公園のエレベーター

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公園のエレベーター

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 川向うの小さな家に一人で住んでいるヘンダーソンさんは、今朝もまたハンチング帽をかぶりコートを着て早朝の公園を愛犬のピップ(ジャック・ラッセル・テリア)と歩いていた。エネルギーの塊のようなピップはリードをぐいぐい引っ張っていたが、橋の近くに来て何かを見つけたらしく、ひと声えるとそっちに向かって全力で走り出した。不意をつかれたヘンダーソンさんは転びそうになって笑った。ピップが向かう先にはしだれ柳があり、その下に奇妙なオブジェが見える。電話ボックスよりも一回り大きいサイズの箱型の物体でドアがあり、上部には「エレベーター」と書いてある。緑豊かな公園には相応ふさわしくないように見えたが、好奇心に駆られて、ピップに引かれて近づいていった。
 そばで見てみると、どうやら川沿いの遊歩道に降りるためのエレベーターのようだ。ピップはクーンと鳴きながらドアを前足で引っいている。若い時から冒険心があるヘンダーソンさんは、「乗ってみるか?」と言ってドア横のボタンを押した。ドアが開いたのでピップと一緒に中に入ると、そこは水晶のような光沢がある化粧板で囲まれており、間接照明で照らされている。ドアの脇にはUPとDOWNの2つのボタンがあり、彼は当然DOWNのボタンを押した。

 ドアが閉じエレベーターは動き出した。しかしヘンダーソンさんの足や体が感じたのは上昇する動きである。まゆをひそめていぶかしがった彼は、一瞬頭が混乱したが気を取り直し、次に何が起こるのかじっと待つことにした。ピップは興奮したように尻尾を振っている。昆虫の羽音はおとのような機械音が永遠に続くのかと思えたとき、到着を告げるチャイムが鳴った。そしてドアが音もなく開いた。

 目の前に広がったのは、ヘンダーソンさんがこれまで一度も見たことがない光景だった。庭師だった彼が種類を特定できない大樹が、脈動する紫色やだいだい色に染められた空に向かって高くそびえ立っている。地面には発光する草花がまばらに広がっており、怪しい輝きを放っている。遠くにはきらめく水晶の崖から水流が滝になって落ちている。ピップはリードを引っ張るのを止め、興奮とおそれが混じった吠え方をした。
 川沿いの古風であじわいがある町にずっと住み続けてきたヘンダーソンさんは、好奇心が強い犬と場違いなエレベーターの所為せいで、いつもの公園のど真ん中にまぎれていた、秘密の世界への入り口に突然立たされたのだ。彼の心臓は、恐れと驚きで高鳴り、彼の前には冒険の世界が広がっていた。

 ヘンダーソンさんは、用心深くエレベーターから出た。ピップは大胆に飛び出し異世界の草花の匂いを嗅いでいる。空気は温かく湿気があり、知らない花の香を運んでいる。彼は気持ちをしずめながらピップに付いていき、緑色にかすかに発光する柔らかな地面をつえでリズミカルに突いた。

 突然近くで草葉が音をたてたので振り向くと、これまで遭遇したことがない動物がそこにいた。それは確かに鹿のようだが、虹色に輝くその枝角えだつのは水面に反射した月光のように輝いている。薄暮の空の色をしているその毛は、生物発光の模様でリズミカルに明滅している。テリアの血が流れているピップは、嬉しそうに吠え、荘厳な生物に向かって走りだした。
「ピップ、戻れ!」とヘンダーソンさんは愛犬に向かって叫び、よろめきながら後を追った。ここは奇想天外な夢の中でも在りそうもない場所だ。ピップのいつもの大胆さは、相応ふさわしくない。
 ピップが鹿に近寄ると、鹿は首を曲げて大きく知的な目を向けた。それは内面の光を映していた。鹿は逃げようとせず、頭を下げてその柔らかい鼻先でピップを突っついた。ピップは、驚いたようだが、しり込みせず夢中で尻尾を振った。

 木立を通して優しいメロディーのような声がこだました。
「ようこそルミナへ。旅人さん」
 ヘンダーソンさんが声の方を見ると、巨大な紫水晶アメシストの花の背後から長身で細身の女性が現れた。その肌は地面と同じように淡い緑色に光って見え、月光をつむいだような色の髪は彼女の背中の方に流れていた。
「だ、誰ですか、あなたは?」ヘンダーソンさんは、驚いて言葉がつかえ、疑念で声が低くなった。
 その女性はすまし顔で微笑んだ。
「私はアーニャ。ルミナの守護者です。この隠れた世界は、いつもあなたたちの世界に並んで存在しています。見えず、触れられずに。でも時々、あなたの場合のように、べールが薄くなったとき、好奇心がドアを開けることがあります」
 ピップを見ると、生物発光体の蝶々を追いかけている。
「それで、これからどうなるんだ、私たちは?」不安と感動が妙に混ざった声で彼は尋ねた。
 アーニャは、謎めいた微笑ほほえみのまま言った。
「学んだり発見したりすることが沢山あります。ここに留まるか元の世界へ戻るかは、あなた次第です、ヘンダーソンさん。でも確かなことが一つあります。これからは、全く違う人生を歩むことになります」

 決断は、光る空気の中で彼に重くのしかかった。ピップを見ると、新しい骨をもらった子犬のようにルミナに夢中になっている。ピップをこの幻想的な世界に置いていくことを想像すると、一抹の寂しさを感じ、耐え難かった。それに彼の痛むひざや背中や川向うにある小さな家の心地よさは、彼に「戻れ」と言っていた。
 ヘンダーソンさんは、アーニャを見つめ返し質問した。「戻るのは可能なのか?」
 アーニャの笑顔は広がった。
「夜明けにエレベーターで戻れます。もしあなたが本当にそれを望むのならば。もし留まるなら、あなたはルミナで生活出来ます。でも、あなたがこれまでに築き上げた人生に匹敵するものを、ルミナは与えることはできません」
 ヘンダーソンさんは周囲を見回して、生気あふれる風景や鹿の不思議な美しさやあやしく光る花の華麗さを感じ取った。ここでは、これまでの平穏な生活では考えられなかった命の炎を彼は感じた。この世界を歩き回っていろいろ調べたい、もう一度若さを感じたい、という欲望と自分の年齢相応としそうおうの責任感とが激しく衝突した。
 アーニャはピップのわきにしゃがみ、優しく背を撫でた。
「あなたのワンちゃんは、この場所との関係を感じ取っているようね」と見透かし、穏やかなメロディーのような声で言った。「ルミナにはこの子にあげるものが何かありそうね。あなたの世界にはないものを…」
 突然ピップは鋭く吠え、エレベーターの方に向かって耳をピンと立てた。ヘンダーソンさんの気持ちは沈んだ。ピップは彼のために自分の意思を示そうとしているのだろうか?
 アーニャは彼の煩悶はんもんを見て「エレベーターは、あなたとワンちゃんの両方を返すことができますよ」と言って安心させた。「でも考えてください、ヘンダーソンさん。短い旅でも人生を永遠に変えてしまうものです。残りますか?戻りますか?どちらを選びます?」

 ヘンダーソンさんは忠実な相棒で長年自分の分身でもあるピップを見た。アーニャに目を移した彼は、自分でも驚く返答をした。
「残ります」と彼は言った。彼の声は驚くほど力強かった。「でもお荷物にはなりたくない。ルミナで食いぶちを稼ぐ仕事はあるだろうか?」
 アーニャの微笑みは発光する花よりも明るくほころんだ。
「ルミナの繊細なバランスについて学ぶことが沢山あります、ヘンダーソンさん。あなたの経験や優しいタッチは得難いものです」

 ルミナは常に生物の避難場所だった訳ではない。何千年も前、ルミナは固有種の生物で満ち溢れたパラレルワールドとして存在していた。しかし大災害や強欲や抑制が効かない技術進歩のため、その世界は崩壊してしまった。その中で賢明な人たちが集まり、忘れていた魔法を駆使してべールを織り上げ、残っている生命力を守るバリアを構築した。そしてルミナは生物の避難場所になり、生命が新たに繁栄できる隠れた世界になった。
 数千年が経過し、ルミナは栄えたが、今度はべールが心配の種になった。時々べールは薄くなり過去の傷跡がまだ残っている外の世界がのぞけるようになったのだ。生来温和なルミナ人は、過去がまた繰り返すのかと心配になった。
 そんなある日、べールを強化する神秘的なエネルギーとつながりがある若いルミナ人アーニャが、公園を散歩していた穏やかだが少々くたびれた老人のヘンダーソンさんと対面することになったのだ。そして、この偶然の出会いが、両方の世界に挑戦する出来事を次々と引き起こすことになった。

 ヘンダーソンさんとピップのルミナでの最初の数日は驚きの連続で、それはつむじ風のように過ぎて行った。優雅で上品な案内人であるアーニャは、彼らをルミナの住人に紹介した。穏やかな人型の住人達は、その肌が周囲と同様に輝いていた。彼らは環境と調和して生き、水晶の巨木の幹に開いた穴や発光する草花の中で暮らしていた。ヘンダーソンさんとピップはアーニャが用意した小屋のような住居に宿泊した。
 ヘンダーソンさんのルミナへの唐突な到来は、ルミナ人の間で論争になった。アーニャのように、彼の存在を二つの世界の架け橋になる可能性として捉えるグループと、過去の傷がえず外界との接触を恐れるグループに分かれた。

 庭師として経験豊かなヘンダーソンさんは、微妙なバランスをとるルミナの植物への理解を示して人々を驚かせた。彼は、照明効果がある発光苔のことや水晶の草花が大地の生命力に合わせて脈打って発光することを知った。アーニャは、ルミナが魔界や人間界の崩壊から逃れてきた生物の避難場所で保護区になっていることを告げた。
 一方ピップは、陽気な熱中と尽きないエネルギーで、静かなルミナ人にとっては歓迎する変化になった。ピップは蛍を追いかけ、輝く羽を持ち羽毛で覆われた小動物を驚かし、秘密の発光キノコの林を守っている、苔むして気難しいトロールとも仲良しになろうとした。


 アーニャと一緒に水晶の洞穴を調査していたある日、ヘンダーソンさんは見たことがない赤く脈打つ水晶に出くわした。それは異様な熱を発し、不安定なエネルギーでうなっていた。それを見て、アーニャの表情は曇った。
「胴枯れ石だわ」彼女は説明した。「強欲と自然破壊で消滅した世界の残渣ざんさです。これはルミナの生命力をゆっくり減退させるのです」
 ヘンダーソンさんは恐怖を感じた。彼は人間界で起きた同様の環境破壊について読んだことがあったからだ。ルミナも同じ運命を辿たどるのだろうか?
 アーニャは続けた。「純粋な心を持った生き物による儀式が、胴枯れ石を浄化するという伝説があります。でも、そんな献身的な生き物は…」アーニャの声は途絶え、静寂が重く洞窟を満たした。
 そのときヘンダーソンさんの目に決意の火花が光った。
「ピップがいる」彼は、手は震えていたが、しっかりした声で言った。「ピップの心は純粋だ。そしてこの場所を愛している」
 アーニャは、目を見開いた。ピップは緊張を感じて弱く鳴き、彼の手を突っついた。ヘンダーソンさんはしゃがんで毛で被われた相棒を抱きしめた。
「ピップ、無理は言わない」彼はささやいた。「でも、もしやる気があるなら…」
 ピップは、断固とした声音こわねで一度吠え、それは洞窟中に反響した。アーニャは感謝と心配の表情でヘンダーソンさんを見つめた。

 儀式は長くて複雑だった。ピップは驚くほどおとなしく、水晶が林立する中に伏せて、胴枯れ石の赤い光にひたった。アーニャがウィンドチャイムの音のような言語で詠唱する間、ヘンダーソンさんはピップの前足を手に取って見守った。彼の心はほろ苦い誇りで満たされた。
 儀式の最後に、胴枯れ石はまぶしい閃光せんこうを放って一度明滅し、その後落ち着いた純白に変わった。ピップは何食わぬ顔でヘンダーソンさんを見上げ尻尾しっぽを振った。

 アーニャは、優しくピップの頭を撫でて言った。「ピップ。あなたは勇気と忠誠と純粋な心と意思を示しました。ルミナはあなたの気心をたたえ、プレゼントを差し上げます」
 ピップは、柔らかな光に包まれ、嬉しそうに吠えた。光が消えると、ピップは更に生気に溢れ、目は内面の光で輝いた。
 ヘンダーソンさんはアーニャに何をしたのか尋ねた。
 アーニャは微笑んで言った。「ピップ君がルミナの真髄へアクセス出来るようにしました。彼は、あなたのそばで、末長く健康に生き、この世界への鋭い感覚と深い理解を持ち続けます」
 ピップはもう一度吠え、ヘンダーソンさんの手を突っついた。ヘンダーソンさんは、喜びと感謝の念がき上がるのを感じた。
 勇敢なピップのニュースはルミナ中に広がった。ピップは勇気と献身のシンボルになり、小さな動物でも世の中を変えられるあかしとなった。ヘンダーソンさんは、もはやビジターではなくプロテクターとしてルミナの謎の研究を続けた。彼のつえは恩を感じた住人達から贈られた水晶の杖に変わった。

 ヘンダーソンさんは、心の隅で、以前の居心地が良かった世界を恋しく感じたが、ピップと一緒にルミナで新たな目的、新しい家族、そして驚きに満ちた暮らしを発見した。
 ある日、ヘンダーソンさんは、水晶の花畑の手入れしていたとき、カイと出会った。彼は、他のルミナ人とは異なり、茶目な目差まなざし悪戯いたずら好きな性格を持っていた。彼の体毛は生き生きとしたエメラルドグリーン色で、動きに合わせて輝き、笑い声はウィンドチャイムのように木々の間に響き渡った。彼の仕事はルミナの動植物を保護し、自然のバランスを監視することだった。ルミナの森への潜在的脅威と闘うことも彼の仕事だった。その重要な業務を遂行するため、彼はエコロジーの知識を持ち、動植物と対話でき、防御用の魔法も使えた。

 カイは、ヘンダーソンさんが話す人間界に夢中になり、自動車や都会やチョコレートの味(ルミナ人にとって理解に苦しむ概念)についてヘンダーソンさんを質問攻めにした。当初の気まずさはぐに消え、界を越えた仲間意識が芽生えた。
 二人の親交は深まり、ヘンダーソンさんはカイから、若干の魔法と自然への厚い尊敬から紡がれたルミナの伝説や言い伝えを学んだ。代わりにカイは、人間の歴史をヘンダーソンさんから学んだ。彼は、文明への驚きと破壊の恐ろしさと悲しさを目に浮かべた。

 ヘンダーソンさんは、ルミナ独特の楽しみに夢中になった。明滅する羽をもった発光蝶々を不器用に採集しようとしたり、水晶の大木の中に掘られた迷路のような通路を通り抜けようとしたりするのを見て、カイは面白がった。夜には、ヘンダーソンさんは、蛍ランタンの周りに集まったルミナ人に、若かった頃の話をして楽しませた。彼の温かい声は、ルミナ人の心に響いた。
 ヘンダーソンさんにとってルミナでの生活は得難い経験だった。アーニャの優しい指導で、彼はルミナの動植物の秘密を学び習熟した。ヒーローになったピップは、水晶のような光沢の動物と遊びまわり、彼の生命力溢れるキャラクターは常に人々を喜ばせた。しかし、運命は他のプランを用意していたようだ。

 ある涼やかな朝、ヘンダーソンさんが発光果樹園の木々を手入れしていると、静寂な空気を震わす例のエレベーターのチャイムが鳴り響いた。彼は少し取り乱した。エレベーターは夜明けにだけ降下し、それは人間界への片道切符だからだ。
 エレベーターの所へ駆けつけると、心配顔のアーニャとカイが居た。アーニャが言った。
「べールが急速に薄くなっています。人間界での不調和が、両世界をシールドしているバリアを崩壊の危機にさらしているのです」
 ヘンダーソンさんの心は沈んだ。驚異に満ちたルミナを去ることなど想像さえ出来ないが、人間界が何かの原因で荒廃していることを思うと、不安にさいなまれた。
 アーニャは、彼の手に輝く水晶をせて言った。
「これは、不調和の原因になっている場所を教えてくれます。そしてルミナがあなたと一緒にいることを思い出させてくれます。でも注意してください、ヘンダーソンさん。人間界はルミナのように歓迎してくれないかもしれません」
 彼女は、彼の手にそっと手を重ねて続けた。
「ここでの経験は消えません、ヘンダーソンさん。あなたの中で生き続けます」
 根っからの楽天家であるカイは、笑い顔で言った。
「それに、分かるものか。ひょっとしたら、いつの日か、俺たちがあんたの世界に出向くかもしれないし!」
 ピップは空気が変わったのを察知して低く鳴いた。ヘンダーソンさんは、二人を抱きしめ、声を詰まらせてつぶやいた。
「有難う。ルミナの素晴らしさと、すべての生命を守ることの大切さを教えてくれて…。そうだ、持っていきたい物があるんだが、いいかな?」
 アーニャがうなずいたので、ヘンダーソンさんは急ぎ小屋から小さな包みを持ってきて、二人をもう一度ハグしてエレベーターに乗り込んだ。ピップも続いた。エレベーターは下降し始め羽音のような機械音が低く鳴り続いた。ヘンダーソンさんは目を閉じ、ルミナの思い出とべールをまたいではぐくんだ確かな親交を深く心に刻んだ。彼の人間界への旅立ちは、単なる里帰りではなかった。それは、ルミナへの愛とルミナから学んだことで可能になった新たな始まりであり、人間界を、今去ってきた秘密のパラダイスに近づけようとする、彼の心の炎だった。

 エレベーターのドアが開くと、そこには夜明けの優しい光はなく、真っ昼間の強い日差しが彼を出迎えた。静かな公園だった場所には、多くの建設機械やブルドーザーがいた。エレベーター近くのしだれ柳は無くなっており、代わりに「ラグジュアリー高層マンション建設予定地」の大きな看板が立っていた。
 ヘンダーソンさんは不調和の原因が分かり、疑惑が怒りに変わった。それは欲望と破壊であり、まさにルミナが回避しようとした事柄であり、それが彼の世界を食い尽くそうとしていたのだ。ピップは、窮状きゅうじょうを察知して悲しげに遠吠えした。ヘンダーソンさんはピップをぜ、忠実な相棒から元気を得ようとした。彼はアーニャから託された水晶を握った。

 彼は自宅への道を急いだ。ピップも並んで元気よく急ぎ足で進んだ。家に近づくにつれ不安が増した。家の周りの垣根は雑草に隠れてしまい、外壁のペンキは剥がれていた。ポーチのブランコ椅子の上には、どこからか飛んできた野球ボールが残っており、記憶にあるうららかな光景からは程遠いものだった。
 ヘンダーソンさんは、震える手でキーをドアの鍵穴に差し込み開錠した。ドアノブはきしむ音をたてて回った。屋内の空気はムッとしてほこりっぽく、すすけたガラス窓からの光が廊下に張られた蜘蛛の巣に当たっていた。家具には埃が積もり、以前の生活を映した写真が悲しげに残っていた。
 彼は意気消沈した。(自分は思っていた以上に長く家を空けていたのだろうか?)ピップは怪訝けげんそうに空気の匂いを嗅いでいる。居間に入ると、コースターに置かれたティーカップとコーヒーテーブルの上に置かれた新聞が目に入った。新聞の日付とデジタル時計の日付を比べると半年近くが経過していた。
 不在だった結果に彼の胸は痛んだが、ルミナで感じた心の炎は消えなかった。彼は、自分の世界から一時目をらせたことを、ルミナで学んだ見識や戒めを喪失する理由にしたくなかった。だからヘンダーソンさんは、ピップと一緒に早速さっそっく仕事に取り掛かかった。掃除し、メンテして、家をもう一度生気で満たした。

 ルミナへの旅は、ヘンダーソンさんの世界観を変えたが、彼自身をも変えた。自分の世界の美しさを大切にし、バランスを守るために闘うことを教えたルミナの知恵に従って、彼のこれからの人生を再建することにした。
 新たな覚悟で彼はピップと一緒に活動を始めた。崩壊のふちにある世界への突然の帰還は、運命の残酷な展開だったが、ヘンダーソンさんは、ルミナの知恵と、忠実でしり込みしないピップの力を得て、両方の世界のバランスのために闘うことを決意した。
 彼は、手の中で微かに明滅する水晶を見た。それは、このすさんだ現状で希望を示すガイドだった。そしてそれは工事現場の方向を示していた。彼は、その不確かな案内に従い、建設機械やビルの鉄骨を避けながら、水晶が示す場所へ行ってみた。それは、ブルドーザーが入っていない工事現場の隠れた一画へと導いた。そこには、廃材の陰に隠れて野生の花が少しだがしぶとく咲いていた。ヘンダーソンさんは、アーニャの言葉を思い出した。
「ルミナの植物は、微妙なバランスの中で育っているのです」

 ヘンダーソンさんの目にアイデアの火が灯った。
 それから数日の間、彼は公園に残っていた植物の種を収集し続け、上着のポケットは小さな宝物でふくらんだ。夜には、古いガーデニング・マニュアルを何冊も読んだ。彼にはある計画が浮かんでいた。そして、ある夜、ヘンダーソンさんは危険を冒して闇に紛れ出掛けた。ピップは彼の横で静かに歩いた。工事現場が見えてきた。鋼鉄製のモンスターが月明かりに浮かんで見えた。
 ヘンダーソンさんは、水晶の微温に導かれて、建設予定地になっている土地の一画に狙いを定めた。慣れた手つきで種をきながら、小さな命の粒々を励ますように願いを囁き入れた。彼は発育が速い野生の花の種を蒔いた。これらの種には彼がルミナを去る前に苦労して収集した発光する胞子がまぶしてあった。

 数週間が経過した。工事は続いており、彼らの安全靴の下で起こっている静かな反乱に誰も気付かなかった。そして、ある朝驚きの声が工事現場に響いた。廃材を片付けていた若い作業員が、埃の中にしぶとく開花した野生の花が生き生きと群生しているのを発見したのだ。ニュースは野火のように広がった。発光する花は、日を追って更に湧き出てきた。普通の花ではなく、異世界的な輝きで脈打つ花で、それは昼間の日照りの中でも人々を魅了した。
 新聞は、工事現場に咲く花の写真を掲載した。多くの見物人が押しかけ、SNSがバズった。誰も見向きもしない以前公園だった一画が、目を見張る生命力と思わず息をのむ自然の回復力のショーと化した。デベロッパーが雇った科学者たちが、これらの草花の移植を試みたが失敗した。人々の意見は変化していった。発光する花の美しさに押されて、公園保存を求める力が勢いづいた。

 ヘンダーソンさんは表には出なかったが、彼の行動は世の中の変化を引き起こした。デベロッパーは、強まる世論や、予想外の発光植物への影響が及ぼす懸念から、計画を見直さざるをえなくなった。その結果、環境保護運動が活発化した。公園を守る闘いは、「光る花畑」の名で、サステナビリティを考える大規模な話し合いへのきっかけになった。

 公園のニュースは、人と自然の共生を夢見る人々の耳にも届いた。べールを通して、ルミナ人はそれを畏敬いけいの念で見ていた。貪欲さに消耗しつくされ、憂慮していた世界に変化の兆しが見えたのだ。ヘンダーソンさんの行動から力を得て、壊れやすいが回復力がある「希望」という花が開花したのだ。かつては恐怖のシンボルだったべールが、可能性のシンボルになり、暗闇の世でも、いつくしみの炎は、両世界のより明るい未来への道筋を照らすことが出来ることを示した。

<終>
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