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ゆいなにしてんの」
「おかえり。見ればわかんだろ、お前のこと待ってたの」

人の部屋の前に座り込んでいた男は俺の姿を見てにこりと笑った。
片手には飲みかけの缶チューハイが握られていて、その左頬は赤く腫れている。

「お前みたいなのがいるとご近所さんに俺がヤバい奴だって思われんだけど」
「ははっ、さーせん。中入れてよ」
「やだ、って言ってもどうせ帰んないだろ」
「うん」

へらりと笑う男に呆れながら、結局素直に部屋に入れてしまう俺も俺だ。これで終わり次はない、って何回そう思っただろう。自分の意志の弱さに絶望する。

「付き合ってよ、瑞季みずき

当たり前のように人の家の冷蔵庫からアルコールの缶を取り出して、それを押し付けるように渡してくる。
そのままキッチンの戸棚に入ってる買い置きのスナック菓子やつまみを勝手に開けて、「これ食べていい?」なんてこっちの返事も待たずに昨日の夕飯の残りで今日の夕飯にする予定でもあった筑前煮の鍋を火にかけ出す。
いいけどよくない。
いつのまにか部屋に置きっぱなしにされてるお前のその部屋着も、歯ブラシも、全然有名じゃない映画のDVDも謎にこだわってる枕も全部。
俺の日常に当たり前のように侵食して、溶け込んで、勝手に居場所を作っていくこの男が、それを許してしまう自分の甘さが嫌になる。

「お前さ、いい加減にすれば」
「なにが?」
「なにがじゃねーよ。また殴られてんじゃん」
「あー、コレね。なんで女ってあんな簡単に人のこと殴んだろ、この顔殴れんのすごくね?俺だったら無理」

どうせ非があるのは全部こいつの方なのに、悪びれもせずへらへら笑っているのもいつものことだった。

「自業自得だろ、今度は何?」
「えー?ヤッた後も中々帰らねえで一緒にいたいとか言い出すから彼女ヅラすんなって言った」

どうしようもないクズだ。救いようがない。

「いってえ…!瑞季、やさしくして」
「無理」

消毒液を染み込ませたガーゼを切れた口元に押し当ててゴシゴシ拭いてやる。人の痛みがわからないんだからこのぐらい我慢するべきだ。手当てしてやってるだけありがたく思え。

「怒ってんの?」
「呆れてる」
「…ただのセフレのくせにそんなこと言う方が悪くね?それ許すなら今頃彼女になってるっつーの」

軽い口調とは裏腹に淡い色の瞳はぼんやりと宙を見つめていた。
そのアンバランスさにいつも不安を覚える。
目を離した隙に、瞬きをしたその一瞬の間に、唯が俺の前からいなくなるんじゃないかって、そんな漠然とした不安。すぐそこにいるのにいつでもふっといなくなってしまえるような、唯は昔からそんな希薄さを纏っていた。

「…じゃあ本気にさせんなよ」
「いてっ」

カスみたいな言い分だなと思いながら、結局デコピン一つで唯の全てを許容してしまう。だってどんなになったって、こいつに捨てられた顔も知らない女より俺は唯の方が大事だから。

「愛されたがりも大概にしとけよ」

昔からそうだった。
唯は来るもの拒まず去るもの追わずで、寄ってくる女を取っ替え引っ替え。付き合ったり浮気したりセフレを作ったり、とにかく女にだらしがなくてしょっちゅうトラブってはこんなふうに傷を作ってくる。こいつの人生はいつか女に刺されて終わるんだろうなと思いながら、俺はそれを隣で見ていた。
関係が切れる度に何故かこうして俺のもとへやってくるのはあの頃から変わらない。

「…せっかく綺麗な顔がもったいない」

赤く腫れた頬に湿布を貼って、その上から指先でそっと撫でる。
こんな傷さえなければ唯の肌は雪のように滑らかで、いっそ作り物めいた美しさがあった。
この顔殴れんのすごくね?という舐め腐った言葉もムカつくことに実際その通りで、この顔に傷をつける女達は確かにすごいなと感心するレベル。

「お前俺の顔好きだよな」

すり、と俺の手に頬を擦り寄せて唯が笑う。
蜂蜜を固めたような淡い色彩の瞳は酔いが回ったのかいつもより甘くとろけて見えた。
唯の目は元々垂れ気味でやわらかい印象を与えやすいから、こんなふうに笑われるとまるで自分が愛されているかのような錯覚を覚える。

「好きだよ」

結局は俺もこいつに捨てられてきた有象無象の女達と同じだった。

「うん」
「だから、もういいじゃん俺で」
「…無理だって」

目を伏せて笑った唯が離れていく。

「瑞季は無理」

高校の時からずっと、唯の返事は変わらない。
誰に好きだって言われても、誰に関係を迫られても、例えばそれが男だったとしても気が向けばあっさり受け入れるくせに。
唯が選ぶのはいつも俺以外の誰かだった。

「愛してくれるなら誰でもいいんじゃねーのかよ」
「…誰でもいいよ、でもお前はダメ」
「ずっと思ってたけど、お前俺のこと嫌いなわけ?」

俺の言葉にぱちぱちと目を瞬いた唯が、次の瞬間に笑い出す。

「なにそれ、馬鹿なん?」
「は?」
「俺は瑞季のことが世界で一番すきだよ」

緩く首を傾けて、俺の表情を覗き込むような角度で唯が微笑む。
くらりと視界が回るような酩酊を覚えた。まだ一口も飲んでいないはずのアルコールが脳を侵すような感覚。
唯はたまにこういう表情をする。
あまりに顔が良いから、ただ微笑むだけでそこに特別さがあるように見えてしまう。
人を誑し込むために生まれてきたような男だ。
だからタチが悪い。
どれだけの人間が、こいつのこんな表情に自分だけだと思わせられたんだろう。結局は俺もその中の一人でしかないことが、たまにどうしようもなく虚しくなる。

「……だから殴られるんだよ、お前」
「え、今の喜ぶところなんだけど」
「軽すぎて響かねー。誰にでも言ってる感がすごい」
「酷すぎ」

唯が笑った拍子に少し長い前髪の先が落ちて目元にかかる。
なんてことのない瞬間、たったそれだけのことに意識を奪われて流れ落ちた毛先を目で追った。
緩く波打つ癖のある唯の髪は、頻繁に色を変えてる割にまるで傷みを知らないようにワンルームの安っぽい照明の下でもつやつやと光っている。
今はピンクで、出会った頃は黒、途中からは二人でお揃いにして金に染めた。
唯の髪色はアホみたいにコロコロ変わるのに、この関係だけがいつまでも変わらない。
進展も後退もないぬるま湯のような関係。
安定、と言えば聞こえはいいけれど。

「俺って愛されたがりなの?」

少し前に吐き捨てたはずのセリフを、たった今言われたかのように聞き返してくる。
会話が前後したりいきなり話題が飛んだりするのは唯との会話ではよくあることだった。
そういう部分に唯の不安定さが出ている気がする。

「常に自分を愛してくれる人間がいないとダメになりそう」
「ウケる。そんなイメージ?まあ確かに求められるのは気持ちいいけど」
「だから相手が切れる度に俺のところに来るんだろ。最悪だな」
「ねえ、瑞季の方こそ俺のこと嫌いじゃない?」

嫌いだよ、俺を選ばないお前なんか。
でも結局はそれ以上に好きで、だからこうしてまだそばにいる。
どうしようもない気持ちを誤魔化すようにテーブルの上の箸を取って、さっき唯が勝手に温めた筑前煮を口に放り込んだ。ついでに渡された缶も開けて中身を勢い良く呷る。今日が金曜でよかった。明日のことを考えなくて済む。

「俺、お前のこと利用してるわけじゃないよ」

不意に、呟くような声で唯が言った。
静かで、落ち着いていて、嘘なんてどこにもないような、そんな声に意識を引かれて飲みかけの缶を唇から離す。


「あーしんどいなってなった時、なんか瑞季に会いたくなる」


いつもと何も変わらない。
変わらない、ように見せているだけだってわかったのは、そう言った唯の瞳が僅かに揺らいだから。
目が合って、唯がわらう。
それだって、お前はいつも通りに笑ったつもりだったかもしれないけど。

「…へたくそ」

苛立ちが思わず口から漏れた。

この世で一番欲しいものを、あげないよって言われた直後に届きそうな距離でチラつかされる。
お前がそうやって危なげな弱さを見せるのが俺だけだって知ってる。
一番弱い部分を晒して、崩れた表情を見せて、それをどうにかして欲しい相手が俺だって言うのに、お前は俺を選ばない。
これだけ許されて、甘えられて、それでも。

(ねえ、唯)

なんでお前それで、俺のこと好きになんねーの。

「…結局都合いいだろ、それ」
「んー、そうかも。じゃあもう、やめた方がいい?」

うん、って。
ここで頷いたら、唯はきっと二度と俺の前に現れないんだろうなってわかる。
本当は唯もそれを望んでるような気がした。
ずっと何かを待っているような、タイミングさえ上手く噛み合ってしまえばいつでもいなくなってしまえるような。それは俺の前からに限らず、多分きっとこの世界から。
お前のその執着のなさが俺はずっと怖かった。

「……酒とつまみ。今度はお前が買って来いよ」

あーあ。
結局また、お前のこと許しちゃう。
同じことの繰り返しだって、わかっても。

「瑞季」
「なに」
「やさしいよね、お前」

ねえその、今にも消えちゃいそうな笑い方すんの、やめて。
怖いんだよ俺。
ふわふわ浮かぶシャボン玉みたいに、あと少しが届かなくて、ふっと目を離した隙にいなくなっちゃうようなお前のその軽さが。
見失ったその一瞬で、きっとシャボン玉は音もなく割れる。
だから俺は、お前にとっての重さになりたかった。いつか飛んで行ってしまうお前の枷になりたかった。
ここにお前を繋ぎ止めておけるだけの、何かに。


唯。
俺ね、お前の隣でずっと、そんなこと考えてんの。
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