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番外編 裏側のお話

(104)ウエディングドレス 3

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雪は頬に触れ、濡れた指に目を落とした。それから再び視線を上げて目にした彼の表情に―――一瞬で心臓が凍った。

辛そうに細められた整った双眸。その視線の中には愛しさなど一ミリも浮かんではいなかった。同情?罪悪感?いずれにしても、それは愛する相手に向けられる類の物ではない。



雪はその時、絶望と言う言葉の意味を知った。



どうしてこんなに好きになってしまったんだろう?
最初はちょっと可愛い男の子と遊んでやろうと思っただけだ。ズルい雪は、少しだけ紗里の目を誤魔化して綺麗な男の子を構い、自分の虚栄心を満足させるつもりだった。相手がその気になればスルリと上手く抜け出してしまおう、なんて都合の良い事を考えていたのに。

それが今ではこのザマだ。すっかり夢中になってしまったのは雪の方。しかもその執着の半分は、自分のどうしようもない弱さから来ているのだ。そして残りの半分は……。

彼を好きだと言う気持ちも本当だ。一目見た時になんて綺麗な子なんだろうって思った。きっと世の中の全てが自分の思い通りになるなんて勘違いしているに違いない。才能のある母親、仕立ての良い服、スマートなエスコート……見るからに上質な、ペットショップに並んでいるとしたらかなりの高額な値札が付くに違いないキラキラした男の子。そんなまだ世間に手折られていない、透明な雰囲気に魅入られた。そしてその根拠の無い自信を―――へし折ってしまいたいと言う誘惑に駆られたのだ。

けれどもその昏い欲望さえも、自分を繕うための言い訳だったと、その時気が付かされた。
その美しさ、内面から滲み出る強さや育ちの良さにどうしようも無く惹かれる一方で―――自分は本当は、其処に逃げ込みたかったのだ。そして周囲からその強さで自分を囲い込み甘やかして貰う事を望んでいたのだ。
自分を気にする男達の好意を鬱陶しく思っていた、だから好意を向けない鬱陶しく無い男を選んだのに。今は砂漠で水を欲するように、その好意を渇望してしまう。ただ寂しかった、どうしようもなく。でもきっとせめて仕事が上手く行っていたのなら―――自分はこれ程彼に執着しなかっただろうと言う事も分かっていた。



纏まらない頭で、改めて仕事に本気を出してみようと考えた。けれども一所懸命になればなるほど空回りしているような気がした。そんな様子は傍から見れば明らかだったのだろう、心配してくれた雑誌の編集者が飲みに行こうと誘ってくれた。そうして下らない堂々巡りの愚痴を微笑んで聞いてくれた。その男は雪に気があるのかもしれない。しかしそうでは無いのかもしれない。けれども雪はもう、自分を律する事が辛くなっていた。誰かに縋ってしまいたいドロドロに甘やかされたい―――杯を重ねる毎に、何故そうしちゃいけないのか?そう言う欲求を抑えて、自分に執着を見せない男に操を立てて何になる……そんな風に囁く本能に、今にも身をゆだねてしまいそうになる。その時遅ればせながら、スマホの着信に気が付いたのだ。

そうして思い出す。そうだ、今日彼にどうしても会いたいと強請って―――忙しいから抜けられるかどうか分からないと言う彼に『ずっと待ってるから!』とメールを送ったのだった。でも一人で待つのが怖くて寂しくて、待ち人が来るまでで良いと言う隣に座る男の誘いに、雪は乗ったのだった。

『今更何だもう遅い、私を失って後悔すれば良いんだ』

そんな邪悪な感情が湧いて来て止められなかった。「ごめーん、忘れてたー」と殊更明るく返し隣にいる男の存在を匂わせ、今日はもう抜けられないからと彼に帰るように伝えた。彼は素直に了承の言葉を述べて―――本当にそのまま、帰ってしまったのだった。

電話を切った後、ポカンと手の中のスマホを見つめてしまう。急に素面に返ったような、そんな彼女を隣の男は心配そうに見つめていた。事情を話すと「そんな男とは別れた方がいい。仕事の悩みなんか学生には分からないんだから」と、蜂蜜のように甘い言葉で慰めてくれる。男は決して悪い人間では無かった。落ち込んでいる様子の雪を見ていられ無くてフォローしてくれただけなのだ。下心はあったかもしれない、でも無理強いするような悪党では無かった。雪はすっかり絆されてしまい、そのまま酔いに任せてその男のマンションまで付いて行った。しかし彼が玄関を開けた処で―――我に返って蒼くなった。
結局相手に頭を下げて謝り倒し、雪は踵を返して自分の家に逃げ帰ったのだった。

自分は何をやっているのだろう。と、雪は思った。忙しい彼が予定を押して、彼女の我儘に合わせてくれた。それなのにその一方で弱い彼女は、本当気持ちを隠したまま真っ当で心の強い彼を妬み、八つ当たりばかりしていたのだ。
何と醜い人間なのだろう。怒られて、嫌われて当り前だ。謝って許しを乞い、今度こそちゃんと―――彼と向き合おう。そう、思った。

しかし次の日平身低頭で謝った雪に向けられたのは―――困ったような笑顔だった。大丈夫、気にしなくて良い。彼は優しくそう言った。理不尽な要望に振り回された怒りも、他の男性と親密な時間を過ごした事に対する嫉妬も無い。



その時思い知ったのだ。
もう自分には無理なのだ、と。この関係を続けては行けない、と。
案の定、雪が別れを切り出すと―――彼は引き留める事も無く、すんなり頷いたのだった。
雪はこうして漸く―――彼を諦める事が出来たのだ。



それから色々あって……モデルを引退し、紗里に拾って貰った雪は一から足元を固める為一歩一歩踏みしめるように学び、働いた。元々真面目に努力する性質たちではあったから要領が分かって来ればスポンジのようにドンドン新しい事を吸収して、雪は成長していった。
雪は昔から努力を惜しまない人間であった。しかしこれまでその動機は、人から良く思われたい、評価されたい、ただそれだけで。人からどう思われるかを重視していた為に周りの意見や視線に振り回されてしまい、結局自分の核を何処に置けば良いのか分からなくなってしまって自滅してしまったのだ。

その点、兄嫁の紗里は根気よく付き合ってくれた。

実はそれまで雪は、紗里が苦手だった。彼女はいつも子供のように無邪気に物事に夢中になり夢みたいな事を語っている。なのにいざとなると肝が据わる。トラブルにも落ち着いて対応するし、障害があっても諦めず乗り越えて最後には自分の糧にしてしまう。
紗里は自分を信じる力が強いのだ。自尊心の欠落した雪にはその様子が眩し過ぎた。だから紗里には近づき難いものを感じていたのだ。外側ばかり繕って内側がグズグズの自分が、惨めに見えてしまうような気がして。光り輝く彼女の傍にいたら、自分がまがい物の影だと気が付かされてしまう、そんな怖さがあったのだ。

けれども何もかも捨てるような気持ちで紗里の元に飛び込んでみれば―――紗里がとても温かい心を持った人間なのだと分かってしまった。辛抱強く、優しい。そんな処に兄が惹かれたのだと、改めて実感を深めた。そして兄を取られたような気になって拗ねていた、小さな自分にも気付かされた。

今でも、太陽のような紗里に接していると自分の矮小さが強調されて恥ずかしく感じてしまうのは相変わらずだ。けれどもその感情から目を背けて逃げるのはもう嫌だと、雪は思ったのだ。こうしてやっと―――雪は漸く自分の脚で立つ事が出来た。だから男性に寄り掛かり逃げ込む暇は無かった。

ただもし再会が叶うのなら。今の自分を見て欲しい人がいる。はっきり意識した事は無かったけれども、それを心の拠り所にしていた。

あの頃の雪は……年下の学生で、恵まれた環境でまっすぐ育った、そんな彼を見下す事で平静プライドを保とうとしていたのかもしれない。けれども学生とか年下とか、そんな余計な物を取っ払って目を見開いて見てみれば―――彼は自分よりずっと大人で、物の判った人間だった。自分を再構築する間、雪の中の彼は改めてそんな形を取り始めていたのだった。

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