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以津真天の待ち人
伍
しおりを挟む翌日、朝から賀茂くんの姿を探していたけれど、結局放課後になっても見つけ出すことができなかった。
そもそもコースの選択が異なるので教室も隣り合っていないし、頻繁に見かけられるわけじゃない。昼休みには詩子に付き添ってもらって教室を見に行ったが、そのすがたはなかった。私一人が賀茂くんに会ったところで何かが変わるとは思っていないのだけれど、どうしても会って話がしたかったのだ。
肩を落としながら帰ってくると、居間のほうから三門さんの話し声が聞こえた。
この時間に自宅にいるのは珍しいな、と自分の部屋を通り過ぎ居間を覗く。誰かと通話中の三門さんは、私と目が合うなり片手をあげて微笑んだ。
受話器を肩と耳の間に挟んでメモ帳にすらすらと何かを記入すると、それを私に差し出す。首を傾げながら受け取る。
『社務所の机に、軟膏が置いてあります。日のあるうちに、それをかげぬいの所まで届けてほしいです。居場所はふくりかみくりを連れて行けば、わかるはずだから』
そう書かれてある。
こくこくと頷いて親指と人差し指で作った丸を三門さんに見せる。ありがと、と口だけを動かした三門さんは、また誰かと話し始めた。
直ぐに着替えて社務所に顔を出すと、ババとみくりたちがくつろいでいた。
「おかえり麻。おや、友達と遊びに行くのかい?」
ティーシャツにレギンスパンツ、上着を羽織った私の服装を見たババが嬉しそうに微笑む。
「こんな社を毎日のように手伝っていたら、気疲れしてしまうだろう? 若いうちはたくさん遊べばいいんだよ」
うんうん、と頷いたババに苦笑いを浮かべる。
「違うのババ、三門さんにお使い頼まれたの」
ババはそれを聞くなり深い溜息を吐いて額を押さえた。
「おい、小娘を甘やかすな! 結守の巫女の血筋を引き継いだからには、毎日ユマツヅミさまに奉仕するのが当然だ!」
ふふん、と鼻を鳴らして偉そうな顔をしたみくりの頭を、ふくりの尻尾が叩いた。きゃいきゃいと吠えて喧嘩するふたりに苦笑いを浮かべる。
「友達と遊ぶ時間も大切なんだよ、麻。社の手伝いは、そんなに気負うものじゃないんだから」
「うん、ありがとババ。でも、私がしたくてしてることだから大丈夫だよ」
ババは呆れたように、でも優しい顔で私の頬を撫でた。
「そう、三門さんにね、軟膏を届けるように頼まれているの」
「軟膏? ああ、なんだ。あれは届け物だったんだね」
よっこらしょ、と腰を浮かせたババは小上がりの真ん中に置いてある机の上から何かを取って、私の前まで戻ってくる。
差し出した掌に、十字に紐で縛られた白い二枚貝の貝殻が乗せられる。
「貝の中に軟膏が入ってるよ」
そう言われて鼻を寄せると、ほのかに薬草のツンとする匂いがした。
「三門さんが、ふくりかみくりを連れて行けって」
「私はいかんぞ!」
いつの間にか休戦して毛繕いをしていたみくりが即答する。
「いいよ、麻。私と行こう。こんな分からず屋頑固狐なんて放っておけばいいんだよ」
「何だと貴様!」
ふーっと毛を逆立てたみくりの頭にババの拳骨が落ちる。「いい加減におし!」と目を吊り上がらせて歯をむき出しにしたババに、私たちはひっと息を飲んだ。すっかり忘れていたがババも妖、それも山姥と呼ばれる、泣く子も黙るほど恐ろしい顔をする妖だ。
貝をポケットにねじ込むと、すっかり固まってしまった二匹を抱きかかえ社務所を飛び出した。
「お前のせいでえらい目に遭ったわ!」
「何を。喧嘩を売ってきたのはみくりだろうに」
数分後、私たちは裏山の頂上へ続く山道を歩いていた。先導するふくりが綺麗に整えられている道を選んでくれているのか、砂利道が続いている。ふくりのあとに続くみくりは、未だにぶつぶつと文句を言っていた。なんだかんだ言いながらもついてきているものから、可愛げがある。
「おい麻! にやにやするな鬱陶しいっ。帰ってもいいのかっ」
私の方まで火の粉が飛んできて、苦笑いで肩を竦めた。別にふくりが案内してくれるからみくりが帰っても問題ないのだけれど、それを言うと拗ねてしまうので慌てて「一緒に行って」と頼む。
聞けば、以津真天は寝床を定めたりすることのない妖らしく、いつも同じ場所にいるとは限らないのだとか。だから鼻の利く二匹に案内してもらうように、三門さんは行ったみたいだ。
そんな感じで、ふたりと話しながら山道をニ十分近く登ったところで、二匹はピタリと足を止めた。丸い葉っぱが生い茂った大きな木が目の前にそびえたつ。
「この木の上から以津真天の匂いがするぞ。呼んでみろ」
顎で指したみくり。ふくりもひとつ頷く。
すっと息を吸い込んで「お爺さん、以津真天のお爺さん! いますか!」と叫んだ。がさがさと木が揺れて、私たちは木のてっぺんの方を見上げた。
「こんにちは、結守の巫女さま」
そんな声が聞こえたのは、思っていたよりもずっと低い所からだった。目線を木のてっぺんから根元に下げると、木の幹からかげぬいがひょこっと顔をだした。
「もう年ですから、木の上では落ち着いて眠れないんですよ」
私たちが上を見上げていたのを見ていたらしい。にっこりと微笑んだかげぬいに、顔を赤くする。
「それで、どういった御用件でしょうか」
「あ、三門さんから預かってるものがあるの。昨日、結局社務所に来なかったでしょう? だから三門さんにお爺さんのこと話したの。それで用意してくれたんだと思う」
そう言って上着のポケットに入れていた貝殻をかげぬいに差し出す。それが何だか知っていたのか、かげぬいは慣れた手つきで紐を外して蓋を開けた。
「鎌鼬の軟膏。巫女さま、これはいただけません。たいへん高価なものです」
開けた次の瞬間には蓋を閉じた影縫い。その素早さに目を丸くする。
「そんなに高価なの……?」
「即効性のある万能薬だ。妖一匹ならひと月は暮らせるぞ」
妖の世界の相場がいまいち分からないけれど、それはとても高価であるというたとえらしい。かげぬいは私に貝殻の入れ物を握らせる。
「こんなおいぼれのために使うべきものではありません。持ち帰って、怪我をした子どもたちに使って下さい」
そう言われてしまい、行き場を失った軟膏とお爺さんの顔をおろおろと交互に見る。するとあしもとに座ってふくりが口を開いた。
「三門の意思は結守神社の意思、つまりユマツヅミさまのご意志でもあるということだよ」
「ふくりさま……」
困ったように眉を下げたかげぬい。私がもう一度「はい」と差し出すと、渋々ながらもそれを受け取った。
大切そうに懐へしまったかげぬいが、「そうだ」と何かを思いついたのか手を打った。
「巫女さま、すこしここでお待ちください」
ひとつ頭を下げてかげぬいはいそいそと木の陰へと消えていく。
「ええい面倒くさい。帰るころに起こせ!」
不機嫌にそう言ったみくりは木の枝に飛び乗ると、器用に体を丸めて尻尾に顔を埋めてしまった。どうしよっか、とふくりとで顔を見合わせる。かげぬいが直ぐに帰ってくる気配がなかったので、ふくりを膝の上に乗せ、木の幹にもたれるようにして座った。
一つ伸びをして耳を澄ませる。さわさわと葉を揺らす風が心地よかった。
「気持ちいいね、ふくり」
「天気がいいからねえ」
まったりと空を見上げていると、背後でがさがさと落ち葉を踏みしめる音がした。弾けるように振り返ると、動物園でよく見るような黄土色の狐が立っていた。
みくりやふくりよりも一回り小柄な体格をしている。左足をひきずっているので、どうやら怪我をしているようだ。可愛そうに、と眉根を寄せる。ちちち、と片手を差し出すと、狐は人懐っこい性格なのか直ぐにそばまで寄ってきた。
「ふくり、野生の狐がいる。ふくりと喋れるかな?」
「野生の狐? あっ、手を引っ込めな麻!」
飛び起きたふくりに驚いて、反射的に手を引っ込める。近付いてきた狐がくわっと歯をむき出しにした瞬間だった。
毛を逆立てたふくりが、私とその狐の間に入る。
「おとら狐ッ!」
珍しく牙をむいたふくり。何事だと目を白黒させる。助けを求めるように木の上のみくりを見上げるが、こちらをみるどころかピクリとも動かない。みくりの馬鹿、と心の中で悪態をつき、落ち着くようにとふくりのと背を撫でた。
「ケッ、神使やからってお高くとまりよって。あーあ、嫌やわ」
少し高い声が聞こえたかと思うと、その狐がにたりと笑ったような気がした。
全身の毛を逆立てて、激昂に近い勢いで唸り声を上げるふくり。話の流れからすると、どうやらふたりは知り合いらしい。
その狐はククッと喉の奥で笑うと、一歩後ろに下がってその場で飛びはねた。宙でくるりと一回転するとポン! と小さな煙をあげた。
着地したその場所には、焦げ茶色の着流しを着た男がそこに立っている。獣耳を生やし、髪はさっきの狐の体と同じ黄土色、糸のように細い目をしている。
「どうもこんにちは、結守の巫女はん。おとら狐の仁吉て言います。以後お見知りおきを」
恭しく頭を下げた仁吉さんに、慌てて私も頭を下げる。
「初めまして、なかど……結守神社で巫女をしてる者です」
かげぬいに“妖に名を教えるな”と言われたことを思い出して、慌ててそう言いかえる。すると仁吉さんは笑顔でちっと舌打ちした。そんな仁吉さんに目を見開く。
「よう勉強されてますわ。妖に名を教えるなって、三門の入れ知恵か?」
「仁吉!」
今にも飛び掛かりそうなふくりを面倒くさそうに一瞥した仁吉さん。すると、ふくりの脇に手を通してひょいと持ち上げた。バタバタと足を動かしたふくりは「穢れた手で触れるなッ!」と暴れる。
「あんなあ、ちょっと黙って貰われへん? うち巫女はんと喋ってるんやけど」
「黙れ貴様ッ、消えろ! 今すぐに消えろ!」
尋常ではないほど暴れまくるふくりに戸惑いを隠せなかった。
仁吉さんはくつくつと笑うと、その体を腕の中にすっぽりと収めた。ひどく顔を歪めたふくりは仁吉さんの顔に蹴りを入れてその腕の中から飛び降りる。
体制を低くして、いつでも飛び掛かれる姿勢を取った。
「……えっと、仁吉さんとふくりは一体」
「大親友ですねん」
「今すぐ失せろおとら狐ッ」
あまりにも剣幕なふくりにすこし戸惑う。
「生まれた年が同じでねな、まあみての通りふくりからは散々嫌われてて。ほんま悲しいわ」
牙を剥きだすふくりに、仁吉は肩を竦める。ふくりが否定をしないので、どうやらそれは本当らしい。ふくりは誰にでも分け隔てなく優しい。なのにここまで仁吉のことを嫌うだなんて、一体彼らの間に何があったのだろう。
「ここで何をしているんだっ。お前はおもてら町を追放されたはずだろう!」
追放!? と素っ頓狂な声で繰り返すと、仁吉さんはへらっと笑た。
「いや、別にとどまろうとは思っとらへんかってん。通過点やん、通過点。行商しながら旅しとったら、たまたまここ通った時に突然祓い屋があんな呪を使いよって。そらあもう驚いたわ。ほんでちょっくら探らせてもらっとったんよ」
ぴくりと耳を動かしたふくりは、相変わらず威嚇したままだ。仁吉さんはふくりのしゃがみ込むと「太ったんちゃう?」と尋ね、脛を噛まれていた。
「冗談やん。ほな、まあ歓迎されてないみたいやし。そう言うことで、お暇させていただきますわ」
片手をあげた仁吉さんは、またその場で飛び跳ねて一回転すると狐の姿に戻る。木の上で眠るみくりをちらりと一瞥すると、颯爽と走って行った。
丹念に毛繕いを始めたふくり。よっぽど仁吉のことを嫌っているらしい。むっつりと不機嫌な顔で黙ってしまったふくりに、仁吉との関係を聞くに聞けず少し気まずい空気が流れる。
「やあや、すみません。お待たせいたしました」
すると丁度いいタイミングで、木々の奥からかげぬいが現れた。両手で椀をつくって何かを持っているようだ。
「この時期になると野いちごがとれる場所がありまして」
そういってかげぬいが差し出した掌には、赤く熟した野いちごが転がっていた。
「どうぞおひとつ」と差し出され、ひとつ摘まんで口の中に放り込む。口の中に広がる甘味に頬を緩め、思わず「んん!」と声をあげる。
「お爺さん、これすっごく美味しい」
「そうでしょう」
かげぬいはふくりのためにその場にしゃがみ込んで、掌にのせた野いちごを差しだす。得意げな顔でにっこりと笑った。
「お爺さんこういうのに詳しいんだ」
「いえ、これは教えてもらったんです」
「誰に?」
そう聞き返すと、かげぬいは言葉に詰まらせる。申し訳なさそうに苦笑いを浮かべて、後頭部を擦った。
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