233 / 375
番外編・うさぎのきもち
36.亀田部長の事情
しおりを挟む
会計は亀田部長がサラリと支払ってくれた。仕事の上下関係を考えると普通の対応かもしれないが、休日ヨツバの事で迷惑掛けたばかりの所に更に悩み相談まで対応していただいた俺としては世話になりっぱなしで申し訳ない気分だ。店を一歩出ると自然と頭が下がった。
「ご馳走様でした。有難うございます」
「もっと洒落た店が良かったかな。つい真っすぐ気に入った店に入ってしまったが」
「いえ、美味しかったです。俺もたまにココ寄ります。いつもは夕飯時ですが」
するとフッと頭の上で笑った気配があって、思わず顔を上げた。
「ここ旨いよな?結婚前は俺もよくここで夕飯食べて帰ったもんだ」
気のせいだったか?見上げた先にはいつもの無表情。だけど少しだけ亀田部長との距離が縮まったような気がして、歩き出す部長の隣に並びつつ気軽に返答する事が出来た。
「ちょっと分かりにくい所にありますけど、ネットで探したんですか?」
一応グルメサイトで上位に上がっている店だ。客はほぼ地元民だと思うが。すると抑揚の少ない返答が返って来る。
「義理の母が仙台に長くてな、勧められたんだ」
「へぇ! どちらにお住まいなんですか?」
「今は東京だ。春まで同居していたんだが」
「え?」
春まで同居?
それはつまり……年上美女と略奪婚と言う噂はもしかして。
「今住んでいるのは義理の母が借りていた物件なんだ。四月に東京に転職する事になっていたので、それを譲り受けて住んでる。たまたま職場に近かったから」
「……あの、それって卯月さんのお母様ってことですよね」
「ああ」
「もしかして、凄く若かったりしますか」
「若い……と言うより若く見える、な。俺と二十離れているが、最初会った時は四十代に見えたからな」
なるほど。噂の真相が今、図らずも判明した!
『同棲』じゃ無い―――姑と『同居』だ。
「はぁ、それであんな……」
「何が言いたい?」
「うっ……」
迂闊な事を尋ねてしまったと気が付いた。亀田部長との距離の近さに思っていた以上に浮足立ってしまったのかもしれない。太陽を背負ってこちらを見下ろす銀縁眼鏡の威圧感ったらない。俺は観念して口を開いた。
「あの、実は亀田部長が年上っぽい美女と一緒に歩いている所を見たと言う人間がいたらしくて」
「ああ、まあ確かに迫力のある見た目の人だが……それがどうかしたのか?」
「うっ……その、つまり同棲されていると思っている者もいて、その方と結婚されたのだと誤解しておりまして、だから卯月さんみたいな若い方と結婚されていたので……」
「ああ、それで駅で会った時、妙な表情をしていたのか」
部長は抑揚の無い声で、何でもない事のように頷いた。部長は俺達が面白可笑しく邪推していた事なんか想像もしていないのかもしれない。きっと他にも俺達のように穿った見方をしていた人間がいた筈だ。だけど本人には後ろ暗い所は何もないのだから、下らない揶揄なんて気にも止まらないのだろう。
勾当台公園駅で卯月さんと連れ立って亀田部長と対面していた時の事を改めて思い出す。あの視線の鋭さ―――背筋が凍った。だから尚更、こんな風に気さくに話している今が不思議に感じる。
「同居じゃなく同棲していたのは、お前だろう?」
「は?」
不意打ちに、足が止まる。部長も足を止めて呆然とする俺を振り返った。
「男同士でダブルベッドも無いだろうからな」
あ……!
「いえ、その」
狼狽える俺を、亀田部長は僅かに首を傾げてマジマジと見下ろす。そしてハッと息を飲み、早口でこう言った。
「スマン」
「あ、いえ!」
何を謝られているか分からなかったが、図星を刺されて慌てていた俺は反射的に首を振った。亀田部長は何故か俺からフッと目を逸らす。
「踏み込んですまない。男同士でも……その『男同士が悪い』と言っている訳じゃないんだ。いや、研修で知って偏見を持たないようにしたいとは思っていたんだが……これ、セクハラだよな」
背の高い威圧感満載の男が、うっすらと頬を染めて口元を覆っている。
俺を気遣うかのようなその素振りを見て、亀田部長が何を誤解しているかと言う事に漸く気が付いた。
「違います!俺は男が好きな訳じゃ……っ」
思わず声が高くなってしまった。そこまで言って俺は慌てて声を潜めた。
「その、亀田部長のおっしゃっていたので合っています。みのり……いや、一緒に住んでいた女が突然出て行って……ヨツバを置いて行ったんです。引き取りに来ると置き手紙にはあったんですが、実はこれまでまったく連絡がとれなくて、それで……その……」
「……」
「あの、いろいろ有難うございました。そんな訳でヨツバの事、相談に乗っていただいて大変助かりました……」
「……そうか」
亀田部長は目を丸くして俺の話を聞いていたが、フーッと息を吐いた後、俺に同情の籠った視線を向けてこう呟いたのだった。
「ま、その……あれだ」
「……」
「頑張れ。何か困った事があれば、また相談するといい」
肩をポンと大きな手で叩かれる。俺は何とか絞り出すように返事をした。
「はい……有難うございます……」
仕事場で直接やり取りする接点がほとんど無い上司の上司に、俺の情けないプライベートを把握されてしまう事になるとは……少し前の俺ならそんな事想像も出来なかっただろう。本社から来た出世頭のエリート上司に弱みを把握されるなんて絶対に許容できない! と屈辱に歯がみしてもおかしく無かった筈なのに……。
何故かその励ましの言葉に素直に頷いている俺がいた。
「ご馳走様でした。有難うございます」
「もっと洒落た店が良かったかな。つい真っすぐ気に入った店に入ってしまったが」
「いえ、美味しかったです。俺もたまにココ寄ります。いつもは夕飯時ですが」
するとフッと頭の上で笑った気配があって、思わず顔を上げた。
「ここ旨いよな?結婚前は俺もよくここで夕飯食べて帰ったもんだ」
気のせいだったか?見上げた先にはいつもの無表情。だけど少しだけ亀田部長との距離が縮まったような気がして、歩き出す部長の隣に並びつつ気軽に返答する事が出来た。
「ちょっと分かりにくい所にありますけど、ネットで探したんですか?」
一応グルメサイトで上位に上がっている店だ。客はほぼ地元民だと思うが。すると抑揚の少ない返答が返って来る。
「義理の母が仙台に長くてな、勧められたんだ」
「へぇ! どちらにお住まいなんですか?」
「今は東京だ。春まで同居していたんだが」
「え?」
春まで同居?
それはつまり……年上美女と略奪婚と言う噂はもしかして。
「今住んでいるのは義理の母が借りていた物件なんだ。四月に東京に転職する事になっていたので、それを譲り受けて住んでる。たまたま職場に近かったから」
「……あの、それって卯月さんのお母様ってことですよね」
「ああ」
「もしかして、凄く若かったりしますか」
「若い……と言うより若く見える、な。俺と二十離れているが、最初会った時は四十代に見えたからな」
なるほど。噂の真相が今、図らずも判明した!
『同棲』じゃ無い―――姑と『同居』だ。
「はぁ、それであんな……」
「何が言いたい?」
「うっ……」
迂闊な事を尋ねてしまったと気が付いた。亀田部長との距離の近さに思っていた以上に浮足立ってしまったのかもしれない。太陽を背負ってこちらを見下ろす銀縁眼鏡の威圧感ったらない。俺は観念して口を開いた。
「あの、実は亀田部長が年上っぽい美女と一緒に歩いている所を見たと言う人間がいたらしくて」
「ああ、まあ確かに迫力のある見た目の人だが……それがどうかしたのか?」
「うっ……その、つまり同棲されていると思っている者もいて、その方と結婚されたのだと誤解しておりまして、だから卯月さんみたいな若い方と結婚されていたので……」
「ああ、それで駅で会った時、妙な表情をしていたのか」
部長は抑揚の無い声で、何でもない事のように頷いた。部長は俺達が面白可笑しく邪推していた事なんか想像もしていないのかもしれない。きっと他にも俺達のように穿った見方をしていた人間がいた筈だ。だけど本人には後ろ暗い所は何もないのだから、下らない揶揄なんて気にも止まらないのだろう。
勾当台公園駅で卯月さんと連れ立って亀田部長と対面していた時の事を改めて思い出す。あの視線の鋭さ―――背筋が凍った。だから尚更、こんな風に気さくに話している今が不思議に感じる。
「同居じゃなく同棲していたのは、お前だろう?」
「は?」
不意打ちに、足が止まる。部長も足を止めて呆然とする俺を振り返った。
「男同士でダブルベッドも無いだろうからな」
あ……!
「いえ、その」
狼狽える俺を、亀田部長は僅かに首を傾げてマジマジと見下ろす。そしてハッと息を飲み、早口でこう言った。
「スマン」
「あ、いえ!」
何を謝られているか分からなかったが、図星を刺されて慌てていた俺は反射的に首を振った。亀田部長は何故か俺からフッと目を逸らす。
「踏み込んですまない。男同士でも……その『男同士が悪い』と言っている訳じゃないんだ。いや、研修で知って偏見を持たないようにしたいとは思っていたんだが……これ、セクハラだよな」
背の高い威圧感満載の男が、うっすらと頬を染めて口元を覆っている。
俺を気遣うかのようなその素振りを見て、亀田部長が何を誤解しているかと言う事に漸く気が付いた。
「違います!俺は男が好きな訳じゃ……っ」
思わず声が高くなってしまった。そこまで言って俺は慌てて声を潜めた。
「その、亀田部長のおっしゃっていたので合っています。みのり……いや、一緒に住んでいた女が突然出て行って……ヨツバを置いて行ったんです。引き取りに来ると置き手紙にはあったんですが、実はこれまでまったく連絡がとれなくて、それで……その……」
「……」
「あの、いろいろ有難うございました。そんな訳でヨツバの事、相談に乗っていただいて大変助かりました……」
「……そうか」
亀田部長は目を丸くして俺の話を聞いていたが、フーッと息を吐いた後、俺に同情の籠った視線を向けてこう呟いたのだった。
「ま、その……あれだ」
「……」
「頑張れ。何か困った事があれば、また相談するといい」
肩をポンと大きな手で叩かれる。俺は何とか絞り出すように返事をした。
「はい……有難うございます……」
仕事場で直接やり取りする接点がほとんど無い上司の上司に、俺の情けないプライベートを把握されてしまう事になるとは……少し前の俺ならそんな事想像も出来なかっただろう。本社から来た出世頭のエリート上司に弱みを把握されるなんて絶対に許容できない! と屈辱に歯がみしてもおかしく無かった筈なのに……。
何故かその励ましの言葉に素直に頷いている俺がいた。
0
お気に入りに追加
1,548
あなたにおすすめの小説
懐妊を告げずに家を出ます。最愛のあなた、どうかお幸せに。
梅雨の人
恋愛
最愛の夫、ブラッド。
あなたと共に、人生が終わるその時まで互いに慈しみ、愛情に溢れる時を過ごしていけると信じていた。
その時までは。
どうか、幸せになってね。
愛しい人。
さようなら。
【完結】選ばれなかった王女は、手紙を残して消えることにした。
曽根原ツタ
恋愛
「お姉様、私はヴィンス様と愛し合っているの。だから邪魔者は――消えてくれない?」
「分かったわ」
「えっ……」
男が生まれない王家の第一王女ノルティマは、次の女王になるべく全てを犠牲にして教育を受けていた。
毎日奴隷のように働かされた挙句、将来王配として彼女を支えるはずだった婚約者ヴィンスは──妹と想いあっていた。
裏切りを知ったノルティマは、手紙を残して王宮を去ることに。
何もかも諦めて、崖から湖に飛び降りたとき──救いの手を差し伸べる男が現れて……?
★小説家になろう様で先行更新中
別れてくれない夫は、私を愛していない
abang
恋愛
「私と別れて下さい」
「嫌だ、君と別れる気はない」
誕生パーティー、結婚記念日、大切な約束の日まで……
彼の大切な幼馴染の「セレン」はいつも彼を連れ去ってしまう。
「ごめん、セレンが怪我をしたらしい」
「セレンが熱が出たと……」
そんなに大切ならば、彼女を妻にすれば良かったのでは?
ふと過ぎったその考えに私の妻としての限界に気付いた。
その日から始まる、私を愛さない夫と愛してるからこそ限界な妻の離婚攻防戦。
「あなた、お願いだから別れて頂戴」
「絶対に、別れない」
元侯爵令嬢は冷遇を満喫する
cyaru
恋愛
第三王子の不貞による婚約解消で王様に拝み倒され、渋々嫁いだ侯爵令嬢のエレイン。
しかし教会で結婚式を挙げた後、夫の口から開口一番に出た言葉は
「王命だから君を娶っただけだ。愛してもらえるとは思わないでくれ」
夫となったパトリックの側には長年の恋人であるリリシア。
自分もだけど、向こうだってわたくしの事は見たくも無いはず!っと早々の別居宣言。
お互いで交わす契約書にほっとするパトリックとエレイン。ほくそ笑む愛人リリシア。
本宅からは屋根すら見えない別邸に引きこもりお1人様生活を満喫する予定が・・。
※専門用語は出来るだけ注釈をつけますが、作者が専門用語だと思ってない専門用語がある場合があります
※作者都合のご都合主義です。
※リアルで似たようなものが出てくると思いますが気のせいです。
※架空のお話です。現実世界の話ではありません。
※爵位や言葉使いなど現実世界、他の作者さんの作品とは異なります(似てるモノ、同じものもあります)
※誤字脱字結構多い作者です(ごめんなさい)コメント欄より教えて頂けると非常に助かります。
選ばれたのは美人の親友
杉本凪咲
恋愛
侯爵令息ルドガーの妻となったエルは、良き妻になろうと奮闘していた。しかし突然にルドガーはエルに離婚を宣言し、あろうことかエルの親友であるレベッカと関係を持った。悔しさと怒りで泣き叫ぶエルだが、最後には離婚を決意して縁を切る。程なくして、そんな彼女に新しい縁談が舞い込んできたが、縁を切ったはずのレベッカが現れる。
【掌編集】今までお世話になりました旦那様もお元気で〜妻の残していった離婚受理証明書を握りしめイケメン公爵は涙と鼻水を垂らす
まほりろ
恋愛
新婚初夜に「君を愛してないし、これからも愛するつもりはない」と言ってしまった公爵。
彼は今まで、天才、美男子、完璧な貴公子、ポーカーフェイスが似合う氷の公爵などと言われもてはやされてきた。
しかし新婚初夜に暴言を吐いた女性が、初恋の人で、命の恩人で、伝説の聖女で、妖精の愛し子であったことを知り意気消沈している。
彼の手には元妻が置いていった「離婚受理証明書」が握られていた……。
他掌編七作品収録。
※無断転載を禁止します。
※朗読動画の無断配信も禁止します
「Copyright(C)2023-まほりろ/若松咲良」
某小説サイトに投稿した掌編八作品をこちらに転載しました。
【収録作品】
①「今までお世話になりました旦那様もお元気で〜ポーカーフェイスの似合う天才貴公子と称された公爵は、妻の残していった離婚受理証明書を握りしめ涙と鼻水を垂らす」
②「何をされてもやり返せない臆病な公爵令嬢は、王太子に竜の生贄にされ壊れる。能ある鷹と天才美少女は爪を隠す」
③「運命的な出会いからの即日プロポーズ。婚約破棄された天才錬金術師は新しい恋に生きる!」
④「4月1日10時30分喫茶店ルナ、婚約者は遅れてやってきた〜新聞は星座占いを見る為だけにある訳ではない」
⑤「『お姉様はズルい!』が口癖の双子の弟が現世の婚約者! 前世では弟を立てる事を親に強要され馬鹿の振りをしていましたが、現世では奴とは他人なので天才として実力を充分に発揮したいと思います!」
⑥「婚約破棄をしたいと彼は言った。契約書とおふだにご用心」
⑦「伯爵家に半世紀仕えた老メイドは伯爵親子の罠にハマり無一文で追放される。老メイドを助けたのはポーカーフェイスの美女でした」
⑧「お客様の中に褒め褒めの感想を書ける方はいらっしゃいませんか? 天才美文感想書きVS普通の少女がえんぴつで書いた感想!」
妹がいなくなった
アズやっこ
恋愛
妹が突然家から居なくなった。
メイドが慌ててバタバタと騒いでいる。
お父様とお母様の泣き声が聞こえる。
「うるさくて寝ていられないわ」
妹は我が家の宝。
お父様とお母様は妹しか見えない。ドレスも宝石も妹にだけ買い与える。
妹を探しに出掛けたけど…。見つかるかしら?
愛された側妃と、愛されなかった正妃
編端みどり
恋愛
隣国から嫁いだ正妃は、夫に全く相手にされない。
夫が愛しているのは、美人で妖艶な側妃だけ。
連れて来た使用人はいつの間にか入れ替えられ、味方がいなくなり、全てを諦めていた正妃は、ある日側妃に子が産まれたと知った。自分の子として育てろと無茶振りをした国王と違い、産まれたばかりの赤ん坊は可愛らしかった。
正妃は、子育てを通じて強く逞しくなり、夫を切り捨てると決めた。
※カクヨムさんにも掲載中
※ 『※』があるところは、血の流れるシーンがあります
※センシティブな表現があります。血縁を重視している世界観のためです。このような考え方を肯定するものではありません。不快な表現があればご指摘下さい。
ユーザ登録のメリット
- 毎日¥0対象作品が毎日1話無料!
- お気に入り登録で最新話を見逃さない!
- しおり機能で小説の続きが読みやすい!
1~3分で完了!
無料でユーザ登録する
すでにユーザの方はログイン
閉じる