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2. ひどくて優しい
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藤崎さんは追ってこなかった。
ほっとして、そのあとは、TAKUYAに水やタオルを渡して世話を焼いたり、進行の確認をしたり、取材の問い合わせに答えたりして、忙しく働いた。
藤崎さんが変なことを言ってきたことなんか忘れてた。いや、忘れようとしていた。
(だって……)
考えたくなくて、私は首を振った。
ライブは大盛況だった。
「TAKUYA、お疲れさま。すごくよかったわよ。お客さんも喜んでた」
「ほんと? うれしいな。これも、希さんが藤崎さんの曲をもらってきてくれたおかげだよ」
にこにこと言うTAKUYAに、複雑な心境になる。
私もライブ前だったら、大きくうなずいていた。でも、今は……。
明日のライブに備えて、TAKUYAをタクシーで帰すと、私は誰もいない控室に戻って、イスに座りこんだ。
ずっと立ってたから、くたくただった。
ぼんやりと壁を見つめていると、みるみる視界が潤んできた。
「……ひっ、くっ……ひっく……うあ、ああぁぁあ……」
ほろりと涙が流れて決壊すると、こらえきれず、私は泣き出した。
(だって、だって、だって……)
好きだったのに!
藤崎さんの声も曲も歌詞もなにもかも、大好きだったのに。
――君が僕のものになるなら、いくらでも曲を提供してあげるよ。
彼の声がよみがえる。
なにもかも汚された気がした。
こんなふうに今までも曲を作っていたの? 女の子を抱いて?
心の大事なところが壊されたようで、痛みに悲鳴をあげている。
「うっ……うっ……ひっく……」
それでも、藤崎さんの作る曲は綺麗で素敵だ。
耳に残る藤崎さんの声でわかる。
(こんなのって、ひどい。知りたくなかった………)
悲しくて堪らず、涙が止まらなかった。
カチャ
ドアが開いたような音がした。
もう誰もいないと思ってたのに、と慌てて涙を拭い、振り向くと、驚いた顔の藤崎さんがいた。
一番会いたくなかった人が。
「どうして泣いてるの?」
藤崎さんが近づいてきて、指で私の頬を拭う。その繊細な指先は優しくて、さっきのことがウソみたいだ。
でも、ここにこの人がいるってこと自体がウソじゃない証拠だった。
「あなた、が……!」
咎めるように見ると、彼は困ったような顔をした。
「僕のせい? ごめん……君がピュアなのを忘れてたよ。っていうか、君があんまりTAKUYAのことをキラキラとした目で見てるから、いじわるしちゃった。ごめんね」
(いじわるって……)
ぽろっとこぼれた新たな涙を優しい手つきで拭われ、髪をなでられて、大好きな……大好きだった声が耳もとでささやく。もう一度「ごめん」と。
背中をさすられて、髪や頬や瞼に口づけられる。
それでも、泣き止まない私に、藤崎さんは歌を歌い始めた。
子守唄のようにゆっくりとした優しい歌。
(聴いたことがない曲だから即興なのかな)
ゆるやかな甘い声が耳をくすぐる。
さっきあんなゲスなことを言ったとは思えない、とても優しい声。
バカな私はすぐにそれに聴き惚れてしまう。
ひどく傷つけられた人に慰められているという不思議な状況。
しかも、カリスマミュージシャンが私だけのために即興で曲を作って歌ってくれているなんて。
そんなありえない状態の中、徐々に涙が止まっていった。
まんまと藤崎さんの歌に慰められてしまう。
「落ち着いた?」
藤崎さんが顔を覗き込んできて、ついでのようにキスをした。
「……ッ!」
なんでこの人は突然こんなことをするようになったの?
この間まで普通だったのに。
だいたい身体を求めることを『いじわる』とか言わないし!
落ち着いてきたら、だんだん腹が立ってきた。
「藤崎さんっ!」
顔を上げて、文句を言おうとしたら、すごく距離が近くて、声を出す前に、また口づけられた。
今度は舌も入ってくる。
「んー! んんっー!」
抗議をするけど、聞いてもらえず、口の中を貪られる。
藤崎さんのキスは甘く淫靡で私の思考をさらっていく。
「……ふ、はぁ、はぁ……」
ようやく口を離してもらえた頃には、クラクラとしていた。
「目が腫れちゃったね。冷やした方がいい」
藤崎さんが私の目もとにそっと触れる。熱くなっていた私の肌には、その指は冷たくて心地よく感じた。
(誰のせいだと……!)
私が睨むのをものともせず、藤崎さんは「濡れタオルを持ってきてあげる」と立ち上がって、控室を出ていった。
私はそれを見送って、ぼんやりした。
まったく状況がつかめない。
(藤崎さんはなんでまた来たの? 彼は何を考えているの? なんでキスなんか……)
そして、一番わからないのは、私がそれに対してどういう感情を持ったらいいのか。
ひどくて、優しくて、やっぱりひどくて、振り回されて、どうしたらいいのかわからない。
だって、昔からずっと憧れていた人。口をきいてもらえるようになって、有頂天になって、曲を書いてもらえて、ますます好きになった。
彼はそんな人だったのに……。
藤崎さんがタオル片手に戻ってきた。
出演者用に用意してある冷やしたタオルだ。
それを私の目もとに当ててくれる。
腫れた目の熱を吸い取ってくれて、気持ちがいい。
「落ち着いたら、帰ろう」
「え?」
「その顔じゃ、人前に出られないだろ? 不審に思われるよ?」
部屋の鏡を見ると、確かに号泣したのが丸わかりの腫れぼったい目に、化粧が落ちまくりのひどい顔。
悔しいけど、確かにこの顔はヤバい。
でも、藤崎さんと帰るなんてあり得ない。
きっぱり拒否する。
「一人で帰れますから!」
「その顔で電車に乗るの? 僕は車で来たから乗せていけるよ?」
「でも……」
「いいから、おいで」
結局、逃げないようにガッチリと手を繋がれながら、彼の車に連行された。
♪♪♪
車に乗せられて、しばらくして、自分の家に向かっていないことに気づいた。
「どこに向かってるんですか?」
「僕の家」
「送ってくれるんじゃなかったんですか?」
「君の家を知らないし、そこに送るとも言ってない」
しれっとそんなことを言う藤崎さんは、やっぱりこの間までやり取りしてた人とは別人のようで、私はまた騙されてしまった。
仕事上の関係だから、当たり前だけど、節度を持った態度とやり取りで、こんなふうに傲岸な様子は見せなかった。
(これが本性なのかな?)
なんとなくがっかりしてしまう。
そりゃあ、これだけ突出した人気のアーティストだから、もっとわがままで傲慢でも不思議はない。でも、藤崎さんは違うと思っていたのに。
彼のことをなにも知らないくせに、夢を見てた。
でも、実際、尋ねてみると、あっさり同意された。
「なんか性格変わってませんか?」
「そう? これが素だよ」
「そうですか。騙されていた気分です……。もうどこでもいいから降ろしてください」
「いいよ」
抵抗されるかと思ったら、あっけなく車が止まった。
窓の外を見ると、どこかの個人宅の駐車場。
「ここ、どこですか?」
「僕の家。ちょうど着いた」
「なんで!」
「話があるから」
「話?」
「うん、とりあえず、中で話そう」
藤崎さんはそう言うと、さっさと車を出て、助手席のドアを開け、私を家まで引っ張っていった。
(藤崎さんの家……)
イメージ的にマンションかと思ったら一軒家だった。白い壁のモダンなデザインの四角い家。
こんな都心にこんな豪邸なんて、さすがカリスマアーティストだわ。
感心して見ている間に、藤崎さんはセキュリティを外して、白木のドアを開けた。
「どうぞ」
「おじゃまします」
天井が吹き抜けになった広い明るい玄関でついキョロキョロしてしまう。
グレーの大きめのタイルが敷き詰めてある土間で靴を脱ぐと、藤崎さんがスリッパを出してくれた。
上がってすぐの白い壁にはピカソの線画が飾られてあり、私の背丈ほどある観葉植物、その先にはこげ茶の板張りの廊下が続いている。
私の手を引き、藤崎さんはリビングに通してくれた。
ライトグレーのグラデーションで統一されたその部屋は、片面に八十インチはありそうな大型の埋め込み型のテレビがあり、反対側には現代アートが飾られている。差し色に赤や黄色が使われていて、シンプルで落ち着いているのに、どこかポップな部屋だった。
藤崎さんはテレビと向かい合う四人掛けのソファーに私を座らせると、保冷剤にタオルを巻いたものを持ってきてくれた。
「ほら、これで目を冷やしなよ。明日ひどいことになるよ」
「ありがとうございます」
有り難く目を瞑って、保冷剤を目に当てる。
まだ少し熱を持っていた瞼がひんやり冷やされる。
その状態の私に、藤崎さんが聞いてきた。
「コーヒー飲む?」
「いえ、おかまいなく……」
藤崎さんにコーヒーを淹れさせるなんてと、咄嗟に恐縮すると、彼はぷっと吹き出した。
「無理やり連れてこられて、おかまいなくって。かわいいね」
唇に微かに触れるだけのキスをされた。
目を塞いでいるから、彼の表情は見えないけど、バカにされた気がする……。
それにいったい何度目のキスだろう? 外国人じゃないんだから、気安くキスしないでほしい。
憤慨して保冷剤を外し、藤崎さんを睨むと、「ほら、ちゃんと冷やさないと」と保冷剤を目に戻された。
「僕が飲みたいだけだから、嫌いじゃないなら、コーヒー淹れるよ」
「……嫌いじゃないです」
私の答えに藤崎さんが笑った気配がして、離れていった。
すぐにカチャカチャ音がしはじめる。
キッチンで藤崎さんがコーヒーの準備をしてくれてるみたいだ。
しばらくすると、コーヒーの良い香りが漂ってきた。
藤崎さんが戻ってきた音がして、保冷剤を取ると、彼はコーヒーをテーブルに置いて、横に座ったところだった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
優美な形のお揃いの白いコーヒーカップ。
用意してあったミルクと砂糖を入れて、一口飲む。
少し苦みがあるマンデリン系の豆のようで、私の好きな深いコクが心を落ち着けてくれた。
「おいしい……」
「それはよかった」
藤崎さんがまぶしい笑みを浮かべて、私の目もとに手を伸ばした。さっきまでの不遜さは消え失せた、ただただ甘い顔。
「だいぶ腫れが引いたね」
まぶたをたどる優しい手つきに、ぽーっとなりかけるけど、そもそもこの人のせいだから!と気を取り直す。
(だいたいさっきから気軽に触りすぎじゃない?)
距離感がおかしい。そう思うものの、完全には拒否できない。
憧れてた人に優しくされて、拒否できるわけがない。
藤崎さんは話があると言ったわりに、それ以上は言葉を続けず、なにか考えるようにコーヒーをすすった。
私からはなにも言うことはないので、黙っておいしいコーヒーを味わった。
この状況はなんだろうと思いながら。
ほっとして、そのあとは、TAKUYAに水やタオルを渡して世話を焼いたり、進行の確認をしたり、取材の問い合わせに答えたりして、忙しく働いた。
藤崎さんが変なことを言ってきたことなんか忘れてた。いや、忘れようとしていた。
(だって……)
考えたくなくて、私は首を振った。
ライブは大盛況だった。
「TAKUYA、お疲れさま。すごくよかったわよ。お客さんも喜んでた」
「ほんと? うれしいな。これも、希さんが藤崎さんの曲をもらってきてくれたおかげだよ」
にこにこと言うTAKUYAに、複雑な心境になる。
私もライブ前だったら、大きくうなずいていた。でも、今は……。
明日のライブに備えて、TAKUYAをタクシーで帰すと、私は誰もいない控室に戻って、イスに座りこんだ。
ずっと立ってたから、くたくただった。
ぼんやりと壁を見つめていると、みるみる視界が潤んできた。
「……ひっ、くっ……ひっく……うあ、ああぁぁあ……」
ほろりと涙が流れて決壊すると、こらえきれず、私は泣き出した。
(だって、だって、だって……)
好きだったのに!
藤崎さんの声も曲も歌詞もなにもかも、大好きだったのに。
――君が僕のものになるなら、いくらでも曲を提供してあげるよ。
彼の声がよみがえる。
なにもかも汚された気がした。
こんなふうに今までも曲を作っていたの? 女の子を抱いて?
心の大事なところが壊されたようで、痛みに悲鳴をあげている。
「うっ……うっ……ひっく……」
それでも、藤崎さんの作る曲は綺麗で素敵だ。
耳に残る藤崎さんの声でわかる。
(こんなのって、ひどい。知りたくなかった………)
悲しくて堪らず、涙が止まらなかった。
カチャ
ドアが開いたような音がした。
もう誰もいないと思ってたのに、と慌てて涙を拭い、振り向くと、驚いた顔の藤崎さんがいた。
一番会いたくなかった人が。
「どうして泣いてるの?」
藤崎さんが近づいてきて、指で私の頬を拭う。その繊細な指先は優しくて、さっきのことがウソみたいだ。
でも、ここにこの人がいるってこと自体がウソじゃない証拠だった。
「あなた、が……!」
咎めるように見ると、彼は困ったような顔をした。
「僕のせい? ごめん……君がピュアなのを忘れてたよ。っていうか、君があんまりTAKUYAのことをキラキラとした目で見てるから、いじわるしちゃった。ごめんね」
(いじわるって……)
ぽろっとこぼれた新たな涙を優しい手つきで拭われ、髪をなでられて、大好きな……大好きだった声が耳もとでささやく。もう一度「ごめん」と。
背中をさすられて、髪や頬や瞼に口づけられる。
それでも、泣き止まない私に、藤崎さんは歌を歌い始めた。
子守唄のようにゆっくりとした優しい歌。
(聴いたことがない曲だから即興なのかな)
ゆるやかな甘い声が耳をくすぐる。
さっきあんなゲスなことを言ったとは思えない、とても優しい声。
バカな私はすぐにそれに聴き惚れてしまう。
ひどく傷つけられた人に慰められているという不思議な状況。
しかも、カリスマミュージシャンが私だけのために即興で曲を作って歌ってくれているなんて。
そんなありえない状態の中、徐々に涙が止まっていった。
まんまと藤崎さんの歌に慰められてしまう。
「落ち着いた?」
藤崎さんが顔を覗き込んできて、ついでのようにキスをした。
「……ッ!」
なんでこの人は突然こんなことをするようになったの?
この間まで普通だったのに。
だいたい身体を求めることを『いじわる』とか言わないし!
落ち着いてきたら、だんだん腹が立ってきた。
「藤崎さんっ!」
顔を上げて、文句を言おうとしたら、すごく距離が近くて、声を出す前に、また口づけられた。
今度は舌も入ってくる。
「んー! んんっー!」
抗議をするけど、聞いてもらえず、口の中を貪られる。
藤崎さんのキスは甘く淫靡で私の思考をさらっていく。
「……ふ、はぁ、はぁ……」
ようやく口を離してもらえた頃には、クラクラとしていた。
「目が腫れちゃったね。冷やした方がいい」
藤崎さんが私の目もとにそっと触れる。熱くなっていた私の肌には、その指は冷たくて心地よく感じた。
(誰のせいだと……!)
私が睨むのをものともせず、藤崎さんは「濡れタオルを持ってきてあげる」と立ち上がって、控室を出ていった。
私はそれを見送って、ぼんやりした。
まったく状況がつかめない。
(藤崎さんはなんでまた来たの? 彼は何を考えているの? なんでキスなんか……)
そして、一番わからないのは、私がそれに対してどういう感情を持ったらいいのか。
ひどくて、優しくて、やっぱりひどくて、振り回されて、どうしたらいいのかわからない。
だって、昔からずっと憧れていた人。口をきいてもらえるようになって、有頂天になって、曲を書いてもらえて、ますます好きになった。
彼はそんな人だったのに……。
藤崎さんがタオル片手に戻ってきた。
出演者用に用意してある冷やしたタオルだ。
それを私の目もとに当ててくれる。
腫れた目の熱を吸い取ってくれて、気持ちがいい。
「落ち着いたら、帰ろう」
「え?」
「その顔じゃ、人前に出られないだろ? 不審に思われるよ?」
部屋の鏡を見ると、確かに号泣したのが丸わかりの腫れぼったい目に、化粧が落ちまくりのひどい顔。
悔しいけど、確かにこの顔はヤバい。
でも、藤崎さんと帰るなんてあり得ない。
きっぱり拒否する。
「一人で帰れますから!」
「その顔で電車に乗るの? 僕は車で来たから乗せていけるよ?」
「でも……」
「いいから、おいで」
結局、逃げないようにガッチリと手を繋がれながら、彼の車に連行された。
♪♪♪
車に乗せられて、しばらくして、自分の家に向かっていないことに気づいた。
「どこに向かってるんですか?」
「僕の家」
「送ってくれるんじゃなかったんですか?」
「君の家を知らないし、そこに送るとも言ってない」
しれっとそんなことを言う藤崎さんは、やっぱりこの間までやり取りしてた人とは別人のようで、私はまた騙されてしまった。
仕事上の関係だから、当たり前だけど、節度を持った態度とやり取りで、こんなふうに傲岸な様子は見せなかった。
(これが本性なのかな?)
なんとなくがっかりしてしまう。
そりゃあ、これだけ突出した人気のアーティストだから、もっとわがままで傲慢でも不思議はない。でも、藤崎さんは違うと思っていたのに。
彼のことをなにも知らないくせに、夢を見てた。
でも、実際、尋ねてみると、あっさり同意された。
「なんか性格変わってませんか?」
「そう? これが素だよ」
「そうですか。騙されていた気分です……。もうどこでもいいから降ろしてください」
「いいよ」
抵抗されるかと思ったら、あっけなく車が止まった。
窓の外を見ると、どこかの個人宅の駐車場。
「ここ、どこですか?」
「僕の家。ちょうど着いた」
「なんで!」
「話があるから」
「話?」
「うん、とりあえず、中で話そう」
藤崎さんはそう言うと、さっさと車を出て、助手席のドアを開け、私を家まで引っ張っていった。
(藤崎さんの家……)
イメージ的にマンションかと思ったら一軒家だった。白い壁のモダンなデザインの四角い家。
こんな都心にこんな豪邸なんて、さすがカリスマアーティストだわ。
感心して見ている間に、藤崎さんはセキュリティを外して、白木のドアを開けた。
「どうぞ」
「おじゃまします」
天井が吹き抜けになった広い明るい玄関でついキョロキョロしてしまう。
グレーの大きめのタイルが敷き詰めてある土間で靴を脱ぐと、藤崎さんがスリッパを出してくれた。
上がってすぐの白い壁にはピカソの線画が飾られてあり、私の背丈ほどある観葉植物、その先にはこげ茶の板張りの廊下が続いている。
私の手を引き、藤崎さんはリビングに通してくれた。
ライトグレーのグラデーションで統一されたその部屋は、片面に八十インチはありそうな大型の埋め込み型のテレビがあり、反対側には現代アートが飾られている。差し色に赤や黄色が使われていて、シンプルで落ち着いているのに、どこかポップな部屋だった。
藤崎さんはテレビと向かい合う四人掛けのソファーに私を座らせると、保冷剤にタオルを巻いたものを持ってきてくれた。
「ほら、これで目を冷やしなよ。明日ひどいことになるよ」
「ありがとうございます」
有り難く目を瞑って、保冷剤を目に当てる。
まだ少し熱を持っていた瞼がひんやり冷やされる。
その状態の私に、藤崎さんが聞いてきた。
「コーヒー飲む?」
「いえ、おかまいなく……」
藤崎さんにコーヒーを淹れさせるなんてと、咄嗟に恐縮すると、彼はぷっと吹き出した。
「無理やり連れてこられて、おかまいなくって。かわいいね」
唇に微かに触れるだけのキスをされた。
目を塞いでいるから、彼の表情は見えないけど、バカにされた気がする……。
それにいったい何度目のキスだろう? 外国人じゃないんだから、気安くキスしないでほしい。
憤慨して保冷剤を外し、藤崎さんを睨むと、「ほら、ちゃんと冷やさないと」と保冷剤を目に戻された。
「僕が飲みたいだけだから、嫌いじゃないなら、コーヒー淹れるよ」
「……嫌いじゃないです」
私の答えに藤崎さんが笑った気配がして、離れていった。
すぐにカチャカチャ音がしはじめる。
キッチンで藤崎さんがコーヒーの準備をしてくれてるみたいだ。
しばらくすると、コーヒーの良い香りが漂ってきた。
藤崎さんが戻ってきた音がして、保冷剤を取ると、彼はコーヒーをテーブルに置いて、横に座ったところだった。
「どうぞ」
「ありがとうございます」
優美な形のお揃いの白いコーヒーカップ。
用意してあったミルクと砂糖を入れて、一口飲む。
少し苦みがあるマンデリン系の豆のようで、私の好きな深いコクが心を落ち着けてくれた。
「おいしい……」
「それはよかった」
藤崎さんがまぶしい笑みを浮かべて、私の目もとに手を伸ばした。さっきまでの不遜さは消え失せた、ただただ甘い顔。
「だいぶ腫れが引いたね」
まぶたをたどる優しい手つきに、ぽーっとなりかけるけど、そもそもこの人のせいだから!と気を取り直す。
(だいたいさっきから気軽に触りすぎじゃない?)
距離感がおかしい。そう思うものの、完全には拒否できない。
憧れてた人に優しくされて、拒否できるわけがない。
藤崎さんは話があると言ったわりに、それ以上は言葉を続けず、なにか考えるようにコーヒーをすすった。
私からはなにも言うことはないので、黙っておいしいコーヒーを味わった。
この状況はなんだろうと思いながら。
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