらいぼうっとしてました……?」
「さて、一分も経っていなかったとは思いますが」
「一分……」
再び黙り込んだ私に、心配そうな顔を浮かべたかげぬい。慌てて「ごめんなさい、何でもないの」と顔の前で両手を振った。
やがて三門さんが戻ってきて、かげぬいは三門さんと話し始める。そうこうしているうちに子供たちも戻ってきて、社は賑わいを取り戻す。 社務所に顔を出したババからそろそろ部屋へ戻るように促され、気も漫ろで妖たちに挨拶をして部屋へと戻った。
いろいろと考え込んでいたせいで眠るのが遅くなり、翌日は寝坊をしてしまった。十一時を回ったころに「学校ッ……!」と飛び起きて、休日であったことに気が付く。
ほっと胸をなでおろして布団をたたむと、部屋を出て居間に向かった。
居間のちゃぶ台にはラップが欠けられたサンドイッチが置いてあった。ラップの隅が少しだけめくられており、サンドイッチには小さなくぼみがいくつかあった。食卓にマヨネーズでできた小さな足跡を見つけ、それが家鳴の仕業であることに気が付く。
小さく笑ってから前に座り、「いただきます」と手を合わせた。
ゆっくりテレビを見ながら昼ご飯を済ませ、数学の宿題をやっつけてから社務所に顔を出した。三門さんが御札を作っているところだった。
「お、麻ちゃん。おはよう」
「おはようございます」
「サンドイッチ、まだ食卓にあった? さっき、もしかしたら家鳴に食べられてるんじゃないかって気が付いてさ」
ふふ、と笑ってから首を振る。
「ちょっとだけ齧られてました。でもちゃんと私の分は残してくれていたので、怒らないであげて下さいね」
三門さんは目を弓なりにして微笑む。
私は三門さんの前に進み、腰を下ろして正座をした。不思議そうに首を傾げた三門さんは、一度筆をおいて姿勢を正す。
「聞きたいことがあるんです」
「うん?」
「……いつも、妖の記憶を見たときは────葵やケヤキの記憶を見たときは、私が眠っているときだったんです。でも昨日、私は起きたまま、かげぬいの思い出を見ました。かげぬいが言うには、私は少しの間ぼうっとしていただけだったんです」
三門さんは真剣な顔で考え込むように目を伏せる。
思い返せば、詩子のときもそうだ。あの時はまるで私が詩子の記憶の中に入り込んだかのような現象が起きていた。それもほんのわずかな時間の中でだ。少し前まではそんなことはなかったのに、こちらへ引っ越してきてから変な風に妖たちの記憶に引き込まれている。
続けてそのように話すと、三門さんはすっと顔をあげた。
「昭徳さんの封じの力が弱まってきているのかもしれないね」
「じゃあ、本来私が持っている力が戻ってきているってことでしょうか……?」
「そうだね。そう考えていいと思う」
自分の掌を見つめた。
まだ自分の力がどういうもので、どう扱えばいいのかがちゃんと分かっていない。封じられている状態ですら、人を傷つけてしまうほどの力を持っていたのだ。ちゃんと私自身で扱うことができるのかと眉根を寄せる。
「不安にならなくてもいいよ。力の使い方を練習し始めよう」
三門さんは私を安心させるように柔らかい声でそう言う。お願いします、と不安げに頭を下げると、三門さんは「よし」と手を打った。
「丁度暇な時間帯だし、せっかくだから今から始めようか」
三門さんは書いていた御札を箱に仕舞うと、新しい半紙を広げて筆を持った。達筆な字で、半紙の左右に「言祝ぎ」「呪」と書く。少し身を乗り出してそれを見る。
「このふたつの説明は覚えてるかな?」
「……はい。私たちの持っている“言霊の力”を構成するふたつの要素、ですよね」
「その通り。呪が『陰』すなわちマイナス、言祝ぎが『陽』すなわちプラスの要素だ。例えば、祝福したり、感謝を伝える祝詞に言霊の力を乗せるとき、言祝ぎの要素を強めることで祝詞本来の力が発揮される。逆に『呪』の力が強ければ、祝詞の力は災いに転じることもあるんだ。そして残念なことに、このふたつの要素を明確に分けて使いこなすのはとても難しい。けれど、比較的簡単に強めたり弱めたりする方法がひとつだけある」
三門さんは一つ笑ってから「見てて」と言うと、半紙を真ん中でふたつに裂いた。立ち上がって、『呪』と書かれた方の半分を宙に放り投げる。ふわりふわりと宙で二回揺れた半紙、その時。
「裂けッ!」
突然三門さんは怒鳴るように低く鋭い声で叫んだ。声とほぼ同時に、半紙はナイフで切り裂かれたように勢いよく真っ二つになった。
目の前の光景に言葉を失う。腰を抜かしたように畳に手をついた。
三門さんは続けて『言祝ぎ』の半紙を宙に放り投げる。咄嗟に首を竦めて身構える。先ほどと同じようなタイミングで、「裂け」と言った三門さんの声は、優しく穏やかな声だった。
そっと破くようにふんわりと真ん中で裂けた半紙は畳の上にひらりと落ちる。ばらばらになったそれを集めると、三門さんは元の位置に座った。
「試しに、一度目は呪を、二度目は言祝ぎの要素を強めてみたけど、何か違いに気が付いたかな?」
暫く考えて「────声色、ですか?」そう尋ねる。大当たり、と三門さんは指で丸を作った。
「高く優しい声は言祝ぎは、低く鋭い声は呪を強くする。単純だけれど、言霊を扱う基本的な部分はここにあるんだ」
そう言えば、三門さんが祝詞を奏上するときの声は、たしかに優しい声だった。子守唄を歌うような、清らかで温かい声だ。
「……だから、私が祝詞を唱えるとき、優しい声でって」
三門さんは一つ頷いた。
「いつも自分が人と話しているときの声色が言祝ぎと呪が等しく保たれた状態になるんだ。だから普段から高い声や低い声を心掛けてみて」
そう言った三門さんに首を傾げた。
低い声が呪の要素を強める原因になるのならば、低い声を心掛ける必要はないのではないだろうか。災いに転じてしまうかもしれないのに、わざわざ呪の要素を扱う練習をするのはなぜだろう。
私が疑問に思っていることが分かったのか、三門さんは言葉を続けた。
「祝福をもたらす祝詞だけじゃ、皆を守り導くことができないんだ。時には『呪』の要素を強めて、祝詞を唱えることもある」
少し寂しそうに、三門さんは伏し目がちにそう言う。
どういう意味なのかあまりよく分からずにいると、「麻ちゃんはまだ『言祝ぎ』を意識するだけでいいよ」と笑った。
昼過ぎまで三門さんと一緒に社務所で練習に励み、午後からは仕事があるらしく私は外に出かけた。あまり人の来ない、丁度いい練習場所はないかとうろうろしていると川の近くで葵に会った。
ほとんど強制的に河原へ引っ張られ、そこで世間話をしながら練習に励む。三門さんに教えてもらった半紙を投げて言霊の力で裂く練習方法を試してみたが、半紙は一ミリも避けることなく地べたに落ちる。
葵が「なにやってんだよ」とケラケラ笑ったので、むうっと唇を尖らせた。
「言霊の練習だよ。難しいんだから」
「何だ、妖術の類いか」
妖術? と聞き返す。妖が使うことのできる不思議な力をそう言うのだと教えてくれた。なんでも、普通の妖では使うことができず、一部の特別な妖だけが扱うことができるのだとか。
「生まれつき妖術が使えるかどうかが決まっているんだよ。天狗や妖狐、鬼なんかの力の強い妖は大体使えるぞ」
葵はふふんと胸を張った。
「私の妖術を見たいか? 仕方がないなあ、少しだけだぞ! 疲れるけど、麻の頼みなら仕方ない!」
ふんふん、と鼻息荒く私から距離を取った葵。その姿に思わずくすくすと笑い声を漏らした。最近、葵と話していると「妹がいたらこんな感じなのかなあ」なんて思うときがある。
遠くまで走って行った葵は「見てるかーッ」と叫んだ。返事の代わりに大きく手を振り返す。
「危ないから動くなよーッ」
「……え? 危ない? 葵、一体なにを」
そう呟いた瞬間、葵がこちらに向かって勢いよく両手を突き出した。
風が目に見えたのは、生まれて初めてだった。確かに巨大ななにかの塊が、ものすごい速さでこちらに進んできている。
飛行機が離陸するときのような轟音が耳の横を通り過ぎたかと思うと、二・三メートル離れた所に立っていた木が一瞬にして折れた。枝が数本、なんていうレベルではない。幹の一番太い所からぼっきり真っ二つになっていたのだ。
あんぐり目を開けたまま真っ二つになった幹を茫然と見つめる。足取り軽く駆け寄ってきた葵は「どうだ凄いだろ!」と大袈裟に胸を張って見せた。
「め、めちゃくちゃ危ないじゃん!」
「だから動くなって言っただろ? それに実際麻には何の危害も与えてないぞ。すごいだろ」
不機嫌そうに葵は足元の小石を蹴飛ばした。
「確かにすごいけど……折れた木はもとに戻らないんだよ」
頭の隅にケヤキの兄弟たちの顔が蘇る。葵もやり過ぎたと思ったらしく眉を下げて肩を落とした。
どうしたものか、と倒れた木の傍でしゃがみ込んで考える。
「……あ」
「あ?」
不思議そうに葵が私を見た。倒れた木と私の手を交互に見つめる。できるかな、と手を握った。
三門さんの祝詞を唱えるときの声を思い出した。優しく、穏やかで、包み込むような温かい声。言祝ぎが強い言霊の力だ。
折れた部分の幹に手を当てて、鼓動を落ち着かせるようにすっと息を吸った。
「────いたいのいたいの、飛んでいけ」
体の中で、何か温かいものが膨らんだような気がした。倒れた木の幹に添える手がわずかに温かい。もしかして上手くいったんじゃ、と期待が膨らむ。
しかし折れたその部分は何の変化も見せず、同じ姿のままだった。
「……駄目だったみたい」
「そりゃ、昨日今日操れるもんじゃないんだから当たり前だろ」
ズバリそう言われてしまいがっくりと肩を落とす。
やっぱり練習しなきゃダメか。
ひとつ大きなため息を吐いたその瞬間、静電気が走ったように全身の肌にぴりっとした感覚が走った。驚いて首をあげると、葵も何かを感じ取ったらしい、険しい顔で遠くを睨んでいる。
「また術者だ。アイツが何かしたんだ。仲間が泣いている」
そう言った葵が駆け出す。
「待って葵!」
慌ててその背を追いかけた。
見えなくなった葵の背中がやっと見えてきたかと思うと、他にも二つの人影があった。駆け寄ると、葵が化け猫の子どもを背で庇うようにして立っている。桃色の着物を着ているその女の子は、社でも何度か遊んだことがある。
「葵!」
声をかけると女の子が私に気が付き両手を広げながら走ってくる。
「巫女さまーッ」
手を広げて抱きとめると、私の首に顔を埋めて火が付いたようにわっと泣き出した。二の腕に鋭いもので切り裂かれたような傷を負っていた。背中を撫でて落ち着かせる。
眉間に皺を寄せながら顔をあげる。
「────賀茂くん」
冷ややかな目と目が合った。女の子を抱き寄せる手に自然と力が入る。
「巫女さま、いたい」
腕の中からそんな声が聞こえて慌てて力を弱めた。
「ごめんね、少し辛抱してね」
ポケットからハンカチを取り出してそれで傷口を縛った。顔を顰める女の子の頭を優しくなでる。
「何をしている。それから離れろ」
淡々とした声にかっと頭に血が上った。
「賀茂くんがこの子に、怪我させたの」
「だったらなんだ」
彼は煩わしそうに溜息を吐いた。何の感情も籠っていない目がこちらを見据えている。
「こんな時間に人里へ降りてきている妖だ。害がある。俺はそれを祓う義務がある」
「ちがうもん……っ、母さんが病気で、三門さまに、お薬もらいに……」
だんだんと声が小さくなっていき、女の子はひっと息を飲んで私の背中に隠れる。握りしめた拳が怒りで震えた。
「葵、この子と社に」
「……ああ、こいつに仕返ししてからなッ!」
その瞬間、ばさりと翼が空気を押す音が聞こえた。私の前を黒い何か通り過ぎる。翼だった。光をあびて黒光りするそれは、まるで始めからそこにあったように違和感なく動いた。目の前の光景がゆっくりと動いていく。
横目で賀茂くんの手が動いたのが見えた。考えるよりも先に体が動いた。大きく翼を羽ばたかせ少し宙に浮いた葵の手を強く掴む。
葵がバランスを崩した。目を見開いて振り返る。
賀茂くんの手が胸まで上がる。その唇が動くのと同時に強く手を引いた。
「麻!?」
葵の驚いた声、女の子の悲鳴、何かが空気を切り裂く音が響く。強い衝撃が身体中に走って体が傾いた。
「社に、三門さんに……」
最後まで言い切ることはできなかった。視界の隅が徐々に白くなっていく感覚にあらがうこともできず、そのまま意識を手放した。
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八十神家にうまれる女は、神癒(しんゆ)――鎮守の神の法力を回復させたり、増大させたりする力を持つ。
けれど薫子はうまれつきそれを持たず、八十神家では役立たずとして、使用人として家に置いて貰っていた。
ある日、鎮守の神の一人である玉藻家の当主、玉藻由良(たまもゆら)から、神癒の巫女を嫁に欲しいという手紙が八十神家に届く。
神癒の力を持つ薫子の妹、咲子は、玉藻由良はいつも仮面を被っており、その顔は仕事中に焼け爛れて無残な化け物のようになっていると、泣いて嫌がる。
薫子は父上に言いつけられて、玉藻の元へと嫁ぐことになる。
何の力も持たないのに、嘘をつくように言われて。
鎮守の神を騙すなど、神を謀るのと同じ。
とてもそんなことはできないと怯えながら玉藻の元へ嫁いだ薫子を、玉藻は「よくきた、俺の花嫁」といって、とても優しく扱ってくれて――。
ヴァーチャル・プライベート・ネットワーク・ガールズ:VPNGs
吉野茉莉
キャラ文芸
【キャライラストつき】【40文字×17行で300Pほど】
2024/01/15更新完了しました。
2042年。
瞳に装着されたレンズを通してネットに接続されている世界。
人々の暮らしは大きく変わり、世界中、月や火星まで家にいながら旅行できるようになった世界。
それでも、かろうじてリアルに学校制度が残っている世界。
これはそこで暮らす彼女たちの物語。
半ひきこもりでぼっちの久慈彩花は、週に一度の登校の帰り、寄り道をした場所で奇妙な指輪を受け取る。なんの気になしにその指輪をはめたとき、システムが勝手に起動し、女子高校生内で密かに行われているゲームに参加することになってしまう。
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